‘‘Sa kho so, kālāmā, ariyasāvako evaṃ averacitto evaṃ abyāpajjhacitto evaṃ asaṃkiliṭṭhacitto evaṃ visuddhacitto. Tassa diṭṭheva dhamme cattāro assāsā adhigatā honti. ‘Sace kho pana atthi paro loko, atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, athāhaṃ kāyassa bhedā paraṃ maraṇā sugatiṃ saggaṃ lokaṃ upapajjissāmī’ti, ayamassa paṭhamo assāso adhigato hoti.
‘‘‘Sace kho pana natthi paro loko, natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, athāhaṃ diṭṭheva dhamme averaṃ abyāpajjhaṃ anīghaṃ sukhiṃ attānaṃ pariharāmī’ti, ayamassa dutiyo assāso adhigato hoti.
‘‘‘Sace kho pana karoto karīyati pāpaṃ, na kho panāhaṃ kassaci pāpaṃ cetemi. Akarontaṃ kho pana maṃ pāpakammaṃ kuto dukkhaṃ phusissatī’ti, ayamassa tatiyo assāso adhigato hoti.
‘‘‘Sace kho pana karoto na karīyati pāpaṃ, athāhaṃ ubhayeneva visuddhaṃ attānaṃ samanupassāmī’ti, ayamassa catuttho assāso adhigato hoti.
‘‘Sa kho so, kālāmā, ariyasāvako evaṃ averacitto evaṃ abyāpajjhacitto evaṃ asaṃkiliṭṭhacitto evaṃ visuddhacitto. Tassa diṭṭheva dhamme ime cattāro assāsā adhigatā hontī’’ti.
‘‘Evametaṃ, bhagavā, evametaṃ, sugata! Sa kho so, bhante, ariyasāvako evaṃ averacitto evaṃ abyāpajjhacitto evaṃ asaṃkiliṭṭhacitto evaṃ visuddhacitto. Tassa diṭṭheva dhamme cattāro assāsā adhigatā honti. ‘Sace kho pana atthi paro loko, atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, athāhaṃ kāyassa bhedā paraṃ maraṇā sugatiṃ saggaṃ lokaṃ upapajjissāmī’ti, ayamassa paṭhamo assāso adhigato hoti.
‘‘‘Sace kho pana natthi paro loko, natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, athāhaṃ diṭṭheva dhamme averaṃ abyāpajjhaṃ anīghaṃ sukhiṃ attānaṃ pariharāmī’ti, ayamassa dutiyo assāso adhigato hoti.
‘‘Sace kho pana karoto karīyati pāpaṃ, na kho panāhaṃ – kassaci pāpaṃ cetemi, akarontaṃ kho pana maṃ pāpakammaṃ kuto dukkhaṃ phusissatī’ti, ayamassa tatiyo assāso adhigato hoti.
‘‘‘Sace kho pana karoto na karīyati pāpaṃ, athāhaṃ ubhayeneva visuddhaṃ attānaṃ samanupassāmī’ti, ayamassa catuttho assāso adhigato hoti.
‘‘Sa kho so, bhante, ariyasāvako evaṃ averacitto evaṃ abyāpajjhacitto evaṃ asaṃkiliṭṭhacitto evaṃ visuddhacitto. Tassa diṭṭheva dhamme ime cattāro assāsā adhigatā honti.
‘‘Abhikkantaṃ, bhante! Abhikkantaṃ, bhante, seyyathāpi, bhante, nikkujjitaṃ vā ukkujjeyya, paṭicchannaṃ vā vivareyya, mūḷhassa vā maggaṃ ācikkheyya, andhakāre vā telapajjotaṃ dhāreyya – ‘cakkhumanto rūpāni dakkhantī’ti. Evamevaṃ bhagavatā anekapariyāyena dhammo pakāsito. Ete mayaṃ, bhante, bhagavantaṃ saraṇaṃ gacchāma dhammañca bhikkhusaṅghañca. Upāsake no, bhante, bhagavā dhāretu ajjatagge pāṇupete saraṇaṃ gate’’ti.
