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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

Kesamutti Sutta(『ケーサムッティ・スッタ』)

原文

‘‘Etha tumhe, kālāmā, mā anussavena, mā paramparāya, mā itikirāya, mā piṭakasampadānena, mā takkahetu, mā nayahetu, mā ākāraparivitakkena, mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā, mā bhabbarūpatāya, mā samaṇo no garūti. Yadā tumhe, kālāmā, attanāva jāneyyātha – ‘ime dhammā akusalā, ime dhammā sāvajjā, ime dhammā viññugarahitā, ime dhammā samattā samādinnā ahitāya dukkhāya saṃvattantī’’’ti, atha tumhe, kālāmā, pajaheyyātha.

‘‘Taṃ kiṃ maññatha, kālāmā, lobho purisassa ajjhattaṃ uppajjamāno uppajjati hitāya vā ahitāya vā’’ti?

‘‘Ahitāya, bhante’’.

‘‘Luddho panāyaṃ, kālāmā, purisapuggalo lobhena abhibhūto pariyādinnacitto pāṇampi hanati, adinnampi ādiyati, paradārampi gacchati, musāpi bhaṇati, parampi tathattāya samādapeti, yaṃ sa hoti dīgharattaṃ ahitāya dukkhāyā’’ti.

‘‘Evaṃ, bhante’’.

‘‘Taṃ kiṃ maññatha, kālāmā, doso purisassa ajjhattaṃ uppajjamāno uppajjati hitāya vā ahitāya vā’’ti?

‘‘Ahitāya, bhante’’.

‘‘Duṭṭho panāyaṃ, kālāmā, purisapuggalo dosena abhibhūto pariyādinnacitto pāṇampi hanati, adinnampi ādiyati, paradārampi gacchati, musāpi bhaṇati, parampi tathattāya samādapeti, yaṃ sa hoti dīgharattaṃ ahitāya dukkhāyā’’ti.

‘‘Evaṃ, bhante’’.

‘‘Taṃ kiṃ maññatha, kālāmā, moho purisassa ajjhattaṃ uppajjamāno uppajjati hitāya vā ahitāya vā’’ti?

‘‘Ahitāya, bhante’’.

‘‘Mūḷho panāyaṃ, kālāmā, purisapuggalo mohena abhibhūto pariyādinnacitto pāṇampi hanati, adinnampi ādiyati, paradārampi gacchati, musāpi bhaṇati, parampi tathattāya samādapeti, yaṃ sa hoti dīgharattaṃ ahitāya dukkhāyā’’ti.

‘‘Evaṃ, bhante’’.

‘‘Taṃ kiṃ maññatha, kālāmā, ime dhammā kusalā vā akusalā vā’’ti?

‘‘Akusalā, bhante’’.

‘‘Sāvajjā vā anavajjā vā’’ti?

‘‘Sāvajjā, bhante’’.

‘‘Viññugarahitā vā viññuppasatthā vā’’ti?

‘‘Viññugarahitā, bhante’’.

‘‘Samattā samādinnā ahitāya dukkhāya saṃvattanti, no vā? Kathaṃ vā ettha hotī’’ti?

‘‘Samattā, bhante, samādinnā ahitāya dukkhāya saṃvattantīti. Evaṃ no ettha hotī’’ti.

‘‘Iti kho, kālāmā, yaṃ taṃ avocumhā – ‘etha tumhe, kālāmā! Mā anussavena, mā paramparāya, mā itikirāya, mā piṭakasampadānena, mā takkahetu, mā nayahetu, mā ākāraparivitakkena, mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā, mā bhabbarūpatāya, mā samaṇo no garūti. Yadā tumhe kālāmā attanāva jāneyyātha – ‘ime dhammā akusalā, ime dhammā sāvajjā, ime dhammā viññugarahitā, ime dhammā samattā samādinnā ahitāya dukkhāya saṃvattantīti, atha tumhe, kālāmā, pajaheyyāthā’ti, iti yaṃ taṃ vuttaṃ, idametaṃ paṭicca vuttaṃ.

