七衆とは、七つの仏教徒としての立場の総称で、仏教徒全体を指して言う言葉です。
仏教徒には、まず出家(僧)と在家(俗)という、二つの立場があります。そして、出家者は、年齢や性別などにより五つの立場にわけられます。男性出家者には、比丘・沙弥の二つの立場があります。そして女性出家者には、比丘尼・式叉摩那・沙弥尼の三つがあります。在家信者は、男性を優婆塞、女性を優婆塞と称します。
これら七つの立場を総じて七衆というわけです。それが具体的にどういったものであるかは、それぞれ別項にて詳説します。
- | 男性 | 女性 |
---|---|---|
出家 | 比丘 [S]Bhikṣu / [P]Bhikkhu |
比丘尼 [S]Bhikṣuṇī / [P]Bhikkhunī |
沙弥 [S]Śrāmaṇera / [P]Sāmaṇera |
式叉摩那 [S]Śikṣamāṇā / [P]Sikkhamānā |
|
沙弥尼 [S]Śrāmaṇerikā /[P]Sāmaṇerī |
||
在家 | 優婆塞 [S/P]Upāsaka |
優婆塞 [S/P]Upāsikā |
以上のうち比丘・比丘尼・沙弥・式叉摩那・沙弥尼を出家の五衆といい、優婆塞・優婆夷を在家の二衆と称します。
仏典では、時として七衆でなく 四衆という言葉で以って仏教徒全体を指して言うことがあります。この場合は、比丘・比丘尼に出家修行者すべてを代表させ、それと在家の優婆塞・優婆夷でもって、その全体を指します。
大論云。佛弟子七衆。一比丘。二比丘尼。三學戒尼。四沙彌。五沙彌尼。六優婆塞。七優婆夷。然諸經中標四衆者。自古皆以比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。爲四衆。
『大智度論』〈龍樹による『大般若経』の注釈書〉に「仏弟子には七衆がある。一つには比丘、二つには比丘尼、三つには学戒尼〈式叉摩那・正学女〉、四つには沙弥、五つには沙弥尼、六つには優婆塞、七つには優婆夷である」と云われる。しかしながら、諸経の中に四衆(という語を以て仏弟子全体)と標しているのは、古から皆、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷をもって四衆としていることによる。
法雲『翻訳名義集』巻一 七衆弟子篇第十二 (T54, p.1072a)
これを上に同じく表にして示せば以下の通り。
- | 男性 | 女性 |
---|---|---|
出家 | 比丘
[S]Bhikṣu / [P]Bhikkhu |
比丘尼
[S]Bhikṣuṇī / [P]Bhikkhunī |
在家 |
優婆塞
|
優婆塞
|
また、これは日本の中世から近世に限っての特殊な用例ですが、寺院に起居する比丘・沙弥・近住・童子をして四衆という場合もあります。
近住とは[S/P]upavāsaの漢訳で、この場合は寺院内で斎戒を守りつつ生活する在家信者です。これをまた古来、浄人とも称します。浄人とはパーリ語でKappiyaと言いますが、この場合の「浄」は適切・適法の義、すなわち戒律に違反しないことを意味します。比丘に側仕えながらその教えを聞き、比丘が律の規定上出来ないことを行ったり、寺の雑用を行うなどその運営を助ける者です。巷間、一般に寺男と言われた場合もある人です。ある程度の規模の寺院には必ず存在し、というよりも基本的に近住・浄人がいなければ、それがまともな寺であればあるほど、たちまち立ち行かなくなるでしょう。
曹洞宗では、僧食における給仕係の僧を浄人と称していますが、それは比叡山出身の道元およびその門弟らが戒律についてまるで無知で不案内であったことによる誤用です。浄人は在家であるからこそ浄人たりえます。
童子とは、ほとんどの場合が数え年13歳未満の、出家が可能な年齢に達していないうちに親元を離れ寺に入って師僧につき、まず読み書きなど習い、あわせて仏教についても学ぶ子供です。数えで13歳となって出家して沙弥となる者もあれば、寺を離れて家に戻り社会に出る者もあります。
ところで、100年ほど前の南アジアにて仏教復権運動を展開した在家居士Dharmapālaという人がありました。ダルマパーラは自らを、パーリ語にて「家無き人」を意味するAnagārikaと称し、比丘や沙弥の袈裟衣に似せた衣をまとい、その活動を展開しています。
