優婆塞とは、[S/P]Upāsakaの音写で、信士・信士男、近事男などと漢訳される、男性在家信者です。玄奘は優婆塞は誤った音写であるとし、鄔波索迦という正確な音訳を充てています。また優婆夷とは、[S/P]Upāsikāの音写で、信女・信士女、近事女などと漢訳される、女性在家信者です。玄奘はやはり優婆夷は誤った音写であるとし、鄔波斯迦という音訳をもってしています。
優婆塞・優婆夷には、仏・法・僧の三宝へ帰依し、その信を表明する言葉いわゆる三帰依文を唱えることによってなりえます。そしてまた、在家信者が受け持つべき学処として五戒が説かれています。
No. | 学処 | 戒相 |
---|---|---|
1. | 不殺生 | いかなる生き物も、故意に殺傷しない。 |
2. | 不偸盗 | 与えられていない物を、故意に我が物としない。 |
3. | 不邪淫 | 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。 |
4. | 不妄語 | 故意に偽りの言葉を語らない。 |
5. | 不飲酒 | 穀物酒や果実酒など、人を酔わせ放逸にさせる物を摂取しない。 |
(戒および学処については別項「戒とは何か」を、また三帰依文は「Saraṇataya 三帰依」参照のこと。)
巷間、そもそも何をもって仏教徒というのかについては、ごく曖昧に理解されていると思われます。
三帰依文は、その信奉する教えが何であれ、いかなる宗旨宗派に属していようとも、仏教徒であるならば必ず唱えるべき文言です。人が仏陀の教えの真であろうと考え、仏教徒になることを決意した時、その言葉の意味を理解した上で仏像の前あるいは僧の前にて三帰依文を唱えたならば、その人は仏教徒となります。その上で、さらに次項に示す在家の五戒を受けるのです。したがって、なにより先ず三帰依をぜずしては仏教徒たりえません。たとえ伝統・新興を問わず、仏教系宗教団体の信者や会員などとなったとしても、どこかの檀家寺の檀家であったとしても、それでは仏教徒となったことにはなりません。
ところで、不佞がどこかの寺院などに講演や勉強会などに招かれ、そこでお話をする際、そこに集まった方々に必ず質問することがあります。「このお寺の檀家である人はおられますか?」と。すると、そこに参加している人の多くが、そりゃそのお寺での話ですから、そのほとんどが手を挙げられます。そこで次に「では、ご自身が仏教徒だと思う人。仏教を意識的に信じているという人はありますか?」と尋ねると、その手を挙げていた人のほとんどが手を下げます。
檀家である以上、そして日本文化の根底に仏教があって、その生活にも必ず何らかの関わりがあるため、多少なりとも仏教に興味はある。けれども、自分は意識的に「仏教を信じている」とは思わないし、今のところなろうとも思わない。そもそも信じるといえる程に仏教を知らないし、実際知る必要もない、というのが大体の人の考えのようです。
寺の檀家であるために常日頃その宗派で用いている三帰依文は唱えているし(唱えさせられている?)、なんなら諳そらんじてすらいるという人も多くあります。三帰依文を唱えなければ仏教徒ではない、などと言っても、三帰依文を日頃唱えているけれども私は仏教徒では無い、という人が私の経験上、多くあると思われます。
そこで、「皆さん、習慣としてそう唱えているかもしれませんが、その意味がわかった上で三帰依文を唱えると、宗旨など関係なく仏教徒ですよ」といってその意味を説明し、「唱える唱えないはあくまで自由です」と言って、改めて帰敬文や三帰依文をその講演などでの本題に入る前に唱えます。すると、そこに集まった人はまず決まって一緒に唱えだす。そこで最後に再度、「では自分が仏教徒だという人はありますか?」と尋ねてみると、やっぱりほとんど手を挙げないでフフフと笑う。実に面白いことなので、ついでに私もハハハと笑う。寺の檀家である、ということはそういうことであるのでしょう。
