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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

仏教徒とは

比丘尼

八重法 ―比丘尼誕生の嚆矢

比丘尼びくにとは、[S]Bhikṣuṇīビクスニーまたは{P]Bhikkhunīビックニーの音写で、仏教における正式な女性出家修行者です。原意は「(食を)う女」。サンスクリットの発音により近い音写として、苾蒭尼びっすにまたは苾芻尼びっすにがあります。

仏教における僧伽の一角を担うのが比丘尼僧伽そうぎゃであり、七衆という全ての仏教徒が帰依の対象とする三宝の一端たる僧宝を構成する存在が比丘尼です。ただし、よく世間で勘違いされていることですが、比丘と比丘尼とは対等な関係にありません。比丘僧伽は比丘尼僧伽の存在無くして有り得ますが、その逆は有り得ません。比丘尼僧伽は比丘僧伽に依存してのみ存在し得ます。これは律蔵の規定に基づいたもので、比丘尼僧伽という組織の構造上、そのようになっています。

比丘尼となることを希望する者は誰であれ、八重法はちじゅうほうといわれる、八ヶ条の規定を遵守することを先ず必ず誓い、そして終生守らなければなりません。八重法とは「八つの重い事柄」を意味する[P]Aṭṭhaアッタ garudhammaガルダンマの漢訳で、『四分律しぶんりつ』では八不可過法はちふかかほうあるいは八盡形寿不可過法はちじんぎょうじゅふかかほう、その他の律蔵や經典では八敬法はっきょうほう八不可越法はちふかおつほうなどと訳されています。

釈尊の実母Māyāマーヤーの妹であり、その亡き後に養母となったMahāpajāpatīマハーパジャーパティー Gotamīゴータミー大愛道瞿曇弥だいあいどうくどんみ.以下、マハーパジャ―パティー)が、阿難あなんĀnandaアーナンダ)尊者を介して女性として出家することの許可を求めた時、釈尊は難色を示して三度に渡って拒絶。しかし、阿難尊者による再三にわたる懇願により、釈尊はついに女人の出家を条件付きで許可されています。ただし、その条件として提示されたが八重法であり、これを一生涯に渡って護持することが出来る限りにおいて、女性も出家してよいとされたのでした。これをやはり阿難尊者を介して聞いたマハーパジャ―パティーは喜び、ただちに八重法を受け終生守ることを誓って、出家を果たしたのでした。

では八重法とはいかなるものか。ここでは、『パーリ律』と『四分律』にて伝えられる八重法を、その原文と日本語訳を併記することによって示します。

『パーリ律』と『四分律』のそれを重ねて示すのは、『四分律』が古来、支那における比丘尼僧伽において主として依用されているためであり、現在においても台湾や中国、そしてベトナムや韓国において、『四分律』に基づいた比丘尼と言われる女性が存在しているためです。また、上座部じょうざぶTheraテーラ vādaヴァーダ)における比丘尼僧伽はおよそ十世紀も昔に滅びてありませんが、しかし二十世紀末にその復興が志され、それが当初、韓国や台湾における『四分律』の伝統を借りて為されたためであることによります。

特にこの二つの律蔵は、ただ文献学者が弄くるのによく用いられているからというのではなく、今現在の世界における比丘尼あるいは女性出家の問題を見る時に必ず知っておくべきものです。

ただし、『パーリ律』が挙げる八重法と『四分律』のそれ内容としてはほぼ同じであるのですが、その順序に関してはほとんど異なっています。以下に示す八重法の順序は『パーリ律』に準じ、『四分律』の重法は『パーリ律』のそれに該当するものを併記し、その順序は丸数字(①、②…)を頭に付して示しています。

女性出家の絶対条件 ―八重法
No. 『パーリ律』と『四分律』における八重法(Aṭṭha garudhammā)
1 vassasatūpasampannāya bhikkhuniyā tadahupasampannassa bhikkhuno abhivādanaṃ paccuṭṭhānaṃ añjalikammaṃ sāmīcikammaṃ kātabbaṃ. ayampi dhammo sakkatvā garukatvā mānetvā pūjetvā yāvajīvaṃ anatikkamanīyo
比丘尼が比丘尼となって百年経たとしても、今日比丘となったばかりの者であっても、(彼を)礼拝・奉迎・合掌・恭敬しなければならない。この法を尊敬・尊重・奉事・供養して、生涯犯してはならない。
① 雖百歳比丘尼見新受戒比丘。應起迎逆禮拜與敷淨座請令坐。如此法應尊重恭敬讃歎。盡形壽不得過。
(受具してから)百年を経た比丘尼であっても、新たに受戒したばかりの比丘を見たならば、起って迎え、礼拝し、浄座を敷いて座らせなければならない。この法を尊重・恭敬・讃嘆して、生涯犯してはならない。
2 na bhikkhuniyā abhikkhuke āvāse vassaṃ vasitabbaṃ. ayampi dhammo...
比丘尼は比丘のいない住処にて安居あんごを過ごしてはならない。この法を…(同上)
⑦ 比丘尼不應在無比丘處夏安居。此法…
比丘尼は比丘のいない処において夏安居げあんごしてはならない。この法を…《同上》
3 anvaddhamāsaṃ bhikkhuniyā bhikkhusaṅghato dve dhammā paccāsīsitabbā — uposathapucchakañca, ovādūpasaṅkamanañca. ayampi dhammo...
比丘尼は(新月と満月の)半月毎に、比丘僧伽に二法を請わなければならない。布薩ふさつを問うことと、教誡(を受けるため)に近づくことである。この法を…(同上)。
⑥ 比丘尼半月從僧乞教授。此法…
比丘尼は(新月と満月の)半月毎に(比丘)僧伽に教授を乞わなければならない。この法を…《同上》
4 vassaṃvuṭṭhāya bhikkhuniyā ubhatosaṅghe tīhi ṭhānehi pavāretabbaṃ — diṭṭhena vā, sutena vā, parisaṅkāya vā. ayampi dhammo...
比丘尼は雨安居うあんごを終えたならば、(比丘と比丘尼の)両僧伽において、見・聞・疑の三処によって自恣じしを行わなければならない。この法を…(同上)。
⑧ 比丘尼僧安居竟。應比丘僧中求三事自恣見聞疑。此法…
比丘尼僧伽が安居を終えたならば、比丘僧伽において見・聞・疑の三事によって自恣を求めなければならない。この法を…《同上》
5 garudhammaṃ ajjhāpannāya bhikkhuniyā ubhatosaṅghe pakkhamānattaṃ caritabbaṃ. ayampi dhammo...
比丘尼が重法じゅうほうを犯したならば、(比丘と比丘尼の)両僧伽において、半月の摩那埵まなたを行わなければならない。この法を…(同上)。
⑤ 比丘尼犯僧殘罪。應在二部僧中半月行摩那埵。此法…
比丘尼が僧残罪を犯したならば、(比丘と比丘尼の)二部僧伽において、半月の摩那埵を行わなければならない。この法を…《同上》
6 dve vassāni chasu dhammesu sikkhitasikkhāya sikkhamānāya ubhatosaṅghe upasampadā pariyesitabbā. ayampi dhammo...
式叉摩那として二年間、六法において過ごしたならば、(比丘と比丘尼の)両僧伽において具足戒を請わなければならない。この法を…(同上)。
④ 式叉摩那學戒已。 從比丘僧乞受大戒。此法…
式叉摩那として(二年間、六法)戒を学し終えたならば、比丘僧伽に従って大戒を受けることを請わなければならない。この法を…《同上》
7 na bhikkhuniyā kenaci pariyāyena bhikkhu akkositabbo paribhāsitabbo. ayampi dhammo...
比丘尼はどのような手段によっても比丘を罵ってはならない、非難してはならない。この法を…(同上)。
② 比丘尼不應罵詈比丘呵責。不應誹謗言破戒破見破威儀。此法…
比丘尼は比丘を罵り、呵責かしゃくしてはならない。(比丘のいかなる行為に対しても)破戒・破見・破威儀であると誹謗してはならない。この法を…《同上》
8 ajjatagge ovaṭo bhikkhunīnaṃ bhikkhūsu vacanapatho, anovaṭo bhikkhūnaṃ bhikkhunīsu vacanapatho. ayampi dhammo...
今日より以降、比丘尼の比丘に対する言路は閉ざされ、比丘の比丘尼に対する言路は閉ざされない。この法を…(同上)。
③ 比丘尼不應爲比丘作擧作憶念作自言。不應遮他覓罪遮説戒遮自恣。比丘尼不應呵比丘。比丘應呵比丘尼。此法…
比丘尼は比丘に対して・憶念・自言じごんを為してはならない。他覓罪たみゃくざいしゃし、説戒せっかい(布薩)を遮し、自恣を遮してはならない。比丘尼は比丘を責めてはならず、比丘は比丘尼を責めてもよい。この法を…《同上》