ダルマパーラは、イギリスの植民地となってキリスト教化政策が敷かれ衰亡しかけていたセイロン、および仏教など見る影もなくなっていたインドにおける仏教復権のため活躍。それはまた当時の南アジアおよび東南アジアの人々の誇りを回復するものでした。彼は上座部や大乗など特定の宗派の立場を必ずしも採らなかったのですが、特にセイロンのシンハラ人にとって英雄使されており、実際それに値する人です。
そこで現在の上座部では、かつてのダルマパーラに倣い、寺に入って起居する童子をAnagārikaまたはAnāgārikaと呼称するようになっています。また、成人男性であって出家を希望する者が、真にその生活を望み、またその生活に耐えられるかを試す数ヶ月あるいは数年間、同じように白い衣を着せて比丘に随従させることがありますが、そのような彼らもまたAnagārikaと呼んでいます。ただし、そのような者はおしなべて剃髪しており、その点、ダルマパーラとは異なります。それはまさに前述した、支那・日本において近住、善宿と言われた人の立場に同じもので、浄人としての役割も担っています。
上述したように、七衆あるいは四衆とは仏教徒全体を表す語です。衆といえば、比丘または比丘尼の集いをして比丘衆あるいは比丘尼衆といい、また総じて大衆という場合があります。
漢字の「衆」の原意は「多い」であり、また「多くの事物」を指すものです。しかし、七衆・四衆や比丘衆、そして大衆など、漢字では同じ「衆」が用いられていますが、原語であるサンスクリット([S])やパーリ語([P])は、その場合によってある程度厳密に使い分けられており、それぞれ異なっています。
七衆や四衆という場合の「衆」は、集合や集会、伴侶などを意味する[S]pariṣadまたはparṣad、[P]parisā、または集まり・集積・派閥・会衆などを意味する[S/P]nikāyaをその原語とします。
これに対し、比丘衆や比丘尼衆という場合の「衆」は、集合体・大勢、ひいては特定の目的のもと集まった組織を意味する、[S]saṃgha・[P]saṅghaをその原語とします。そしてこのsaṃghaは僧伽あるいは僧佉と音写され、また僧侶との語が充てられてもいます。漢語の「僧」とはこの僧伽および僧侶の略であり、本来は出家者、特に比丘単数を言うものでなく、一定数以上の複数の比丘を指したものです。
云何名僧伽。僧伽秦言衆。多比丘一處和合是名僧伽。譬如大樹叢聚是名爲林。一一樹不名爲林。除一一樹亦無林。如是一一比丘不名爲僧。除一一比丘亦無僧。諸比丘和合故僧名生。
どうして僧伽〈saṃgha〉というのか。僧伽とは秦〈Cīna. 印度における秦(Qin)を称した語。その音写が支那〉では「衆」という。多くの比丘が一処に和合〈samagra〉してあること、これを僧伽という。譬えば大樹が叢り聚っていれば、これを名づけて林という。一本一本の樹を名づけて林とはいわない。(林から)一本一本の樹を取り除いたならば、また林は無いようなものである。そのように、一人一人の比丘を名づけて僧とはいわない。(多く和合して聚まっている)一人一人の比丘を除いたならば、また僧は無い。諸々の比丘が和合して(一処に)あることにより、僧という名が生じるのだ。
龍樹『大智度論』巻三(T25.p.80a)
仏教ではこの「多く」というのが一定数として厳密に定められており、比丘あるいは比丘尼それぞれに四人以上がなければ僧伽は成立しません。たとえば一処に比丘四人、比丘尼三人があったとした場合、そこに比丘僧伽は成立しますが、比丘尼僧伽は成立しません。
仏教において「僧伽」という語はあくまで比丘あるいは比丘尼の組織に限って用いられるものであり、在家はもとより、非正規の出家者である沙弥や沙弥尼、式叉摩那などの集合を僧伽とは決して言いません。
また、比丘と比丘尼が混成して四人以上あっても僧伽は構成されず、男女ははっきりと峻別されます。それぞれに最低でも四人以上がなければなりません。詳しくは煩雑となるためここで述べませんが、そのように数が定められているのには理由があり、現実的には二十人以上の比丘あるいは比丘尼が同一箇所にあることが理想とされます。そこで、では四人未満の比丘あるいは比丘尼の集まりを何と言うか。それは[S/P]gaṇaと云われます。ところが、漢訳ではこの語も同じく「衆」と訳されています。