なお、支那以来、日本での伝統的には優婆塞・優婆夷とは、言葉上の定義としては、以下のようなものであるとされます。
優婆塞。優婆夷。肇曰。義名信士男信士女。淨名疏云。此云清淨士清淨女。亦云善宿男 善宿女。雖在居家。持五戒。男女不同宿。故云善宿。此未可定用。荊溪云。依餘經文。但云近佛得善宿名。不可定云男女不同宿也。涅槃疏云。一日一夜。受八戒者。名爲善宿。優婆塞。西域記云。鄔波索迦。唐言近事男。舊曰伊蒲塞。又曰優婆塞。皆訛也。鄔波斯迦。唐言近事女。舊優婆斯。又曰優婆夷。皆訛也。言近事者。親近承事諸佛法故。後漢書名伊蒲塞。注云。即優婆塞也。中華翻爲近住。言受戒行堪近僧住也。或名檀那者。要覽曰。梵語陀那鉢底。唐言施主。今稱檀那。訛陀爲檀。去鉢底留那也。思〈攝の誤写〉大乘論云。能破慳悋嫉妬。及貧窮下賤苦故稱陀。後得大富。及能引福徳資糧。故稱那。又稱檀越者。檀即施也。此人行施。越貧窮海
【優婆塞・優婆夷】 僧肇は「その義は信士男・信士女である」〈『注維摩詰経』〉という。『浄名疏』〈智顗説・湛然筆『維摩経略疏』〉には、「ここ〈支那〉では清浄士・清浄女と云い、また善宿男・善宿女と云う。家に在って居しながらも五戒を持し、男女で宿を同じくしないことから善宿と云う。この意は未だ定めて用いるべきでない」とある。「荊溪〈湛然〉は、他の経文に依れば、ただ仏に近く在ることを善宿の名を得たのであり、定めて男女が宿を同じくしないことを云うものではない。『涅槃疏』は、「一日一夜に八戒を受ける者を、名づけて善宿とする」とある」〈智円『維摩経略疏垂裕記』〉という。優婆塞は、『西域記』〈玄奘『大唐西域記』〉に「鄔波索迦〈Upāsaka〉、唐では近事男と言う。古くは伊蒲塞といい、また優婆塞という。すべて訛謬である。鄔波斯迦〈Upāsikā〉、唐では近事女と言う。古くは優婆斯といい、また優婆夷という。すべて訛謬である」とある。近事と言うのは、諸仏の法に親近し承事することによる。『後漢書』には「伊蒲塞」と言い、その注には「即ち優婆塞である」と云う。中華では翻訳して近住とするのは、戒を受け行じ、僧に近づいて住するに堪えることによる。あるいは(優婆塞を)「檀那」と名づけるのは、『釈氏要覧』〈道誠『釈氏要覧』〉に「梵語では陀那鉢底〈dānapati. 檀越〉、唐では施主と言う。今、檀那と称するのは陀を訛謬して檀とし。鉢底〈pati. 主〉を省いて那を留めたものである。『摂大乗論』〈真諦訳・無著『摂大乗論』〉には「よく慳悋・嫉妬、及び貧窮・下賤の苦を破ることから、陀と称す。後に大なる富を得る。及ち能く福徳の資糧を引くことから、那と称す」とある。また檀越と称するのは、檀とは即ち施であり、その人が施を行うことにより貧窮の海を越えることによる」とある。
法雲『翻訳名義集』巻一 七衆弟子篇第十二(T54, p.1073a-b)
法雲はこの『翻訳名義集』にて、優婆塞(Upāsaka)を近住とも訳すとしていますが、これは不正確な理解です。確かに、優婆塞を近住とも云う場合がありますが、しかしそれは特別な場合であってその原語は別にあります。
鄔波婆娑梵語亦言優波婆娑此云近住謂受 八戒者近阿羅漢等善人而住也
鄔波婆娑〈upavāsa〉梵語ではまた「優波婆娑」とも言う。ここ〈支那〉に云う近住である。すなわち八戒を受けた者であって、阿羅漢等の善人の近くに住すものである。
慧琳『一切経音義』巻四十七(T54, p.620b)
以上のように、同じ優婆塞であっても、八斎戒を受け阿羅漢など出家者の近くに留まる者を、特に近住といいます。その原語はupavāsa、すなわちupa(近くに)+vāsa(留まる・住む)でそのまま直訳となっています。阿羅漢などの傍に留まるとはどういうことか。それは八斎戒を受けた在家信者で斎戒日のみ寺院にて一夜を過ごす場合から、恒常的に八斎戒を守って精舎に起居し、その下働きをする場合などです。『翻訳名義集』の中でも「善宿」との訳が紹介されていますが、それがまさに近住に同じものです。そこで恒常的に寺院に起居する人をまた浄人といい、日本では寺男などともいいます。
