式叉摩那とは、「学びの女」を意味する[S]Śikṣamāṇāまたは[P]Sikkhamānāの音写で、正学女などと漢訳される、女性出家修行者です。
これは、沙弥尼あるいは女性が受具する前に、いわば沙弥尼と比丘尼の中間に設けられた立場です。式叉摩那には、六法([P]cha dhamma)を比丘尼僧伽から白四羯磨によって受けることにより、原則として数え18才からなることが出来ます。ただし、一口に六法と言っても、実は律蔵によってその順序どころか内容すら相違しています。
(白四羯磨とは何かは、前項「比丘 ―仏教徒とは」において解説。)
ここでは、現代において比丘尼の存在がある、あるいはその僧伽の復興が今試みられている、南・東南アジアで行われる上座部のVinaya Piṭaka(以下、『パーリ律』)、東アジアで主として依行されてきた法蔵部の『四分律』、そしてチベットにて行われている根本説一切有部の「根本説一切有部律」(以下、『有部律』)の三つの律蔵所説の六法に限り、以下に示します。
No. | 『パーリ律』 | 『四分律』 | 『有部律』 |
---|---|---|---|
1 | pāṇātipātā veramaṇi |
不浄行 | 不得独在道行 |
生き物を殺さない | いかなる性交渉からも離れる | 独りで生活し、道を行かない | |
2 | adinnādānā veramaṇi |
盜取五銭 | 不得独渡河水 |
与えられていないものを取らない | 五銭以上を盗まない | 独りで河川を渡らない | |
3 | abrahmacariyā veramaṇi |
断人命 | 不得触丈夫身 |
非梵行の制限 | 人を殺さない | 男性の身体を触らない | |
4 | musāvādā veramaṇi |
自称得上人法 | 不得与男子同宿 |
詐りの言葉を発しない | 賢聖の位・禅定を得たと虚言しない | 男性と同宿しない | |
5 | surāmeraya majjappamādaṭṭhānā veramaṇi |
過中食 | 不得為媒嫁事 |
穀物や果実の酒を飲まない | 正午を過ぎて食を摂らない。 | 婚姻の仲介をしない | |
6 | vikālabhojanā veramaṇi |
飲酒 | 不得覆尼重罪 |
時ならぬ食を摂らない | 酒を飲まない。 | 比丘尼の重罪を隠匿しない |
以上のように、僅かな相違点がありはするものの『パーリ律』と『四分律』とはほぼ同様であるのに対し、『有部律』は全く異なっています。実は『有部律』では六法だけでなくやはり独特な内容の六随法なるものも併せて護持すべきと説かれており、実質十二法となっています。
六随法に言及したついでにその内容を示しておくと、①自ら所有する金銀に直接触れてはならない(不捉於金等)、②陰部の毛を剃ってはならない(不除隱處毛)、③生物のある地面を掘ってはならない(不掘於生地)、④故意に生きた草木を傷つけてはならない(不壞生草木)、⑤自らが受けていない食を摂ってはならない(不受食不飡)、⑥穢れた食を摂ってはならない(曾觸不應食)、の六です。この六随法もまた、①を除き、十戒と重複したものはありません。
そしてまた、ここでは現実に関しないことなので示しませんでしたが、『摩訶僧祇律』(以下、『僧祇律』)でも比丘尼となる前に二年間は式叉摩那(『僧祇律』では式叉摩尼)として過ごすべきことを言うものの、しかしその受持すべき処として六法でなく十八事という、『有部律』とも共通しない独特の内容のものを説いています。
(これら一部の律蔵における大きな相違、そして全ての律蔵それぞれに見られる比較的小さな相違点は、式叉摩那の成立等々を考える上で示唆するところ多く、極めて重要です。しかし、本サイトの趣旨および本稿の主題に関しないので、ここではこれ以上言及することを控えます。)
