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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲『律法中興縁由記』

原文

予これを故大和尚だいわじょうに聞けり。

明忍みょうにん律師は俗姓中原なかはら氏。幼にして聡慧なりき  後陽成ごようぜい天皇の朝にぬきんてられて少外記しょうげき右少史うしょうしに補せらる。弱冠に世を厭て高雄山たかおさん晋海しんかい僧正に歸投して薙染ちせんす。僧正つねに稱す。吾門わがもんの精進幢なりと。居諸おしうつるに隨て。瑜伽ゆが加行けぎょう兩部りょうぶ灌頂かんじょうその授受淵玄を究む。ある時秋なかばすぎ楓紅葉をもよほす比。共に庭中に在て月を賞す。僧正因に云く。予いま大樹君の歸敬ありて世榮分に過ぎ。身壯健にして諸の痛痒つうようなし。人間に在て賤人ならず。しかあれど自から省みるに眞出家ならず。是のみ自ら恨むるところなりと。師これを聞いて云く。世人上下みな吾僧正の高德を仰がざるなし。何の慊らざることありてみづから眞出家ならずとのたまふや。僧正云く。眞出家とは世榮の僧都僧正等の官級ならず。正法のなか戒法を以て位とす。出家は出家の戒あり。在家も在家の戒あり。七衆しちしゅ位をわかちて毫も僭踰せんゆすべからず。吾幼より出家して女色にょしき肉食にくじきたぐひなしといへども。比丘びくしょうを成ぜざれば僧寶の數につらなることを得ず。紫緋の衣出家の服にあらず。茶香鞦鞠佛菩薩の作業ならず。吾これを思はば。ことに寝食やすからず。師云く。吾僧正すでに眞出家ならずとのたまへば。小子はいかに。僧正云。我すでに眞出家ならねば。汝は我弟子なり。我にしたがふ者なり。古にいはずや。けん師とひとしければ師に半德を减ず。見師に倍してまさに傳授するに堪たり。師此言を聞て涙を流して云く。小子卑官少祿の身なれども。父祖の餘業を棄て出家す。唯眞正の人として自ら覺位に登り普く人天を度せん爲なり。僧正たとひ眞出家ならずとも。小子をして戒法滿足眞出家となし給ふべし。僧正云。われすでに無戒むかいなり。世にまた眞正の出家なし。いかんして汝に戒法を授與せん。濁世に生れ出しならひ。いかんともすべき理なし。師こゝに於て悲泣して自ら堪ず。床より轉墮して自ら起ことあたはず。僧正安慰して曰。徒に憂愁することなかれ。我これを聞り。春日大明神かすがだいみょうじん我日本の擁護として佛法ぶっぽう扶助ふじょしたまふ。古德も我力の及ばぬことは此神助を得て法を成就したまふ。汝もし此神託を得ば藍靑らんしょう利益りやくあるべしと慇懃に敎誡す。

