あるいはしかし、「何ら意味がないというのは極論であろう」・「それは言いすぎなのではないか」という人もあるかもしれない。実際、私自身そのような物言いをする人を幾人も知っています。そして、たとい極寒の中であろうとも夜明け前の早朝あるいは深夜に、氷点下にもなろうかという冷水を、しかも毎日浴びるという決意をし、それを「仏教の修行である」と称して実行し続ける人々が現実にある。
確かにそれは、その必要性など今は一応横に置くとして、誰も彼もが出来ることではない。そしてまた、その行為を積み重ねた結果として、ある種の精神力が鍛えられ、一種の凄みとでもいうべきものを身にまとう人があります。それは寒さなど強い身体的刺激、苦痛を伴うもので、その故に「私は何事かを成している!」という精神的転換、充足感を得られるものです。その意味では、意味をまったくわかっていない経や真言を大声で唱え続けるのも同じようなものです。
それは一昔前、思春期にある十代前半の非行に走った少年少女が、手や腕にタバコの火を押し付けてやせ我慢した、いわゆる根性焼きと同じ類の行為です。
けれども、それらは物理的・肉体的刺激を現実に体感出来る行為であることから、いわば達成感が容易に得られる。実はその意義などまるで無いにもかかわらず、「私は何事か(仏事)を成している!」と感ぜられてしまうのです。それが高じて、そのような自身の日々の行いを重ねるにつれ根拠無き自信、強い自尊心をすら持つこととなり、外的にはそれがある種の凄みとなって表れる。そうしてまた、他者にも堂々と勧めるようにもなれば、それに惹きつけられる者も出てくるようになる。そう、時にそれは熱狂的に。
長年その手合を多く見てきて感じるのは、そんな彼らは仏教というものをまるで理解していないし、理解しようともしていない、ということです。結局、人が何らかの肉体的苦行を行うことがブッキョーのシュギョーだと考え、そのような苦行を抜きにして修行はありえないと思ってしまうのは、ただ世間で漠然とイメージされていることに踊らされているに過ぎず、本人たちもそれで良しと済ましてしまっているからに他なりません。場合によってはそれを文化というのでしょう。
仏教的なことを何かしてみたい。けれども、その仏教は真にどういうものか自ら調べ学ぼうともしないし、その術もわからない。仮に学んだとしても、それまでの自身が持ち続けてきた「イメージ」はもはや変わり難い固定観念となっており、その学んだことが自分の思っているのと真逆のことを示しているために到底それを受け入れることが出来ない。そして、「文字上の学問ではブッキョーを理解することは出来ないのだ。冷暖自知、不立文字というだろう?」などと言って我流をやり続けることになる。
この手の人は多くの場合、学ぶだとか尋ねるという行為自体を、ただ自らの思想・行為を「そのままで、良いんだよ?」だとか「いやはや、あなたはまったくもって正しい」と他から承認してもらうためだけになしているのであって、それが(仏教として)正しいか正しくないかなど端から問題にしていません。そして結局、再び表面的・世間的には仏教的と誤解されてきた、真言・題目・念仏など意味もわからぬままワーワーやりつつ身体に大なる刺激を伴う運動会を行って、さらに深みにはまっていくのです。
すると不思議なもので、いや、これは人の性癖として何も不思議ではないのですが、その気になれてしまう。
たとえば行者であるとか拝み屋、修験者などと云われる人ほど、数珠をジャリジャリ音を立て景気よく揉みしだくのを好んで行います。しかし、実は数珠は本来、摺るべきものではない。
【念珠摺様】
念珠は本来念珠の數を記する爲の法具なれば摺るべきものにあらず。然るに之を摺りて祈念することは我國にて始まりしことにて、園城寺の覺猷僧正禁裡御修法御加持の時念珠眞言の終を伴僧に知らしめんが爲に摺られしより起れりといふ。現時の道俗猥りに摺り鳴らすは甚だ不可なり。祈念の終に僅に鳴らすに止むべきなり。
法蔵館『密教大辞典』
念珠の本義は「念仏や真言などの回数を数えること」であって摺ることではありません。そして摺ることに全く何の意味もなく、それはむしろ下品で賤しいとさえ思われる行為です。しかしながら、掌のうちで数珠をジャリジャリやる本人からすれば、またその刺激が掌に伝わり、その音が耳に届いて「拝んでいる!」・「私はやっている!」という気にさせるのです。それに慣れてしまうと、もう摺らずにはいられない。あの音と刺激とが無ければ納得できなくなってしまう。