上に挙げた六法戒を、比丘尼僧伽に羯磨して周知されたた上で受持し、二年間なんら瑕疵なく守ることができた式叉摩那は、ようやく具足戒を受けて比丘尼になることができます。しかしもし、これらの一ヶ条でも犯すことがあった場合には、時計の針が戻され、改めて二年間を式叉摩那として過ごさなければならないとされます。
なお、二十才を過ぎて出家した場合であっても、女性が比丘尼になるためには式叉摩那として二年間を過ごしていなければならず、でなければ具足戒を受けることは出来ません。
式叉摩那。此云學法女。四分十八童女。應二歳學戒。又云。小年曾嫁年十歳者。與六法。十誦中。六法練心也。能持六法。方與受具。二年者練身也。可知有胎無胎。事鈔云。式叉尼具學三法。一學根本。謂四重是。二學六法。即羯磨。所謂染心相觸。盜人四錢。斷畜生命。小妄語。非時食。飮酒也。三學行法。謂一切大尼戒行。並須學之。若學法中犯者。更與二年羯磨。僧祇云。在大尼下沙彌尼上坐。今述頌曰。染心相觸。盜四錢。斷畜生命。小妄語。戒非時 食及飮酒。是名式叉學六法
【式叉摩那】 ここでは学法女と云う。『四分』〈『四分律』〉に「十八歳の童女は二年、戒を学せ」とあり、また「若年にして曾て嫁していたならば、年が十歳の者であっても、六法を与えよ」とある。『十誦』〈『十誦律』〉の中に、「六法によって心を練磨する。よく六法を受持したならば、まさに受具させよ。(六法を受持して)二年は身を練磨し、妊娠しているか妊娠していないかを確認せよ」とある。『事鈔』〈道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』〉に「式叉尼は具さに三法を学ぶ。一つは根本を学ぶ。(根本とは)いわゆる四重である。二つには六法を学ぶ。即ち羯磨に謂う所の、染心をもって(男を)相い触ること、人の四銭を盗むこと、畜生の命を断つこと、小妄語、非時食、飲酒である。三つには行法を学ぶ。いわゆる全ての大尼の戒行を、いずれも須らく学ばなければならない。もし学法中に(六法の一つでも)犯すところがあれば、更に二年を延長させる羯磨をせよ」とある。『僧祇』〈『摩訶僧祇律』〉には「大尼の下、沙弥尼の上に坐せ」とある。今、頌を述べて云う。染心にして相い触る、四銭を盗む、畜生の命を断つ、小妄語、非時食及び飮酒を戒める。これらを式叉の学ぶ六法という。
法雲『翻訳名義集』巻一 釈氏衆名篇第十三(T54, pp.1072c-1073a)
前述のように、女性が式叉摩那に成りえるのは原則として数え18歳からですが、例外として十歳であっても式叉摩那と成り得る場合があります。その例外とは、女性が既婚者([P]gihīgata)あるいは寡婦であった場合です。十歳にして既婚者であるなどあり得ない、非常識でおかしな規定である、と現代考える者があることでしょう。しかし、これは古代から現代なお残る印度における風習に基づくものです。
以下は前項「比丘尼 ―仏教徒とは」において述べたことの再掲ですが、印度では、これは東西アジアでも一般に見られたことのように、親同士が子供の結婚相手を決めることが普通でした。現代においてすら、結婚式当日まで新郎新婦が互いの顔も見たことがない、などということは印度やネパール、そして中央から西アジアの地方部においてはざらです。互いの子供が四、五才の時に結婚の約束がなされ、娘が十才から十二才の時には強制的に相手の家に嫁がされる、ということも未だあります。