現代語訳

「カーラーマ達よ、汝らは、風説に依らず伝承に依らず伝聞に依らず聖典集の所伝に依らず推論に依らず公理に依らず類比に依らず(他者により)深慮された見解への同意に依らず有能そうな外見の者の言葉に依らず(その)沙門が(自身の)師であるという(理由)に依ることなかれ。カーラーマ達よ、汝らが、みずから(このように)知ったならば、――「これらの法〈教え・思想〉は不善である。これらの法は非難されるべきものである。これらの法は智者より批判されるものである。これらの法は完遂され受持されたならば、不利益と苦しみへと導く」と、カーラーマ達よ、ならば汝らは(それらの法など)捨て去るがよい」

「カーラーマ達よ、汝らはどう思うであろう、貪欲が人の心に起こったとき、生じるのは利益であろうか、それとも不利益であろうか?」

「不利益です、大徳よ」

「また、カーラーマ達よ、貪欲によって征服され、その心が占拠された欲深き者が、生き物を殺し与えられていない物を取り他人の妻のところに(不当に)行き嘘をつき他者のあれこれ為したことを噂するなど 、これらは彼に長きにわたる不利益と苦しみとをもたらす」

「そのとおりです、大徳よ」

「カーラーマ達よ、汝らはどう思うであろう、怒りが人の心に起こったとき、生じるのは利益であろうか、それとも不利益であろうか?」

「不利益です、大徳よ」

「カーラーマ達よ、怒りによって征服され、その心が占拠された嫌悪せる者が、生き物を殺し、与えられていない物を取り、他人の妻のところに(不当に)行き、嘘をつき、他者のあれこれ為したことを噂するなど、これらは彼に長きにわたる不利益と苦しみとをもたらす」

「そのとおりです、大徳よ」

「カーラーマ達よ、汝らはどう思うであろう、愚かさが人の心に起こったとき、生じるのは利益であろうか、それとも不利益であろうか?」

「不利益です、大徳よ」

「カーラーマ達よ、愚かさによって征服され、その心が占拠された惑える者が、生き物を殺し、与えられていない物を取り、他人の妻のところに(不当に)行き、嘘をつき、他者のあれこれ為したことを噂するなど、これらは彼に長きにわたる不利益と苦しみとをもたらす」

「そのとおりです、大徳よ」

「カーラーマ達よ、汝らはどう思うであろう、これらの法は善なるものであろうか、それとも不善なるものであろうか?」

「不善なるものです、大徳よ。」

「非難されるべきものであろうか、過失なきものであろうか?」

「非難されるべきものです、大徳よ」

「智者より批判されるものであろうか、智者より賞賛されるものであろうか?」

「智者より批判されるものです、大徳よ」

「完遂され、受持されたならば、不利益と苦しみへと導くものであろうか、なかろうか?どのようであろうか?」

「完遂され、受持されたならば、不利益と苦しみへと導くものです、大徳よ。そのようにあります」

「では、カーラーマ達よ、かく私が言ったように、――『カーラーマ達よ、汝らは、風説に依らず、伝承に依らず、伝聞に依らず、聖典集の所伝に依らず、推論に依らず、公理に依らず、類比に依らず、深慮され達された結論への同意に依らず、有能そうな者の言葉に依らず、(その)沙門が(我々の)師であるという(理由)に依ることなかれ。カーラーマ達よ、汝らが、みずから(このように)知ったならば、――「これらの法〈教え・思想〉は不善である。これらの法は非難されるべきものである。これらの法は智者より批判されるものである。これらの法は完遂され、受持されたならば、不利益と苦しみへと導く」と、カーラーマ達よ、ならば汝らは(それらの法など)捨て去るがよい』、そう語られたように、そしてこれに関して語られたように」

脚註

  1. 風説に依らず

    MA.‘Mā anussavenāti anussavakathāyapi mā gaṇhittha.’(Mā anussavena[風説に依らず]とは、随って聞いたこと[噂・報告]であるからといって、汝らは承認するなかれ、ということである。)