まず、これら八重法の中、一般にはまず耳にすることの全く無いであろう語は摩那埵まなただとか式叉摩那しきしゃまなであるでしょう。

摩那埵とは、[S]mānatvaマーナトヴァ / [P]mānattaマーナッタの音写で、何らか比丘・比丘尼としての重罪を犯した者が受ける懲罰のことです。その懲罰とは、規定される一定期間、比丘・比丘尼としての立場・権利が剥奪されて衆に交わることが出来ず、謹慎して懺悔ざんげするというものです。ここでは、比丘尼が八重法のうち何らかの条項に違反したならば、半月間、その摩那埵を受けて過ごさなければならないと規定されています。

(比丘には八重法などありませんが、比丘における摩那埵は六夜のみで、僧残そうざんという罪を犯した場合にその罰則が課せられます。)

そして式叉摩那とは、[S]Śikuṣamānāシィクシャマーナー / [P]Sikkhamānāシッカマーナーの音写で、漢訳では正学女しょうがくにょとされる、沙弥尼と比丘尼との中間に位置する女性出家者の名称です。これについは別項「式叉摩那」にて明らかとしているため、ここでは省略します。

いずれも第五条において、『パーリ律』では「比丘尼が重法を犯したならば、両僧伽において、半月の摩那埵を行わなければならない」と、重法(garudhamma)であるとしているのに対し、『四分律』では「 比丘尼が僧殘罪を犯したならば、二部僧伽において、半月の摩那埵を行わなければならない」と、僧残罪としている点。それは両律蔵における八重法の比較的大きな相違点です。

なお、これはあくまで『パーリ律』内での問題点なのですが、第五重法の「比丘尼が重法を犯したならば…」という記述は、その波羅提木叉はらだいもくしゃ([P]pātimokkhaパーティモッカ / 戒本)のいくつかの規定と矛盾する不審なものとなっています。

またもう一点、より重要な留意すべき相違点があります。それは『パーリ律』の第六条、『四分律』の第四条で、式叉摩那として二年間、六法戒に違犯なく学戒した者は具足戒を受けることが出来るということについて、前者は両僧伽からとし、後者は比丘僧伽としている点です。これがどういうことであるのか、ここであまり詳しく言及することは煩雑となるため控えますが、実は現代における比丘尼僧伽復興を考える時、極めて重要な点となります。

いずれにせよ、八重法とは、女性出家者として最も重要な基本姿勢です。そして八重法が示していることは、比丘尼および比丘尼僧伽は、あくまで比丘僧伽に従属し依存しなければ存在し得ない、自主独立したものとは決してなり得ないことを示したものでもあります。これは現存するすべての律蔵に通じて、比丘尼として「絶対に」受け入れ、保たなければならないものとして伝えられています。

ここで拙い私見を付け加えておけば、釈尊が女性を出家させるに重法を説かれたことは間違いないにしても、しかし八重法では無く、おそらくはその半分ほどの四重法、あるいはそれ以下であったと考えています。特に、式叉摩那という存在、また比丘尼の受戒および安居についての規定は、その後に比丘尼僧伽が成立してしばらく後に不都合が生じ、順次定められたものとしか思えないためです。そしてそれは、釈尊がご在世のうちに定められていったもので、第一結集以前に八重法となっていたことから、すべての律蔵に通じて伝えられたものであると。しかし、それは管見による愚考であって、あくまで基準とするのは律蔵です。

女性が出家すること ―白カビ・赤腐れという疫病

さて、マハーパジャ―パティーは、釈尊がその絶対条件として提示された八重法を阿難尊者から聞いて直ちに受け入れ、ついに出家して初めての仏教の女性出家者、念願の比丘尼となっています。マハーパジャ―パティーは、八重法を受けることが出家であり、また同時に受具となった唯一の人です。

ところで、釈尊は八重法を女性が出家する絶対条件として提示されたものの、マハーパジャ―パティーが八重法を受け入れて比丘尼となったこととの報告を阿難尊者から受けた際、『パーリ律』では以下のようにそれを評されたと伝えられています。

