阿闍世王到園門下象。解劍退蓋。去五威儀。歩入園門。告壽命曰。今佛世尊爲在何所。壽命報言。大王。今佛在高堂上。前有明燈。世尊處師子座南面而坐。王小前進自見世尊。爾時阿闍世王往詣講堂所。於外洗足然後上堂。默然四顧生歡喜心。口自發言。今諸沙門寂然靜默止觀具足。願使我太子優婆耶亦止觀成就與此無異。爾時世尊告阿闍世王曰。汝念子故口自發言。願使太子優婆耶亦止觀成就與此無異。汝可前坐。時阿闍世王即前頭面禮佛足於一面坐。而白佛言。今欲有所問。若有閑暇乃敢請問。佛言。大王。欲有問者便可問也。阿闍世王白佛言。世尊。如今人乘象馬車。習刀牟劍弓矢兵仗戰鬪之法。王子力士大力士僮使皮師剃髮師織鬘師車師瓦師竹師葦師。皆以種種伎術以自存生自恣娯樂。父母妻子奴僕僮使共相娯樂。如此營生。現有果報。今諸沙門現在所修現得果報不。佛告王曰汝頗曾詣諸沙門婆羅門所。問如此義不。王白佛言。我曾詣沙門婆羅門所。問如是義。
我念一時至不蘭迦葉所問言。如人乘象馬車習於兵法。乃至種種營生。現有果報。今此衆現在修道。現得果報不。彼不蘭迦葉報我言。王若自作若教人作。研伐殘害煮灸切割。惱亂衆生愁憂啼哭。殺生偸盜婬逸妄語。踰牆劫奪放火焚燒斷道爲惡。大王。行如此事非爲惡也。大王。若以利劍臠割一切衆生。以爲肉聚彌滿世間。此非爲惡亦無罪報。於恒水南臠割衆生亦無有惡報。於恒水北岸爲大施會施一切衆。利人等利亦無福報。王白佛言。猶如有人問瓜報李問李報瓜。彼亦如是。我問現得報不。而彼答我無罪福報。我即自念言。我是刹利王水澆頭種。無縁殺出家人繋縛驅遣。時我懷忿結心。作此念已即便捨去。
又白佛言。我於一時至末伽梨拘舍梨所問言。如今人乘象馬車習於兵法。乃至種種營生皆現有果報。今者此衆現在修道。現得報不。彼報我言。大王。無施無與無祭祀法。亦無善惡無善惡報。無有今世。亦無後世。無父無母。無天無化無衆生。世無沙門婆羅門平等行者。亦無今世後世自身作證布現他人。諸言有者。皆是虚妄。世尊。猶如有人問瓜報李問李報瓜。彼亦如是。我問現得報不。彼乃以無義答。我即自念言。我是刹利王水澆頭種。無縁殺出家人繋縛驅遣。時我懷忿結心。作此念已即便捨去。
又白佛言。我於一時至阿夷陀翅舍欽婆羅所。問言。大徳。如人乘象馬車習於兵法。乃至種種營生皆現有果報。今者此衆現在修道。現得報不。彼報我言。受四大人取命終者。地大還歸地。水還歸水。火還歸火。風還歸風。皆悉壞敗諸根歸空。若人死時牀輿擧身置於塚間。火燒其骨如鴿色。或變爲灰土。若愚若智取命終者。皆悉壞敗爲斷滅法。世尊。猶如有人問李瓜報。彼亦如是。我問現得報不。而彼答我以斷滅。我即念言。我是刹利王水澆頭種。無縁殺出家人繋縛驅遣。時我懷忿結心。作此念已即便捨去。
又白佛言。我昔一時。至彼浮陀伽旃延所問言。大徳。如人乘象馬車習於兵法。乃至種種營生皆現有果報。今者此衆現在修道得報不。彼答我言。大王。無力無精進人無力無方便。無因無縁衆生染著。無因無縁衆生清淨。一切衆生有命之類。皆悉無力不得自在。無有冤讐定在數中。於此六生中受諸苦樂。猶如問李瓜報問瓜李報。彼亦如是。我問現得報不。彼已無力答我。我即自念言。我是刹利王水澆頭種無縁殺出家人繋縛驅遣。時我懷忿結心。作此念已即便捨去。