そこでもし、結婚相手たる嫁ぎ先の男子が病気や怪我、事故などで死んでしまったならば、花嫁に出された娘は悲惨な人生を送らされることになります。その娘は、すでに実家を出ているため、婿が死んでしまっていたとしてもそのまま婿側の家の者となります。婚約した時点で相手のもの、いわば所有物となっているため、夫・婚約者が死んでしまった場合、五、六歳ではや未亡人などということがあり得、実際あります。そこで未亡人たる幼妻は、婿側の家で、ほとんど奴隷として一生扱われるのです。
これは実に恐るべき忌まわしい慣習、印度の地方部で今なお存在する悪習の極みの一つです。もっとも、律蔵には、そのような当時の印度一般における婚姻についての慣習を事細かに伝えてなどいません。しかしながら、現在も行われている印度における蛮習を見たならば、何故、女性が年若くして未亡人となった場合、出家して比丘尼となっても良いとされたかを推して知られることでしょう。それは社会的に女性、というより女児を救済するための措置であったと言えます。
ところで、『四分律』所説の六法に拠れば、同一条項を犯した場合でもその行為の大小・軽重によって処遇が若干異なります。
No. | 学処 | |
---|---|---|
1 | 不浄行 | |
性交渉 | 欲情の心をもった男性と互いに触れ合う | |
2 | 盜取五銭 | |
五銭以上の窃盗 | 四銭以下の窃盗 | |
3 | 断人命 | |
殺人・自殺・堕胎を実行・奨励・幇助 | 殺人以外の殺生 | |
4 | 自称得上人法 | |
大妄語(宗教的虚言) | 小妄語(虚言) | |
5 | 過中食 | |
非時(正午から翌日の日の出までの間)における食事 | ||
6 | 飲酒 | |
酒を飲む |
第一から第四条までの下段左項に該当する行為を式叉摩那が行った場合はその立場を剥奪されて失い、滅擯(擯出)すなわち追放の処罰が下されます。しかし、それが下段右項の行為であった場合は、改めて再度六法を受け直すに留まります。ただし、それによってそれまでの式叉摩那として過ごした期間は白紙となり、二年受具し得る時間が延長されます。第五、六条には行為の軽重は無く、これを犯した場合は六法の受け直しとなって時計の針を戻されます。
なお、滅擯された者は、これは比丘尼の波羅夷ではないため、再度式叉摩那になり得ないということではありません。しかし、その詳しいその後の処遇について、『四分律』に説かれてはいません。
式叉摩那とは以上のような存在ではありますが、しかし、実際の処、一般には非常にあやふやに理解されている立場でもあります。というのも、律蔵には女性が式叉摩那になる際の手順や羯磨などは説かれているものの、沙弥尼から式叉摩那になる際に十戒についてどのように処すれば良いか、あるいは沙弥尼と式叉摩那の関係性がどのようであるのか、どこにも説かれていないためです。
特に、十戒と六法の内容が重複する『パーリ律』や『四分律』などの場合、この問題はよりわかりにくくなっています。
ここでくどいようですが再確認しておくと、女性は十三歳から十戒を受けて沙弥尼となることが出来、二十歳になって具足戒を受け比丘尼となることが可能です。しかし、その前には必ず二年間、式叉摩那として六法を厳持していなければなりません。すなわち、二十歳で比丘尼になろうと思うならば、十八歳で六法を受けて式叉摩那となっていなければ、女性は具足戒を受けることは出来ません。あるいは例外として、婚姻経験がある場合には十歳から式叉摩那となることが出来、そうしていたならば十二歳で比丘尼となることが可能です。
そこで問題となるのが、十戒と六法の関係であり、すなわち沙弥尼と式叉摩那との関係です。
例えば、ある女性が十五歳で沙弥尼となっており、十八歳となって式叉摩那になる際には、それまでの十戒より四つも項目が少ない六法を受けることになります。先に示したように、『パーリ律』や『四分律』などの場合、何か十戒とは全く内容の異なる学処、あるいは従来の学処に足して受けるのではなく、文字通り十から四が引かれた六を受けるのです。これを単純に見たならば、それまで沙弥尼として守っていた学処が減るわけですから、いわば易化、ダウングレードすることになるでしょう。