gaṇaという語は比丘に限られず用いられ、例えば菩薩の集団は、大乗の典籍においてBodhisattva-gaṇaあるいはBodhisattva-pariṣadと称され、いずれも菩薩衆と漢訳されます(『瑜伽師地論』)。決してBodhisattva-saṃghaとは云われません。
もっとも、gaṇaという称は、大界内にて授戒の際に設定される小界(いわゆる戒壇)に、十人以上の比丘あるいは比丘尼があっても、それを指して用いる場合も例外的にあります。
そして、大衆という場合の「衆」は、七衆・四衆の「衆」に同じく[S/P]nikāyaです。といっても、大衆が比丘あるいは比丘尼の集いに限定して指したものであれば、それをMahā saṃghaということもあり、あるいは在家出家が混成したものであれば、それをMahā-parṣadともいい、いずれも大衆と訳されます。nikāyaという語はまた、上座部の三蔵のうち経蔵(Sutta-piṭaka)を五つに分類したものにも用いられ、あるいは同じ上座部内でも特定の主義のもとに形成された一派を指す語としても用いられています。
以上のように、漢語では同じ「衆」であっても、その原語であるサンスクリットやパーリ語では厳密に区別され異なっています。繰り返しますが、七衆や四衆という場合の「衆」はpariṣadであり、saṃghaではありません。故に、七衆や四衆の中に挙げられる男女の非正規の出家者ならびに在家信者は、仏・法・僧の三宝の僧宝、すなわち僧伽の中には含まれません。
七衆それぞれが仏法僧の三宝とどのような関係にあるかを図示すれば以下の通り。
巷間、仏法僧の三宝の僧とは、「仏を信じる全ての人である」などという者があります。これは日本の僧職者だけに限らず、特に出家組織を持たない仏教系新興宗教の者がよく主張することのように思われます。そう云うことの裏には、自らの立場または組織、そして信者達の立場が正当なものであり、また正統であるとしたい願望があるのでしょう。
しかしながら、三宝の僧とは、あくまでも「正式な出家僧侶の集い」たる比丘および比丘尼の僧伽(saṃgha)を指すのであって、「出家在家を問わない、仏教を信仰する者すべての集い」などではありません。
あるいは日本の僧職者、寺家の中には、僧伽あるいはSaṃghaという言葉を使いたがる者があり、みずからの組織や会の名称として用いるのがしばしばあります。意味もよくわからず外国語由来の仏教用語や横文字を使うことを好み、異国情緒を醸し出してみたいという日本人にしばしば見られる性癖の表出であるのでしょう。しかし、前述したように、彼らがgaṇaであるとかnikāya、pariṣadという語をそもそも知らないということが先ずあると思われますが、仏教において僧伽(Saṃgha)とは、あくまで比丘あるいは比丘尼の、しかもそれぞれ四人以上の集まり・組織にのみ使用し得る語です。
近年、チベットやタイ、ビルマそしてスリランカなど外国の比丘らが日本に居住して、精舎や庵を構え、多くの場合は同じ国籍を有する僧が集まり、それぞれ現前のSaṃghaやgaṇaを形成するようになっています。このことからすれば、日本国内に三宝が存在しない、僧伽が無いということはありません。
しかしながら、日本仏教における僧職者には、正規の出家者(比丘)など誰一人としておらず絶無です。その実態としては、ただ世間的に僧侶であると自称し、その格好も仏制とは程遠いものながら日本では僧侶の装束であると一般に認識される衣装を、しかも「時々、営業時間内に着るだけ」の在俗者でしかありません。日本仏教には僧伽、すなわち僧宝など存在しません。したがって、そこに属する者らが、僧伽あるいはSaṃghaを自称することは、仏教としては全く不正であり不適となります。
日本仏教の一部には「非僧非俗」、すなわち「僧に非ず、俗に非ず」という言葉があり、自身がそのような立場であることを好んで主張する人々が今もあります。非僧非俗…、それは言葉の上では、出家と在家とを峻別する七衆という仏教徒の枠内では考えられないものです。非僧非俗、それは一体どういうことでしょうか。
初めてこのような主張をしたのは、鎌倉期初頭に称名念仏を唱導した法然に心酔してその弟子となった人、親鸞です。
竊以聖道諸敎行證久廢、淨土眞宗證道今盛。然諸寺釋門昏敎兮、不知眞假門戸。洛都儒林迷行兮、無辯邪正道路。斯以興福寺學徒奏達 太上天皇号後鳥羽院諱尊成 今上号土御門院諱爲仁 聖暦、承元丁卯歳、仲春上旬之候。 臣下、背法違義、成忿結怨。因茲、眞宗興隆大祖源空法師、幷門徒數輩、不考罪科猥坐死罪。或改僧儀賜姓名處遠流、予其一也。爾者已非僧非俗、是故以禿字爲姓。空師幷弟子等、坐諸方邊州、經五年居諸。