  2. 伝承に依らず

    MA.‘Mā paramparāyāti paramparakathāyapi mā gaṇhittha.’(Mā paramparāya[伝承に依らず]とは、後代へ相承される話[伝承・伝説]であるからといって、汝らは承認するなかれ、ということである。)
    けれども、仏教はそもそもĀgama(伝えられたもの・阿含)であって、前代から後代へと相承されてきたものである。しかしながら、いたずらに伝承を持ちだして云々することは推奨されない。嗚呼、なんということであろうか、本サイトでは、すなわち私は「伝統では」・「伝統的には」などという文言を多く持ち出しているのであった。

  3. 伝聞に依らず

    MA.‘Mā itikirāyāti evaṃ kira etanti mā gaṇhittha.’(Mā itikirāya[伝聞に依らず]とは、「このように伝え言う」ことを汝らは承認するなかれ、ということである。)
    けれども、およそほとんどすべての仏典は、「このように私は聞いた(Evaṃ me staṃ)」と始まる。信といっても、そこは段階があって、理想的な信たる「確信」「揺るぎなき明らかな理解」に至るには、多少なりとも盲目的な信があって当たり前であり、それで最初は良い。

  4. 聖典集の所伝に依らず

    MA.‘Mā piṭakasampadānenāti amhākaṃ piṭakatantiyā saddhiṃ sametīti mā gaṇhittha.’(Mā piṭakasampadānena[聖典集の所伝に依らず]とは、我々の聖典集の経典[伝統]に共に一致するといって、そのまま汝らは承認するなかれ、ということである。)
    『孟子』に説かれる「悉く書を信ずれば即ち書無きに如かず」と同様の態度。権威主義、教条主義を廃する態度である。ところで、三蔵内では一応他にもわずかながら幾つか用例があるけれども、piṭakasampadānaという語が契経にあるのは少々解しかねる。仏陀のご在世中には三蔵(Tipiṭaka)など存していないのは無論のことである。当時、バラモン教やジャイナ教など、外道のその聖典(といっても、それは当然文字化・記述されたものなどなかったであろう)をpiṭakaと呼称していたというのであろうか。無知無教養の拙では判断しかねる。けれども今は一応、‘piṭakasampadāna’を「聖典集の所伝」と訳しておいた。
    仏滅後、三蔵が幾度と無く編纂・編集されて現在の三蔵、諸仏典として伝わる今、それらpiṭakaに対してもやはり同様の態度が採られなければならないこととなる。けれども、現実としては信徒のほとんどが教条主義的・権威主義的となっているのであるが、それは時に「文化」や「習慣」という語で表現されるものであろう。が、しかしまた、それをいたずらには受け入れ、依るべきでないことがすでに上に説かれている。
    いずれにせよ、これは他の多くの宗教からすれば驚くべき条で、ほとんどの宗教の場合、到底容認することの出来ない、いや、あり得ない教え・態度のものであろう。例えば、聖書に「聖書を、そこに書かれているからというだけで信用してはならない」などと書かれていたならば、おそらくキリスト教のあり方も相当に異なったものとなっていたに違いない。

  5. 推論に依らず

    MA.‘Mā takkahetūti takkaggāhenapi mā gaṇhittha.’(Mā takkahetuとは、理論的な思考[見解・執着]であるからといって、汝らは承認するなかれ、ということである。)
    ここでのtakkahetuとは、いわばインド哲学ならびに仏教における因明(論理学)の用語でいうところの比量(anumāna)。例えば、ある山に火があることを主張するのに、その理由としてその山から煙が上がっていることを挙げ、実例として「火のないところに煙は立たぬ」と家のカマドなどを挙げ、これをその山にも適用して、(実際に火そのものは見えないけれども)その山には火があると結論すること。実際にある物事それ自体を認識・経験することなく、それについて論理的に考えることのみによって結論することを言う。面白いのに「太ったデーヴァダッタは午前に食事をしない」という理由から、推論して「デーヴァダッタは(律に違反して)夜食事をしている」と結論するのがあったように思う(典拠失念)。