法雲はまた、支那における「優婆塞・優婆夷」に対する宋代までの理解を取りまとめて紹介する中、同時代の 道誠『釈氏要覧』も引用していますが、道誠はまるで梵語もそれまでの訳語の意味も理解しておらず、きわめて杜撰な理解を記しています。
いずれにせよ、仏教徒であるかどうかの最低限の基準は「三帰しているかどうか」であり、また進んで「五戒を受けているか」にあります。
優婆塞・優婆夷には五戒に加え、以下の三つ(数え方次第では四つ)の学処を受けることも推奨されています。それは出家修行者の生活に日を限って準じるものであって、八斎戒といいます。日を限るとは、六齋日といわれる新月と満月の日、そしてその中間の月六日間、自ら進んで清らかな一日を過ごすことを勧めたものです。
これは在家者の義務ではなく、自ら率先して実践したいと希望する者に出家者から授けられ、行うものです。
No. | 学処 | 戒相 |
---|---|---|
6. | 不過中食戒 | 正午から日の出まで、固形物を一切口にしない。 |
7. | 不著香華瓔珞香油塗身戒 | 化粧や香水、宝飾品などで身を飾らない。 |
不作唱技楽故往観聴戒 | 音楽や演劇等を自ら為さず、また鑑賞しない。 | |
8. | 不坐臥高広大床戒 | 高く・広いなど立派な寝具や坐具でくつろがない。 |
(八斎戒について、詳しくは別項「Aṭṭhaṅga sīla 八斎戒」参照のこと。)
五戒・八齋戒は、あくまで戒なので、これを実行するかしないかはあくまで本人の意志に依ります。ある人が戒を受けたのにも関わらず、それを平気で破っている、守っていない、などという場合があっても、出家者がその人に対して罰を与えるなどということはありません。あるとしても諫める程度です。
仏教の出家修行者が、在家信者の生活習慣などについて、積極的にあれこれ云々と制限・指導することはまずありません。聞かれれば懇切に教えるでしょうが、仏教の出家者は在家信者の生活について、あまり口を挟みません。
そしてまた、五戒あるいは八斎戒を守らないからといって「ホトケサマが罰を与える」・「バチが当たる」ということもありません。自らがなした行為、作った業の善悪などその質によって、相応の結果がもたらされるに過ぎない。それはあくまで自業自得です。人は他者を救うことを出来ず、自身を救うことが出来るのは自身のみです。
この世に救い主、万能の神などありはしません。人それぞれ異なる宿報としてこの世にあって、そのようにすべてが自分の行いの如何にかかっているということは、むしろ非常に厳しいものであると理解されるかもしれません。故に仏陀が否定された「救済者」や「世界の創造者」なる者の存在を夢見、その存在することを人は願うのかもしれず、実際、仏教の中にはその存在を謳う僧徒があります。
しかし、苦たる我が生存、苦しみの輪環の渦中にあって、そこから真に脱しようとした時、そのような仏教の根本的・核心的見方は欠くべからざるものです。そしてまた、仏教として三宝に対する信を確立した後、五戒はその人生における最も基本的な指針となり、自らを安楽へと運ぶ最初の寄す処となるものです。
仏陀が菩提樹下にて覚りを得られた後、最初のいわゆる仏教徒となった者、それは偶然その近くを通りがかった二人の商人でした。
atha kho bhagavā sattāhassa accayena tamhā samādhimhā vuṭṭhahitvā mucalindamūlā yena rājāyatanaṃ tenupasaṅkami, upasaṅkamitvā rājāyatanamūle sattāhaṃ ekapallaṅkena nisīdi vimuttisukhapaṭisaṃvedī. tena kho pana samayena tapussa bhallikā vāṇijā ukkalā taṃ desaṃ addhānamaggappaṭipannā honti. atha