原文
眞言家にて若シ僧正ならば。僧正の外に増官をも求めず。利養名聞をも求めず。法印ならば法印。所化ならば所化にて。更に名聞利養をも求めず。唯三密の妙行を勤修し悉地を欣求するは。隨分の正法なり。若シ平僧の法印を求め。法印が僧都を求メ。乃至僧正になり度く思ひ。その外に色々の名聞利養を求むるは。佛弟子に非ず。それを此方の宗旨は即事而眞の宗旨なれば。名聞を求るも妨げぬと言フは。意得たがへなるべし
禪宗にて若は紫衣。若は香衣。前堂後堂首座等。それより更に名聞利養を求めず。心地發明を欣求して少を得て足れりとせぬは。隨分の正法なり。此も些子の消息が通じ。古則一兩則を拈提して。それより碧巖錄等を評判して。あらかた古則もすめるやうになり。それより名聞等にて衆などを五百八百あつめ。結制大會などを取たて。自ら知識分上なりと思ふは。意得たがへなるべし
淨土宗にて僧正和尚。若ハ西堂平僧など。それより名聞利養を求めず。一心に彌陀佛を念じて順次の往生を期するは。隨分ノ正法なり
一向宗にて若は門跡。若ハ院家。下至平僧。更に名聞利養を求めず。妻あればその通リ。妻なきものは更に求ることなく。五欲を貪らず。一心に彌陀の本願を有難く思ふは。隨分ノ正法なり
日蓮宗にて。若は紫衣上人。若は平僧。それより更に名聞利養を求めず。一心に法花經を読誦し。若は八品若は壽量の一品。若は但に題目を受持する。隨分ノ正法なり
天台宗にて名聞利養を求めず。一心に止觀等を修行するは隨分ノ正法なり
律宗は別に宗旨と云フべきことならず。唯タこれ僧儀なり。又近世みな眞言天台等よりの兼學なれば。それぞれの宗旨によるべし。
融通念佛宗なども準知すべし
上に云フところは。且く予が如き下根ノ及ぶべき意得を言フなり。若シ出格上根の人の諸宗の巣窟を解脱し世人の毀譽を省みず。直に佛在世の如き僧となり。文殊彌勒大迦葉阿難などの如き妙行を修して。眞正法を維持し。人天の大導師となる人あらば。予その人のくつを頂戴して奉仕したく思ふなり
せめて世にひとりふたりの人もがな。たえだえ殘る法の玉の緒
現代語訳
真言家にて、もし僧正であれば僧正の外に増官をも求めず、利養名聞をも求めず。法印〈僧位の一〉ならば法印、所化〈未だ規定の修行を満たしていない修学途上の者〉ならば所化にて更に名聞利養をも求めず。ただ三密の妙行を勤修して悉地を欣求するのは隨分の正法である。もし平僧〈何の役職・僧位・官位も持たない僧〉が法印〈僧位の最高位〉を求め、法印が僧都〈僧官の一.当時は金銭を払って朝廷から下賜される名誉職〉を求め、乃至僧正〈僧官の一.僧都の上位〉になりたく思い、その外に色々の名聞利養を求めるのは、仏弟子ではない。それを「こなたの宗旨は即事而真〈生滅変化するこの現象界がそのまsま真理の顕れであること〉の宗旨であるから、名聞を求るのも妨げない」と言うのは意得違いである。
禅宗にて、あるいは紫衣、あるいは香衣、前堂・後堂の首座〈上席・首席〉等ならば、それより更に名聞利養を求めず、心地発明を欣求して少を得て「これで充分だ」としないことは隨分の正法である。これもいささかの消息〈門跡の補佐〉が通じ、古則〈古則公案〉の一両則を拈提〈学人に示すこと〉し、それから『碧巌録』等を評判〈評定・批評〉してあらかたの古則も済ませるようになり、それから名聞等にて衆などを五百・八百と集めて結制大会などを取りたて、自らを「知識であって分上〈上根。生まれながらに能力ある者〉である」と思うのは意得違いである。
浄土宗にて、僧正・和尚あるいは西堂〈他寺の住職を引退して本寺に住まう人〉・平僧など、それより名聞利養を求めず、一心に弥陀仏を念じて順次の往生を期すことは隨分の正法である。
一向宗にて、あるいは門跡〈皇家の血縁者で家を継げず出家した者〉、あるいは院家〈門跡の補佐〉、下至平僧、更に名聞利養を求めず。妻あればその通リ。妻の無い者は更に求ることなく、五欲を貪らず、一心に弥陀の本願を有り難く思うことは、隨分の正法である。