そこで先ず生じる疑問が、それまで沙弥尼として受けていた十戒の扱いはどうなるのか、という点についてであるでしょう。この場合、十戒を遮戒し六法を改めて受けるか、もしくは十戒を維持したまま別途に六法を改めて受けるかの、二つの可能性が考えられます。けれども、前者は、式叉摩那がやがて受けることを前提とする比丘尼律儀の多さを考えた時、その準備段階としての立場で学処を減らすことは不合理です。後者は、十戒とその内容が重複する六法を重ねて受ける意味と必然性を見出すことが出来ず、やはり不合理となります。
もしこれを合理的に理解したならば、式叉摩那とは十戒もそのまま受けた護持した状態であるけれども、そのうち六戒について重い罰則が付与されたものを六法として受ける者である、というのが最も筋の通ったところとなります。
また、さらにここで考えられるべきことは、すでに成人して二十歳以上である女性が出家を志し、比丘尼となろうとする場合です。比丘尼となるには「式叉摩那として二年学戒していること」は必須ですが、「沙弥尼であった経験の有無」は条件として問われません。そこでまた、式叉摩那となる条件として「沙弥尼であること」は明文化されていません。ならば、果たして女性は沙弥尼を経ずにただ直接六法を受け、式叉摩那になることが可能であろうか、という疑問が生じることでしょう。
この点について、『パーリ律』と『四分律』のいずれも明確には説かれていません。ただし、『四分律』にて説かれる女性を式叉摩那とするための白四羯磨では、その対象が沙弥尼と特定されています。
自今已去聽年十八童女二歳學戒。年滿二十得受具足戒。白四羯磨當如是説戒。沙彌尼當詣僧中偏露右肩脱革屣禮比丘尼僧足。右膝著地合掌當作是語。大姉僧聽。我某甲沙彌尼。今從僧乞二歳學戒。某甲尼爲和上願僧與我二歳學戒慈愍故。
今より以降、年十八の童女に二歳学戒〈式叉摩那としての二年〉を聴し、年二十を満たせば具足戒を受けることが出来る。白四羯磨はまさにこのようにして説戒しなければならない。沙弥尼は僧中〈僧伽〉に詣で、偏に右肩を露して革屣を脱ぎ、比丘尼僧〈比丘尼僧伽〉の足を礼拝する。そして右膝を地に著け合掌し、まさにこのように言え。
「大姉僧〈比丘尼達〉よ、聞き給え。我某甲沙弥尼は、今僧に従って二歳学戒を乞います。某甲尼を和上とします。願くは僧よ、私に二歳学戒を与え給え。慈愍の故に」
『四分律』巻廿七 「二分之六明尼戒法」(T22, p.755c)
以上のことから、消極的ではありますが、『四分律』では在家から沙弥尼を経ずして直接式叉摩那となる場合は想定されていない、と言うことが出来ます。
これに対し、『パーリ律』ではどうなっているかといえば、このあたりは特に不明確となっています。しかしそこで、『四分律』に同じく比丘尼律儀の波逸提(pācittiya / 単堕)における数ヶ条に着目すると、沙弥尼と式叉摩那との関係を理解することが出来ます。その一例が以下の条文です。
yā pana bhikkhunī paripuṇṇavīsativassaṃ kumāribhūtaṃ dve vassāni chasu dhammesu sikkhitasikkhaṃ saṅghena asammataṃ vuṭṭhāpeyya, pācittiya
いかなる比丘尼であれ、もし満二十歳の童女〈kumāribhūta〉であって二年六法の学(処)を学んだ者を、(比丘尼)僧伽の許可なくして受具させたならば、波逸提〈pācittiya. 単堕〉である。
Vinaya Piṭaka, bhikkhunīvibhaṅga, Pācittiyakaṇḍa, Kumārībhūtavagga 3