kho tapussabhallikānaṃ vāṇijānaṃ ñātisālohitā devatā tapussabhallike vāṇije etadavoca — “ayaṃ, mārisā, bhagavā rājāyatanamūle viharati paṭhamābhisambuddho; gacchatha taṃ bhagavantaṃ manthena ca madhupiṇḍikāya ca patimānetha; taṃ vo bhavissati dīgharattaṃ hitāya sukhāyā”ti. atha kho tapussabhallikā vāṇijā manthañca madhupiṇḍikañca ādāya yena bhagavā tenupasaṅkamiṃsu, upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ aṭṭhaṃsu. ekamantaṃ ṭhitā kho tapussabhallikā vāṇijā bhagavantaṃ etadavocuṃ — “paṭiggaṇhātu no, bhante, bhagavā manthañca madhupiṇḍikañca, yaṃ amhākaṃ assa dīgharattaṃ hitāya sukhāyā”ti. atha kho bhagavato etadahosi — “na kho tathāgatā hatthesu paṭiggaṇhanti. kimhi nu kho ahaṃ paṭiggaṇheyyaṃ manthañca madhupiṇḍikañcā”ti? atha kho cattāro mahārājāno bhagavato cetasā cetoparivitakkamaññāya catuddisā cattāro selamaye patte bhagavato upanāmesuṃ — “idha, bhante, bhagavā paṭiggaṇhātu manthañca madhupiṇḍikañcā”ti. paṭiggahesi bhagavā paccagghe selamaye patte manthañca madhupiṇḍikañca, paṭiggahetvā paribhuñji. atha kho tapussabhallikā vāṇijā bhagavantaṃ onītapattapāṇiṃ viditvā bhagavato pādesu sirasā nipatitvā bhagavantaṃ (onītapattapāṇiṃ viditvā bhagavato pādesu sirasā nipatitvā bhagavantaṃ) etadavocuṃ — “ete mayaṃ, bhante, bhagavantaṃ saraṇaṃ gacchāma dhammañca, upāsake no bhagavā dhāretu ajjatagge pāṇupete saraṇaṃ gate”ti. te ca loke paṭhamaṃ upāsakā ahesuṃ dvevācikā.
その時、世尊〈bhagavant〉は(成道して)七日を過ぎてその三摩地〈samādhi〉から起たれ、ムチャリンダ樹〈mucalinda〉の下からラージャーヤタナ樹〈rājāyatana〉の処に近づかれた。(そこに)近づかれてから、ラージャーヤタナ樹の下に於いて七日、一度結跏趺坐され、解脱の楽〈vimuttisukha〉を享受された。するとその時、商人タプッサ〈Tapussa〉とバッリカ〈Bhallika〉が、ウッカラー〈Ukkalā〉からの長い旅路の途上でこの地にあった。その時、商人タップサとバッリカの親族・血縁であった神霊〈devatā〉が、商人タップサとバッリカに話しかけた。
