VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲『律法中興縁由記』

原文

傍に彈指たんじして驚しよる人有り。持法華の行者と見へて。ふさ長き數珠を持し。略五条りゃくごじょうの常よりは大なるを着たり。告て云。兩師の相語りたまふ。予が側に侍るを許し給へ。友尊云鄙語ひご何ぞ高聞をけがさんと。行者云。かくし給ふな。その趣をきけり。不肖も從來志願あり。日蓮宗の徒たれども。今の衆徒の言ところおこなふところ正法正儀ともおもひがたし。もと丹波なるが。近比一派の交りを絕して。この南方三室山みむろやまの麓にかくれ居れり。今日此社に詣せるに。二師の御物がたり。まことに神託とも佛勅とも自ら宿善の開發せる因縁とおもふ。相ともに喃々として三人莫逆となる。是を觀行即かんぎょうそく慧雲えうんとす。遂にともなうて西大寺に入り律法の通塞つうそくを修學し。相ひきゐて京師に歸り。栂尾山とがのおさんに在て春日住吉の神前に好相を祈請し自誓受戒したまふ。慶長七年壬寅のとし也。後法を支那に求るの志を發して對馬島にゆき。海舶かいはくの便りをまち給ふ。其發錫の折浪華なには川口かわぐちにして眞空阿しんくうあに十善を授與し。因に春日の神託護法の綱要をいひのこし給ふ。餘は別傳に詳かなり

眞空阿律師は行業純一にして。跡をかくし名を埋み。和州に隱遁して世を終給ふ。其弟子慈忍慧猛じにん えみょう律師と云。河州の産秦氏の後裔也。秦氏は秦王子嬰しえいの裔也。楚王の暴を避て本朝に歸投す。其遠孫大津父おおつち 欽明天皇の朝に大藏卿に任ぜらる。その後川勝かわかつ聖德太子に事て功あり。爾後世うつり時たがうて。世々秦村の樵夫たり。律師在俗家ことに貧し。母に事て孝あり。幼より出俗の志ありて淨行を護持す。母沒して眞空律師に投じて薙染す。その求法精勤本傳ほんでんに詳なり。後別に野中寺やちゅうじを開て僧坊の基をなす。緇素しその化ひろし。其なか慈門信光じもん しんこう律師。戒山慧堅かいざん えけん律師。先和尚せんわじょうと併て三傑と稱す。各々化を分て一方に巨擘たり。各々別傳あり

經巻きょうかんのうらを汚す。其恐あれども。此は律法末葉に中興の基なれば。弘通の緣由をなすに足れり。爰に於て先師の傳へをそのまゝに記する也

小比丘मैत्रमेघ拜記

現代語訳

すると傍に弾指して注意を引きつつ近づいて来る人があった。持法華の行者と見えて、房の長い数珠を持ち、略五条〈腰回りだけを覆う袈裟衣に似せた布. 威儀五条、威儀細とも〉の普通より大きな袈裟〈日蓮宗が独自に造った略五条を少し大きくした布〉を着ていた。そこで、その人が語っていう。
「両師が相い語られているのに、私が側に侍るのをお許しください」
そこで友尊は、
「つまらぬ話でどうして高聞を汚せましょうか」
と答える。行者は言う。
「お隠しなさるな。その趣をお聞きしました。不肖も従来、志し願うことがあります。私は日蓮宗の徒ながら、今の(日蓮宗)衆徒の言ふところも行うところも正法・正儀とも思えるものでありません。元は丹波におりましたが、近頃一派の交りを絶って、この南方にある三室山〈三輪山〉の麓に隠れ住んでおります。今日、この社に詣でたところ、お二人が相い語られるのに出くわしましたが、まことに神託とも佛勅とも自らの宿善が開発した因縁とすら思われます」
それから相い語り合って留まること無く、三人は莫逆の友となった。この人を「観行即の慧雲」という。やがて(三人は)伴って西大寺に入って律法の通塞〈律学の詳細〉を修学し、相ひきいて京都に帰り、栂尾山〈高山寺〉にあって春日・住吉の神前にて好相を祈請し自誓受戒された。慶長七年壬寅〈1602〉の年である。その後、(師は独り)法を支那に求める志を発して対馬に行き、渡航の便りを待たれた。その出立の際、浪速の川口において、真空良阿公に十善を授与され、さらに春日の神託、護法の綱要を言い残された。その他は別伝〈月潭『明忍和尚行業曲記』等〉に詳かである。