律文において童女(kumāribhūtā)とは、二十歳以下であれ以上であれ沙弥尼(sāmaṇerī)の意とされます。そして、ここにいわれる「dve vassāni chasu dhammesu sikkhitasikkha(二年六法の学を学んだ者)」とは、まさに式叉摩那を指したものです。
すなわち、式叉摩那とは、従来そう理解されてきたような沙弥尼とは全く異なった立場というのでなく、むしろ六法を受けた沙弥尼をいうものである、と理解するのが正確であることがわかるでしょう。やはり、式叉摩那となるには、必ず先ず沙弥尼として出家していなければなりません。俗人が沙弥尼となることなく、すなわち出家の過程を飛び越して式叉摩那になることは出来ません。したがって、比丘尼となる前に有髪・俗服の式叉摩那であることはあり得ません。
このような理解は、六法の内容が異なる『有部律』や『僧祇律』などその他の律蔵においても矛盾なく通用するものと菲才は考えています。式叉摩那は沙弥尼の十戒を遺棄などしておらず、その上に比較的大きな罰則が付加された六法を重ねて受けた者です。
それにしても何故、女性に限って沙弥尼と比丘尼との中間的立場が設けられ、しかもその立場を二年間経ていなければ比丘尼となることが出来ないのか。そのような疑問は、むしろ当然、往古の印度および支那でも生じていたようです。
これは大乗に属する典籍ですが、その疑問に答え、式叉摩那とはいかなる立場の者であるかを簡潔に説明するものがあります。龍樹(Nāgārjuna)によるとされる『大般若経』の注釈書、『大智度論』です。
式叉摩那受六法二歳。問曰。沙彌十戒便受具足戒。比丘尼法中。何以有式叉摩那。然後得受具足戒。答曰。佛在世時。有一長者婦。不覺懷妊出家受具足戒。其後身大轉現。諸長者譏嫌比丘。因此制。有二歳學戒受六法。然後受具足戒。問曰。若爲譏嫌。式叉摩那豈不致譏。答曰。式叉摩那未受具足戒。譬如小兒亦如給使。雖有罪穢人不譏嫌。是名式叉摩那受六法。是式叉摩那有二種。一者十八歳童女受六法。二者夫家十歳得受六法。若欲受具足戒應二部僧中。用五衣鉢盂。比丘尼。爲和上及教師。比丘爲戒師。餘如受戒法。略説則五百戒。廣説則八萬戒。第三羯磨訖。即得無量律儀。成就比丘尼。比丘則有三衣鉢盂。三師十僧如受戒法。略説二百五十。 廣説則八萬。第三羯磨訖。即得無量律儀法。是總名爲戒。是爲尸羅
式叉摩那〈Śikṣamāṇā〉は六法を受けること二年である。
問:沙弥〈Śrāmaṇera〉は十戒であって(式叉を経ずに)すなわち具足戒を受ける。比丘尼〈Bhikṣuṇī〉の法においては、どのような理由から式叉摩那があり、その後に具足戒を受け得るというのか。
答:仏ご在世の時、ある長者の婦人があった。妊娠していることを知らずに出家し、具足戒を受けた後に腹が次第に大きくなって発覚した。すると諸々の長者は比丘を(比丘尼を犯したのではないかと)譏嫌された。これに因って、二年間、六法を受けて戒を学び、そうして後に具足戒を受ける制が布かれたのである。
問:もし(在家の)譏嫌〈そしり、批判〉が原因であったならば、式叉摩那も(女であって)どうして(在家からの)譏りを免れようか。
答:式叉摩那は未だ具足戒を受けておらず、譬えば小児のようなものであり、また給使のようなものである。(仮に)罪穢れがあったとしても、人は譏嫌することはない。そこでこれを式叉摩那、六法を受ける(者)という。この式叉摩那には二種ある。一つは十八歳の童女で六法を受けるもの、二つには夫家の十歳で六法を受け得たものである。もし(式叉摩那として二年過ごした後、)具足戒を受けようと思うならば、まさに二部僧〈比丘僧伽・比丘尼僧伽〉の中にて、五衣〈僧伽梨・鬱多羅僧・安陀会・僧祇支・覆肩衣〉と鉢盂〈鉄鉢〉とを用い、比丘尼を和上〈upādhyāya〉及び教師〈ācārya〉として、比丘を戒師とする。他の点は(比丘尼の)受戒法の通りである。略説したならば則ち五百戒、広説すれば則ち八万戒ある。第三の羯磨が訖ったならば、即ち無量律儀を得て、比丘尼を成就する。