“sace, ānanda, nālabhissa mātugāmo tathāgatappavedite dhammavinaye agārasmā anagāriyaṃ pabbajjaṃ, ciraṭṭhitikaṃ, ānanda, brahmacariyaṃ abhavissa, vassasahassaṃ saddhammo tiṭṭheyya. yato ca kho, ānanda, mātugāmo tathāgatappavedite dhammavinaye agārasmā anagāriyaṃ pabbajito, na dāni, ānanda, brahmacariyaṃ ciraṭṭhitikaṃ bhavissati. pañceva dāni, ānanda, vassasatāni saddhammo ṭhassati.
“seyyathāpi, ānanda, yāni kānici kulāni bahutthikāni appapurisakāni, tāni suppadhaṃsiyāni honti corehi kumbhathenakehi; evameva kho, ānanda, yasmiṃ dhammavinaye labhati mātugāmo agārasmā anagāriyaṃ pabbajjaṃ, na taṃ brahmacariyaṃ ciraṭṭhitikaṃ hoti.
“seyyathāpi, ānanda, sampanne sālikkhette setaṭṭikā nāma rogajāti nipatati, evaṃ taṃ sālikkhettaṃ na ciraṭṭhitikaṃ hoti; evameva kho, ānanda, yasmiṃ dhammavinaye labhati mātugāmo agārasmā anagāriyaṃ pabbajjaṃ, na taṃ brahmacariyaṃ ciraṭṭhitikaṃ hoti.
“seyyathāpi, ānanda, sampanne ucchukkhette mañjiṭṭhikā nāma rogajāti nipatati, evaṃ taṃ ucchukkhettaṃ na ciraṭṭhitikaṃ hoti; evameva kho, ānanda, yasmiṃ dhammavinaye labhati mātugāmo agārasmā anagāriyaṃ pabbajjaṃ, na taṃ brahmacariyaṃ ciraṭṭhitikaṃ hoti.
“seyyathāpi, ānanda, puriso mahato taḷākassa paṭikacceva āḷiṃ bandheyya yāvadeva udakassa anatikkamanāya; evameva kho, ānanda, mayā paṭikacceva bhikkhunīnaṃ aṭṭha garudhammā paññattā yāvajīvaṃ anatikkamanīyā”ti.
アーナンダよ、もし女人が如来所説の法と律とにおいて家を出て遁世とんせい〈pabbajjā. 出家〉しなかったならば、アーナンダよ、(この世界に)梵行ぼんぎょう〈brahmacariya〉は久しく留まり、正法しょうぼうは千年住したであろう。実にアーナンダよ、女人が如来所説の法と律とにおいて家を出て遁世したが故に、アーナンダよ、今や梵行は久しく留まらず、アーナンダよ、今や正法はただ五百年住するであろう。
アーナンダよ、譬えば家に女が多く男が少なかったならば、盗賊・盗人が容易く襲うであろう。実にそれと同様に、アーナンダよ、法と律とにおいて女人が家を出て遁世したならば、梵行が久しく留まることはない。
アーナンダよ、譬えば実りある稲田において白カビ〈setaṭṭika〉という疫病が生じたならば、その稲田が久しく留まることは無い。実にそれと同様に、アーナンダよ、法と律とにおいて女人が家を出て遁世したならば、梵行が久しく留まることはない。
アーナンダよ、譬えば実りあるサトウキビ畑において赤腐れ〈mañjiṭṭhika〉という疫病が生じたならば、そのサトウキビ畑が久しく留まることは無い。実にそれと同様に、アーナンダよ、法と律とにおいて女人が家を出て遁世したならば、梵行が久しく留まることはない。
アーナンダよ、譬えば人は、大池にあらかじめ堤防を築いて水の氾濫を防ぐ。実にそれと同様に、アーナンダよ、私はあらかじめ比丘尼に八重法〈aṭṭha garudhammā 〉を制して、一生涯〈yāvajīvaṃ〉遵守させるのである

Vinaya Piṭaka. Cūḷavagga, Bhikkhunikkhandhaka 403

以上のように、釈尊が女人の出家することは「女が多く、男が少ない家」、「稲田における白カビという疫病」や「サトウキビ畑における赤腐れという疫病」などと喩えられています。ここで稲田やサトウキビ畑、そして大池というのは正法すなわち仏教の類比です。そこでしかし、正法に「白カビという疫病」や「赤腐れという疫病」の発生を防ぐのに不可欠な予防薬、正法たる大池が決壊するのを防ぐ堤防として制したのが八重法であると説かれています。

そこでさて、以上の仏陀の言葉や八重法の内容について、いや、それがそもそも「女性に対してのみ定められた規定」であることについて、現代における男女同権やFeminismフェミニズム(女性拡張主義)、またはGenderジェンダー-Equalityイクォーリティ(社会的性平等)などといった政治的イデオロギーを、しかも多くの場合先鋭化したのを擁している人々には、極めて不穏当・不平等であって承服し難いものである、と憤慨し糾弾する者があります。「釈迦はMisogynyミソジニー(女性嫌悪)であった」などと。

実際、現代日本でも1970から1990年代、世間がその傾向として左翼思想に傾き、諸々の解放運動に関わることが一種の商売にすらなっていた時代には、仏教は性差別を是認し続けてきた悪しき宗教である等と糾弾にいそしむ人々があり、学問・教育の分野においてもそれを論文などの中で声高に主張する者が相当数ありました。そして伝統的教団に対し、もはや「ゆすり・たかり」と称し得る運動を展開する一類の輩もありました。

確かに、そのような左翼思想に染まっていない者であっても、現代的価値観から八重法の内容を眺めたならば、ひどく不平等に思える条項であるとの所感を覚えることでしょう。不佞ふねい自身、第一条はマハーパジャーパティーが不満を表したのも無理はないと感じられます。また、女性出家について、釈尊がその喩えとして「白カビ」や「赤腐れ」といういわば不穏当な表現をもってされていたことには、驚きを禁じ得ないかも知れません。

実は、釈尊ご在世でも、特に八重法の第一にある「比丘尼が比丘尼となって百年経たとしても、今日比丘となったばかりの者であっても、(彼を)礼拝・奉迎・合掌・恭敬しなければならない」という条項は、当時の女性にとっても甚だ不平等であり、あるいは屈辱的なものであったようです。というのも、最初の比丘尼であるマハーパジャ―パティーは、出家の絶対条件として八重法をすべて終生遵守じゅんしゅすることを誓って比丘尼となった筈が、後になってこれを撤回して欲しいと、再び阿難尊者を介して釈尊に訴えていたのでした。