「貴君ら!世尊が初めて現等覚〈abhisambuddha〉され、ラージャーヤタナ樹の下にて留まっておられます。往って、かの世尊に麨〈mantha〉と蜜団子〈madhupiṇḍikā〉とを捧げよ。長夜にわたる利養と安楽とがあるであろう」
そこで商人タップサとバッリカは麨と蜜団子とを持って世尊の処に近づいた。近づいてから世尊を礼拝し、傍らに立った。傍らに立って、商人タプッサとバリッカは、世尊に申し上げた。
「大徳!世尊よ、我らの長夜にわたる利養と安楽の為に、麨と蜜団子とを受けたまえ」
そこで世尊は「諸々の如来〈tathāgata〉は(供物を)手ずから受けることはない。私は何を以て、麨と蜜団子とを受けるべきであろうか」と思われた。その時、四大天王〈catur mahārāja〉は、世尊が心に思われていることを理解し、四つの方角から四つの石鉢〈selamaya patta〉を世尊に献上した。
「大徳!世尊よ、これによって麨と蜜団子とを受けたまえ」
と。世尊は新しい石鉢を受けられ、麨と蜜団子とを受けて召し上がられた。そこで、商人タプッサとバリッカは、世尊が鉢と手を洗われたのを知り、世尊の足を頭を以て礼して申し上げた、
「大徳!ここに私達は、世尊と法〈dhamma〉とに帰依いたします。世尊よ、優婆塞〈upāsaka〉として受け入れたまえ。今より以降、命が尽きるまで、帰依いたします」
と。彼らは世間に於いて初めて二帰依を唱えた優婆塞であった。
Vinaya Piṭaka, Mahāvagga, Mahākhandhaka, Rājāyatanakathā
以上のように上座部([P]Theravāda)が伝持してきた『パーリ律』には、その商人とは長い道のりを経てウッカラー([P]Ukkalā)という地から中インドを訪れていた、タプッサ([P]Tapussa)とバッリカ([P]Bhallika)の二人であったと伝えられています。ウッカラーとは現在の東インドはオリッサであったとされます。
(Bhallikaは、『仏本行実経』では「跋梨迦」と音写し、パーリ仏典の注釈書Paramatthadīpanīではその名がBhalliyaとやや異なって伝えられ、二人の出身地はPokkharavatī-nagaraであったとされています。また、Tapussaは『仏本行実経』にて「帝梨富娑」としていますが、これは[S]Trapusaの音訳であろうと考えられています。)
この話はまた、上座部([S]Sthavira nikāya)系の法蔵部([S]Dharmaguptaka)が伝持した律蔵の漢訳であり、また唐代以降の支那および日本で最も依行されてきた『四分律』に、ほぼ同様のものが伝えられています。
爾時世尊。於彼處盡一切漏。除一切結使。即於菩提樹下。結加趺坐。七日不動。受解脱樂。爾時世尊。過七日已。從定意起。於七日中未有所食。時有二賈客兄弟二人。一名瓜二名優波離。將五百乘車載財寶。去菩提樹不遠而過。時樹神篤信於佛。曾與此二賈客舊知識。欲令彼得度。即往至賈人 所語言。汝等知不。釋迦文佛如來等正覺。於七日中具足諸法。於七日中未有所食。汝等可以蜜麨奉獻如來。令汝等長夜得利善安隱快樂。爾時兄弟二人。聞樹神語已歡喜。即持蜜麨往詣道樹。遙見如來顏貌殊異。諸根寂定最上調伏。如被調象無有卒暴。如水澄靜無有塵穢。見已發歡喜心。於如來所前至佛所頭面禮足在一面立。時二人白世尊言。今奉獻蜜麨慈愍納受時世尊復作如是念。今此二人奉獻蜜麨。當以何器受之。復作是言過去諸佛如來至眞等正覺。以何物受食諸佛世尊。不以手受食也。時四天王立在左右。知佛所念。往至四方。各各人取一石鉢。奉上世尊。白言。願以此鉢。受彼賈人麨蜜。時世尊慈愍故。即受四天王鉢。令合爲一。受彼賈人麨蜜。受彼賈人麨蜜已。以此勸喩。而開化之。即呪願言所爲布施者 必獲其利義汝等賈人。今可歸依佛歸依法。即受佛教言。大徳。我今歸依佛歸依法。是爲優婆塞中最初受二歸依。是賈客兄弟二人爲首。
若爲樂故施 後必得安樂