水行であるとか滝行も同じで、身を切るような冷たいさに身を晒すとその刺激もごく大きいものですから、本人はその気になってしまうのですけれども、実は意味などからきしありません。人が不合理な行為を行うことにより、合理的に物事を進めていける場合があることは否定しません。しかしながら、そのような苦行を好んで行い続けることは、その人のさらに仏教理解を歪み誤ったものにするだけという点で、むしろ害悪ですらあります。
繰り返しますがそれは、不良やチンピラが、根性焼きの数や大きさを誇示して、「あいつは気合が違う」だの「根性が入っている」だの仲間内で言いあって序列を決めていたのと変わりない。まったく子供じみた振る舞い、幼稚な思想でありましょう。
それらはどこまでもまやかしに過ぎません。
(もっとも、そのようなまやかしであっても、なんらか心理的に積極的な効果が多少なりと認められればそれで良いではないか、という例えば道具主義的視点からの意見もありましょう。偽薬によるいわゆるプラシーボ効果のようなものです。しかし、ここではあくまで仏教についての話を、その根拠と理由に基づいてしています。)
忌憚なく申せば、これはあくまで私の経験上での話ではありますが、そのような人のほとんど多くが非常なる癇癪持ちであったり、どう仕様もない酒飲みで酒乱、あるいは金満であって、とことん女好きで淫らであるなど、まったく人格など練られておらず、(処世術などといった世智というのではない)仏教の説くところの智慧などまるで備えていません。いわゆる行者、あるいは事相家や拝み屋・霊能者、最近ではスピリチュアル・カウンセラーなどと呼ばれる人々がそれです。
実に皮肉なことに、およそ沐浴行を始めとする諸々の「彼らの言うところのシュギョー」によっては、人が清まるなどということが全く無いことを、その人々自身が証明してしまっている。
実際、先に示した仏典において説かれているように、沐浴行であろうが滝行であろうが寒中水行であろうが、他のいかなる儀礼・儀式などによっても「人が清まる」・「人を清める」ことが可能であることは、仏教一般においてまったく認められず、現実においてもやはり認めることは出来ません。
では、人はその他の苦行によって、あるいは神通力などとも言われる超常的能力によって、あるいは多くの知識を貯えて博識となることによって清まる、もしくは清めることが出来るのか?それはすでに上に示したように、仏陀や諸々のすぐれた弟子たちにより明白に否定されていることでありました。
ところでしかし、ただパーリ語による仏典を挙げ連ねるのみであるならば、「それは南方の、日本と異なる仏教の伝統での話にすぎないのであって、我が信奉する日本の大乗では云々」との反論を試みて感情的に強弁しだす、およそ自身の実際は大乗どこ吹く風の、自称大乗の門徒が出てくることでしょう。あるいはまた逆に、「日本に伝えられた大乗はやはりそのような蒙昧の説を唱えるものであってまさしく非仏教に他ならず、南方に伝わった上座部のみが正しく仏教である」という言を振るう輩も出てくるに違いない。
『佛遺教経』ではかく説かれます。
爲空死後致有悔。我如良醫。知病說藥。服與不服非醫咎也。又如善導。導人善道。聞之不行。非導過也。
「人生において何事も成し遂げず、虚しく過ごして死を迎えることになれば、後に悔み憂いることとなろう。私は、あたかも良医のように(患者の)病をよく知って適した薬を処方するのかのように説くのである。その薬を服用するか服用しないかは、(患者本人の責任であって)医者の責任ではない。また、善く導く者が、人を善く導くようなものである。その道を聞いて行かないのは、導く者の過失ではない」
『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』(T26, p.289b)
これは大乗の本流がインドから直接伝わったチベットにおいても強調されることでもあり、その仏画などでも表現されていることですが、仏陀は満月に喩えられる涅槃への方角とその道を示された方であって、そこへの歩み方を説き示された存在です。
それもやはり、同じく南方所伝の仏典において明示されています。
tumhehi kiccamātappaṃ, akkhātāro tathāgatā.
paṭipannā pamokkhanti, jhāyino mārabandhanā.
