VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲『千師伝』

原文

予千師に禮事らいじする願あり。本師は第二世忍綱貞紀にんこうていき和上也。此は別傅あり。此例に非ず。此千師は道俗を擇ばず。一事の師とすべきを記する也

伊賀北山村住禪谷ぜんこく律師は持律謹嚴なり。人呼て偏屈ものと云實は爾るに非ず
出家人菩薩戒ぼさつかいを願へばかならず身臂指をやかしむ。さなければ授與せず
律師もと關東の人。伊賀に在て淸貧なり。或時夜の亥刻いのこく門を扣ものあり。問へば郷里よりの使なり。律師喜んで兄弟從兄弟などの安不を問ふ。久濶きゅうかつの情をのぶ。因に問。汝どふした因緣にて來たぞ。僕答云。家長このごろ律師の御不自由なると聞て金子を寄來る也。律師云。それならば我に用なし。速に歸るべし。夜半に菴を出しむ。僕詮方なく近隣の寺に行てきん三十兩を寄て歸る。翌日彼寺主自來て故鄕の使を還す意趣を問ふ。律師云。鄕里の者福田供養ふくでんくようの爲ならば千金と雖ども受べし。若我貧乏を憐ならば。我は悲田ひでんに非ず。終に基金を還す。北山邊の豪家三四家。師を供養して四事しじ備足す。若不恭敬ナラことあれば苦口に呵す。其家に皆殺生を禁ぜしむ。入乞食スルニ主人分しゅじんぶんの者みずか食を持しきたに非れば受
或時冬貧乞兒來る。師衣脫して與ふ。其翌日檀越だんおつ來る。師云。汝我に衣を裁し來れ。汝厚服して我寒冷を知らざる。福田を知ざる也。檀越綿入を裁して供養す。若寒乞兒を見れば又與ふ。日にかくの如し
野中寺やちゅうじに在て沙彌しゃみたるとき師來入す。例式の問訊もんじん竟て。夜分別に予を召す。予禮拜す。師云。予其元そこもとに謝すべきことあり。予伊賀に在て早く其元の名を聞く。大坂の產俊邁群に超ると。予曰。それはろくな者で有まい。大坂は諸國都會の人多輕薄。又靈利なる者憍慢多し。道器に非ず。今來て其元の動靜威儀を見るに実に道器なり。今宵物語りすべし。予晩年出家なり。性質愚なり。事に觸て面墻めんしょうす。唯佛所制を自の所堪に隨て護せんと思ふ斗也。其元少年出家。その上に靈利。たのもしきこと也。因に予發心因緣を問ふ。予具に答ふ。律師隨喜感涙しばしあつて云。我もと長谷はせ所化しょけ也。彼に在て修學すること七年。終に沙門しゃもんの本懐に非ることを知る。此より山を出て道を諸方に問ふ。終に戒律に非れば佛弟子僧寶そうぼうに非ることを知て具戒ぐかいする也。其元にひとつ言べきことがある。必宗旨がたまり祖師びいきを强すまじき也。若宗旨がたまり强ければ正慧眼を嗐却する也。淨土家などは其元は劣下の樣におもはるヽであろう。左やうではない。是も其門に入て見ねば知れぬことじや。禪宗の打地咄喝など。拳頭を豎起ずきするなど。虗頭なことゝ思はるゝであろうが。其門に入て見ねば知れぬこと。必誹謗あるまじきこと也云云。因に滅罪好相めつざいこうそうの意得など敎授あり。予信受感涙を催す。寛保かんほう年中に御遷化也。好弟子なし

現代語訳

〈慈雲〉には千師に礼してつかえたいとの願いがある。本師は(摂州法樂寺)第二世忍綱貞紀にんこうていき和上である。これには別伝があるため、この例には該当しない。この千師伝は道者・俗人を択ぶことなく、一事の師とすべき人を記したものである。