  6. 公理に依らず

    MA.‘Mā nayahetūti nayaggāhenapi mā gaṇhittha.’(Mā nayahetu[公理に依らず]とは、公理的思考[定式化した理解]であるからといって、汝らは承認するなかれ、ということである。) 一般的に道理として認められていることを、自ら確かめることなしにそのまま真実であると承認しないこと。
    仏教では、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静(・一切皆苦)の四法印(三宝院)などといって、これを仏教の旗印、仏教の特徴とする。けれども、このような理解が反面、まさしく「定式化した理解」となって、なんでもかんでも無常・無我・苦と言っていれば良い。さらには、すべては名と色にすぎない、一切は空なのであるからなどと、端から言って済まそうとする者が多く出現するに至っている。このようなのは、まさしく「馬鹿の一つ覚え」である。
    数学で考えてみたならば良い。一つの数式があったとして、その正答は本に付属している解答に載っている。自分で考え、これを解かなくとも、正答はすでにそこにある。正答は正答なのであるから、ある設問に対してその正答をさえ知っておけば良いという態度は、正しいものであろうか?

  7. 類比に依らず

    注釈書の理解とはずれるけれども、今は一応、これを類比と訳した。MA.‘Mā ākāraparivitakkenāti sundaramidaṃ kāraṇanti evaṃ kāraṇaparivitakkenapi mā gaṇhittha.’(Mā ākāraparivitakkenaとは、これは好ましい根拠であると、そのように根拠への遍き考察があるからいって、汝らは承認するなかれ、ということである。)

  8. 深慮された見解への同意に依らず

    MA.‘Mā diṭṭhinijjhānakkhantiyāti amhākaṃ nijjhāyitvā khamitvā gahitadiṭṭhiyā saddhiṃ sametītipi mā gaṇhittha.’(Mā diṭṭhinijjhānakkhantiya[深慮され達された結論への同意に依らず]とは、我々の熟考し容認し把握された見解[教義]に共に同意していると云うからといって、汝らは承認するなかれ、ということである。)

  9. 有能そうな者の言葉に依らず

    MA.‘Mā bhabbarūpatāyāti ayaṃ bhikkhu bhabbarūpo, imassa kathaṃ gahetuṃ yuttantipi mā gaṇhittha.’(Mā bhabbarūpatāya[有能そうな者の言葉に依らず]とは、この比丘は「見たところ出来そう」である、その話は受け入れるに相応しいと云って、汝らは承認するなかれ、ということである。)
    宗教者など何事かを説く者について、ただうわべだけで判断して、その言葉に従ってはならないこと。あるいは、世間で評判となっている者の、評判であるからという理由によってはならないこと。宗教者に限らず、その道の専門と言われている人の言であっても、それを鵜呑みにしてはならないこと。これもある意味、権威主義的態度を排そうとするもの。あるいは、「大僧正」だの「~宗管長」だの、「大阿闍梨」だ、「どこそこで何年間修行した」だのという肩書きに、これに人は大体にして惑わされるのであるけれども、そのようなものをその言の真実かどうかの判断基準にしてはならないこと。かと言って、ではこれが科学技術畑、学問畑、あるいは武道など専門的な分野のこととなると、少々話が異なる。宗教者の肩書など、まったくの虚飾・虚栄に過ぎない場合がほとんどであるから。
    いずれにせよ、その道の専門と言われている人の言へ耳を一切貸さなくなるようでは、ただの愚か者である。それは度の過ぎた馬鹿である。

  10. (その)沙門が...