窃かに以みれば、聖道〈聖道門・自力門〉の諸教〈南都六宗・真言宗・天台宗〉は行証〈修行とその成果.実際に悉地を得ること〉が久しく廃れ、(それに対して)浄土の真宗では証道〈真理を証すこと〉が今盛んである。しかるに諸寺の釈門〈僧徒〉は教え〈浄土教〉に昏く、真仮の門戸〈「浄土門こそが真であって他宗は仮」とする浄土教の主張〉を知っていない。洛都〈京都と南都〉の儒林〈学僧・学侶〉は行に迷って、邪正〈「浄土門こそ正であって他宗は邪である」という浄土教の主張〉の道路を弁えることも無い。これによって興福寺の学徒は、太上天皇後鳥羽院という。諱は尊成と今上土御門院という。諱は為仁に対し、聖暦の承元丁卯の歳〈承元元年.1207〉、仲春〈二月〉上旬の候に、(浄土教を禁ずることを)奏達した〈『興福寺奏状』〉。すると(後鳥羽上皇と土御門天皇の)臣下は、法に背き義に違い、忿りを成し、怨みを結んだのである。茲に因って、真宗興隆の大祖、源空法師〈法然〉、并びにその門徒の多くの輩を、(本来は罪など科せられる筈が無いにも関わらず)罪科を考えず、猥りに死罪に坐した〈法然の弟子、住蓮・安楽などが後鳥羽上皇が熊野行幸で留守中に院の女房に近づき、密かに御所に宿泊して密通。さらに女房らを出家させたことで四人が死罪となった。これを親鸞は「猥りに死罪に坐した」と評価しているが、無理筋であろう〉。或いは僧儀〈頭を剃り袈裟衣を着て、戒律を守ること〉を改め〈還俗して髪を伸ばし、俗服を着ること〉、(俗人としての)姓名を(朝廷から)賜って遠流〈遠投.流罪〉に処されたが、予〈善信(親鸞)〉はその一人である。したがって、(予は)已に僧に非ず、俗に非ず。この故に「禿」〈おかっぱ頭〉の字を以て姓とした。空師〈法然源空〉并びに弟子等は、諸方の辺州〈辺境の地〉に坐られて、五年の居諸〈月日〉を経ていた。
親鸞『教行信証』化身土巻末 後序(『真宗聖教全書』vol.2, pp.201-202)
以上のように、ここで親鸞は、(古巣の比叡山を批判対象に含めながらも直接名指しすることは避けつつ)京都および南都の諸大寺の学僧・大衆を誤ったものであると批判し、特にいわゆる『興福寺奏状』を提出した興福寺を敵視し糾弾しています。また、法然の弟子住蓮・安楽などが後鳥羽上皇の逆鱗に触れて四人が死刑に処され、ついでに法然および親鸞なども連座されて還俗のうえ遠島に処されたことも、「法に背き義に違う」と不満を表しています。
当時、俗法として僧を規制し縛り得る成文法としては、平安時代中期には空文化していたものの、一応有効ではあった『養老律令』の「僧尼令 」であり、またそれに準じた様々な慣習法でした。親鸞が不満を示しているように、確かに後鳥羽上皇が下したその処断は、「僧尼令」の条文あるいは慣習法のいずれに、しかも死罪という極刑に処されるまでの行為として抵触したのか不明瞭というか、法としての確たる根拠を見いだせないものでした。それは当時、院政を敷いていた上皇の専制によって、法治でなく情治がまかり通る場合のあった証でもあります。
そこで、この処断について、後代の浄土教徒らは「弾圧であった」・「法難であった」と言いたがり、実際これを「承元の法難」あるいは「建永の法難」などと称しています。しかしながら、当時のそこかしこで浄土教徒らの振る舞いは目に余るものとなっており、それにより治安擾乱を招き、あるいは世情の頽廃に向かわせかねない事案が生じていたことが事実としてあります。法然にはそのような門弟・信徒の出現が不本意であったとしても、当時の浄土教徒らは現代いうところのカルト教団化していたのです。
諸大寺からの「法然の主張は脱仏教・非仏教である」という糾弾があったこと以外に、朝廷としても治安問題としてそれを根絶しなければ、という危機感がその背後にあったことはほぼ確実と見て良い。法然と親鸞等が連座させられたのは、結局そういうことであったと考えられます。
(僧尼令については別項、「『令義解』「僧尼令」」を参照のこと。)
就中、注目すべきことは法然と親鸞も共に流罪に処せられたとき、還俗していたことです。それは彼らだけに特別な措置であったわけでなく、当時は僧が一定以上の罪を犯したならば、まず還俗させた上で、相応の罰が科せられるのが普通でした(「僧尼令」に基づく慣習)。