日蓮宗にて、あるいは紫衣上人、あるいは平僧、それより更に名聞利養を求めず。一心に『法華経』を読誦し、あるいは「八品」《「従地涌出品第十五」から「嘱累品第廿二」》あるいは「壽量の一品」《「如来寿量品」第十六》、あるいはただ題目を受持する。隨分の正法である。
天台宗にて、名聞利養を求めず、一心に止観等を修行するのは、隨分の正法である。
律宗は別に宗旨と云うべきことはない。ただこれ僧儀である。また、近世はみな真言・天台等からの兼学であるから、それぞれの宗旨に依れ。
融通念仏宗なども準知せよ。
上に云うところは、仮に私のような下根でも及ぶことが出来る意得を言ったものである。もし出格上根の人が、「諸宗の巣窟」《慈雲にとって宗旨宗派とは「巣窟」であった》を解脱して世人の毀譽を省みず、直に仏在世の如き僧となり、文殊・弥勒・大迦葉・阿難などの如き妙行を修して真正法を維持し、人天の大導師となる人があれば、私はその人の沓を頂戴して奉仕したく思う。
せめて世に ひとりふたりの人もがな
たえだえ残る 法の玉の緒
脚註
僧正
日本では律令が布かれる以前から置かれていた官僧でその最高位。
律令制により僧綱が設置されて以降も、僧尼の綱紀を司るべき者として諸僧の推挙を通して朝廷が任命した。僧正の下が僧都、その下が律師。当時、なんであれ僧綱の職に就かされることは僧にとって相当な負担であったらしく、僧綱に任命されても辞意を示した者が多くあったが律令では老衰などよほどのことでない限り解任あるいは交代が許されておらず、事実許されなかった。
しかし、律令制が崩れて以降は僧綱の存在意義もほとんどなくなり、その位は名誉職に過ぎない、ほとんど実務上の意味をなさないものとなった。明治維新には仏教が国の庇護から外れ、僧官が廃止されて僧正位も無くなっている。しかし、その後、その制を真似て各宗派は自前で僧正位を設けて現代に至ると多額の金銭を代価に本山から購入する老醜の虚栄となった。
所化
未だ基礎的な教育課程を修めていない修学途上の僧。
悉地
[S]siddhiの音写で、成就の意。仏教においては得道すること、涅槃を得ること。
平僧
何の僧官・僧位も無い僧。
法印
僧官とは別に設けられた僧位の最高位。法印・法眼・法橋の三位が設けられていたが、近世は乱脈して僧ですら無い者にも與えられる全く意味のない位となっていた。
即事而眞
生滅変化するこの世界がそのまま真理の顕れであること。真言宗で特に強調される語。
こう云うのは唯識のようにこの世界(世間)が虚仮であり、迷妄の産物という見方がまずあって成立する。そこで、この語が「何か奥深いこと」を言うものであるかのように今もしばしば口にのぼせる者がある。しかし、これは特に唯識の理解を通さなければ、ごく当たり前のことであってわざわざ云う必要など無い。我々は、すべての事物・事象は生滅変化するという絶対の真理の世界に生きており、そこでその故に四苦八苦している。むしろ無常・苦・無我という世界が常に我々に開示すている真理を見ないが故に、それは実際開示されていても人にとって見がたいものであるけれども、永遠に苦しみ続けるというのが仏教の根本的見方。
あるいはこれは「真言とは何か」の理解を前提としたものであって、我々が見ている事象、それは言語・記号を通してのものであるが、その言語・記号が常に真理を開示したものであるという見方。たとえば阿字本不生のように。
紫衣
本来、仏教者が(袈裟衣および内衣のいずれであっても)紫の衣を着用することは許されない。しかし、唐の武則天が九人の高僧に紫衣(内衣)を下賜したのを契機として支那にてその習わしが行われるように成る。その後、日本からの留学僧であった玄昉は玄宗皇帝からその学徳を讃えられて紫衣が下賜された。また帰国後、聖武天皇がその例に倣って玄昉に「紫袈裟」を下賜している。以降、日本の朝廷はこれを踏襲して慣例化した。当初は天皇(朝廷)から下賜されるという点において価値のある、それを着るかどうかはまた別問題の、僧にとっての名誉であった。しかし近世になると紫衣の勅許などは金銭のやり取りのもと行われる朝廷の収入源の一つとなっており、幕府はこれを規制していた。
