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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

Asibandhakaputta sutta

波羅蜜と十善

波羅蜜 ―それを完成させるのは誰か

漢訳仏典において、現代「救い」などと訳されることがある、「度」という語があります。

「度」という漢字は「渡」に通じ、漢訳仏典ではしばしばサンスクリットまたはパーリ語のpāramitāパーラミターあるいはpāramīパーラミー の訳として用いられます。これについては「波羅蜜多はらみた」・「波羅蜜はらみつ」との音写のほうがむしろ一般的かもしれません。またそれは伝統的に、此岸から彼岸へと渡る、すなわち涅槃を得る、涅槃に入るということで「 到彼岸とうひがん」と解釈されており、いわば「解脱への道・術」とされる語です。

しかし、その原義は「最上のもの」・「完成」です。

大乗では六波羅蜜あるいは十波羅蜜が説かれ、また現存する唯一の部派たる分別説部(上座部)でもその徳目に相違はありますがやはり同じく十波羅蜜が説かれています。では、誰がその最上のものを行うのか?誰が完成するのか?それはあくまでその人自身であって他の誰でもありません。

「真に私を救い得るのは私しかいない」という仏教の大前提を承知した上でならば、その文脈において「救う」「救い」という語を用い、あるいは度を「救い」と訳しても構いはしないでしょう。けれども、世間の大勢としてはそうではない。「救い」などと安直に用いると大いに語弊を招くきらいがある。

例えば、これは若干論旨にそぐわぬ引用となるかもしれませんが、八宗の祖と仰がれる龍樹による論書にはこのように説かれます。

問曰。何故不言我當度衆生。而言自得度已當度衆生。答曰。自未得度不能度彼。如人自沒淤泥。何能拯拔餘人。又如爲水所㵱不能濟溺。是故説我度已當度彼。如説
若人自度畏 能度歸依者 自未度疑悔 何能度所歸
若人自不善 不能令人善 若不自寂滅 安能令人寂
是故先自善寂而後化人。又如法句偈説
若能自安身 在於善處者 然後安餘人 自同於所利
凡物皆先自利後能利人。何以故。如説
若自成己利 乃能利於彼 自捨欲利他 失利後憂悔
是故説自度已當度衆生。
問:どのような理由から「私は衆生を済度すべし」と言わず、むしろ「先ず自らを済度して後、まさに衆生を済度すべし」と言うのであろうか。
答:自らを未だ済度出来ずに他者を済度することなど出来はしない。譬えば人が自ら汚泥に没していたならば、他者を救い出すことなど出来ないようなものである。あるいは(自ら)水に漂流していては溺れる者を救うことなど出来ないようなものである。この故に「私自身を度して後、まさに他者を度すべし」と説くのである。(偈頌に)説く如し。
もし人が自ら畏れより脱したならば、
帰依する者(の畏れ)を除くことが出来るであろう。
自ら未だ疑惑や後悔を除くことが出来ない者に、
どうして帰依者のそれを除くことが出来るであろう。
もし人が自ら善で無いのならば、
他者をして善ならしめることなど出来はしない。
もし自ら寂滅に至っていなければ、
どうして他者を寂滅に至らしめることなど出来ようか。
このようなことから、先ず自ら善く寂滅に至って後、他者を化導する。これはまた『法句偈』にかく説かれている通りである。
もしよく自らその身を安じて
善処に至ったならば、
そうして初めて他者を安じ得る。
自ら利するところも同様である。
およそ物事は全て、先ず自らを利して後に人を利することが出来る。どのような理由からそう云うのであろうか。(偈頌に)説くが如し。
もし自ら己が利を成就してこそ、
他を利することが出来る。
自らを捨てて他を利そうとすれば、
(いずれも)利すことは出来ず後に悔いるであろう。
このようなことから、「自らを済度して後、まさに衆生を済度すべし」と説くのである。

龍樹『十住毘婆沙論』 (T26, p.24b)