atha kho mahāpajāpati gotamī yenāyasmā ānando tenupasaṅkami, upasaṅkamitvā āyasmantaṃ ānandaṃ abhivādetvā ekamantaṃ aṭṭhāsi. ekamantaṃ ṭhitā kho mahāpajāpati gotamī āyasmantaṃ ānandaṃ etadavoca — “ekāhaṃ, bhante ānanda, bhagavantaṃ varaṃ yācāmi. sādhu, bhante, bhagavā anujāneyya bhikkhūnañca bhikkhunīnañca yathāvuḍḍhaṃ abhivādanaṃ paccuṭṭhānaṃ añjalikammaṃ sāmīcikamman”ti.
atha kho āyasmā ānando yena bhagavā tenupasaṅkami, upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ nisīdi. ekamantaṃ nisinno kho āyasmā ānando bhagavantaṃ etadavoca — “mahāpajāpati, bhante, gotamī evamāha — ‘ekāhaṃ, bhante ānanda, bhagavantaṃ varaṃ yācāmi. sādhu, bhante, bhagavā anujāneyya bhikkhūnañca bhikkhunīnañca yathāvuḍḍhaṃ abhivādanaṃ paccuṭṭhānaṃ añjalikammaṃ sāmīcikamman’”ti.
“aṭṭhānametaṃ, ānanda, anavakāso, yaṃ tathāgato anujāneyya mātugāmassa abhivādanaṃ paccuṭṭhānaṃ añjalikammaṃ sāmīcikammaṃ. imehi nāma, ānanda, aññatitthiyā durakkhātadhammā mātugāmassa abhivādanaṃ paccuṭṭhānaṃ añjalikammaṃ sāmīcikammaṃ na karissanti; kimaṅgaṃ pana tathāgato anujānissati mātugāmassa abhivādanaṃ paccuṭṭhānaṃ añjalikammaṃ sāmīcikamman”ti?
atha kho bhagavā etasmiṃ nidāne etasmiṃ pakaraṇe dhammiṃ kathaṃ katvā bhikkhū āmantesi — “na, bhikkhave, mātugāmassa abhivādanaṃ paccuṭṭhānaṃ añjalikammaṃ sāmīcikammaṃ kātabbaṃ. yo kareyya, āpatti dukkaṭassā”ti.
そこでマハーパジャーパティー・ゴータミーは、具寿ぐじゅ〈āyasmant. 尊者〉アーナンダのもとに近づいた。近づいてから具寿アーナンダを礼拝して傍らに立った。傍らに立ってからマハーパジャーパティー・ゴータミーは具寿アーナンダにこう申し上げた。
「大徳アーナンダよ、私は世尊に一つの願いを聞いていただきたく思います。どうか大徳よ、世尊が、比丘と比丘尼とが(具足戒を受けてからの)長幼の序に従って〈yathāvuḍḍhaṃ〉、礼拝〈abhivādana〉・奉迎〈paccuṭṭhāna〉・合掌〈añjalikamma〉・恭敬〈sāmīcikamma〉することを許していただけますように」
そこで具寿アーナンダは世尊のもとに近づいた。近づいてから世尊を礼拝して傍らに坐した。傍らに坐してから具寿アーナンダは世尊にこう申し上げた。
「大徳よ、マハーパジャーパティー・ゴータミーがこのように言っております。―『大徳アーナンダよ、私は世尊に一つの願いを聞いていただきたく思います。どうか大徳よ、世尊が、比丘と比丘尼とが(具足戒を受けてからの)長幼の序に従って、礼拝・奉迎・合掌・恭敬することを許していただけますように』と」
(すると世尊は具寿アーナンダに対して、こう告げられた。)
「アーナンダよ、如来が、女人に礼拝・奉迎・合掌・恭敬することを許す処は無く、その機会も無い。アーナンダよ、彼の悪説の法〈durakkhātadhamma〉を奉ずる外道〈setaṭṭika〉らすら、女人に礼拝・奉迎・合掌・恭敬を為すことは無い。ましてや如来が、女人に礼拝・奉迎・合掌・恭敬することを許すことなどあろうか」
そこで世尊は、この因縁に依り、この機会において説法され、比丘に告げられた。
「比丘たちよ、女人に礼拝・奉迎・合掌・恭敬を為してはならない。誰であれ為す者は悪作おさ〈dukkaṭa. 軽垢〉の罪〈āpatti〉となる」

Vinaya Piṭaka. Cūḷavagga, Bhikkhunikkhandhaka 405

しかしながら、以上のように釈尊はその訴えを完全に斥け、むしろ比丘が比丘尼を礼拝することは悪作罪となる、という条項をすら制定するに至っています。マハーパジャ―パティーの訴えは、いわゆる「藪をつついて蛇を出す」結果となってしまいます。八重法の第一条項は、当初はただ比丘尼に対してのみ課せられていたものであったのが、むしろマハーパジャ―パティーがその改定を求めたことによって、「比丘は(比丘尼を含めた)女人に対して礼拝・奉迎・合掌・恭敬したならば悪作罪となる」と、比丘の行動規定として制されてしまったためです。

釈尊はその理由として、当時の「外道らすら、女人に礼拝・奉迎・合掌・恭敬を為すことは無い」ことをその理由としています。ここから、釈尊が「女嫌い」であったからそうしたのでなく、あくまで当時の社会通念に従ってそうしていたことが知られます。印度は今も女性の社会的地位が低く、女性に対する理不尽な習慣が強く残っていますが、当時はそうした見方がより強かったのでしょう。律の規定の多くには、社会通念に反するから禁じられたものが多く存しており、この規定もまたそうした理由によるものでした。

このような経緯から、今現在に至ってもなお、律を厳持する比丘は女性全般に対して礼拝・奉迎・合掌・恭敬することは決してありません。ただし、それは比丘が女性を蔑視・軽視してのことではなく、そのように律において規定されているからこそのことです。

(そのような当時の常識、通念の上に敷かれた律の条項について、その制定の因縁も明らかに知られているにも関わらず、これを今なお遵守しようとするのは愚かな教条主義であり、また権威主義であると批判する学者があります。)

しかしながら、そもそも女性を蔑ろにしては、いかなる国の僧伽も存続することなど出来はしません。およそほとんど全ての国・地域において、その地の僧伽や寺院の熱心な信奉者や後援者はほとんど女性で占められているためです。特にタイやミャンマ―、そしてスリランカやラオスなど、社会的に律がどういうものかをある程度理解し機能している国では、社会通年・一般常識として、比丘が女性に対して礼拝・奉迎・合掌・恭敬することなどありえない、あってはならないこととされています。むしろそのように比丘がしないことが、ますますその比丘を尊敬する因とすらなっています。

したがって、仏教が篤く信仰され、生きた宗教として伝えられている国において、前述の仏陀の言葉や八重法というものの存在が問題になることなどありません。そもそも、南アジアおよび東南アジアにて信奉されてきた上座部では、もはや比丘尼僧伽が消滅して無いことから、八重法など初めから問題外となって久しくあります。

これについてアレコレ言うのは、仏教が信奉されておらず、ただ文献学の研究対象となっている国か、その昔のお話、習俗として伝えられている国、あるいは新たに仏教が伝えられ興味を持たれ始めた国において顕著なことであるように思われます。

もっとも、現代の一部では、八重法について話が変わってきています。先に何度か言及した、上座部における比丘尼僧伽の復興が試みられてから、八重法というものの存在がその実現にとって最大の問題となるためです。実は、比丘尼僧伽を復興でなく新たに創立しようという動き、その要求は、比丘尼僧伽というものがその伝統において存在していないチベット仏教の女性信奉者においても生じています。やはりそこでは、そもそもその歴史に無かったものを新たに創設すること自体に対する保守的・伝統的な長老たちの強い反意もありますが、やはり八重法の規定がその実現に際して最も大きな問題となっています。

現代、ただ仏教に信を寄せるだけではなく、その正統の女性出家者である比丘尼となることを強く望む者が、洋の東西を問わずあります。仏教を深く学びこれを修していく時、その様な要求・希望が出ることは当然のことであります。前項において述べたように、仏教徒とは七衆のことでありますが、その一角たる比丘尼僧伽が欠落しているということは、それに付随する式叉摩那も沙弥尼も存在しないということになります。