真空良阿律師は行業純一であって、(世間から)跡をかくして名を埋め、和州〈大和国〉に隱遁して生を終えられた。その弟子を慈忍慧猛律師という。河州〈河内国〉の出身で、秦氏の後裔である。秦氏は秦王子嬰〈秦の始皇帝の長男扶蘇の子〉の末裔である。楚王の暴虐を避けて本朝に逃れて帰化した。その遠孫、大津父は欽明天皇の代に大蔵卿に任ぜられている。後、秦河勝は聖徳太子に仕えて功績を挙げた。その後、世が移り時代も変わって、代々秦村の樵夫となった。律師の在俗時、家は特に貧しかった。母を事えて孝を尽くした。幼い頃から出家脱俗の志があって浄行を護持していた。母が亡くなって真空律師の元に投じて薙染した。その求法精勤の様は本伝〈戒山『慈忍猛律師伝』〉に詳しい。その後、別に野中寺を開いて僧坊の基を築いた。緇素を教化すること遍く広いものであった。その中、慈門信光律師と戒山慧堅律師は、先和尚〈洪善普摂. 忍綱の師〉と併せて三傑と称した。それぞれ世人を教化を分かってその地の巨擘であった。(三師)それぞれに別伝がある。

経巻〈『瑜伽戒本』〉の裏を汚す恐れがあるものの、これは律法末葉に中興の基であることから、(律法)弘通の縁由を示すのに足るものである。ここに先師の伝えをそのまま記した。

小比丘मैत्रमेघ〈Maitramegha. 慈雲の梵名〉拝記

脚註

  1. 彈指たんじ

    指を弾き鳴らして音を立てること。人差し指と親指を使い、親指でもって音をなす。インド以来の人の注意をひく際にもちいられる所作。
    例えば、インドにはこの弾指をもちいて説明される時間単位がある。インドではその昔(仏教では今でも)、サンスクリットでKṣaṇa(刹那)という時間単位が用いられたが、その刹那とは、弾指して音を立てるに要する時間の六十五分の一であるという。すなわち、一瞬と言うにすら満たない極めて短い時間。それは心が生じて滅するまでの最短の時間であると言われる。

  2. 持法華じほっけの行者

    ここでは日蓮の徒。日蓮以前、平安期にも特に法華経を信仰した行者のあったことが知られ、彼らもまたそのように呼ばれた。

  3. 略五条りゃくごじょうの常よりは大なる

    五条は比丘の常に携行あるいは纏うべき三衣のうち、腰に巻き付ける下衣。支那・日本ではその条数が五あることから五条袈裟と言われる。
    衣の大きさには律蔵に規定があり、下衣に関して言えば纒った時に「三輪(臍と両膝)を隠す」のが最小の大きさとされる。
    しかしながら、日本ではこの規定がいつの間にか無視され、これを小さくして腰まわりを隠す程度の大きさにまで縮小。左肩にかける布紐もしくは板状の長い布を追加して儀礼的に着用する形式のものが通用していた。これを略五条あるいは威儀五条といい、今でも真言宗や天台宗で用いられている。鎌倉期の絵巻物などには僧がこれをまとっているのを目にしうるであろう。あるいは、僧兵が頭にかぶって顔を隠すのに用いている白い布は、もとこの略五条。頭にかぶることから、これをまた寡頭袈裟などと言う。日蓮宗では、これら南都や平安で用いられていたものを独自にさらに改変し、やや大きくして形式を若干変えたものを用いだしたが、文中で言われているのはそのこと。

  4. 鄙語ひご

    田舎者の言葉。つまらない、卑しい言葉。

  5. 三室山みむろやま

    三輪山の別称。実際の所、慧雲が隠れていたのは丹波の山中であり、明忍が慧雲に出会ったのは三輪山であって春日社ではなかったであろう。それがここでは慧雲が隠棲していた場所が三輪山とされている。
    春日神が「戒法をまもりたまう」存在であることに事寄せられ、戒律復興した僧らが出会うのにふさわしい場所として、三輪山が春日に代わったのであろう。その変更は慈雲や忍綱によってなされたのではなく、すでに元禄の頃に明忍らが中興した槇尾山平等心王院にてなされていた(『西明寺流記』)のが野中寺に伝えられ、慈雲にまで語り継がれたものであった。しかし、三輪山も戒律復興にまったく関わりがなかったことはなく、三輪山の神宮寺は西大寺の末寺の一つであった。おそらく、明忍や慧雲が三輪山に言ったのには必ず理由があり、当時そこで律学の講説か何か動きがあったように思われる。