現代、法然にしろ親鸞にしろ、僧であった、出家者であったと考えている人がほとんどであると思います。しかし、彼らは(十善戒を受けて沙弥となり、梵網戒を受けただけで比丘を自称することを朝廷に認められた)一応は元出家者であったものの、今の浄土宗または真宗などいわゆる宗派を形成する以前、すでに還俗させられて俗人となっており僧ではありませんでした。そこで還俗して俗人となっていた善信もとい藤井善信(後の親鸞)が、その立場を自ら表し言ったのが「僧に非ず俗に非ず」、すなわち非僧非俗という言葉でした。
これについては、親鸞の死後、弟子であった唯円によって編纂されたかと思われている『歎異抄』にもまた、その詳細を補足する記述があります。
後鳥羽院之御宇、法然聖人他力本願念佛宗を興行す。于時興福寺僧侶敵奏之。御弟子中狼藉子細あるよし、无實風聞によりて罪科に處せらるゝ人數事。
一。 法然聖人幷御弟子七人流罪、又御弟子四人死罪におこなはるゝなり。聖人は土佐國番多といふ所へ流罪、罪名藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。親鸞は越後國、罪名藤井善信云々、生年三十五歳なり。《中略》
親鸞改僧儀賜俗名、仍非僧非俗、然間以禿字爲姓被經奏聞了。彼御申狀、于今外記廳に納ると云々。流罪以後、愚禿親鸞令書給也。
後鳥羽院の御宇〈御代〉、法然聖人が他力本願念仏宗〈いわゆる浄土宗〉を興行した。その時、興福寺の僧侶はこれを敵奏〈自身らに敵対的な奏上であったこを表現した語。ここでは『興福寺奏上』を指す〉。(法然の)御弟子の中で狼藉〈後鳥羽院の留守中に御所に泊まって女房と密通し、またその女房らを勝手に出家させるなどの無法な行為〉の子細があったことについて、無実であるのに風聞〈事実であって無実でも虚偽の噂話でも無かった〉によって罪科に処せられた人数の事。
一.法然聖人并びに御弟子七人が流罪。また御弟子四人が死罪となった。聖人は土佐国幡多〈現在の高知県幡多郡〉という所へ流罪〈実際は讃岐のどこかに留まったとされる〉。(還俗させられて)罪名は藤井元彦男という。生年七十六歳である。親鸞は越後国〈現在の新潟県〉、罪名〈還俗に処せられて与えられた俗名〉は藤井善信という。生年三十五歳である。《中略》
親鸞は僧儀〈頭を剃り袈裟衣を着て、戒律を守ること〉を改めて(俗人となり、朝廷から)俗名を賜った。よって僧に非ず、俗に非ず、その故に「禿」〈短髪、おかっぱ頭〉の字を以て姓と為し、(その俗名を正式に)奏聞〈朝廷・官に上申すること〉した。その御申状〈上申書〉は、今も外記庁〈外記局.太政官に所属し、公文書の作成や宮中の儀式・行事を司る官職、外記の勤める役所〉に納められているという。流罪以後、(自ら)愚禿親鸞〈俗名を「藤井善信」から改めて「愚禿親鸞」とした〉と書かしめられたのである。
『歎異抄』(『真宗聖教全書』vol.2, pp.794-795)
以上から、法然は還俗させられ「藤井元彦男」という下流の名を与えられて土佐(実際は讃岐のどこかで留まった)に流され、また善信(親鸞)も還俗させられて「藤井善信」の名が与えられた上で越後に流されていたことが知られます。そこで藤井善信(親鸞)は、罪せられて不本意ながらも還俗させられていたことから、自身の気分として「非僧非俗」と言ったのでした。
還俗する以前、彼はその僧名を幾度か改めており、範宴や綽空そして善信と名乗っていました。そこでしかし、善信もとい藤井善信はその俗名をさらに改め、「禿」すなわち短い髪型・ざんばら頭を意味する字に、さらに謙譲の意を表す「愚」を冠した愚禿を姓とし、さらに自身の名を親鸞とすると、朝廷へ正規の申請を経て改名していたことが知られます。愚禿親鸞とは自ら改めた姓名、俗名であり、彼が「親鸞」と名乗ったのはこの時からのことです。
なお、親鸞という名は、南北朝(五、六世紀)の支那において浄土教を信仰し宣揚した僧、曇鸞に憧憬してその一字を借りた名です。
繰り返しになりますが、この時、親鸞が「非僧非俗」と言ったのはあくまで「気分として」のことであって、現実としては還俗しており僧ではありません。そこで親鸞が取ったのは、いわゆる禿居士、破戒の俗人というあり方です。
破戒不護法者名禿居士。非持戒者得如是名。
戒を破り、法を護らない者を禿居士と名づける。戒を持たなければ、そのような呼称を得る。
曇無讖訳『大般涅槃経』巻三 金剛身品第二(T12, p.383c)