その時、世尊は、その処に於いて一切の漏〈āsrava〉を尽くし、一切の結使〈saṃyojana〉を除き、即ち菩提樹の下に於いて結加趺坐して七日動かれず、解脱の楽を受けられた。その時、世尊は七日を過ぎてから、定意〈samādhi〉から起たれた。その七日の間、未だ何も召し上がられていなかった。そこに二の商人の兄弟二人があって、一人は瓜〈Trapusaの漢訳〉といい、もう一人は優波離〈Upāli〉といった。五百の乗車を率いて財宝を載せ、菩提樹からさほど遠くないところを過ぎようとしていた。その時、(菩提)樹の神霊は篤く仏を信じており、かつてその二人の商人の親族であった。そこで彼ら(商人ら)を得度しようと思い、商人の所に至って言った、
「汝等は知るであろうか、釈迦文〈Śākya-muni〉の仏・如来〈tathāgata〉・等正覚〈samyak-saṃ̣buddha〉が、七日の間、諸々の法を具足し、七日の間に未だ何も召し上がられていない。汝等は蜜と麨とを如来に奉献せよ。(その功徳は)汝等をして長夜にわたり利善・安穏・快楽を得させるであろう」
と。その時、兄弟二人は樹の神霊の言葉を聞いて歓喜し、蜜と麨とを持って道樹に往詣し、遙かに如来(のお姿)を見奉るに、その顏貌は殊の他に優れており、諸々の感覚が静まることこの上ないほど調っていた。調教された象のように粗暴な振る舞いがなく、水が澄んで静まっているように濁りや汚れもなかった。それを見て歓喜の心を如来に対して起こすと、行って仏の所に至り、頭を(仏の)足に付けて礼拝し、その傍らに在って立った。そして二人は世尊に申し上げた。
「今、蜜と麨とを奉献いたします。慈しみ愍れんでお受けください」
すると世尊はまたこのような思いを起こされた、「今、この二人は(私に)蜜と麨とを奉献したが、いかなる器を以てこれを受けるべきであろうか」と。そしてまたこのように言われた、「過去の諸仏、如来、至眞等正覚は、いかなる物を以て食を受けたであろうか。諸仏、世尊は手を以て食を受けることはない」と。
その時、四天王が立って(世尊の)左右にあり、仏の思いを知って四方に行き、各各が一つの石鉢を取ってきて世尊に奉って言った。
「どうかこの鉢を以て、あの商人の麨と蜜とをお受けください」
そこで世尊はこれを慈しみ愍れ、四天王の(四つの)鉢を受け合わせて一つとされ、その商人の麨と蜜とを受けられた。その上人の麨と蜜とを受けおわると、このように勧め諭されて彼らを教化し、呪願して言われた。布施をする者は、必ずその利義を獲る。「汝、商人らよ、今こそ仏に帰依し、法に帰依せよ」
もし楽の為に施したならば、後に必ず安楽を得る。
(その商人二人は)そこで仏の教えを受けて言った。
「大徳よ、私は今、仏に帰依し、法に帰依いたします」
これを優婆塞の中の最初の受二帰依とし、この商人の兄弟二人をその首とする。
『四分律』巻三十一 受戒揵度之一(T22, pp.781c-782a)
『四分律』では、その商人二人を瓜(Trapusaの漢訳)と優波離(Upāli)として『パーリ律』とは一人異なる名を伝え、またいずこの地からの人であったかを記していません。
この律蔵における二人の商人の話は、また他のいくつかの仏典にも伝えられています。しかし、遥か後代の異邦の人、唐の玄奘が二人の出身地が意外も意外、中印度から甚だしく遠い地であったことを記しています。
縛喝國。東西八百餘里。南北四百餘里。北臨縛芻河。國大都城周二十餘里。人皆謂之小王舍城也。《中略》
大城西北五十餘里至提謂城。城北四十餘里有波利城。城中各有一窣堵波。高餘三丈。昔者如來初證佛果。起菩提樹方詣鹿園。時二長者遇被威光。隨其行路之資遂獻麨蜜。世尊爲説人天之福。最初得聞五戒十善也。既聞法誨請所供養。如來遂授其髮爪焉。二長者將還本國請禮敬之儀式。如來以僧伽胝舊曰僧祇梨訛也方疊布下。次欝多羅僧。次僧却崎舊曰僧祇支訛也又覆鉢。竪錫杖。如是次第爲窣堵波。二人承命各還其城。擬儀聖旨式修崇建。斯則釋迦法中。最初窣堵波也