  6. 觀行即かんぎょうそく慧雲えうん

    慧雲蓼海。明忍と共に戒律復興を果たした僧。和泉出身、もと日蓮宗徒。「観行即の慧雲」とは、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」に、観行とは止観のことであって、衆中において止観に最も詳しかったということに依る称であったという。慶長十五年〈1610〉、明忍が対馬において客死した後、平等心王院の第二世住持となる。 戒律復興の騎手としてただ明忍のみが著名であるが、実際として明忍が具体的に後進を指導したという実績はほとんどなかった。それはほとんど慧雲が主として担ったのであり、また槇尾山の僧坊としての基礎を築いたのも彼であった。しかし、慧雲もまたその翌十六年三月二日あるいは翌々年の十七年二月二日、高雄山神護寺にて示寂。行年は明らかでない。

  7. 通塞つうそく

    律には一般に二百五十戒などといわれ、二百五十の規則・規定があるようにいわれるがそれだけではない。二百五十戒というのは、あくまで戒本(波羅提木叉)にまとめられたものの数にすぎず、他にも多くの規定・禁則事項が律蔵に記載されている。故に、僧侶は波羅提木叉だけではなく律蔵そのものを読み、すべからくその内容をすべて把握しておく必要がある。例えば一つの禁止事項があったとして、それにはまずなぜその規定がなされたかの原因が語られ、そしていかなる場合が罪となり、また無罪となるかなど、いくつかの例外や条件が載る。この如きいかなる場合が罪でいかなる場合が罪とならないかなどのことを、通塞という。要するに律における如法あるいは合法と、非法との区別のこと。

  8. 栂尾山とがのおさん

    高山寺。慶長の当時、室町期から神護寺の別院であった。明恵上人が拠点とした地で、晋海が領した神護寺の管理化にあり、明忍はその経蔵にあった明恵の書を盛んに写し取っている。明忍の諱はもと以白であったが、おそらく自誓受戒後に明恵の名を一字とって明忍としたと考えられる。明忍は叡尊だけでなく明恵を追慕しており、その先蹤の地である栂尾山の鎮守であった春日・住吉の社前は自誓受戒の場としてふさわしいと考えたのであろう。

  9. 海舶かいはくの便りをまち給ふ

    当時、日本は明を目指した朝鮮征伐が終わったばかりで、朝鮮とも明とも外交は断絶しており、その渡航は厳しく禁止されていた。明忍は、出立以前からその事実を承知していたことであろうが、あるいは何か迂回・密航の術もあるかと対馬に渡ったのであろう。しかし、明忍は現地で情報収集しているうち、明も朝鮮も仏教は衰退して求める法の無いことを知った。

  10. 浪華なには川口かわぐち

    現大阪市西区の川口。当時、川口に港があった。

  11. 眞空阿しんくうあ

    真空了阿。薩摩出身。槇尾山平等心王院の衆徒で、明忍・晋海・慧雲・友尊・玉圓により復興された律の法脈のその初期に連なる人。伝承では浪華川口の港にて対馬に渡らんとする明忍に出会い、そこで十善戒を授けられたという。寛永三年〈1626〉四月十日、槇尾山にて自誓受。共に受戒したのは槇尾山十世となる了運不生律師。
    その後の寛永十五年〈1638〉、野中寺を中興することとなる慈忍慧猛の師となり、また雲龍院の正專如周が改めて自誓受戒するに際しての証明師となるなど重要な役割を果たしている。正保四年〈1647〉四月廿六日示寂。世寿五十四歳。慈雲は真空了阿を「十善の系統」において、十善を俊正明忍から継いで慈忍に伝えた重要な人として位置づけている。

  12. 慈忍慧猛じにん えみょう

    槇尾山平等心王院にて自誓受戒して比丘となり、その後に宇治田原の巌松院に派遣されてその二世となり中興に勤めた人。やがて槇尾山と袂を分かち、天下の三僧坊とのちに謳われるようになる野中寺を中興している。

