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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲『千師伝』

『千師伝』解題

慈雲から「慈雲尊者」へ

『千師伝』とは、江戸中後期の大阪を中心として活躍した慈雲尊者飲光が、その生涯において僧俗問わず師事した人々を自ら列記した書です。

書といってもその原本は法樂寺に所蔵されてきた六紙に書きつけられたものであり、元はいわゆる書物の体裁をなしたものではありません。また、題目の『千師伝』ということについて、文字通り千師を挙げ連ねたものではないにしても、極めて残念なことに、六紙以降が全く脱落紛失しており、ただ八名の人が挙げられたのが残されているのみです。したがって、どれほどの分量があったのか、書き上げられていたのか、未完であったのかも知られません。しかし、これが六紙のみの極僅かな分量にとどまっていたとは考え難いものです。

このことについて、『慈雲尊者全集』を編纂した長谷寶秀は、『千師伝』の跋に、以下のように記しています。

編者曰。右千師傅一巻は大阪府田邊所藏の尊者御眞蹟の本に依て之を出す。其本僅に六紙あり。記する所第八靜智の傅に至て止む。想ふに末尾尚若干紙あるべし。而るに脱落紛失して今傅はらず。和田智満大和尚萬延元年書寫する所の本を見るに。亦靜智師の傅に至て止む。以て脱落既に久しきを知るべし。惜いかな。
編者〈長谷寶秀〉曰く、右の『千師伝』一巻は大阪府田邊所蔵の尊者御真蹟の本によって翻刻したものである。その本わずかに六紙のみあった。記されていたのは第八静智の伝に至って終わっている。想うに末尾にさらに若干の紙があったものであろう。しかしながら脱落紛失して今に伝わっていない。和田智満大和尚が萬延元年〈1860〉に書写された本を見たところ、また静智師の伝にて終わっている。これによって脱落してすでに久しいことが知られるのである。惜しいことである。

長谷寶秀編『慈雲尊者全集』, vol.17, pp.32-33

ここに出てくる和田智満とは、江戸末期の大坂北浜出身の画家、和田呉山(月山)の子で、母の死をきっかけに高井田長栄寺にあった智幢律師の門に入って親と兄と共に出家。特に智満はすぐれた律僧となり、慈雲相承の西大寺流および悉曇の流儀を継ぎ、また密教および律の研鑽に尽くした明治初期の大徳です。京都神光院住職となり、また随心院門跡に任ぜられています。

江戸末期、すでに法樂寺は慈雲の滅後百年を待たずして風儀が廃れ、その寺勢もまた衰退していたところ、智幢の指示によってに入ってその住職となった道應禅慧が力を盡くしてこれを復興。その時、同じく智幢の門弟で、道應と深く交流してしばしばに滞在し、その大きな助力となったのが智満です。法樂寺山門前の石柱に刻まれた寺号は智満の筆によるものです。そのような縁により、智満の悉曇や漢詩などの墨跡が多く法樂寺に遺されていますが、智満が『千師伝』を書写したのもその頃のことです。

しかしながら、長谷寶秀も上のように述べられているように、すでに智満の書写された江戸末期には『千師伝』は多く紛失脱落していたようで、尊者没後百年も経ぬうちに寺宝の一つとすべき書をまともに伝えられず散失させてしまった、道應以前の住持らの体たらくには憤慨せざるを得ません。

普賢行願

慈雲は何故に『千師伝』なるものを著したのか。尊者はその冒頭、以下のように書き出しています。

予千師に禮事する願あり。本師は第二世竄綱貞紀和上也。此は別傅あり。此例に非ず。此千師は道俗を擇ばず。一事の師とすべきを記する也
私には千師を礼して事えたいとの願いがある。もっとも、我が本師は第二世忍綱貞紀和上である。これには別伝があるため、この例には該当しない。この千師伝は道俗を択ぶことなく、一事の師とすべき人を記したものである。

『千師伝』

尊者がこれを残そうと思い至ったその背景には、『普賢行願讃』(『華厳経』「普賢行願品」)を非常に重要なものと見なしていたことがあったに違いありません。

『華厳経』「入法界品」に説かれる、印度の長者の子であった善財童子が文殊菩薩に出会ってその勧めにより、僧俗問わずまた宗教をも問わず、様々な人々との対話を経て五十三人目となる普賢菩薩に出会ってついに開悟するという、東海道五十三次の数の元となったと言われる話。それに自身の生涯において様々に出会い、教えを説かれた人々とを重ね、この『千師伝』を著されたのであろうと思われるためです。

さて、たとい誠に悔しくもほとんど脱落してその全体を知ることが出来なくなっているとしても、慈雲の生涯を語る上で、またどのように慈雲が「慈雲尊者」となるに到ったのかを知るのにも、この『千師伝』を抜きにすることは決して出来ないでしょう。

ただ「慈雲尊者は偉かった」であるとか「慈雲尊者という突出した人がその昔の大阪にいた」といって称えるだけでは、口先三寸しばらく動かす程度のこと。そもそも、なぜ慈雲のような人が当時の大阪、ひいては日本に現れたのか。その生涯は言うまでもなく、時代背景やその思想の基となった古の人々の業績を、源流へと遡るように明らかにしなければ、こう表現するのはおこがましいことではありますが、その正しい評価をすることなど出来はしません。

唯の歴史が好きであるからというのではなく、一仏教者として慈雲という人を敬するのであれば、そもそも釈尊の遺教を学び倣って、それを今にいかにして行うかが肝要となりましょう。江戸後期においてその亀鑑の一つとすべき行業を留められた人の跡をたどり、また今世においても同じくその実を結ぶ人の少しでも多く現れることを願うばかりです。

愚翁覺應 謹記

凡例

一.本稿にて紹介する『千師伝』は、『慈雲尊者全集』第十七輯所収のものを底本としている。

一.原文および訓読にては、底本にある漢字は現代通用する常用漢字に改めず、可能な限りそのまま用いている。これにはWindowsのブラウザでは表記されてもMacでは表記されないものがある。ただし、Unicode(またはUTF-8)に採用されておらず、したがってWebブラウザ上で表記出来ないものについては代替の常用漢字などを用いた。

一.現代語訳においては読解に資するよう、適宜に常用漢字に改めた。また、読解を容易にするために段落を設け、さらに原文に無い語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は括弧()に閉じてそれが挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。そもそも現代語訳は訳者の理解が十分でなく、あるいは無知・愚かな誤解に由って本来の意から全く外れたものとなっている可能性があるため、注意されたい。

一.現代語訳はなるべく逐語訳し、極力元の言葉をそのまま用いる方針としたが、その中には一見してその意を理解し得ないものがあるため、その場合にはその直後にその簡単な語の説明を下付き赤色の括弧内に付している(例:〈〇〇〇〉)。

一.難読あるいは特殊な読みを要する漢字を初め、今の世人が読み難いであろうものには編者の判断で適宜ルビを設けた。

一.補注は、特に説明が必要であると考えられる人名や術語などに適宜付し、脚注に列記した。

一.本論に引用される経論は判明する限り、すべて脚注に『大正新脩大蔵経』に基づいて記している。その際、例えば出典が『大正新脩大蔵経』第一巻一項上段であった場合、(T1, p.1a)と記している。

懸命なる諸兄姉にあっては、本稿筆者の愚かな誤解や無知による錯誤、あるいは誤字・脱字など些細な謬りに気づかれた際には下記宛に一報下さり、ご指摘いただければ幸甚至極。

非人沙門覺應(info@viveka.site)