なお、上に示した『教行信証』および『歎異抄』にはそのことについて全く触れられていませんが、善信もとい藤井善信もとい愚禿親鸞は、越後に流されて以降は在家信者として生活し、七人の子供をもうけています。在家信者であれば女犯しようが子をもうけようが肉を喰おうが、仮に自身が受けていた戒が飲酒や肉食など禁じるところであったとしても、なんら妨げありません。
ただし、真宗における伝説では、親鸞は還俗して越後に流される以前、すでに僧でありながら結婚していたとする説もあります。それはおそらく、後代にその門流の堕落した似非僧徒が自身等の非法を正当化するために拵えた、拙い伝説に過ぎません。
しかし、一昔前の仏教学者や社会学者、歴史学者などにはマルキシズムなど共産主義・社会主義に傾倒し、あるいは賛同・同調する者が多くあり、「出家者として」親鸞が妻帯・肉食などしていたことを、国家権力や伝統的僧儀との対立構造で理解し、権力に立ち向かった闘志、あるいは人間性の開放、ヒューマニズムを開花した挑戦者であったなどと、今からすれば「トンデモ理解」というべき説を競って開陳し、ひどく親鸞を持ち上げ評価していたのが多くありました。
彼らにとって、国家や伝統とは堕落し腐敗したものであって、常に対立し打倒し超克すべきものであるとのイデオロギーにまみれた見方があった。そして今も、かつての時代の理解の影響を未だに受け、同じ様に言う手合が少なからずあります。
(そのような見方により、極めて不正確に理解されてきた代表例というべき書が、最澄『山家学生式』。)
いずれにせよ、非僧非俗とは禿居士としての気分に過ぎず、あくまで「その外形を僧に似せた俗人」に他なりません。そのようなのはやや時代を下った無住から、以下のように蔑視され、また哀れまれた存在でした。
ただ髪をそり、衣をそめたり。なにとてか、はかばかしからん。これただ佛法をかろくし、世間をおもく思へる世俗の風儀也。悲しい哉。その中に希にも佛道を行じ、智慧も有るこそしかるべき宿習なれ。涅槃經には、わが滅後に飢饉のために出家受戒の者多かるべし。これを意樂損害の者とすといへり。戒行をまほるといへども、涅槃を期せずして渡世を意とする故也。この人供養をうくべからずといへり。まして破戒無慚にして、出家の形として解脱を期せざるが、むなしく供養をうくるをば、賊分齊とて、賊の分といへり。或は禿居士とも名づけ、袈裟を被たる獵師ともいへり。悲しかるべき末代也。
ただ髪を剃り、衣を染めただけの者。どうして(そのようなのが)頼りになろうか。それはただ仏法を軽くし、世間を重く思える世俗の風儀である。なんと悲しいことであろう、そのような中で稀であっても仏道を行じ、智慧もあってこそしかるべき宿習であろう。『涅槃経』には「我が滅後には飢饉のために出家受戒する者が多いに違いない。これを意楽損害の者という」と説かれている。(仮に)戒行を守ったとしても、涅槃など期したものでなく、渡世を意としてのこと。そのような人は供養を受けてはならない、ということである。ましてや(戒など守ること無く)破戒無慚であって、出家の形をして解脱を期すこともないのが、虚しく供養を受けるようなのは「賊分斉」と云って、賊の分という。あるいは「禿居士」とも名づけ、「袈裟を着た猟師」とも云われる。悲しむべき末代である。
無住『沙石集』巻四 「三.上人の子を持つ事」
親鸞が自ら「非僧非俗」と言い、実際にその在り方として取った「禿居士」、あるいは「袈裟を着た猟師」とは、先に紹介したセイロンのダルマパーラが自身をして称したAnagārika、すなわち「家なき人」と一見、類似したものです。ただし、その姿を僧に似せたものであったという点は親鸞とよく似ていますが、ダルマパーラは自らを僧であるなどと考えておらず、また出家であるなどと称してもいません。また、彼は在俗信者としての律儀を堅く守り持していた点が全く異なります。したがって、ダルマパーラをして親鸞のような禿居士と同類と見なすことは出来ません。
(ダルマパーラはその最晩年、正式な僧として出家しています。)
いずれにせよ、親鸞のいった非僧非俗とは「気分として」のものであって、何か仏教徒として従来無かった特異な立場をいうものではありません。仏教徒には、上記七衆以外のあり方はない。したがって、それはあくまで優婆塞(信士・居士)の範疇に留まるものです。