ここに説かれる「能度帰依者」の度は、解脱に導く・その道を示すという意味であって、いわゆる救うということではありません。まず自分が(その程度の浅深はあるとして)解脱していなければ、他者を「解脱に導く」ことなど出来ない。それは、いわば自ら泳げぬ者、いや、泳げぬどころか自身も溺れているのにも関わらず、他の溺れる者を助けることなど出来ようはずがないという、至極当たり前のことです。

「私はライフセーバーです。泳ぎ方も知らないし、救命措置も出来ないけれど。でもほら、大丈夫。ライフセーバーの格好はしているでしょう?」などという人を眼前にしたとき、人はいったいどのように思うでしょうか。

さて、あるいはまた、先の問いに対する日本仏教における一解答として、日本仏教史上における屈指の高僧としても反対の言はほとんど全く上がらないであろう、華厳宗中興の祖といわれる明恵みょうえ上人の言葉があります。

或る時云はく。末世の衆生 、仏法の本意を忘れて、只、法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀をたつなり、衣を着ざるなり、又学生也、真言師也とのみ好みて、更に宗と貴むべき仏心を極め悟る事を弁へざる也。上代大国、猶此の恨みあり。況んや末世辺州、何ぞ始めて驚くべきやと。
上人常に語り給ひしは、光る物貴くは、蛍玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天小野皇などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智の姿なりとも、是をぞ梵天帝釈天も拝し給ふべき。
あるとき(明恵上人は)仰せられた。
「(今のような)末世の人々は、仏教の本意を忘れて、ただ法師が尊く思えるのは光を放つからだ、(神通力をもって)空中を飛ぶからだ、断食するからだ、(寒さの中でも)衣を着ないからだ、あるいは博識だからだ、密教に通じて祈祷を能くするからだといった事のみ好んで、決してその核心として貴ぶべき仏の覚りを極め悟ろうとすることなどない。(といっても、)仏ご在世のインドにおいても、やはりこの様なことはあったという。ましてや今のような末世の辺境国たる日本では、今更驚くべき事でもなかろう」
と。上人が常に語られていたことがある。
「光る物が貴いというのであれば、蛍や玉虫を貴べばよい。飛ぶ物が貴いと言うのであれば、 とび からす を貴んだらいいだろう。断食して衣を着ないのが貴いと言うのであれば、蛇で冬に穴に籠もっているのや、 尾長虫 おながむし の裸で地面を這っているのを貴んだらいい。博識な者が貴いならば、頌詩を作るのに通じ、古典の多くを暗誦していたという 白楽天 はくらくてん 小野篁 おののたかむら などをこそ貴んだらよかろう。しかしながら、詩賦の才能によって閻魔の老・病・死という棒を避けることは出来ない。ならば博識な僧など虚しいものあって、殊更に貴ぶ必要はない。ただ仏陀がこの世に現れて成し遂げられ、教え残されたことを悟ることこそ励むべきである。たとえそれが文盲・無知であるかの様であっても、そのような者こそ梵天や帝釈天も礼拝するのだ」

『栂尾明恵上人伝記』巻上

では、人はどのように自分自身を救うことが出来るのか。人はいかにして己を「清める」ことが出来るのか。それを可能にするものは何か。それは、一時的な儀式や儀礼などでは決してない、どこまでもその人自身の日頃の行い、その人の業に尽きます。

十善業道

人がその人自身を救う術、私が私を救うその行為は、仏教において十善業道じゅうぜんごうどう(dasakusalakammapatha)あるいは十善道といわれます。それは本経において、いや、およそ仏教において通じて説かれる善悪の基準です。

十善業道とは、仏教・非仏教など問わず、思想・宗教の垣根を超えた、人と神々との善悪の基準となる普遍的なものだと断じて可なるものです。ただし、最後の(最も肝心なところの)邪見については、仏教外の立場からは異論あって、多くの場合は到底受け入れられることなどないでしょうけれども。