伊賀北山村に住む禪谷ぜんこく律師は持律謹厳であった。人々は「偏屈者」と言った実際はそうではない
出家人が菩薩戒を受けたいと願ったならば、必ず(受戒の前に)その身体か臂か指を燒かせた。しない者には授戒しなかった。
律師はもと関東の人である。伊賀にあって清貧な生活を送っていた。ある時、夜の亥刻いのこく〈21:00-23:00〉に門をたたく者があった。問えば郷里からの使いであった。律師は喜んで兄弟や従兄弟などの安否を尋ね、久濶の情〈懐かしい思い〉を述べた。そして、
「あなたはどうした理由で私のところに来たのか」
と尋ねると、その僕が答えて言うには、
「家長が、このごろ律師は御不自由されていることを聞かれたため、金子を送り届けに来たのです」
とのことであった。すると律師は、
「それならば私には用など無い。さっさと帰れ」
と言って、夜半にも関わらず、庵から追い返してしまった。僕はどうしようもなく、近隣の寺に行って金三十両〈現代の約400万円〉を預けて帰った。翌日、その寺主〈住職〉自ら来て、故郷の使いを追い返したその意趣を問うた。律師が言うには、
「郷里の者が福田供養ふくでんくよう〈僧宝供養〉の為に送ったものであれば、(彼らの積徳のため)金千両であっても受けたであろう。もし私の貧乏を哀れんでのことならば、私は悲田ひでん〈生活困窮者や病人〉ではないのだ」
と、ついにその基金を返してしまった。北山周辺の富豪三、四家が、師を供養して四事しじ〈衣・食・臥具・医薬〉は事足りていたが、もし(仏法に対して)恭敬ならざることがあれば容赦なく呵責した。そしてそれらの家の皆に殺生を禁じさせた。村に入って乞食する時は、(僕ではなく)主人の者が自ら食を持って来たのでなければ受けなかった。
ある冬、貧乞の子が訪ねてくると、律師は自ら衣を脱いで与えてしまった。その翌日、檀越だんおつ〈施主。後援者〉が律師を訪れて来ると、師は、
「あなたは私に衣を作って来るように。あなたは厚着しているが、私の寒さを知らないであろう。福田を知らないのである」
と言った。そこで檀越は綿入を作って供養した。しかし、もし寒さに震える乞食の子を見たならば、また与えてしまうのである。日常はそのようなものであった。
私が野中寺にあってまだ沙弥であった時、師が(野中寺に)やって来られた。常の問訊〈僧同士の定まった挨拶〉を終えた夜分、特に私を呼び出された。私が礼拝すると、師はこう言われた、
「私にはお前に謝るべきことがある。私が伊賀にあって早くからお前の名前を聞いていた。大坂出身の子でその俊才ぶりが他に抜きん出ていると。その時、私は『そんなのはろくな者ではないだろう。大坂は諸国の者が集まる都会であって、人の多くは軽薄であり、また霊利〈利口〉な者は憍慢であるのが多い。道器〈仏道に相応しい者〉ではない』と言った。ところが、今ここに来ておまえの動静威儀を見たならば、誠に道器である。今宵、私は言わねばならないことがある。私は晩年出家であって、その性質は愚かである。何事につけ面墻めんしょう〈見識が狭く物を知らない〉である。ただ仏陀が定められた事柄を、自ら堪え得る限りに護ろうと思うばかりである。おまえは少年出家であって、その上に霊利だ。実に頼もしいことである」
と。話ついでに私に発心の因縁を尋ねられたため、私はそれを詳しく答えた。すると律師は随喜され、しばらく感涙されてから、
「私はもともと長谷寺の所化しょけ〈修行者〉であった。そこで修学すること七年。ついに(長谷寺における僧のあり方や、それまで学んだ事柄等が)沙門しゃもん〈仏教の出家修行者〉の本懐で無いことを知った。そこで山を出て『道』を諸方に尋ねた。ついに戒律に基づかなければ仏弟子でなく、僧宝でないことを知って、具足戒を受けたのである。そこでおまえに一つ言うべきことがある。決して宗旨がたまり、祖師びいきを強いてしてはならない。もし宗旨がたまりが強ければ、正慧の眼を損なう。たとえば浄土家などは、おまえからすれば劣下〈劣った格下〉の様に思われるであろう。そうではない。これもその門に入ってみなければ(その実際など)知られぬことだ。禅宗の打地咄喝〈棒で打ち、喝と怒鳴ること〉などや、拳頭で豎起ずき〈殴りつけること〉するなど、まるで虚頭〈知性の欠如.馬鹿〉なことに思われるであろうが、その門に入ってみなければ知られぬことだ。決して誹謗してはならないことだ」
などと語られた。さらに滅罪好相めつざいこうそうの意得についてご教授くだされた。私はそれを信受し感涙を催したものである。(禅谷律師は)寛保年中〈1741-1744〉に御遷化された。優れた弟子は無い。