香衣
黄褐色あるいは赤褐色で絹製の袈裟衣で、律に適った色の衣であるが、中世末期、紫衣に同じく官からの下賜・勅許があって始めて着用できるものとなった。したがって近世の俗僧・凡僧らからすると紫衣と香衣のいずれもが「憧れの衣装」、虚栄の標識となった。
前堂後堂首座
禅宗において法堂に安置する聖僧を基準にその前部分を前堂といい、後部分が後堂とされる。そしてそのそれぞれに修行僧らの指導監督する者をおいたが、それを前堂首座・後堂首座という。その寺院の住持(東堂)と賓客の住持(西堂)に継ぐ地位で、禅寺における五頭首の一位とニ位。
心地發明
ここでの心地は仏性の意。心の正体を明らかに悟ること。
些子
いささか。少々の。
古則
古人の残した語録。特に禅宗において伝承された伝灯録など。
拈提
古則公案を出して学人に提唱すること。
碧巖錄
宋代の支那にて編集された公案集で、その代表的なもの。
結制大會
結制は安居に入ることをいう語で結夏に同じであるが、ここでは単に禅宗における特別な法会の意。
西堂
浄土宗において香衣の勅許を得るまでには至っていない、しかし僧徒の指導の任に就いた一定の高位の僧。本来、西堂は禅宗の用語であって、他寺の住持を引退した者、あるいはその者が住まう法堂から西に位置する坊を称した語。現住持の住居を東堂というのに対する。
門跡
皇家・公家に関わる者が出家して入った寺院、あるいはその門主の称。
院家
大寺院の境内内にあって、その本寺とは別に独立した本尊・諸堂・経済を有した寺。現代言う所の塔頭に同じ。狭義には門跡を補佐する位の僧で、ここではその意。
妻あればその通リ
一向宗(真宗)の宗教者は僧ではない、出家ではないという扱いから妻帯が容認されていた。そもそも親鸞が対馬に流された際に還俗し、妻帯して子を設けていたことに倣ったもの。出家でないのであれば妻帯もとより勝手自在であったのが、いつの間にか一向宗の親鸞の血統あるいはその門流らは自身たちも出家であり僧であると主張し出している。慈雲は当然、妻帯する者など決して僧たりえないと考えているが、そもそも一向宗は元来が在俗者の一信仰程度に見ているためこのように言えたのであろう。
八品
『法華経』全廿八品のうち「従地涌出品第十五」から「嘱累品第廿二」の、日蓮が特に重要であると主張した八品。
壽量
『法華経』「如来寿量品第十六」。
止観
元来は仏教の修習・瑜伽、いわゆる瞑想の枠組みを云う語であるが、ここでは特に天台教学において主張される、『摩訶止観』に基づいた止観。
律宗は別に宗旨と云フべきこと...
このような見方、意識はすでに中世から存在していたが、近世は特に浄厳が明言している。慈雲もまた律宗を特に宗派として見てないことがこの語からも知られる。したがって、慈雲の唱導した正法律復興であるとか一派正法律宗という語を、ただ「律」であるとか「律宗」という枠組みで見る従来の見解は誤りである。
ただし、その本来を云うのであれば、支那の道宣に依る南山律宗はただ単に律の研究学派ではなく、特に法相唯識を背景として独自の修道法をも説くいわゆる宗旨であった。宋代以降、これを中興しようとした元照によって法相でなく天台教学に基づいた再解釈がなされているが、それが日本の中世にもたらされ一般化している。ただし、日本における中世の戒律復興は、そのような宗旨としての律宗を全面的に受け入れるものでなく、ただその行儀・行事についての解釈や実際のみに興味が集中されており、特に定学の実践においては真言密教が兼学された。これは古代後期にはすでに『行事鈔』を除く律三大部およびその他多くの律宗典籍が散佚して無かったことにも一部起因するのであろう。
慈雲尊者について
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