故に、それが可能なのであれば、そのような女性たちの希望を叶え満たすべく是非とも実現されなければならないであろう、と菲才も思うところであります。

しかしながら、以上のような八重法が仏陀により説かれたと伝えられている以上、その個人の思想・信条はどうであれ、また現代において流行する価値観・思想がなんであれ、仏教である以上は、これら八重法を承諾して受持する必要があります。それが受け入れられないという者、これを実行することなど到底出来ないという者は、正統な比丘尼になることは出来ません。

例えば、ある女性が八重法を自身が奉じる思想・信条によって無視・軽視あるいは恣意的に斟酌し、その上で儀式として具足戒を受け比丘尼になったと自称・自負したとしても、その者が正しく比丘尼であると認められることはありません。それは全く根拠のないことであり、前述の仏制に全く反する行為となるためです。

とはいえ、現代の台湾や中国、ベトナムそして韓国において比丘尼であると自称する女性たちは、八重法などまるで無視しているのが現状です。また、その伝統の助けを借りて上座部の比丘尼復興を遂げたとし、比丘尼であると自称し活動する現在のスリランカや欧米の女性達もまた、八重法をほぼ全く無視して依行していません。そもそもスリランカの上座部では比丘のほとんどが律について無知であって、ただ近代に僧伽が復興されて以来の習慣・習俗に従った生活を送っているに過ぎず、これを行う者など極稀です。したがって、比丘に追従する比丘尼と称する女性たちも自ずから同様となっています。

そのようなことから、西洋の女性たち、あるいはその影響をうけた東洋の女性たちには、これをジェンダーフリーであるとかフェミニズムの問題に持ちこんで有耶無耶にしようとする者もありますが、上座部が信仰されてきた東アジアおよび東南アジア諸国では、現代の上座部における比丘尼と称する女性たちの正統性も正当性も、まず認められていません。

(八重法について、学者にはそれが当初だけ制されたものであって、後にはそのいくつかが無効とされ捨て去られており、もはや女性出家者は八重法を八重法として受持する必要は無い、とする見解を表する者があります。その主張には相応の根拠がいくつか認められ、実際、律蔵の規定には八重法に照らして撞着した点があります。しかしながら、律蔵には八重法が明瞭に無効とされた記述はありません。したがって、少なくとも上座部においては、そのような見解は門外の文献学者の一主張に過ぎず、仏教としては八重法は依然として有効なものであるとされています。また、これはあくまで羯磨においての話ですが、『四分律』には八重法を授受する羯磨など無いことは、留意すべき点となっています。)

比丘尼になれない女

比丘尼となることを希望する女性は、まず沙弥尼となった後に式叉摩那として二年間六法を護持し、一切違犯いぼん無くあったことが大前提となっています。そのうえで、比丘・比丘尼となることを望むものに対し具足戒を受けることを許す前に、比丘尼となることを望む女性に対し、必ず問うべき諸々の条件があります。

男性が比丘となることを望む際にも必ず問われることですが、男女に共通した条件もあるものの、男性と女性とでは性差による肉体的条件が異なるため相違しています。それらの条件のうち一つでも該当する条項があったならば、その者は具足戒を受けることが出来ません。

ここでは、前述の八重法と同様の理由から、『パーリ律』の障法と『四分律』所説の遮難を挙げます。先ずは『パーリ律』(Vinaya Piṭaka, Cūḷavagga, Bhikkhunikkhandhaka, tatiyabhāṇavāra)から示しますが、『パーリ律』ではこれをCatuvīsati antarāyika dhammā(二十四障法)と称しています。ただし、そこで挙げ連ねられている語を単純に一つ一つ拾い挙げたならば二十六となります。これら障法の数え方について、『パーリ律』の注釈書にはそもそも該当箇所の註釈が無く、複註書は当該箇所について触れてはいるものの、これをどう数えるべきかなど記されていません。

そこでここでは、あくまで仮に(それが少々無理のあるものであることを承知の上で)二十四の数に合うようこれを列挙し、また漢訳の律蔵でいう遮難との比較がしやすいよう表にして示します。

『パーリ律』における比丘尼になれない諸条件
Catuvīsati antarāyika dhammā (二十四障法)   
1 animittā 13 manussa
女陰が無い女 人であること
2 nimittamattā 14  itthī
女陰が小さすぎる(完全でない)女 女であること
3 alohitā 15 bhujissā
生理が無い女 自由人であること
4 dhuvalohitā 16 aṇaṇā
常に経血が出ている女 負債がないこと
5 dhuvacoḷā 17na rājabhaṭa
常に下り物の布を用いている女 王臣・軍人・役人でないこと
6 paggharantī 18 anuññāta mātāpitar
女陰から不正出血する女 父母の許可を得ていること
7 sikhariṇī 19 (anuññāta) sāmika
(男の陰茎のように)陰核が長い女 夫の許可を得ていること
8 itthipaṇḍakā 20paripuṇṇavīsativassa
性的不能者(黄門) 数え二十歳以上であること
9 vepurisikā 21paripuṇṇa patta
性同一性障害の女 自らの鉢を備えていること
10 sambhinnā
壊根女
22 (paripuṇṇa) cīvara
女性か男性か判別し難い女 自らの(五種の)衣を備えていること
11 ubhatobyañjanā 23 nāma
両性具有の女 自らの名を言えること
12 kuṭṭha 24 nāma pavattinī
癩病らいびょう 自らの師僧尼(和尚)の名を言えること
gaṇḍa  
よう(細菌感染症)
kilāsa
疥癬かいせんまたは疱瘡ほうそう(天然痘)
sosa
肺病(結核など)
apamāra
癲癇てんかん

次に、『四分律』比丘尼犍度けんどにて説かれる、比丘尼となることが出来ない者の諸条件を示します。ただし、『四分律』では、その諸条件について、「難」であるとか「遮」であるとかいう特定の呼称は付されておらず、ただ列挙されるのみとなっています。

そこでしかし、ここでは仮に『四分律』における比丘の遮難に準じてそれらを分け、表にして示します。

『四分律』における比丘尼になれない諸条件
No. 難事  遮法
1 不犯辺罪
昔比丘尼であった時に波羅夷を犯し、
今また受具しようとする者でないこと
自らの名を言えること
2 不犯淨行比丘 和尚字
比丘と性行為を行った経験がないこと 自らの和尚尼の名を言えること
3 不賊心受戒 年満二十
経済的理由等で出家したのでないこと (数え年で)二十歳以上であること
4 不破内外道 衣鉢具
昔外道であったのが仏門で出家、
しかし後に元の外道に戻り、
さらにまた再び仏門に入って
比丘となろうとする者でないこと
自らの衣*1と鉢*2を備えていること
(*1 五種の衣、いわゆる五衣)
(*2 借り物・石鉢・木鉢は不可)
5 非黄門 父母若夫主爲聽汝
性的不能者でないこと (出家に際し)両親・夫の許しを得ていること
6 不殺父 不負人債
父親を殺していないこと 無負債(無借金)であること
7 不殺母 非婢
母親を殺していないこと 自由人であること(奴隷でないこと)
8 不殺阿羅漢 女人
阿羅漢を殺していないこと 女であること
9 不破僧 癩白癩癰疽乾疽癲狂
破僧した経験がないこと
(仏陀に対し反逆した経験が無いこと)
らい癰疽ようそ白癩びゃくらい乾痟けんしょう顛狂てんきょうでないこと
(伝染性の皮膚病および癲癇でないこと)
10 不悪心出仏身血 二根
悪意を以て仏陀を傷つけ
出血させた経験が無いこと
両性具有でないこと
11 非非人 二道合道
非人でないこと
(神霊が人に変化した者でないこと)
女陰と肛門とが連絡していないこと
12 非畜生 大小便常漏
動物でないこと
(龍などが人に変化した者でないこと)
大小便を日常的に漏らしていないこと
13 非二根 涕唾常出
両性具有でないこと 涙と唾を常に出していないこと
14 常血出者
常に(女陰から)出血していないこと
15 月水不出者
無月経でないこと
16 無乳者
乳房が無い者でないこと
17 一乳者
乳房が片方しか無い者でないこと
18 二道爛壞(臭)者
女陰と肛門が壊死した者でないこと