    MA.‘Mā samaṇo no garūti ayaṃ samaṇo amhākaṃ garu, imassa kathaṃ gahetuṃ yuttantipi mā gaṇhittha.’(Mā samaṇo no garuとは、この沙門は我々の師である、その話は受け入れるに相応しいと云って、汝らは承認するなかれ、ということである。)
    ただ自分が信仰する、信奉する師であるからとって、その言葉に従ってはならないこと。「師と崇めるあの方のお言葉だから、私は従う」という盲従的態度をとってはならないこと。しかし、これもまた非常に一般的な、むしろ「採るべき態度」として言われているものである。私の周囲にも、「師の教えであるから」という理由で盲従する人々は多くあり、特に冥想修行者ともなれば五万とある。あるいは、かのお祖師様が赫々言われているのであるから間違いない、それにそむくは我が宗旨ではない等と。
    場合によって、人によっては必要なこともあろうけれども、それでもやはり自分で考え確認することを放棄してはならない。そして、その結果、いかに師の言であろうがそれが間違えていたならばその間違い、不適切であればその不適切さを認め、正したならばよいだけの話である。が、その「だけ」の話が、なかなかどうして出来ないというのが、人間というものであろう。
    師に対する態度について、仏教では多くの警鐘と指導が古来伝わっており、それらは「なるほど、確かに」と首肯し得るものが多い。もっとも、律蔵などでは自らの師が明らかに間違っていた場合、間違っているのでないかと疑わしい場合には、これを弟子が指摘するべきことを説いている。しかしまた、師の資質が不十分ではあっても、その伝持する教えが優れていたならば、「糞袋のなかの金塊」の如きものとして敬重せよなどという言が、仏教にはある。また、「金をとるものは人を見ず」と、黄金こそを求める者に採ってはそれを与える人が誰であれ関係が無い、という言もある。これらの言もまた、不用意に用いたらただの不敬な増上慢を生み出すだけのものであるが、場合によっては心すべきこと。

  11. 完遂され

    MA.‘Samattāti paripuṇṇā.’(Samatta[完成した]とは、完全なである。)

  12. 受持され

    MA.‘Samādinnāti gahitā parāmaṭṭhā.’(Samādinna[受持した]とは、受け入れて執することである。)

  13. 貪欲とんよく

    lobha. 欲しい、まだ足りない、もっと、という欲望が、人に非建設・非現実的な方向で現出し、それに基づいた行為が行われたならば、結果するのは結局不満足、苦しみのみである。そしてそれを満たすためにまたさらに求め続け、不満足をやり通す。  夏目漱石は小説『吾輩は猫である』の中でかくのように言う、「積極的と云ったって際限がない話だ。いつ迄積極的にやり通したって、満足と云ふ域とか完全とか云ふ域にいけるものぢゃない。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないが、つまりは不満足で一生を暮らす人の作った文明さ。」(作中に登場する八木独歩の言)。反面、そのような人の欲求が文明社会の「進歩」を支え、我々はその利を享受しつづけている。
    欲と言ってもそれは生命が生来備えるあたりまえの精神活動であり、またその現れ方は様々である。悟りを求めることも欲求で、およそ人は欲求なしに何事かを為すことなど出来はしない。故にこれは方向性の問題でもある。それが結局、いかなる果をもたらすかということが大事であって、その場合、近代より言われるような合理不合理をやたらと持ちだしても意味は無い。

  14. 欲深き

    mūḷho.

  15. 生き物を殺し

    ‘pāṇampi hanati’. いかなるものであれ生命あるものを意図的に傷つけ殺すこと。

  16. 与えられていない物を取り

    ‘adinnampi ādiyati’. 他者の所有物を我が物とすること。盗むこと。

  17. 他人の妻のところに(不当に)行き

    ‘paradārampi gacchati’. 不倫すること。現代的にこれを言うならば、他人の妻ということに限らず、他人の夫、他人の恋人も対象となる。

  18. 嘘をつき

    ‘musāpi bhaṇati’. 妄言を吐くこと。事実と異なることを言うこと。

  19. 他者のあれこれ為したことを噂する

    ‘parampi tathattāya samādapeti’. あの人はこれこれこうである、などと他者にふれ回ること。その者の不利益となるよう扇動すること。ここでは第五番目に、五戒の最後に言われる飲酒を挙げること無く、うわさ話をすること(gossipping)が挙げられている。先に挙げられた、依るべきでない「風説」をみずから為さないことでもあろう。

  20. 怒り

    dosa. 漢訳では一般に瞋恚。

  21. 嫌悪せる

    duṭṭho.

  22. 愚かさ

    moha. 漢訳では一般に痴。

  23. 惑える

    mūḷho.

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