では十善業道とは何か。

十善業道
1 不殺生 いかなる生き物も、故意に殺傷しないこと。
2 不偸盗 与えられていない物を、故意に我が物としないこと。
3 不邪淫 故意に不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しないこと。
4 不妄語 故意に偽りの言葉を語らないこと。
5 不綺語 故意に無意味な、無益な言葉を語らないこと。
6 不悪口 故意に粗暴な、荒々しい言葉を語らないこと。
7 不両舌 故意に他者を誹謗したり、陰で中傷したりしないこと。
8 不慳貪 飽くことなくモノを欲しがらないこと。
9 不瞋恚 怒らないこと。怒りを起こしてもそれを継続・増長させないこと。
10 不邪見 四聖諦、業報・因果・縁起・輪廻を否定する思想を奉じないこと。

これら十善業道とは、「ある特定の行為が善である」などと積極的に示されたものではなく、「悪を自ら行わないことが善である」と、いわば消極的に善が示されたものです。ここが仏教の面白い(?)ところで、それは「絶対的善など無い」ことを示したものだと言えます。

そして、これら十善には、「(絶対的存在に救済を求めて)祈ること」・「信仰すること」・「(水行などの)苦行すること」など全く含まれていません。それは、唯一全能とされる絶対的存在、神や救い主などと云われるものはこの世に存在しない、苦行は無意味である、などといった仏教の見解を反映したものでもあります。

十悪(十不善)を意図的に為さないことにより、これら十善を日々に為して生きることにより、人は自己を清めることが出来る。では、誰が十善を為すのか。それもやはり、他の誰でもない、自分しかありません。自分自身が現実の生活の中で、それら十悪を離れること、その十悪に対する行いを自他に対して行うことが善なる行為であって、それが自分自身を救うための資糧となります。

もちろん、他者がなした十善に基づく行為の恩恵に浴することは出来る。あるいはそれを「救われた」と形容することも出来るかもしれない。「情けは人の為ならず」であるけれども、人の情けに預かったならばそれに篤く感謝しつつ享受したらよい。それを拒絶する必要などまったくなく、他者の積徳の行に随喜しつつ、その恩恵に預かったら良い。随喜すること。それは真に、人の美しい行為の一つでありましょう。

けれどもやはり、どうしてもそれで真に「救われる」ことはない。清まることもない。それを達成するためには、どうしても己が身と言葉と心において、まず十善道を踏み行わなければなりません。己の救いを求めるのであれば、まずは自ら十善を現実に行うことが何より肝要となります。

本経『アシバンダカプッタ・スッタ』においては、十善を人が備えているかどうかが、後世に生天するか堕地獄となるかの因であるとして説かれています。けれども実際、十善だけ、すなわち十悪をなさないことだけで充分かと言えばそうではなく、十善を修めた上で修禅に励み、自ら智慧を陶冶しなければならないと仏教は説きます。いわゆる戒定慧の三学です。

ところでその昔、日本では天皇のことを「十善の君」と称すことがありました。これは、天皇(王者)は前世において十善を備えた人生を送ったからこそ今世において人の頂点に君臨して治世を行いえる、という『仁王経』の所説に基づいてのことです。

十善は、声聞乗においても大乗においても、顕教においても密教においても、仏教に通じて説かれる道です。それは後世に天や人に生まれ変わるなどといった世間の果報だけではなく、涅槃・解脱を得る出世間の果報の因たるもの、必然的に備わっていく徳としても説かれます。そのようなことから、時に十善はまた戒としても説かれ、それは大乗において顕著です。

(ただし、十善を文字通りすべて戒であると単純に理解するのは厳密でない、と言うよりむしろ不適切であって、それは以下に示す『大智度論』で言及されていることでもあります。実は、戒とはあくまで身体的・言語的についてのものです。実際、日常の心の動き自体を戒によって制御することは不可能であって、その故に戒とはあくまで身体や発言による行為についてのみ説かれるものだからです。が、この問題についてはここでは深入りしません。)