  13. 子嬰しえい

    秦の始皇帝の長男、扶蘇の子。

  14. 大津父おおつち

    秦大津父。欽明天皇が幼少時、夢に秦大津父を寵愛したならば皇位に就くことが出来るとあった。欽明天皇は皇位に就いてすぐ、大津父を大蔵省に就かせた。

  15. 川勝かわかつ

    秦河勝。聖徳太子の近侍であったとされる人。

  16. 本傳ほんでん

    戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

  17. 野中寺やちゅうじ

    現大阪府羽曳野市野中にある寺。創建は聖徳太子によると伝承される。慈忍の当時は荒廃して刑場となって寺名だけあった。慈忍が復興して後、その死後に弟子らによって僧房として整備された。慈雲当時の本堂並びに僧坊(比丘寮・沙弥寮)・食堂などが残る。塔は消失してない。「のなかでら」とも呼称される。

  18. 緇素しそ

    出家者と在家者。緇とはねずみ色(鈍色・灰色)を意味し、素は白色を意味する。それぞれその着用するところの衣の色から言われるようになった語。

  19. 慈門信光じもん しんこう

    京師の井口氏出身、寛永元年〈1624〉生(?)。初め洛西長遠寺任可禅師について出家した禅僧。後に槇尾山平等心王院に交衆し、寛文七年〈1667〉二月廿六日自誓受具し、慈忍を依止師とする。慈忍に従って巌松院から野中寺に移り、その第二世を継いだ人。後に河州黒土村福王寺を中興。宝永四年〈1707〉七月十日示寂、世寿八十四、法臘四十。 慈門そして戒山や洪善など、慈忍律師の高弟であった者の多くは禅宗から転向した人であった。

  20. 戒山慧堅かいざん えけん

    恵堅とも。慈忍には十人あまりの弟子があったとされるが、その高弟三人のうちの一人。戒山は筑後の人で、地元に鉄眼道光が来たって『大乗起信論』の講筵の席に参加して発心し、その元で出家した臨済宗黄檗派の禅僧であった。しかし、修行を進めるうちに持戒の必須であることに気づき、律学の師を求め上京。その途上、摂津の法巌寺にて桃水雲渓(洞水雲渓)に出逢って宇治田原の巌松院にあった慈忍律師の元に参じることを勧められ、その元に参じて長らく仕えた。戒山が受具したのは、野中寺に移住した寛文十年〈1671〉の冬十二月廿八日。なお、戒山の出家の師であった鉄眼は寛文九年〈1669〉、ようやく粗末な小堂が建てられたに過ぎない野中寺を訪れ、慈忍の元で菩薩戒を受けている。
    慈忍亡き後、戒山は諸方を遊行し、廃れていた湖東安養寺に入ってこれを中興。その第一世となった。安養寺に入って後には、律法の興隆を期して支那および日本の律僧三百六十餘人の伝記集成である『律苑僧宝伝』を著す。この著はいわば律宗および律学を広めるための大きな力、いわば啓蒙書として重要なものとなった。その後、慈門信光に次いで野中寺を継ぎその第三世となっているが、それはほとんど名目上のことであったという。
    戒山の優れた弟子に湛堂慧淑律師があり、彼もまた師の慧堅に倣って諸々の律僧の略伝の集成『律門西生録』を著した。その特筆すべき行業は、それまでのように律宗・真言宗・禅宗だけではなく、天台宗・浄土宗などさらに多くの宗派の僧らに戒律復興を波及させる一大立役者となったことにある。

  21. 先和尚せんわじょう

    洪善普摂。忍綱貞紀の師にして法樂寺中興の祖。もと宇治興善寺の禅僧(曹洞宗)であったが、同門の月舟宗胡の勧めによって巌松院にあった慈忍のもとに参じた。

  22. 經巻きょうかんのうら

    慈雲が自ら写した『瑜伽戒本』(瑜伽戒の波羅提木叉)。

  23. मैत्रमेघマイトラメーガ

    Web上で表記することが出来ないためここではデーヴァナーガリーに依ったが元は悉曇文字。慈雲を梵語に転換するとmaitra(慈)+megha(雲)となるが、慈雲はしばしばその字(あざな)を梵字で記した。

慈雲尊者について

関連コンテンツ