龍樹『大智度論』巻十三 初品第二十三 讃尸羅波羅蜜義(T25, p.161c)
式叉摩那とは要するに、女性が妊娠しているかいないかを確認するための、女性の身体的特徴に基づいて定められた立場です。
ところで、『大智度論』における律の引用は、決まって律蔵の中でも説一切有部の律蔵であり、支那に初めてもたらされ漢訳された『十誦律』からのことです。それは龍樹が属していた、あるいはその律を受けていたであろう部派のものであり、また『大智度論』を漢訳した鳩摩羅什(Kumārajīva)がその翻訳に関わった律蔵でもあります。そこでここでは、『大智度論』にて簡潔に言及されている上記の話を、その出典において補足の意味を含めて確認し、式叉摩那制定の因縁についての知識を一つ確実なものとしておきます。
◎六法壇文
佛在舍衞國。爾時舍衞城有居士婦。名和羅訶。大富多財田宅種種富相成就。是居士婦。以無常因縁故。財物失盡家人分散。唯一身在。是居士婦有娠。以憂愁失親里財物夫婿故。身自枯痩兒胎。縮小便作是念。我腹中兒若死若爛又作是念。諸福徳樂人。無過沙門釋子。我當是中出家作比丘尼。便往詣王園精舍作比丘尼。是人出家歡樂。肥故腹漸漸大。諸比丘尼驅出僧坊。汝犯婬人莫住此間。答言。我出家以來不作婬欲。先在家時有娠。諸比丘尼以是事向佛廣説。佛語諸比丘尼。汝莫説是比丘尼是事。是比丘尼非破梵行。先白衣時有娠。從今聽沙彌尼二歳學六法。可知有娠無娠。受六法者。若沙彌尼初來。
◎六法壇文
仏は舎衛国に滞在されていた。ある時、舎衛城に居士の婦人があって、その名を和羅訶といった。大富豪であって財宝・田畑・家を多く有し、種種の富を成していた。その居士の婦人はしかし、無常の因縁によって財物を尽く失い、家人も散り散りとなって、唯だ一人の身となっていた。その居士の婦人は妊娠していたが、親族・財産・夫を失った憂愁により、その身は自ら痩せ細ろえて、胎児を宿したはずの腹も縮小していたため、このように考えた。「私の腹の子はあるいは死に、あるいは腐爛してしまったであろう」と。そこでまたこのように考えた。「諸々の福徳楽人において、沙門釈子に過ぎたものは無い。私はまさにその中にて出家し比丘尼となろう」と。そこで往って王園精舍に詣って比丘尼となったのである。その人は出家して(その生活を)歓び楽しみ、(やせ細っていた身体も)肥え、(死んでいなかった胎児を宿す)腹が次第に大きくなっていった。すると比丘尼たちは(彼女が婬戒を犯して妊娠したと疑い、)僧坊から追放したのである、
「汝は婬を犯した者であり、ここに住んではならない」
と。これに(彼女は)、
「私は出家して以来、婬欲をなしてなどいません。以前、在家の時に妊娠していたのです」
と答えた。そこで比丘尼たちはこの事を仏に対して詳しく説明した。仏は比丘尼たちに、
「汝はその(妊娠していた)比丘尼の(破戒を疑って)事を言い立ててはならない。その比丘尼は梵行を破ったのではない。以前、白衣であった時に妊娠していたのである。今より以降、沙弥尼が二年間、六法を学ぶことを聴す。そうして妊娠の有無を確かめよ」
と語られた。
『十誦律』巻四十五(T23, p.326b)
今示したのは『十誦律』の一節ですが、他の律蔵でもおおよそ事情は同じで、式叉摩那とは、女性が妊娠しているにも関わらず比丘尼となることを防ぐために定められたものです。
