現代語訳
学法
「悉く書を信ぜば書なきにしかず」〈『孟子』尽心下〉と、これは学問をする大要である。しかしながら、仏説の経律は信仰せよ。一文一句として私意を交えることの無いように。(『孟子』にある)「悉く信じてはならない」と云うのは、中古において諸々の祖師が撰述した書である。例を挙げれば、天台家の書を読むにはただその「円解」に取れば良い。梵語の間違いがあるけれども、それは強いて論ずる必要は無い。五時〈智顗による教相判釈.五時八教〉の配属なども大概に見るべきことである。「必ずそのように在るのだ〈智顗の見解は絶対だ〉」と思うのは愚癡である。また、浄土家の書を読むには、(そこで説かれている)浄土の荘厳等は信じたらよい。その釈迦の通法〈一般的な教え〉とは違って、「ただ別願をのみ〈阿彌陀仏とその誓願を信じさえすれば良い〉」と云っているのは大抵に見ておくべきことである。禅宗は、唐末より以降の書などは、ただその消息〈言わんとする事〉や衆流〈法脈の分岐のことか?〉を截断する等の作略を会取〈汲み取って理解すること〉せよ。事実を強いて論じてはならない。達磨と梁武帝との対談の年代が合わないことや、「迦葉刹竿話」の金襴の袈裟など〈すべて禅宗が支那で創作して伝える作り話〉、ただその消息や意趣〈意図〉をのみ会取せよ。「拈華微笑」〈偽経に基づいた禅宗の作り話〉などもただその教外別伝(の意趣)を知れ。(禅の教えについて)強いて経拠〈経典の根拠〉を引こうとするのは愚の至りである。また古徳が偽経を引用していることも多い。これもただその趣を知るがよい。(禅独自の伝承を)悉く信じたならば、むしろ自己の法性をくらますことがある。
住処
大抵なる寺はすべて僧坊でなければならない。小庵などは(律の僧残に規定される)有主房や無主房の規定に依れ。
僧糧
〈欠〉
資具
〈欠〉
己財
〈欠〉
亡物
〈欠〉
声明学
『字記』〈智広『悉曇字記』〉・『十八章』〈『悉曇十八章』〉は必ず学べ。梵字の連声等は宗叡の『禅林の記』〈『悉曇私記』〉に依れ。『悉曇蔵』〈安然の著作〉は憶説〈根拠のない恣意的な説〉が多い。依ってはならない。真言陀羅尼は梵文によって受持せよ。仮名によって読めば誤りが多くなる。経巻も梵本〈サンスクリット原典〉がある本は梵本を受持せよ。分〈自身の立場・能力〉に随って八転声〈梵語における名詞の格変化〉等も意得るべきである。
脚註
悉く書を信ぜば書なきにしかず
『書経』を、それがたとえ聖典であったとして、その一章にある記述丸ごと信じるならば『書経』など無いほうが良い、と言った言葉。学問をするのに最も肝要なる心得として用いられるようになった。「尽信書不如無書。吾於武成取二三策而已矣。仁人無敵於天下。以至仁伐至不仁。而何其血之流杵也」(『孟子』尽心下)。
佛説の經律ハ仰信すべし
慈雲は『孟子』を引いて批判的・合理的に修学せよといいながら、しかし仏教の三蔵についてはその態度を「原則として」採らず、あくまで信ぜよとした。これは同時代の本居宣長の国学における重要な諸典籍に対する態度と一致したものである。とはいえ、慈雲はそう言いながら、仏典の所説であっても、特に漢訳経典の場合には、自身が以下述べていくように全面的に信じ通せとは考えてはいなかった。
五時の配屬
五時八教。智顗による教相判釈。日本では天台宗およびその亜流の宗派において絶対的視され、その諸宗ではこれに基づいた教義が構築されている。しかし、慈雲はこれを全く絶対視しておらず、よく出来た理解程度にしか考えていなかった。そのような理解の裏には、富永仲基による『出定後語』での否定し難い指摘を納得までいかぬとも、かなりの程度認めてのことでもあったように思われる。
釋迦の通法
仏教に信を起こし三学の階梯を自ら踏み行って解脱に至る、という釈迦牟尼による教え。
別願
異なる仏・菩薩それぞれが独自に立てた誓願。「四弘誓願」を諸仏・菩薩に共通の総願というのに対する称。ここでは阿彌陀の四十八願。
會取
よく理解すること。
事實は强て論ずべからず
禅宗独自の伝承には「創作話」が多いことは当時すでに知られており、慈雲もそれをよく承知していた。
達磨梁武と對談の年代あはぬ
菩提達磨が支那に来たって梁武帝(蕭衍)と対談したという話について、慈雲は禅宗の創作であると考えていた。
迦葉刹竿話金襴の袈裟
『無門関』にある摩訶迦葉と阿難の間でなされた伝法にまつわる逸話。釈尊は迦葉に金襴の袈裟を授けた以外に何かを伝えたのか、という阿難からの問いかけに、迦葉はただ「阿難!」と呼びかけ阿難が答えただけで話を終えたという公案。事実ではなく支那における禅の思想を伝えるための創作。
拈華微笑