縛喝国〈バクトリア〉は東西八百余里〈約450km〉、南北四百余里〈約225km〉あって、北は縛芻河〈Vakśu. アムダリヤ川〉に面している。国の大都城は周囲二十余里〈約11km〉ある。人は皆、これを「小王舍城」と呼んでいる。《中略》
大城の西北五十余里で提謂城〈Trapusa〉に至る。城の北四十余里に波利城〈Bahalika〉がある。城の中にはそれぞれ一つ窣堵波〈stūpa. 仏塔〉があって、その高は三丈余り〈約11m〉。昔、如来が初めて仏果を証され、菩提樹から起って鹿園〈Mṛgadāva. 鹿野苑〉に行こうとされた時、二人の長者が(如来の)威光を被り、その行路の荷として持っていた麨と蜜とを献上した。世尊は(彼らの)為に(布施による)人天の福徳を説かれ、(人として)最初に五戒と十善とを聞くことが出来た。(長者二人は)その法教を聞きおわると、(世尊に何か)供養し得るものを請い、如来は請われるままにその髮と爪とを授けられた。二人の長者は本国に還るに際し、(その髪と爪を)礼敬する方法をお尋ねした。すると如来は僧伽胝〈saṃ̣ghāṭi. 大衣〉古くは「僧祇梨」と言うが、訛謬であるを四角に疊んで下に敷き、次に欝多羅僧〈uttarāsaṅga. 上衣〉、次に僧却崎〈saṃ̣kakṣikā. 覆肩衣〉古くは「僧祇支」と言うが、訛謬であるを敷き、そこにまた鉢を伏せて錫杖を立てられた。そのような次第で窣堵波とされたのである。二人はそのご指示を受け、それぞれその城に還って、(如来がお示しになった)聖旨の式の通りに荘厳なものを建立した。それがすなわち釈迦の法における、最初の窣堵波であった。
玄奘『大唐西域記』巻一(T51, pp.872c-873a)
玄奘が伝え聞いたところに依れば、史上最初の仏教徒であった二人の商人の出身地は西アジアのBactria、現在のアフガニスタン北部のBalkhであったようです。当時、すでに印度との交易が盛んであったようで、この伝承はあながち伝説とも言えません。現在のバルフからオリッサまで直線距離としては2,600kmにもなりますが、そのまさに途上に釈尊が成道されたGayāがあります。
もっとも、ビルマにおける伝承では、タプッサとバッリカの二商人は海路で中インドと通商していたモン族の人であったとし、その時、仏陀から与えられた髪と爪とを祀ったのが現在のヤンゴンはダゴンに立てられた、Shwe-dagon Payāであるとしています。
ところで、今仮に二つのみ示した律蔵において同じく言及されているように、二人の商人は、仏・法・僧の三宝でなく、仏・法の二帰依によって仏教徒となったとされます。というのも、当時は釈尊が成道された直後であって、いまだ僧伽が組織される以前であったためです。僧伽が成立するのはこのやや後、しかも場所を変えたバラーナシーの仙人鹿苑におけることであり、かつて苦行を共にした五比丘が釈尊の教化によって次々弟子となった時のことです。
(僧伽については別項、「七衆 ―仏教徒とは」を参照のこと。)
その五比丘のうち、初めて釈尊の出家の弟子、比丘となったのが阿若憍陳如([S]Ājñāta-Kauṇḍinya / [P]Aññāsi-Koṇḍañña)です。阿若とは「理解した」・「気づいた」を意味する[S]Ājñāta / [P]Aññāsiの音写であり、最初にその法を理解する者が現れたことに対する釈尊の喜びの言葉がそのまま敬称となった栄誉あるものです。
なお、僧伽が組織されて後、三帰依によって優婆塞となった初めての人は、五比丘の後、六番目の出家の弟子となった耶輸伽(耶舎 / [S]Yaśas / [P]Yasa)の父親であったとされます。続いて三帰依、というよりそもそも初めての優婆夷となったのは、耶輸伽の母親と元妻の二人であると伝えられています。
仏陀の教えに触れ、そのかけがえのない価値のあることを幾分かでも認めることが出来たならば、誰か師となる人を定め、あるいは自ら仏前などにおいて心中秘かに、しかし真剣に三宝に帰依し、我が苦なる生の導師として生きることを勧めます。
非人沙門覺應