汝は自ら努め励め。諸々の如来はただその道を示すのみ。
禅を修めてこの道を歩む者らは、魔の束縛から解き放たれるであろう。
KN. Dhammapada, Attavagga 276. (KN 2.20)
生けるものが苦しみからいかに脱するかの教えを世間に開示され、遺されたという意味で、仏陀をして救世主・救済者と表現することは可能でしょう。けれども、仏陀とはいわゆるユダヤ教やキリスト教、イスラム教などのいう預言者や救世主というのではまったくありません。
なにか悲劇に遭遇した者で、これはむしろ特に信仰など持っていない者こそが「ああ、この世には神も仏もない!」などと嘆くことがありますが、そのような意味で仏など最初から無いのです。いや、キリスト教的な意味からしても神はそのような存在ではない。そのような言を吐く人は、最初からそのいずれも信じてなどいないからこそそう言うのでしょう。
あるいはまた逆に、誰かが死んだならばたちまち「きっと彼は今は天国で安らかな時を過ごしている」・「彼は神に召されて天国に行った」などと(むしろキリスト教信者でもイスラム教徒でも無い無神論者こそが)たやすく言い、もしくは「彼はジョーブツして我々を見守ってくれている」などという仏教からすれば全くありえない言葉を口にする者も多くあります。それらは全く見当違いの見方・言葉であるのですが、要するに、そう言う人達にとってはそんなことはどうでも良いことであって、その場しのぎの一種の社交辞令としててとりあえずそう言っているのに過ぎません。
けれどもそういうと、「いや、私は仏教でもなくキリスト教でもなく、神道を信じているから」などと反論する者もあります。しかし、『古事記』におけるイザナギとイザナミの神話に拠れば、「神であったとしても」死後に赴くとされる世界とは「いわゆる天国」などとは程遠い黄泉の国です。そもそも神道は死をあくまで穢れと見ているのですから、ふつうの者が死んで天国に行くなどという話が本来ありえない。そもそも天国の概念が、キリスト教などと神道ではまるで異なっています。
神道といっても実は諸派諸流あって様々であるとはいえ、『日本書紀』や『古事記』を否定するものなどまず無いと思われますが、それは実は日本で外形上はほとんど受容されず定着しなかった道教の影響を多分に受けたものです。そして、そもそも神道は、現実的には古代以来仏教の影響を色濃く受けて形作られ、さらに近世においては儒教(朱子学)の思想を多く借りて成立したものであり、ただ神話のみあって実は中身など殆どありません。
現在我々が「日本古来の宗教」と思っている神道の姿形は、明治維新以降に国家により宗教ではないとして整備された「国家神道」の面影を強く遺したものであり、それほど古いものではありません。古代以来、神道は仏教のうちに永く存在し、歴代ほとんど多くの天皇は仏教徒であったのですが、明治となってそれらは徹底的な切り離しが図られ、神道自体もむしろ歪んだとすら言えます。神道で明瞭に非常に古い形を保存しているのは、伊勢神宮における掘立てや板壁などの建築様式や諸々の神饌、そしてその儀式儀礼くらいでしょうか。
結局、「私は日本人として神道を信じている」あるいは「日本人として神道にこそ親しみを感じる」という人には、実はその神道自体もその歴史もよく知らずわからぬままに、ただ口でそう言っているだけのことが非常に多いようです。それはまた無意識的に特に儒教、そして仏教の思想を背景にし、実は相当に宗教的言動を日々していながらも「私は無宗教」と主張するという、もはや現代日本人の信仰が、ほとんど絶対的となっていることの現れでもあるのでしょう。