以上のように、『パーリ律』であれ『四分律』であれ、比丘尼になることが出来ない条件は比丘のそれに比してより多いものとなっています。その多くは女性の身体的特徴、男性との身体的相違に基づいています。

なお、四世紀中頃に求那跋摩ぐなばつまSaṃghavarmanサンガヴァルマン)が編じたと伝説される『四分比丘尼羯磨こんま法』には、これは授戒を含め様々な僧伽の儀式・儀礼を行う際に用いるべき羯磨を律蔵から抽出して使用の便を図ったものですが、比丘と同じ十三難が受者にまず問うべきこととして挙げられているものの、いわゆる遮法については上記のうち①から⑬までが問われるのみで、⑭から⑱までは問われていません。しかし、『四分律』には明瞭に①から⑰までがいわゆる遮法として説かれており、これらに一つとして抵触する女性は具足戒を受けることは出来ません。

ただし、『パーリ律』の二十四障法における第二十、『四分律』の遮法における第三の、「(数え年)二十歳以上」という点については例外があります。これは女性に限られた例外で、二十歳以下であっても、結婚経験者あるいは寡婦かふであれば比丘尼になることが許されています。その場合の最低年齢は十二歳です。すなわち、沙弥もしくは式叉摩那には十歳からなることが出来ます。

何故、女性に限ってそのような低年齢でも成人として扱われ、比丘尼となることが出来るとされたのか。それは、現在においてもなお続けられている、印度における婚姻にまつわる慣習のためです。

印度では、これは東西アジアで一般に見られたことのように、親同士が子供の結婚相手を決めることが普通でした。現代においてすら、結婚式当日まで新郎新婦が互いの顔も見たことがない、などということは印度やネパール、そして中央から西アジアの地方部においてはざらです。互いの子供が四、五才の時に結婚の約束がなされ、娘が十才から十二才の時には強制的に相手の家に嫁がされる、ということも未だあります。

そこでもし、結婚相手たる嫁ぎ先の男子が病気や怪我、事故などで死んでしまったならば、花嫁に出された娘は悲惨な人生を送らされることになります。その娘は、すでに実家を出ているため、婿が死んでしまっていたとしてもそのまま婿側の家の者となります。婚約した時点で相手のもの、いわば所有物となっているため、夫・婚約者が死んでしまった場合、五、六歳ではや未亡人などということがあり得、実際あります。そこで未亡人たる幼妻は、婿側の家で、ほとんど奴隷として一生扱われるのです。

これは実に恐るべき忌まわしい慣習、印度の地方部で今なお存在する悪習の極みの一つです。

もっとも、律蔵には、そのような当時の印度一般における婚姻についての慣習を事細かに伝えてなどいません。しかしながら、現在も行われている印度における蛮習を見たならば、何故、女性が年若くして未亡人となった場合、出家して比丘尼となっても良いとされたかが推して知られることでしょう。それは社会的に女性を救済するための措置であったと言えます。

ところで、『パーリ律』と『四分律』とでは、比丘尼となりえる(なりえない)者として示される条件がおおよそ同じですが、ある一点において決定的に異なっています。それは、『パーリ律』では比丘尼がなんらかの理由で還俗した場合、再度の出家を決して許していないのに対し、『四分律』ではそれを条件付きで許している点です。

なぜそのような事が以上の障法や難事からわかるかといえば、『四分律』の挙げる難事1および4は女性の再出家があることを前提としたものであり、『パーリ律』にはそれが無いためです。実際、『パーリ律』では女性の再出家は認められておらず、波羅夷はらい(後述)を犯した場合は当然として、いかなる理由であっても一度比丘尼となった者が還俗した場合、再度出家することは許されていません。

僧伽は往古に十八から二十の部派にまで分かれ、おそらくはそれぞれ異なる律蔵を持していましたが、元は同じですからその大綱はほぼ同様であっても、以上のような細かい点で、しかし内容的には比較的大きな異なりが見られます。

八波羅夷

八重法の規定に従い、女性として出家を望む者は、出家し沙弥尼となった後に式叉摩那として六法戒を受け、二年間を難なく過ごした後、ようやく比丘尼僧伽から具足戒を受ける許可を得ることが出来ます。女性の場合、男性が沙弥となって後に具足戒を受け比丘となるのとは異なって、沙弥尼が具足戒を受けることは出来ません。

なお、比丘尼となるために受けなければならない具足戒とは何か、そして後述する波羅夷はらいの意味については、前項の「比丘 ―仏教徒とは」にて詳説しているため、ここでは省略します。

仏教が支那に伝わって間もない後漢の頃からすでに比丘律儀、すなわち具足戒を「二百五十戒」と称していたのですが、南北朝頃から比丘尼の具足戒をして五百戒と称することが一般化しています。実際のところ、それは支那的な文飾による過度な誇張であり、比丘尼律儀は『パーリ律』で311ヶ条、『四分律』で348ヶ条であって、およそ五百戒というには及びません。

そこで、比丘尼となる者が受具の場にてそれらの条項を全て言い聞かせられるということはありません。その場で必ず言い聞かせられ、「能く持つや否や」と「よく持つ」という応答が要求されるのは、波羅夷だけとなります。というのも、これを比丘尼として犯した者はただちに還俗の上、僧伽から永久追放という最重罪であるためです。