又白佛言。我昔一時至散若毘羅梨子所問言。大徳。如人乘象馬車習於兵法。乃至種種營生皆現有果報。今者此衆現在修道。現得報不。彼答我言。大王。現有沙門果報。問如是。答此事如是。此事實此事異。此事非異非不異。大王。現無沙門果報。問如是。答此事如是。此事實此事異。此事非異非不異。大王。現有無沙門果報。問如是。答此事如是。此事實此事異此事非異非不異。大王。現非有非無沙門果報。問如是。答此事如是。此事實此事異。此事非異非不異。世尊。猶如人問李瓜報問瓜李報。彼亦如是。我問現得報不。而彼異論答我。我即自念言。我是刹利王水澆頭種。無縁殺出家人繋縛驅遣。時我懷忿結心。作是念已即便捨去。
又白佛言。我昔一時至尼乾子所問言。大徳。猶如人乘象馬車。乃至種種營生現有果報。今者此衆現在修道現得報不。彼報我言。大王。我是一切智一切見人盡知無餘。若行若住坐臥覺悟無餘。智常現在前。世尊。猶如人問李瓜報問瓜李報。彼亦如是。我問現得報不。而彼答我以一切智。我即自念言。我是刹利王水澆頭種。無縁殺出家人繋縛驅遣。時我懷忿結心。作此念已即便捨去。
阿闍世王、園門に到て象を下り、劍を解て蓋を退け、五威儀を去て、歩み園門に入る。壽命に告て曰く、今ま佛世尊、何所に在せりやと。壽命、報へて言く、大王、今ま佛、高堂の上に在せり。前に明燈あって、世尊、師子座に處して南面して坐したまへりと。王、小しく前進して自ら世尊を見たてまつる。爾の時、阿闍世王、講堂の所に往詣して、外に於て足を洗ひ、然して後に堂に上る。默然として四顧し、歡喜の心を生ず。口に自ら言を發せり。今、諸の沙門、寂然靜默にして止觀具足せり。願くは我が太子優婆耶をして亦た止觀成就すること此と異なることなからしめんと。爾の時、世尊、阿闍世王に告て曰く、汝、子を念ふ故に口に自ら言を發せり。願くは太子優婆耶をして亦た止觀成就すること此と異なることなからしめんと。汝、前に坐すべしと。時に阿闍世王、即ち前んで頭面に佛足を禮し、一面に於て坐す。而して佛に白して言く、今ま所問あらんと欲す。若し閑暇あらば乃ち敢て請問せんと。佛言く、大王、問ひあらんと欲せば便ち問ふべしと。阿闍世王、佛に白して言く、世尊、今、人の象馬車に乘じ、刀・牟・劍・弓矢・兵仗・戰鬪の法を習ふが如く、王子・力士・大力士・僮使・皮師・剃髮師・織鬘師・車師・瓦師・竹師・葦師、皆な種種の伎術を以て、以て自ら生を存し、自ら恣に娯樂す。父母・妻子・奴僕・僮使と共に相ひ娯樂す。此の如く生を營み、現に果報あり。今ま諸の沙門の現在修むる所は現に果報を得るや不やと。佛、王に告て曰く、汝、頗し曾て諸の沙門・婆羅門の所に詣て、此の如き義を問へりや不やと。王、佛に白して言く、我れ曾て沙門・婆羅門の所に詣り、是くの如き義を問へり。
我れ念ふに一時、不蘭迦葉の所に至て問て言く、人の象馬車に乘り兵法を習ひ、乃至、種種に生を營みて現に果報あるが如く、今ま此の衆、現在に道を修めて現に果報を得るや不や。彼れ不蘭迦葉、我に報へて言く、王、若し自ら作し、若しは人に教へて作さしむに、研伐・殘害・煮灸・切割して衆生を惱亂し、愁憂啼哭せしめ、殺生・偸盜・婬逸・妄語・踰牆・劫奪・放火・焚燒して道を斷じて惡を爲すと雖も、大王、此の如き事を行ずるも惡を爲すに非ざるなり。大王、若し利劍を以て一切衆生を臠割し、以て肉聚と爲して世間に彌滿すと雖も、此れ惡を爲すに非ずして、亦た罪報無し。恒水の南に於て衆生を臠割せんも亦た、惡報有ること無し。恒水の北岸に於て大施會を爲して一切衆に施し、人を利すに等しく利すと雖も亦た福報無しと。王、佛に白して言く。猶ほ人有て瓜を問ふに李と報へ、李を問ふに瓜と報ふるが如し。彼れも亦た是くの如し。我れ現に報を得るや不やを問ふに、而も彼れ我に罪福の報ひ無しと答ふ。我れ即ち自ら念じて言く、我は是れ刹利王にして水澆頭種なり。縁無きに出家人を殺し、繋縛して驅遣せんと。時に我れ忿結心を懷き、此の念を作し已て即便ち捨て、去りぬ。