親鸞が言った非僧非俗という言葉、それは彼の弟子達によって都合よく解釈され、踏襲されるようになっています。親鸞はあくまで法然の弟子という立場を取り、自ら宗旨宗派を立てはしませんでした。しかし、後代、その門流らは法然の浄土宗とは別に「真宗という宗派」を形成しています。そこで祀り上げられたのが親鸞の血を引いた子、その子孫であったのですが、結局、非僧非俗などと言いながらも、実際上は自身の立場をまぎれもない僧であり、親鸞も僧であったとしたため、彼らはその思想だけでなく立場もさらに脱仏教化していったといえます。
そもそも、法然および親鸞は、僧であっても持戒など無用、むしろ末法という時代にあって持戒などする者は怪異であって、存在するほうがおかしい。戒律など守る必要はなく、酒をのみ、女と交わり、姿形ばかりの僧であっても尊いもので、世間の人々はこれを敬い布施してさせるべきである、とする思想を奉じていました。そのような思想の根拠であったのが、最澄の撰と伝説される『末法燈明記』です。
末法唯有名字比丘。此名字爲世眞寶。更無福田。設末法中。有持戒者。旣是恠異。如市有虎。此誰可信。
末法にはただ「名字の比丘〈名ばかり・形ばかりの偽比丘〉」しか存在しない。(したがって)その名字の比丘を世間における真実とする以外、他に(世間に善果報をもたらし得る)福田など無い。設い末法の中に持戒の者あらんも既に是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ずべけん。
『末法燈明記』(『傳教大師全集』, vol.1, p.418)
(『末法灯明記』の詳細は、別項「最澄『末法燈明記』」を参照の事。)
この書は全体として、親鸞のとった禿居士という立場、あるいはここで「名字の比丘」といわれる名ばかり・形ばかりで僧を自称する人を存在を正当化するに絶好のもの、最も都合の良いものでした。実際、親鸞は、先にも挙げたその主著『教行信証』において『末法灯明記』をほとんど全て引用し、その論拠の中心に据えています。
いや、親鸞だけでなく、現代、鎌倉新仏教と称されるもののうち、法然の浄土宗と日蓮の法華宗もまた、『末法灯明記』の説をその思想・教義の核に据えたものとなっています。それは『末法灯明記』における最澄(仮)による主張が崩れたならば、たちまちそれらの主張も瓦解するほどのものです。
もっとも、現代において、自身をして「非僧非俗」であると主張する人々は、これは真宗に限ったことではなく、面白いことに律宗を含め、天台宗およびその亜流の宗派だけでなく日本におけるありとあらゆる全ての宗派の僧職者に見られるようになりました。それは、出家者として人々からの寄進や布施は妨げなく受けるけれども、その生活はまったくの俗人である。つまり、「僧としての特権・利権は享受するが、僧本来の義務や規制は一向に履行・遵守しない」ということであります。
それはまさに『末法灯明記』における主張が、この書を奉じている奉じていないに関わらず、またその宗旨宗派の本来の教義がそのようなのを禁じているにも関わらず、千年の時を越えて受け入れられ現実のものとなったのでした。
そんな彼らにとって従うべきは、彼ら自身の信奉する聖典・教義などでは決して無く、国家による「宗教法人法」ならびに各宗派がそれぞれ定めている「宗規」(宗教的な内容ではなく、あくまで事務的な取り決め)、そして「世間様(檀家)の目」であって、間違っても仏教などではありません。けれども、宗教法人法にしろ宗規にせよ、これらは絵に描いたようなザル法で、一度「資格」さえ取ってしまえば、別段厳しく従わなければならないものではありません。
このような日本仏教において僧を自称する人々の在り方、寺院の在り方は、しばしば一般社会から非難される大きな原因の一つとなっています。そして、国際的に、日本仏教およびその僧職者らが極めて異常なあり方をしていると、白眼視される一大要因にもなっています。現在、日本に僧伽がないこと、三宝の僧宝が欠けており、しかしそこで僧を自称する人々の堕落の度合いが著しいことは世界の仏教者に広く知れ渡っています。
日本仏教は、天平の昔に鑑真らの渡来によってようやく成立した僧宝、僧伽が消滅し、天平以前の往古に先祖返りしてしまったのでした。日本仏教に僧宝、僧伽は存在しないということは、日本仏教各宗派で僧を自称している人々が、僧ではなく似非僧であって在俗信者に過ぎないことを意味します。この意味において、『末法灯明記』の日本における影響力は計り知れません。親鸞はまさにその影響を直に蒙った人であり、それをさらに強めた人です。