釈尊が大衆を前に説法している時、何も語らずただ一輪の蓮華を示したが大衆は何事か理解できず、しかしただ摩訶迦葉のみ微笑した。すると釈尊が「正法眼蔵涅槃妙心 実相無相微妙法門」と偈を出して迦葉に伝法したとされる話。禅宗でいわれる「以心伝心 不立文字」の根拠。しかし、この話は『大梵天王問仏決疑経』という北宋代に捏造された偽経に基づく。慈雲も当時、これが偽経に基づく創作であると知っていた。
敎外別傅
拈華微笑に同じく、文字や言葉によらず法を説き伝えることをいわんとした禅宗の語。必ずしも文字・典籍に拘泥せず、自ら法を行って証すという禅における態度を示したもの。
强て經據を引クは愚の至
慈雲は上記のような禅宗独自の伝承、説話のほとんどが支那における創作であり、そこに仏教としての正統な根拠など無いことを百も承知した上で、いわばそのような創作でもって伝えんとする仏道を修める上での志・精神をのみ汲むべきこととしていた。故にその経文など根拠を追求することはむしろ愚の骨頂であるとしている。
古德の僞經を引ケることも多し
往古の高僧、祖師と云われる人であっても支那で撰述された偽経を根拠にその主張を展開した者が少なからずいること。慈雲は現代の学問的観点からも、もちろん根本的態度には大きな異なりはあるけれども、それほど変わらぬような見方で宗派といったものを見ていた。
なお、これは慈雲がその系統に属していた中世の覚盛や叡尊以来の通受自誓受による戒律復興においても全く同様に言えることで、彼らがその主たる根拠とした『占察経』は往古の支那から日本の中世に至るまで偽経であると断じられてきたものであった。
有主房無主房の軌度
律の僧残罪における二つの規定。比丘が自身の庵を設ける際、特定の施主が無い場合にはその大きさや場所に制限があって、それぞれ僧伽の承認を得なければならない。特定の施主があって建立する場合には広さその規定は無いが、場所についての承認を要する。これに反した庵を造影した場合、その比丘は僧残罪の違犯となって非常に重い罰則が課せられる。
聲明學
印度における伝統的五種の学問、五明の一。梵語における文字・音韻・語法についての学問。ただし、ここでは日本における悉曇学のこと。
字記
『悉曇字記』。唐代の支那僧、智広によって著された悉曇の文字・音韻についてごく簡単にまとめられた書。悉曇の初等教科書の如きものとなり、日本でも古代以来、特には中世非常によく読まれ研究されてその注釈書が著された。南天竺般若菩提なる人の下で書かれたものであることから、南天相承の悉曇を伝えるものなどとされる。
十八章
『悉曇十八章』。悉曇の字母(母韻)および体文(子音)の文字だけを体系的に十八章に分けて書き連ねた書。『悉曇字記』と併せて学ぶべき、悉曇学の入門書。
連聲
[S]saṃdhi/[P]sandhi. 梵語など印度語における特定の語尾と語頭の音が連続した場合の音変化。ローマ字を以てその例を出せば「-a+a-=-ā-」・「-a+i-=-e-」・「-a+u-=-o-」。これは日本語における「観音(かんおん)」を「かんのん」と音韻変化するのに同じであるが、梵語の場合は厳密にその規則が定まっている。
宗叡
平安前期の僧。入唐八家の一人。天台宗の載鎮について出家し、興福寺の義演から法相を、延暦寺の義真から天台と菩薩戒を、円珍から天台密教を受け、また東寺の実慧から真言密教を受けて禅林寺の真紹から伝法灌頂を受けた。その後、入唐してまた密教を受法。帰国後は真言宗僧として東寺長者・東大寺別当に任じられた。真紹の跡をついで禅林寺に居したことから禅林寺僧正などと称された。
禪林の記
宗叡による『悉曇字記』の注釈書『悉曇私記』。宗叡が禅林寺にあったことから『禅林記』と称される。
悉曇藏
『悉曇蔵』。平安前期の僧、安然による悉曇についての著作。安然自身は入唐を果たせなかったものの、彼の地に長くあって悉曇も学んでいた円仁に師事して受学し、当時日本に伝わっていた悉曇に関する諸史料を元に著した書。慈雲は安然の『悉曇蔵』における所説についてかなり批判的に見ており、その内容が杜撰で憶説に満ちたものであるとしている。
梵本を受持すべし
慈雲は悉曇学に通じて以降は漢訳経典をそれほど信用しておらず、梵本(サンスクリット原典)の伝わっている経典であり、それを理解し得るだけの学徳を積んだ者であれば、その漢訳を奉持し読誦する必要など全く無いと考えていた。ただし、そこまでの能力を有しない者は、その双方を護持して常にその双方を対照して修学し、原典の理解に勤めよとしてる。
八轉聲
梵語における名詞(および形容詞)の格変化。サンスクリットには性・数・格があり、格には八種あって性(三種)と数(三種)によってそれぞれ変化する。
慈雲尊者について
慈雲関連書籍