ただし、波羅夷は比丘の場合は四波羅夷であるのとは異なって、比丘尼の場合は八波羅夷と倍となっています。では比丘尼の波羅夷とはいかなるものか。

八波羅夷法
No. 罪名 構成要件  
1   故意に相手の異性・同性、天人・獣を問わず、口・性器・肛門を通じて性交。 共戒ぐうかい
2 故意にPañcaパンチャ māsakaマーサカ(五銭 *俗法で死刑に相当する価値)以上の窃盗。
3 故意に他人・天人を自ら殺害、あるいは他に殺害教唆、自殺奨励して遂行。
4 故意に禅定、あるいは賢者・聖者の位を得たと虚言。
5摩触ましょく 男性に首から下、膝から上の体の部分を触れられ、あるいは自ら男性に触れて、欲情の心を起こす。 不共戒ふぐうかい
6
(8)
随被挙人ずいひこにん 僧伽から何事か罪を告発されていながらもこれを認めず、僧伽に従っていない比丘に随っていることを、他の比丘尼からその罪・過失を指摘されるも、それを認めず従わないこと三度に至って、なお無視する。
7覆蔵他罪ふくぞうたざい 他の比丘尼が波羅夷を犯したことを知りながら、あえて僧伽にこれを告発せず隠匿する。
8
(6)
八事成犯はちじじょうぼん 欲情の心をもって、欲情の男性から①手を捉えられ、②衣を捉えられ、③人目につかぬ場所に入り、④共に立ち、⑤共に語らい、⑥共に人目につかぬ場所に行き、⑦共に寄り添い、⑧共に会うことを約束する。
(* これら八事が全て行われた場合のみ波羅夷を構成。一部に留まれば偸蘭遮ちゅうらんじゃ〈未遂罪〉を適用。)

(ここに挙げた八重法ならびに八波羅夷法の順序は『パーリ律』の所説に従っており、『四分律』でその順が相違する場合は括弧()内に示しています。)

比丘の波羅夷は、上に挙げたうちの第一から第四であって、これらが比丘と比丘尼と共通する条項であることから共戒と云い、第五以下の四ヶ条は比丘尼に独自であって共通しないものであることから不共戒と云います。波羅夷罪以外でも、比丘と比丘尼との律儀には共通し、あるいは共通しない律の規定が様々にあり、それらも同様に共戒・不共戒と呼称します。

以上の八波羅夷のうちただ一つであってもこれを犯せば、その者はただちに比丘尼性を失い、僧伽から追放されて二度と出家することは出来なくなります。

比丘尼とは何か

仏教の正統な女性出家者となることを希望する女性は、八重法という比丘には無い誓約をなし、また比丘より多くの条件を満たすことによって、ようやく比丘尼となることが出来ます。そして比丘尼となった後は、やはり比丘より多くの律儀を護持することによって、その立場を維持することが出来ます。

律蔵では、「仏教における比丘尼とは何か」を、これは比丘と同様に定義されています。そこで以下、現存する五つの律蔵のうち、現代も世界のいずこかにおいて依行されている三つの律蔵、すなわち東南アジアにて実行されている『パーリ律』、東アジア(支那・日本)で行われてきた『四分律しぶんりつ』、ならびにチベットで行われている「根本説一切有部律こんぽんせついっさいうぶ」の『根本説一切有部毘奈耶こんぽんせついっさいうぶびなや』(以下『有部律うぶりつ』)における、比丘尼とは何かの定義を示します。

律蔵における比丘尼の定義
No. 『パーリ律』 No. 『四分律』 No. 『有部律』
乞士比丘尼        
相似比丘尼    
行乞食比丘尼 乞求比丘尼 乞求苾芻尼
著割截衣比丘尼 著割截衣比丘尼    
名字比丘尼 名字比丘尼 名字苾芻尼
仮名比丘尼 自称比丘尼 自言苾芻尼
善来比丘尼 善来比丘尼    
以三帰得具足戒比丘尼        
善比丘尼        
真比丘尼        
学比丘尼        
無学比丘尼 破結使比丘尼 破煩悩苾芻尼
和合僧伽
白四羯磨如法
受得具足戒処比丘尼
受大戒白四羯磨
如法成就得処所比丘尼
白四羯磨
円具苾芻尼

(ここで『パーリ律』が挙げる各種比丘尼の称は、ここでは便宜的にその注釈書Samantapāsādikāの漢訳である『善見律毘婆沙ぜんけんりつびばしゃ』にて相当する比丘の訳語に「尼」を付して借用しています。ただし、⑫の『善見律毘婆沙』の訳「具足戒白四羯磨比丘」は原語「samaggena ubhatosaṅghena ñatticatutthena kammena akuppena ṭhānārahena upasampannāti bhikkhunī」に照らすと少々問題があるため、ここで仮に直訳した語を充てています。なお、④の名字比丘尼は、檀越だんおつからの食事の招待(請食)などで比丘尼らと共にある沙弥尼を仮に比丘尼の数に含めた際の称であるとされます。)

『パーリ律』では12種、『四分律』では8種、『有部律』では5種と、比丘と云われる者の数々を列挙しています。そこでしかし、そのうち仏教において比丘と認められる者はただ一つ、それぞれ最後に挙げられる「白四羯磨びゃくしこんまによる具足戒を受けた比丘」で共通しています。

(白四羯磨とは如何なることかは、前項「比丘 ―仏教徒とは」にて解説しているため、ここでは省略。)

基本的に前項にて示した、諸律蔵における比丘の定義と同じなのですが、ただ一点、『パーリ律』のみ異なっています。これは先に示した『パーリ律』における八重法の第六条が反映された定義で、白四羯磨による具足戒を比丘尼僧伽および比丘僧伽の両僧伽(二部僧)から受けた者こそが比丘尼であるとするものです。

『パーリ律』では、両僧伽から白四羯磨による具足戒を受けることを「aṭṭhavācikūpasampadā(以八語得具足戒)」と称します。なんとなれば、新らに比丘尼となろうとする者は、先ず比丘尼僧伽から白四羯磨(ñatticatutthakamma)によって具足戒を受け、その後また比丘僧伽の元で重ねて白四羯磨により具足戒を受けることによって、ようやく正しく比丘尼となり得ることに基づきます。白四羯磨を二度受ける、すなわち八度の羯磨を通して具足戒を受けることから、「以八語得いはちごとく具足戒」と云うのです。

これは少なくとも『四分律』と『有部律』の律文には無い定義です。

先に、上座部における比丘尼僧伽の復興が試みられているけれども、その正統性も正当性も認められないとしましたが、これが最大の焦点となっています。というのも、『パーリ律』の八重法において両僧伽から具足戒を受けよとする条文があり、それがそのまま律蔵における比丘尼の定義とされていることにより、比丘尼僧伽が滅びた場合には、比丘尼はもう二度と存在し得なくなるためです。そして現実に、上座部の比丘尼僧伽の伝統は今からおよそ九世紀から十世紀の昔、東南アジアにて滅びてありません。

印度における比丘尼僧伽の存在、その実情などよくわかっていません。しかし、十三世紀初頭の1203年に仏教自体がイスラム教によって滅ぼされているため、仮に当時、比丘尼僧伽が存在していたとしても、まず真っ先に滅ぼされたと見てよいことです。辛うじてムスリムによる虐殺から逃れた僧徒がチベットやベンガルにてその命脈を保って今に至りますが、そのいずれにも比丘尼の伝統は存在していません。

以上のことから、律文に文字通り従う限り、上座部において比丘尼僧伽の復興はまったく望むべくもないものとされています。故に現代におけるその復興は、韓国および台湾にある『四分律』に基づく比丘尼僧伽の伝統を借りて行ったのですが、これが「大乗を混入させたものである」として上座部の伝統的な長老たちから強い批判を浴び、やはりその正当性が否定されています。