現代語訳

私は、これを故大和尚〈忍綱貞紀〉から聞いた。

明忍律師は俗姓中原氏。幼い頃から聡慧であった。後陽成天皇の朝儀に抜擢され、少外記右少史に補せられる。そして弱冠、世を厭いて高雄山晋海僧正に帰投して薙染した。僧正は(師をして)
「我が門の精進幢〈精進の象徴. 精進第一〉である」
と常に称えていた。(師は僧正のもとで)時節を過ごしていくなか、瑜伽加行〈四度加行〉そして両部潅頂〈伝法灌頂〉を授けられ、その淵玄を究めた。ある時、秋も半ば過ぎ、楓が紅葉をもよおす頃、共に庭に面する部屋にて月を鑑賞していた。そこで僧正が話しついでにこのように言われた。
「私は今、大樹君〈徳川家康〉の帰依を受け、世の栄華を受けること分に過ぎ、身体も壮健であって何の痛痒もない。人社会において賤人でもない。しかしながら、自らを省れば真の出家者でもない。これだけが自ら残念でならないことである」
と。師はこれを聞いて、
「世人は上下みな、我が僧正の高徳を仰ぎ敬っています。何の不足があって自ら真の出家者ではないと仰るのですか」
と問う。すると僧正は、
「真の出家者とは、世の栄華たる僧都・僧正等の官位を受けることではない。正法の中では戒法をもって位とするのである。出家には出家の戒があり、在家にも在家の戒がある。七衆という立場をわきまえて、わずかばかりも僭踰してはならない。私は幼い頃から出家し、女色・肉食の類など犯したことはないが、(具足戒を受け)比丘の性を得ることがなければ僧宝の数に連なることは出来ないのだ。紫や緋の衣など出家の服ではなく、茶や香、鞦鞠など仏・菩薩のなされることでない。私はこれらのことを思うと、寝食するにも心が重く沈む」
と言われる。そこで師は聞く、
「我が僧正がすでに真の出家ではないと仰るならば、小子は一体どうなのでしょう」
僧正は答える、
「私が真出家ではないならば、汝は私の弟子である、私に従う者である。昔から言うであろう、『見、師とひとしければ師に半徳を減ず。見、師に倍してまさに伝授するに堪えたり』と」
師はこの言葉を聞いて涙を流して言われた、
「小子は、たいした官位もなく少禄の身ではありましたが、父祖の家業を棄てて出家いたしました。それはただ真正の人として自ら悟りの位に登り、普く人々と神々とを教え導かんとする為です。僧正がたとえ真出家でなかったとしても、どうか小子をして戒法満足した真出家として下さい」
と。僧正は言う、
「私は無戒なのだ。そして、今の世にはまた真正の出家は存在しない。どうして汝に戒法を授与し得ようか。濁世に生まれいでた以上、如何ともすべき理はないのだ」
師は、この言葉を聞いて、悲しみの涙が溢れるのを止めることは出来ず、床より転げ落ちて自ら起つことも出来なかった。僧正はこれを慰めて言われた、
「汝、起きなさい。いたずらに憂愁することはない。私はこのような話を聞いている。春日大明神は我が日本の擁護として仏法を扶助されていると。古徳も、自身の力が及ばぬことは、その神助を得て法を成就されてきた。汝がもしその神託を得られたならば、藍青の利益があるに違いない」
と、慇懃に教誡された。

脚註

  1. 大和尚だいわじょう

    忍綱貞紀。慈雲の出家の師。慈雲に悉曇、密教、両部神道を授け、また漢籍の教養を備えさせるべく伊藤東涯の元に出すなど、その素養をつけさせた大恩人。慈雲は忍綱なくして慈雲たりえなかったが、それを慈雲は自らよく認識していた。

  2. 後陽成ごようぜい天皇

    第一百七代天皇(在位1586-1611)。

  3. 高雄山たかおさん

    神護寺。

  4. 晋海しんかい僧正

    守理晋海。京都の清原氏(広澄流)出身、清原枝賢の次男。長男は後に清原氏を改め舟橋氏を称してその祖となり、また『慶長日件録』を遺したことでも著名な舟橋秀賢の父、清原國賢。すなわち、晋海は舟橋秀賢の叔父であった。当時、多くの公家や廷臣の嫡子以外がいずこか仏門に入らされていたように、高尾山法身院に預けられて出家。後に仁和寺第二十世厳島御室任助親王から灌頂を受け、これをまた南御室覚深親王に伝えた。南北朝時代の天文年間〈1532-1555〉に兵火で甚だ荒廃していた高雄山神護寺の復興に尽力するに際しては、徳川家康の帰依を受け寺領千五百町歩(三百戸)を下賜され、また寺の三里四方の山林を伽藍復興の為にと与えられて復興の財とした。神護寺の法身院をその居としていたため当時は「法身院」あるいはただ「僧正」と称されている(実際の僧位は権僧正)。天正十六年〈1588〉、大覚寺にて誠仁(さねひと)親王の第二王子、空性法親王(大覚寺宮)の師となって得度授戒している。
    清原氏と中原氏とが非常に近い関係にあったこともあって明忍の幼少期から学問の師であった。明忍の師僧となって以降はむしろ明忍から戒律復興への熱情に影響を受け、その良き理解者で後援者となり、平等心王院の復興に経済的支援をしている。そして実際に戒律復興に際してはその一員とすらなっている。律師が逝去した翌年の慶長十六年三月二日に遷化。。