とは言え、『末法灯明記』自体は、その書名としては世間で広く知られてはいますが、これを実際に確実に読んだ市井の者など極々少数であって限られています。にも関わらず、その書において描かれた堕落した僧を名乗る人々の姿がまさに日本において現実化していることは、実に空恐ろしくなるほどですが、その反面、誠に面白いとも評し得ることです。
一昔前、真言宗における著名な事相家であった稲谷祐宣は、「日本仏教 総浄土真宗化」と自嘲的に揶揄していました。実に言い得て妙なる表現でありましょう。
親鸞が「非僧非俗」といい、また「禿居士」としてあったようなのが存在した、あるいは存在しているのは日本だけではありません。
チベットでは、その四大宗派のうちニンマ派(古派)やサキャ派の一部(高位)の者が妻帯世襲しているため、実は僧といえたものでなく「非僧非俗」であると言えます。もっとも、古派における僧職者らの奔放で堕落した有り様を厳しく批判し、僧の持戒持律の不可欠であることを主張して成立したゲルク派は、そのような者の存在を許していません。
ネパールでは、僧と自称せず、また僧と同様の姿もとらず普通の俗服のままで禿居士というのに相応しい、カーストとしてその長子が世襲するVajrācariya(金剛師)と呼ばれる密教行者があります(左写真)。日本で言うところの「拝み屋」のようなものですが、彼らは寺院の境内を借りて日々に人々の祈祷、現世利益の要請に答え、生計を立てています。そしてブータンの密教行者にも同様なのがあります。
また、韓国にて近年(1970)成立した極新しい教団である太古宗の僧職者も、これは日韓併合時における日本仏教の悪影響であるなどと彼らは主張していますが、妻帯世襲を是としているため、その実際は「非僧非俗」の禿居士というに相応しいものです。
もっとも、近年は妻帯女犯を禁忌とし、明代から清代において成立した念仏禅にチベット密教の儀礼で派手で手頃なのをいくつか根拠なく取り入れ、しかし世界で最も伝統的で正統な禅宗であると自称している曹渓宗でも愛人を囲い、あるいは隠れて家族を養っている者が珍しくないと言います。
現在の中国では、共産党の庇護の下、非常に巨大な規模の伽藍が、それは伝統的寺院建築の工法によるものでなく、見かけだけそうした低品質な鉄筋コンクリートのハリボテに過ぎませんが、しかし地方のあちこちにどしどし造られています。日本でいう仏師であるとか宮大工などの職人が存在せず、寺院建築にしろ造仏にしろその技術や伝統も絶えて久しいため、そこで新たに造られる仏像も酷いものでやはりハリボテというしかありません。中国において、僧は共産党の厳しい管理化においてのみ存在し得、そこにはいわばサラリーマン化した僧が多くあって、中には仏学院などで真剣に学び修めるいわゆる求道者といえる人もありますが、妻妾を隠れて養うなど、日本のそれとほとんど変わらないようなのが見られます。
また、セイロンにはアナガーリカ・ダルマパーラ以前、いわゆる「非僧非俗」の人々がありました。実はセイロンでは、16世紀から始まる西洋列強による植民地化によって18世紀中頃(1753)まで仏教は衰亡し、僧伽(サンガ)が消滅して無かった時機がありました。その200年程の間、仏教や寺院を比丘に代わって細々と守っていたのが、キャンディ王Senarath(治世:1604-1635)により創始されたという、Ganinnāse (Ganinnase)と言われる人々です。彼らは僧の袈裟衣に似た、しかし純白の衣をまとい、洞窟あるいは寺院、仏塔にて居住し、人々からの祈祷など宗教的要望に応えて生活していたといいます。
そして18世紀中頃、これはオランダやイギリスによるキリスト教化への強い反発であり、またシンハラ人の誇りを取り戻す意味もあったのですが、シャム(タイ)から長老Upāliをはじめとする比丘達を招聘し、具足戒の受戒を行うことによって僧伽を再興することに成功しています(その時に出来たのが現在、スリランカで多数派となっているSiamopāli Mahā Nikāya)。しかしそれ以降、今もガニンナーセーはスリランカに極少数ですが存在しています(右写真・白衣の老人)。
非僧非俗、そんな彼等は仏教徒としてはあくまで俗人ではありますが、公然と妻帯し、あるいは密かに妻妾を囲い、多くの場合その身分を世襲(あるいはその血族に寺院財産を継承)しながら、それぞれの文化圏において宗教者・呪術者として役割を担い、生活しています。
非人沙門覺應