脚註

  1. 忍綱貞紀にんこうていき和上

    摂州法樂寺中興第二世。光明院および長楽寺中興第一世。紀州雑賀氏出身。その門弟は雑賀出身の者であり、慈雲は例外であった。

  2. 菩薩戒ぼさつかい

    大乗戒・三聚浄戒。支那・日本においては特に『瑜伽師地論』(『菩薩持地経』)に基づく瑜伽戒と『梵網経』および『菩薩瓔珞本業経』に基づく梵網戒が行われた。ここでは特に墓梵網戒が意図されている。

  3. かならず身臂指をやかしむ

    『梵網経』「若佛子。應好心先學大乘威儀經律。廣開解義味。見後新學菩薩有9從百里千里來求大乘經律。應如法爲説一切苦行。若燒身燒臂燒指。若不燒身臂指供養諸佛非 出家菩薩。乃至餓虎狼師子一切餓鬼。悉應捨身肉手足而供養之。後一一次第爲説正法。使心開意解。而菩薩爲利養故應答不答。倒説經律文字無前無後謗三寶説者。犯輕垢罪」(T24, p.1006a)、ようするに「大乗の経律を求め来る新学の者には、まずその身や腕、指を焼かせて諸仏を供養しなければならない」(第十六軽戒)と説かれているのを、文字通りそのまま実行させていた。これは天平の昔、梵網戒を巷に流行させた行基教団がその信徒に強制していたことであり、これを朝廷は嫌って「僧尼令」にて禁止していたがほとんど効果なかったようである。
    近世の戒律復興をなした人々は、中世の覚盛によって創作された自誓受によって受具し比丘となっていたが、近世は『梵網経』の所説に忠実に基づき、主に自身の臂や腕に香を置いて身を焼く者があったことが知られる(ただし、その最初期の人らがこれを実行していたかは不明)。これを彼らは臂香などと称していた。慈雲はそのような自傷行為は、梵網戒に説かれていることとはいえ、律においても禁じられた行為であるとしてすべきでない行為と考えていた。

  4. 亥刻いのこく

    午後九時から十一時。

  5. 久濶きゅうかつの情

    久濶(久闊)は、久しく音沙汰ないこと。久濶の情は、久しぶりで懐かしく思うこと。

  6. きん三十兩

    一般に、現在の価値に換算すると約400万円。

  7. 福田供養ふくでんくよう

    福田とは布施し供養すれば大きな功徳がある対象。一般に三福田といい、敬田・恩田・悲田の三種あるとされる。あるいは仏宝・法宝・僧宝を三福田という。
    ここで禅谷が言う福田とは、僧宝あるいは比丘であって、それに対し衣食など生活の資を布施すること。

  8. 悲田ひでん

    生活困窮者や病人、身体障害者や身寄りのない者など、いわゆる社会的弱者。

  9. 四事しじ

    衣・食・臥具・医薬。

  10. 主人分しゅじんぶんの者みずか食を持し...

    家の主人が直接、托鉢しにきた比丘に食を布施せず、家人に命じて布施させるのであればこれを拒絶したということ。その理由は、福田供養するには自らの意志と行動とをもってなさなければ意味が無く、また受ける側もそのような布施は受けるべきではない、という律師の思想があったのであろう。しかし、仏典に基づいていうならば、誰か代理の者が布施してそれを受けるなどということは、諸経に見えるものであって印度では普通に行われていた。
    慈雲は冒頭、律師は「偏屈者と呼ばれていたが、実際はそうではなかった」などとしているが、しかしこの行動は律師の思想として極端な点が現れたものであろう。

