僧儀
全く律藏によるべし。律藏かければ經論によるべし。南山行事鈔など支那日本の風儀に取用るによし。義淨の寄歸傅等。天竺の風采を知ルによし。但し隨分に古德によるべし。末師によれば弊にわたる
所學
禪定を修して生死を决擇する。沙門の本命元辰なり。更に餘事なし。經に第一義諦を除て餘は皆魔事とあるなり。然るに聰慧の人は護法のために學問するもよし。なぜなれば眞修行事は明師に逢へば學問はいらぬことなれども。末世には明師得難ければ。聖敎量ならでは邪正决し難し。故に聖敎拜見のなるほどには學フべし
性相。知ラずんばあるべからず。倶舎唯識婆沙正理等。瑜伽論等。讀ムべし。その助けに慈恩の疏なども披見すべし。此も末師の得失は强て論ずべき事に非ず。性相既に通ぜば。藏經拜見すべし。但シ博覧を希ふ事なかれ。唯タ自の禪定の模範となさんために拝見すべし
天台學。三大部次第禪門等。皆天台大師己心中の圓解なり。自の所見を助るために披見するもよし。荊溪の疏はみるもよし。みぬもよし。四明已下山家山外の論などは。いらぬ沙汰なり。賢首の學。是レ又賢首の圓解なり。新舊の譯にわたり。性相二宗をかね。その圓解はなはだ委くまた大なり。有力の人學んで自己の修行の助とすべし。清凉大師の疏なども。いとまあらば見るべし。但圓解はいまだ圓ならぬことあり。自餘は見るもよし。みぬもよし。大凡經論によりて圓解をきはむるは。天台賢首至れり盡せり。淨土家禪家など。諸宗得失の中に辯ずべし
密敎 學ぶべし。此中敎相あり事相あり。敎相は一行阿闍梨ノ疏。弘法大師ノ諸論疏等學ぶべし。古義新義の立破は知ルもよし知ラぬもよし。事相は別に論ずべし
外學 文義に通達するために。少シは文章の顛倒等段落等を知ルもよし。歴代の事實をすこしは知ルもよし。知ラぬもよし。中に就て論語老子五經等は。俗中聖賢の趣なり。餘力あらば見ルべし。但シ是は上聰明敏の人の正法を護する一助にするためなり。中下の者は多岐にわたれば。道業必ス成ぜぬものなり
僧儀
全く律藏に依拠したものとせよ。律蔵に(ある事態についての規定が)無いならば経典・論書に依れ。南山〈道宣〉の『行事鈔』〈『四分律刪繁補闕行事鈔』〉などは支那・日本の風儀に取り用いるのに良い。義浄の『寄帰伝』〈『南海寄帰内法伝』〉等は天竺の風采を知るのに良い。ただし隨分に古徳の説に依れ。末師〈後代の独自説を吹聴する杜撰な僧〉に依れば弊害となる。
所学
禅定を修して生死を決択することは沙門の本命元辰〈本分〉であって、更に他事は無い。経〈未詳〉に「第一義諦を除いた他は皆魔事」とある。とは言え、聡明・智慧の人は護法のために学問するのも良い。何故ならば、真の修行事は明師に逢ったならば学問など要らぬことであるけれども、末世には明師を得ることは難しく、聖教量でなくては邪正を決することも難しい。故に聖教を拝見して成る程〈経論を読んでその内容を十分理解できる程度〉には学ぶべきである。
性相を知らないなどあってはならない。『倶舎論』・『成唯識論』・『毘婆沙論』・『順正理論』等、また『瑜伽師地論』等を読むこと。その助けに慈恩の疏〈『成唯識論述記』・『唯識二十論述記』等々〉なども披見せよ。これも末師の得失〈末代の論師(慈恩大師)の見解における長所と短所〉は強いて論ずべき事ではない。性相について既に通じるようになったならば、蔵経を拝見せよ。ただし博覧となることを願ってははらない。ただ自らの禅定の模範とするために拝見せよ。
天台学の三大部〈『摩訶止観』・『法華玄義』・『法華文句』〉や『次第禅門』〈『釈禅波羅蜜次第法門』〉等は皆、天台大師〈智顗.天台宗開祖〉の個人的な円解〈矛盾のない理解〉である。自らの所見を助けるために披見するのも良い。荊溪〈湛然.天台宗第六祖〉の疏〈智顗の諸著作に対する注釈書類〉は見るのも良し、見なくとも良し。四明〈四明尊者.知礼〉已下山家〈知礼の学統〉や山外〈源清の学統〉の論〈いずれも宋代における無闇な形而上学的煩雑な議論を展開した〉などは不要の沙汰である。賢首〈賢首大師法蔵〉の学は、これもまた賢首(一個人)の円解である。新旧の訳に渡って性相の二宗を兼ね、その円解は甚だ詳しく偉大なものである。有力の人は学んで自己の修行の助けとせよ。清凉大師〈澄観〉の疏なども暇があれば見るがよい。ただし、「円解」といっても未だ「円〈円満・完全〉」でないことがある。その他は見るも良し、見なくとも良し。おおよそ経論に依って円解を極めているのは、天台や賢首は至れり尽くせり。淨土家や禅家などについては諸宗の得失の中で論じる。
密教は学ぶべきである。この中には教相があり事相がある。教相は一行阿闍梨の疏〈『大日経疏』あるいは『大日経義釈』〉、弘法大師の諸論疏等を学べ。(真言宗内における)古義・新義の立破〈法身等に対する見解の相異〉は知るも良し、知らなくとも良し。事相は別に論じる。
外学〈儒学など仏教外の学問〉は文義に通達するため、少しは文章の顛倒〈起承転結〉等や段落等を知るのも良い。歴代の事実〈歴史〉を少しは知るのも良い、知らなくとも良い。特に『論語』・『老子』や五経〈『詩経』・『易経』・『書経』・『春秋』・『礼記』〉等は、俗世間における聖賢の趣である。余力があれば見るが良い。ただし、これは上聰明敏の人が正法を護る一助にするためのことである。中・下の者は(その学問や修行などが)多岐に渡ったならば、道業が必ず成じることはない。