日本で八宗の祖などと称される龍樹は、『大般若経』の注釈書『大智度論』の中で、十善を戒波羅蜜の根本とし、十善がすべての戒を包摂するものであると位置づけています。

問曰。尸羅波羅蜜則總一切戒法。譬如大海總攝衆流。所謂不飮酒。不過中食。不杖加衆生等。是事十善中不攝。何以但説十善。答曰。佛總相説六波羅蜜。十善爲總相戒。別相有無量戒。不飮酒不過中食入不貪中。杖不加衆生等入不瞋中。餘道隨義相從。戒名身業口業。七善道所攝。十善道及初後。如發心欲殺。是時作方便。惡口鞭打繋縛斫刺乃至垂死皆屬於初。死後剥皮食噉割截歡喜皆名後。奪命是本體。此三事和合總名殺不善道。以是故知。説十善道則攝一切戒。
問:尸羅波羅蜜〈戒波羅蜜〉とは全ての戒法を統べるものであろう。例えば大海が諸々の河川を総摂したものであるように。しかしながら、不飲酒〈酒を飲まない〉・不過中食〈正午から翌日の日の出まで食を摂らない〉・不杖加衆生〈生けるものを害わない〉などは十善の中に含まれていない。一体どうして(仏陀は)ただ「十善」とだけお説きになられたのであろうか。
答:仏陀は(菩薩の修行の)総相として六波羅蜜をお説きになり、十善をもって総相戒とせられたのである。よって別相としては(様々な細かい行為に関しての)無量の戒がある。(しかし、十善としてまとめたならば、たとえば)不飮酒や不過中食は不慳貪の中に含まれ、杖不加衆生などは不瞋恚の中に包摂される。その他の十善道についてもまた、(十善の中には説かれていない種々の戒が、そのいずれに包摂されるのかを)それぞれの意義内容に従って解されるべきである。
 戒とは身業と口業とについて言われるものであって(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌の)七善道に摂される。
 十善道は「初」と「後」とに及ぶものである。(この「初」と「後」ということについて、たとえば殺生を例として説明するならば、)もし心に殺意を生じて(他の生命あるものを)様々な手段でもって悪しざまに罵り、鞭打ち、縛り上げ、切りつけ刺すなどして、ついに死に至らしめたならば、それらの行為はすべて「初」に属するものである。殺した後、その皮を剥いで食べ、切り刻むなどして喜ぶことはすべて「後」とする。生命を奪うことは(殺生の)本体〈本質〉である。これら(初・後・本体の行為)全てをまとめ総じて、殺不善道というのである。このようなことから理解されるであろう、十善道が説かれる中に、すべての戒が包摂されていることが。

龍樹『大智度論』釈摩訶衍品第十八 巻第四十六(T25, p.395b)

実はこの『大智度論』の一節にみられる十善の理解は、平安初期の弘法大師空海から江戸後期の慈雲尊者にまで連綿と受け継がれ、十善とは仏教の戒の根本であると同時に、人に普遍なる道であるものと解されていきます。日本仏教におけるその一つの果実、結晶というべきものが、慈雲尊者の『十善法語』あるいは『人となる道』という著作です。

少々本経『アシバンダカプッタ・スッタ』自体の内容から離れてしまいました。実のところ「死者の救い」という主題を扱うならば、仏教一般で行われる施餓鬼についても言及しなければなりません。餓鬼の原語はサンスクリットpretaあるいはパーリ語petaで、その原義は死霊。もっとも、仏教においては三悪趣といわれる苦しみ多き三種の生命のありかたの一つであるされ、あくまで「生命あるもの」・「寿命あるもの」であって、いわゆる死霊というのとは異なります。

また、いわゆる葬式仏教というものに対する批判を展開するならば、仏教者と葬式との関わりについても、やはり論じなければならないでしょう。しかし、ここではあえてそれらに言及することはせず、施餓鬼や仏教者と葬式との関わりについては別項を設けます。