  11. 檀越だんおつ

    [S/P].dāna-patiの音写。施主。特に篤信者。

  12. 野中寺やちゅうじ

    河内国(現:大阪府羽曳野市)にある寺院。山号は青龍山、中之太子と通称される。聖徳太子創建の四十六伽藍の一つとされる。中世荒廃して近世初頭には伽藍は跡形もなく、刑場として使用されていたが、慈忍慧猛が草庵を建てて復興(江戸期は新寺建立は厳しく規制されていたため、名前や籍だけを残す廃寺を復興の名目で新たに造っていた)。慈忍没後、律院僧坊として整備され、やがて天下の三僧坊の一つとして名を馳せた。(慈忍慧猛については別項「戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』」を参照のこと。)
    慈雲は十九歳のとき、具足戒を受けるため野中寺に入って二年間修学し、伝法灌頂および具足戒(ただし自誓受による)を受けた。

  13. 沙彌しゃみ

    沙弥。具足戒を未だ受けていない見習い僧。原則として数えで十三歳以上で、誰か和尚(師主・出家阿闍梨)について十戒を受けることによってなることが出来る。二十歳以上となっても、なんらか条件を欠いているために具足戒を受けて比丘となることが出来ない者は、終生沙弥のままとなる。沙弥は出家者ではあるが僧宝の成員ではない。

  14. 問訊もんじん

    僧同士の定式の挨拶。おたがいの健康や日々の生活について尋ね合うもの。律蔵や律の注釈書などに基づく。

  15. 其元そこもと

    同格、あるいは格下の者にたいする呼称。

  16. 面墻めんしょう

    見識が狭く、物を知らないこと。

  17. 長谷はせ

    大和国(現:奈良県桜井市)にある観音霊場として著名な古刹、豊山長谷寺。始め華厳宗東大寺の末寺であったが、後に法相宗興福寺の末寺となり、近世となって新義真言宗の末寺となった。

  18. 所化しょけ

    修行僧。

  19. 沙門しゃもん

    [S].śramaṇa / [P].samaṇaの音写。沙門那・桑門とも。つとめ励む人の意。仏教の出家修行者(特には比丘)のこと。
    元は印度における伝統的祭式執行者バラモン(婆羅門)に対し、それに囚われない様々な思想家・出家遊行者を指した言葉。

  20. 僧寶そうぼう

    仏法僧の三宝の一。僧の集い、すなわち僧伽(サンガ)。律を護持していなければ僧では無く、僧でなければ布施を受ける資格も無く、また修行しても決してその証果を得ることも出来ないことを、禅谷は知ったのであろう。

  21. 具戒ぐかい

    具足戒の略。具足戒とは[S].upasaṃpanna(具えること・得ること)の訳で、比丘たることを得ること・比丘性を備えることの意。これを支那以来、大戒あるいは二百五十戒という。

  22. 豎起ずき

    じゅき。立てること。「拳頭を豎起」で拳で殴りつけること。禅宗にて警策や拳で殴りつけること。

  23. 滅罪好相めつざいこうそう

    『梵網経』において、自誓受戒を受けるに際しては必ず滅罪の為になんらかの行をなして好相を得なければならないとされるが、その肝要について禅谷は慈雲に何か告げたのであろう。
    当時野中寺は、天下の三僧坊とうたわれた律院僧坊のうち最も真っ当に運営されていたものであったようであるが、そこで行われた授戒法は自誓受に限られるものであった。これは叡尊滅後の西大寺系の律宗の慣習・思想を踏襲したものではあったろうが、悪い意味で先例主義・故実主義に偏りすぎた結果ともいえる。そもそも、中世の叡尊は自誓受戒によって戒律復興を果たし、その正当性を訴えていたものの、しかし別受も執行していた。また、野中寺復興の起点となった近世の戒律復興の立役者、明忍もまた自誓受戒によってそれを果たしたものの、やはり別受を自らが受け、またその拠点とした槇尾山にてもこれを始行することを熱望していた。最初期の、宗派宗旨などに囚われず戒律復興を礎とした仏教復興を志した律僧らの遺志は、その後に続いた人々に受け継がれてはいたけれども、その本旨は顧みられなくなっていった。

  24. 寛保かんほう年中

    西暦1741-1744年。

慈雲尊者について

関連コンテンツ