(ただし、『パーリ律』が伝える式叉摩那の成立事情は不明で不合理なものとなっています。というのも、そもそも式叉摩那という存在が唐突に先ずあって、ある式叉摩那が二年間六法の学戒を経ずに受具したことが、他の比丘尼から批判され、そこで釈尊が二年間六法を受時すべきことを定められた、という不合理な説を伝えているためです。『パーリ律』において、妊婦が受具した云々は式叉摩那の成立に関わっていません。)
現在、いわゆる比丘尼が存在しているのは、東アジア(台湾・中国・韓国)における『四分律』の伝統においてのみであり、またその伝統を借りて復興したとされている上座部も比丘尼(仮)があります。しかしながら、特にスリランカ上座部における復興したと称する比丘尼僧伽においては、実は具足戒を受ける以前に必ず二年間過ごすべきとされる式叉摩那が存在していません。
上座部における比丘尼復興運動は、スリランカの優婆夷であり学者であったKusumāの主導のもと行われています。彼女は当初、韓国の曹渓宗における比丘尼教団の助力を仰いでいたこともあり、またそもそもフェミニストであってそのイデオロギーに基づいて律蔵を理解していたことにもよるのでしょう。実際彼女によってなされたというその復興第一回目にインドはサールナートにおいて執行された受具は、式叉摩那として二年間を過ごしてからのものではありませんでした。
実はスリランカの比丘尼復興に協力した韓国の比丘尼教団なるものが、やたらと自らの正統性を強調するにしてはそもそも威儀を備えた在り方などしておらず、その戒脈も伝統も甚だ怪しく眉唾ものです。それらは結局、その伝統において八重法も厳密に護持せずして憚らず、しかし比丘尼を称するのが現状となっています。
もっとも、仏教の女性出家者らが八重法を無視し行わなくなっていたのは、どうやら支那の唐代において早くも見られていたことのようです。
善見佛初不度女人。出家爲滅正法五百年。後爲説八敬聽出家。依教行故還得千年。今時不行。隨處法滅故須勵意。
『善見』〈『善見律毘婆沙』〉に「仏は初め女人を度して出家させられなかった。(もし女人が出家したならば)正法五百年が減ずるためである。後に(女性の出家を許す)為に、八敬法を説いて出家を聴された。(女性等が八敬法の)教に従い行ったがために、かえって(正法)千年を保つことが出来た。しかし、今時は(女性が八敬法を)行じていないため、随処で法が滅している。故にすべからく(八敬法を行おうと)意を励ますべきである。
道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』巻下(T40, p.154c)
日本仏教にはそもそも正規の比丘尼が一人も存在したことがありません。比丘尼が無かったということは、沙弥尼も式叉摩那も存在したことは無いことを意味します。しかし、中世の叡尊や覚盛は、それを日本における欠点であると考え、七衆を完備させるべく「極めて特殊な方法」により何とかそれを実現しようと試行していました。また、近世後期に至って慈雲がやはり比丘尼を存在させるべく、自誓受戒によってそれを果たそうとしていました。そのいずれの方法も「正統」とは言えないものですが、彼らは女性出家の不可欠の条件として八重法を常に意識していました。
現在、西洋でも仏教を信仰する女性が増え、そればかりか自ら出家修行者となって道を極めたいとする人が少なからず現れています。ところが、このあたりのことはほとんどの場合ごまかされ、あやふやにされたままで、いたずらに「自称 比丘尼」・「自称 沙弥尼」を増やすばかりとなっています。
仏教に信を起こし、真摯に道を求める女性が、正統な出家者となりたいとするその願いに対し、現代的イデオロギーに惑わされることなく真正面から論じ解決して答えようとするならば、式叉摩那という立場、引いては八重法は決して等閑視できないものです。
非人沙門覺應