私を救うことが出来るのは他の誰でもない私、私のみ。
その真実の故にむしろ「人は、私は救われなどしないであろう」と絶望するのかもしれない。「私を救うことが出来るのは私だけ?それ以上に厳しい言葉、教えなどあるだろうか」とすら思えるかもしれません。「私はこんな、こんなどう仕様も無いものでしかないのだから」、「そうは言っても、それが本当だっとしたらなおさら、私に出来ることではない!」と。
そのようなことから、誰か絶対なる救済者の存在を夢見、あるいは妄想して、それを真から信仰することによる救済を求めることこそ良しとする人々が次々出てくるのでしょう。いや、時にはそのような夢や妄想が必要な時代や時期というものが、人間の歴史や人の一生涯の中にはあるでしょう。
現代、我々の国日本に限って言えば、紛争もなく、飢饉・疫病もなく、犯罪も世界標準からすればごく少ない、世界平均以上の恵まれた時代にあって、衣食住以外のことに心を砕くだけの余裕ある人が多くあります。が、それも長い歴史からいえば決して恒常なるものでない不確かなもの。決して「あたりまえ」などではありません。
戦乱・飢饉・疫病は、たとい人が望まずそれに抗おうとしても、時になすすべなく巻き起こって、平和など瞬く間に消え去ってしまうものは、まさに歴史が証明してきたことです。その故にこの平和なる一時を我々は実に有り難いものとして、有効に使うべきでありましょう。ところが、人というものは無駄に生きるものです。
そして、そのような平和な時代にあったとしてもなお、誰しもが順風満帆で無碍自在に生きていくことなど、まず出来ることではない。戦乱・疫病・飢饉などによって生命の危機が現実にひしひしと感じられる時代になかったとしても、決して貧しさの底にあるわけでなかったとしても、むしろ豊かと言われる部類の生活を送っていたとしても、しかし、人は多くの苦しみ・悩み・憂いを感じ、それにあえぎつつなんとか日々生きているだけということが多くある。
どんな時代にあろうとも、どれほど「進んだ」・「平和だ」と言われる時に生きていたとしても、人生とはまこと不如意なるもので、厳しく、つらく、苦しい。時には凄まじい痛みに苦しむ人に、もはや麻薬に類する強力な鎮痛剤を投与することが必要な場合があるように。そのような薬では決して病を癒すことなど出来なくとも、一時しのぎの手段としてそれが必要なことは確かにある。よってそのような一時的処置すらまるごと否定する必要などない。
それは例えば、脳卒中や事故などで深刻な容態となったとき、「万一なにかあったとき、どうか人工呼吸器を付けてくれるな」などと日頃本人が言っていたからといって、脳死状態になったわけでもなく、むしろ一時的に人工呼吸器をつけても後に回復の望みが十分あるのに、「いや、本人は人工呼吸器を日頃から拒否していたのだ」などといって、周りがその治療を拒絶してそのまま死なせてしまうのは、実に愚かしいこととでしょう。
けれどもそれは、麻薬と同様、決して常用・乱用してはならないもの。常用・乱用すれば、逃れようとした当初の元の病い・苦しみとは別の、さらに新たなる病い・苦しみを次々生じ、ついにはその病苦が慢性化し、あるいは様々な合併症をも発現させて、それらを癒やすことがより一層、甚だしく困難なことになってしまうでしょう。それこそ果てしなく生死輪廻の苦海に沈溺することに他ならない。
「嘘も方便」などと巷間たやすく言われますが、それは決して安易に言い得ることでは無い。それが本当であるとしても、その方便を用いる者には深い智慧と経験とが求められるものでしょう。しかし現実には、その言葉を安直に用いる人は、ただおためごかしや誤魔化しで言っているに過ぎないように思われることが多くあります。
ここで再度、非常に重要なことであることから、仏陀のまさしく「真理の言葉(Dhammapada)」を示します。
attanā hi kataṃ pāpaṃ, attanā saṃkilissati.
attanā akataṃ pāpaṃ, attanāva visujjhati.
suddhī asuddhi paccattaṃ, nāñño aññaṃ visodhaye.
自ら悪を行えば自ら汚れ、自ら悪を行わざれば自ら浄まる。
(己が)浄きも浄からざるも、それぞれ(の自業自得)である。
人は他者を浄めることができないのだ。
KN. Dhammapada, Attavagga 165.
ここで説かれる悪とは何でしょう。
それは先に示した十善にて戒める諸々の行為です。①生き物を殺傷すること。②与えられていない物を我が物とすること。③不倫や不道徳な性交渉をすること。④嘘をつくこと。⑤無益な言葉を語ること。⑥粗暴な、荒々しい言葉を語ること。⑦他者を誹謗したり、陰で中傷したりする言葉を語ること。⑧飽くことなく物事を貪ること。⑨怒り、心荒ぶること。⑩(四聖諦・縁起・輪廻という)真理を信ぜず、受け入れないことです。
その上で、苦しみの連鎖から完全に脱せんとするならば、四つの聖なる真理すなわち四聖諦〈cattāri ariya-saccāni〉をまさに如実に知見するために、戒を持し、止観を修めて禅を得て、我が智慧を得、それを磨き高めていかなければなりません。
四聖諦の最後、道諦とは八正道であり、あるいはより詳しく三十七菩提分法としてまとめ説かれる様々なる徳目と修道法です。仏教には小乗(声聞乗)・大乗・金剛乗と様々に異なる教えの流れがあるとはいえ、それらはすべて、これら大原則から一歩も出ないものです。もし、これとまったく異なることを説く宗派や輩が仏教の名の元にあったとしても、それはもはや仏教ではありません。
仏滅後、二千五百年以上を経たこの末世にあっても、これはその依るところの教え・伝統に違いがあったとしても、ここに私が陳ずる愚見を縁として、そのような仏陀の真実なる遺教に帰依し、自らが自らを救う人の表れ出ることを願ってやみません。
自らが自らを救わんとして努め励む人の、少しでも現れんことを。
Bhikkhu Ñāṇajoti