もっとも、『パーリ律』を注意深く探り、またその注釈書および複註書の見解を借りたならば、その復興は必ずしも絶望的ではありません。しかし、その正統性を主張し得るほどの理論武装は、いまだ上座部の復興を志向する人々においてなされていないのが現状となっています。

さて、最終的に『四分律』に依行することが主流、一般的となった支那において、比丘尼とは以下のようなものであると理解されています。

比丘尼。善見云。尼者女也。文句云。通稱女爲尼。智論云尼得無量律儀故。應次比丘。佛以儀法不便故。在沙門〈彌の誤写〉後。比丘尼稱阿姨師姨者。通慧指歸云。阿平聲即無遏音。蓋阿音轉爲遏也。有人云。以愛道尼是佛姨故。傚喚阿姨。今詳梵云。阿梨夷。此云尊者。或翻聖者。今言阿姨略也。僧祗云。阿梨耶僧聽是也。事鈔尼衆篇云。善見佛初不度女人出家。爲滅正法五百年。後爲説八敬聽出家。依教行故。還得千年。今時不行。隨處法滅。會正記云。佛成道後十四年。姨母求出家。佛不許度。 阿難爲陳三請。佛令慶喜傳八敬向説。若能行者。聽汝出家。彼云頂戴持。言八敬者。一者。百歳比丘尼。見初受戒比丘。當起迎逆。禮拜問訊。請令坐。二者。比丘尼。不得罵謗比丘。三者。不得擧比丘罪。説其過失。比丘得説尼過。四者。式叉摩那。已學於戒。應從衆僧求受大戒。五者。尼犯僧殘。應半月在二部僧中。行摩那埵。六者。尼半月内。當於僧中求教授人。七者。不應在無比丘處夏安居。八者。夏訖當詣僧中求自恣人。如此八法。應尊重恭敬讃歎。盡形不應違。今述頌曰。禮不罵謗不擧過。從僧受戒行摩那。半月僧中求教授。安居近僧請自恣
【比丘尼】 『善見ぜんけん〈『善見律毘婆沙』〉に「尼とは女である」とある。『文句もんぐ〈智顗『法華文句』〉に「通じて女を称して尼という」とある。『智論ちろん〈龍樹『大智度論』〉に「尼は無量の律儀を得ることから比丘に次ぐ。仏は儀法が不便であることから、沙弥の後におかれた」とある。比丘尼を阿姨あいとも師姨しいとも称す。『通慧指帰つうえしいき〈未詳〉に、「阿は平声、即ちあちの音は無し。蓋阿の音を転じて遏とする」とある。ある人は「愛道尼あいどうに〈マハーパジャーパティー〉は仏のおばであったことから、傚って阿姨と喚ぶのである」という。今、(これを)つまびらかにすると、梵語では阿梨夷ありい〈ārya〉といい、これは尊者と云う。あるいは聖者と翻訳する。 今、阿姨と言うのは略である。『僧祗そうぎ〈『摩訶僧祇律』〉に云われる「阿梨耶僧聴」がそれである。『事鈔じしょう』尼衆篇〈道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』〉に「『善見』に「仏は初め女人を度して出家させられなかった。(もし女人が出家したならば)正法五百年が減ずるためである。後に(女性の出家を許す)為に、八敬法はっきょうほうを説いて出家を聴された。(女性等が八敬法の)教を従い行ったがために、かえって(正法)千年を保つことが出来た。今時は(女性等が八敬法を)行じていないため、随処で法が滅している」とある。『会正記えしょうき〈允堪『四分律行事鈔会正記』〉に「仏が成道された後十四年に、姨母いも〈マハーパジャーパティー〉は出家を求めたが、仏は度を許されなかった。阿難が(姨母の)為に三請を陳べた。すると仏は慶喜けいき〈アーナンダの漢訳〉をして八敬法を伝え(姨母に)向って説かせた、「もしよく(八敬法を)行ずるならば、汝に出家をゆるそう」と。彼女は「(八敬法を)頂戴して持つ」と云った。八敬法とは、「一つには、百歳の比丘尼であっても、初めて受戒した比丘を見たならば、まさに起って迎え逆て礼拝・問訊し、請うて坐を与えること。二には、比丘尼は比丘を罵謗してはならない。三には、比丘の罪を挙げ、その過失を説いてはならない。比丘は尼の過失を説くことが出来る。四つには、式叉摩那として(二年間、六法)戒を学んだならば、衆僧に従って求めて大戒を受けること。五には、尼が僧残を犯したならば、まさに半月、二部僧の中もて摩那埵を行じること。六つには、尼は半月毎に、まさに僧中に於いて教授人を求めること。七つには、比丘の無い処に在って夏安居してはらない。八つには、夏(安居)が訖れば、まさに僧中に詣でて自恣の人を求めなければならない。このような八法を、まさに尊重・恭敬・讃歎し、終生違犯してはならない。今、頌に述べて曰く、「礼すると罵謗せざると過を挙げざると、僧に従って戒を受けること。摩那を求うこと、半月ごとに僧中に教授を求めること、安居は僧の近く、自恣を請うことである」とある。

法雲『翻訳名義集』巻一 七衆弟子篇第十二(T54, p.1072c)

以上のように、法雲は『四分律』に基づいて比丘尼の八重法(八不可過法)を示し、そのなか第四条として「式叉摩那として二年間、六法戒を学んだならば、衆僧に従って求めて大戒を受けること」と、二部僧ではなく、衆僧から大戒を受けることを云っています。

しかし、実のところ、支那においての比丘尼授戒は二部僧によって行われていました。そもそも、初めて支那において比丘尼授戒がなされて比丘尼僧伽が結せられたのは五世紀中頃で、それは(おそらくはそのいずれもが説一切有部の伝統に関わった)印度僧、求那跋摩ぐなばつまGuṇavarmanグナヴァルマン)と僧伽跋摩そうぎゃばつまSaṃghavarmanサンガヴァルマン)の主導により、またスリランカから来訪していた比丘尼鉄索羅てっさらTissārāティッサーラー?)ら十人によってのものでした。支那史上初の比丘尼授戒は、二部僧による受具であったのです。

他にもまた、以降もそうなることに至った経緯は、経律が体系だってもたらされず、また諸部派の僧や大乗の僧が散発的に来訪した支那ならではの歴史的事情、ある意味では面白い混乱や誤解がいくつか存したことによります。そして、ここで行われた受具が二部僧によるものであったことから、いくつか新たに判明することもあります。しかしながら、それらはまた稿を改めて詳説します。

以上述べたことからも知られるように、律蔵によっていくらかの相違点はあるものの、仏教の正統な女性出家修行者である比丘尼となること、比丘尼たることは、生半可な覚悟では到底為し得ないものとなっています。しかし、それでもなお比丘尼となることを求める女性たちがあるならば、その願いがいつしか正統な手段によって叶えられることがあることを願ってやみません。

非人沙門覺應