  5. 薙染ちせん

    髪を剃り、俗服を脱いで袈裟衣をまとうこと。出家すること。

  6. 瑜伽ゆが加行けぎょう

    四度加行。密教入門の行。四種の異なった典拠に基づいた行。十八道加行・金剛界加行・胎蔵加行・護摩加行。瑜伽はyogaの音写で密教の三密行を意味し、加行とは繰り返し行うことの意。

  7. 兩部りょうぶ灌頂かんじょう

    金剛界曼荼羅ならびに大悲胎蔵生曼荼羅における灌頂を受けること。灌頂とは、頭頂に(香水・香油を)濯ぐという儀式の内容を示した言葉。インドにおける国王の即位式に基づくものであるというが、密教においては国王の位を継ぐというのではなく、法を継承するという意味において行われる。基本的に真言宗では、これら二種の灌頂の授受をもって、伝法・受法の最終とされる。

  8. 七衆しちしゅ

    仏教徒の七つのあり方。比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼・式叉摩那(正学女)・優婆塞・優婆夷。

  9. 比丘びくしょう

    仏教における正式な出家修行者、すなわち比丘たること。比丘としての本質、資格。

  10. けん師とひとしければ師に...

    弟子の見識・見解がその師とまったく同様・等しいようであるようならば、弟子はその師の徳を半減させることになる。師の見識をさらに超えるものであってこそ、その弟子は法を伝授されるに値する、との意。禅家の言葉。ここでは「倍して」となっているが、一般には「過ぎて」。「見与師斉、減師半徳。見過於師、方堪伝授」『鎮州臨済慧照禅師語録』行録。この一説はまた『景徳伝灯録』にも見える。

  11. 無戒むかい

    戒、ここでは特に律を受けていないこと。姿は僧のようであっても僧ではないこと。
    平安後期以来、すでに東大寺戒壇院などにおける授戒の制が乱れ、ただの通過儀礼と化して以降、しばしば僧はみずから「無戒名字の比丘(具足戒を受けていない、名目や格好だけの比丘、似非出家・似非坊主)」などと言った。律の伝統は一度滅びたならば、それを復活することが極めて困難となる。中世鎌倉期初頭に覚盛・叡尊らにより、自誓受戒という甚だその正当性が疑われる方法により果たされたが、その流れすら室町期には断絶し、慶長の世に至るまで日本仏教総じて再びまったく無戒となっていた。

  12. 春日大明神かすがだいみょうじん

    もとは藤原家一門の氏神を祭った社。タケミカズチノミコト、イワイヌシノミコト、アメノコヤネノミコト、ヒメガミの四柱が祀られる。
    戒律復興について、伝承では鑑真大和上以来もしくは明恵上人以来浅からぬ因縁ある神と考えられた。特に鎌倉期に僧俗・貴賎の信仰を集め、日本の護国神、あるいは仏法守護の神として尊崇された。慈雲にも春日明神に関する霊潭が伝えられている。

  13. 佛法ぶっぽう扶助ふじょしたまふ

    鎌倉期、春日明神が国ばかりでなく仏法を守護する神であるとの認識がなされていた(『沙石集』)。それは明恵や貞慶の行業に絡めて伝えられる。その後、おそらくは室町期より春日明神が「戒法を守る」存在であるとの伝承が生じていたようで、近世の戒律復興によりよく言及された。『聖誉鈔』「一。春日大明神。大同年中託宣。以左眼護加我朝庭。以右目守護法相宗。云云 私云。是亦右御目ヲ以佛法。《中略》又春日山ヨリ金招提西大。大明神諸神具足。御影向アリテ。戒法守リ玉ト云。夢ヲ見ル者アリ。眞不思議靈瑞共多ク侍ケリ。

慈雲尊者について

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