「さて、カーラーマ達よ、かの聖なる弟子は、このように敵意なく、このように悪意なく、このように心に穢れなく、このように心清らかである。彼には、今まさにこの世において、四つの安心 の証得がある。『もし、(死後の)他世があり、善と悪との業の果報があるならば、では私は、身体が壊れ死んだ後には、幸いなる天の世界に生まれ変わるであろう』と、これが彼の証得した第一の安心である」
「『もし、(死後の)他世など無く、善と悪との業の果報など無いならば、では私は今まさにこの世において、敵意なく、悪意なく、困難なく、安楽であろうと、みずから気をつけていよう』と、これが彼の証得した第二の安心である」
「『もし、(誰かの手による)行いによって悪が為されていても、けれども私は誰かに対して悪を思いはしない。悪しき業が為されることがなければ 何処から苦しみが私に触れるであろうか?(いや、触れ得はしない)』と、これが彼の証得した第三の安心である」
「『もし、(誰かの手による)行いによって悪が為されていなければ、私は自らを清浄であると、双方の点で認める』と、これが彼の証得した第四の安心である」
「カーラーマ達よ、かの聖なる弟子は、このように敵意なく、このように悪意なく、このように心に穢れなく、このように心清らかである。彼には、今まさにこの世において、これら四つの安心の証得がある」
「そのとおりです、世尊よ、そのとおりです、善逝よ!かの聖なる弟子は、大徳よ、このように敵意なく、このように悪意なく、このように心に穢れなく、このように心清らかです。彼には、今まさにこの世において、四つの安心の証得があります。『もし、(死後の)他世があり、善と悪との業の果報があるならば、では私は、身体が壊れ死んだ後には、幸いなる天の世界に生まれ変わるであろう」と、これが彼の証得した第一の安心です」
「『もし、(死後の)他世など無く、善と悪との業の果報など無いならば、では私は今まさにこの世において、敵意なく、悪意なく、困難なく、安楽であろうと、みずから気をつけていよう』と、これが彼の証得した第二の安心です」
「『もし、(誰かの手による)行いによって悪が為されていても、けれども私は――誰かに対して悪を思いはしない。悪しき業が為されることがなければ 何処から苦しみが私に触れるであろうか?(いや、触れ得はしない)』と、これが彼の証得した第三の安心です」
「『もし、(誰かの手による)行いによって悪が為されていなければ、私は自らを清浄であると、双方の点で認める』と、これが彼の証得した第四の安心です」
「かの聖なる弟子は、大徳よ、このように敵意なく、このように悪意なく、このように心に穢れなく、このように心清らかです。彼には、今まさにこの世において、これら四つの安心の証得があります」
「大徳よ、すばらしいことです!大徳よ、すばらしいことです!大徳よ、あたかも倒れたものを起すかのように、覆い隠されたものを明らかにするかのように、迷った者に道を示すかのように、暗闇で灯火をかかげ、『眼ある者は諸々のものを見るであろう』とするかのように、まさしくそのように、世尊は様々な仕方で法を明らめて下さいました。大徳よ、この我らは世尊に、また法に、また比丘僧伽に帰依します。大徳よ、我々を優婆塞として、今より以降一生涯にわたって、世尊は受け入れて下さいますように」
MA.‘evaṃ averacittoti evaṃ akusalaverassa ca puggalaverino ca natthitāya averacitto.’(evaṃ averacitto[このように怨みなき心が]とは、このように不善で怨みある、怨みを晴らすべき人の不在によって、恨みなき心が、ということである。)
誰に対しても恨み憎しみの思いを持たず、彼奴こそ敵であると心中に思うことがないこと。▲
MA.‘Abyābajjhacittoti kodhacittassa abhāvena niddukkhacitto.’(Abyābajjhacitto[悪意のない心が]とは、怒りの心が消え去ることによって、苦しみから自由である心が、ということである。)
怒りに囚われた心は、己を拘束して狭く固いものとなって不自由である。心が固くなると身体も固くなり、思うままに動けなくなってさらに怒る。▲
MA.‘Asaṃkiliṭṭhacittoti kilesassa natthitāya asaṃkiliṭṭhacitto.’(Asaṃkiliṭṭhacitto[穢れのない心が]とは、煩悩の不在によって穢れのない心が、ということである。)▲
MA.‘Visuddhacittoti kilesamalābhāvena visuddhacitto hotīti attho.’(Visuddhacitto[清らかな心が]とは、煩悩魔が消え去ることによって清らかな心がある、ということである。)▲
MA.‘Tassāti tassa evarūpassa ariyasāvakassa.’(Tassa[彼には]とは、その如き聖なる弟子には、ということである。)▲
‘diṭṭheva dhamme’. diṭṭhadhammaは、一般に「現世」の意とされる。しかし直訳すれば「まさに見られるところの法(モノゴト)において」。そのようなことから「まさに現世において」、あるいは直訳を少々噛み砕いて「今、ここにおいて」と解しえる。▲
assāsaをそのまま解すると「入息」あるいは「出息」であるが、転じて「安息する」・「安心する」・「慰め」との意としても用いられる。
assāsaを出息の意と捉えた時、何故にこれを安心・安心を意味するとされるかを察するに、人は安心した時、息をついて「ホッとする」ことからきたのであろうか。注釈書ではこのように言う。MA.‘Assāsāti avassayā patiṭṭhā.’(Assāsā[安心が]とは、保護[助け]の拠り所が、ということである。)
これを「確信」などと訳すのは違うように思われるし、ただ安心[あんしん]としたのでは少々語感として軽くなってしまうように思われ、好ましくない。そこで仏教の術語として安心[あんじん]を当てた。あるいは注釈書の解釈を汲んで「拠り所」としてもいいかも知れないが原語からは遠くなる。▲
para loka. 来世。死んで後に生まれ変わる世界。▲
sukatadukkaṭa kamma. 業(kamma)とは行為の意。▲
phala vipāka. その因とは性質・価値を異にした結果。原因となる行為の性質と、結果として生じる現象の性質とが、同じでなく現れること。例えば善なる行為に基づく結果は安楽であり、悪なる行為に基づく結果は苦しみとなるなど、その結果自体に善悪の性質はなく無記であること。異熟果。▲
MA.‘Anīghanti niddukkhaṃ.’(Anīghan[困難なく]とは、苦しみの無いことである。)▲
MA.‘Sukhinti sukhitaṃ.’(sukhiṃ[安楽]とは、幸福なることである。)▲
Upāsaka. 漢訳では優婆塞と音写され、信士などと漢訳される。仏教の在家男性信者。▲