又た佛に白して言く、我れ一時、末伽梨拘舍梨の所に至り問て言く、今ま人、象馬車に乘り兵法を習ひ、乃至、種種に生を營みて皆な現に果報あるが如く、今、此の衆、現在、道を修して現に報いを得るや不やと。彼れ我に報へて言く、大王、施無く與無く祭祀の法無く、亦た善無く、惡無く、善惡の報ひも無し。今世あること無く、亦た後世も無し。父無く、母無く、天無く、化無く、衆生無く、世に沙門・婆羅門の平等の行者無し。亦た今世・後世に自身作證く布現他人無し。諸の有りと言ふ者は皆是れ虚妄なりと。世尊、猶ほ人有て瓜を問ふに李と報へ、李を問ふに瓜と報ふるが如し。彼れも亦た是くの如し。我れ現に報を得るや不やを問ふに、彼れ乃ち無義を以て答ふ。我れ即ち自ら念じて言く、我は是れ刹利王にして水澆頭種なり。縁無きに出家人を殺し、繋縛して驅遣せんと。時に我れ忿結心を懷き、此の念を作し已て即便ち捨て、去りぬ。
又た佛に白して言く、我れ一時、阿夷陀翅舍欽婆羅の所に至り問て言く、大徳、人、象馬車に乘り兵法を習ひ、乃至、種種に生を營みて皆な現に果報あるが如く、今、此の衆、現在、道を修して現に報ひを得るや不やと。彼れ我に報へて言く、四大を受くる人、命終を取らば地大は地に還歸し、水は水に還歸し、火は火に還歸し、風は風に還歸す。皆な悉く壞敗して諸根、空に歸す。若し人、死さば、時に牀輿に身を擧げて塚間に置かられ、火、其の骨を燒かば鴿色の如し。或は變じて灰土と爲る。若しは愚、若しは智、命終を取らば皆な悉く壞敗して斷滅の法と爲る。世尊、猶ほ人有て李を問ふに瓜と報ふるが如し。彼れ亦た是くの如し。我れ現に報ひを得るや不やを問ふに、而して彼れ我に答ふるに斷滅を以てせり。我れ即ち念じて言く、我れは是れ刹利王にして水澆頭種なり。縁無きに出家人を殺し、繋縛して驅遣せんと。時に我れ忿結心を懷き、此の念を作し已て即便ち捨て、去りぬ。
又た佛に白して言く、我れ昔一時、彼浮陀伽旃延の所に至り問て言く、大徳、人、象馬車に乘り兵法を習ひ、乃至、種種に生を營みて皆な現に果報あるが如く、今、此の衆、現在、道を修して報ひを得るや不やと。彼れ我に答へて言く、大王、無力・無精進にして、人、無力・無方便なり。無因・無縁にして衆生、染著し、無因・無縁にして衆生、清淨たり。一切衆生、有命の類、皆な悉く無力にして自在を得ず。冤讐あること無く、定めて數中に在て、此の六生の中に於て諸の苦樂を受けんと。猶ほ李を問ふに瓜と報へ、瓜を問ふに李と報ふが如し。彼れも亦た是くの如し。我れ現に報を得るや不やを問ふに、彼れ已に無力と我に答へり。我れ即ち自ら念じて言く、我は是れ刹利王にして水澆頭種なり。縁無きに出家人を殺し、繋縛して驅遣せんと。時に我れ忿結心を懷き、此の念を作し已て即便ち捨て、去りぬ。
又た佛に白して言く、我れ昔一時、散若毘羅梨子の所に至り問て言く、大徳、人、象馬車に乘て兵法を習ひ、乃至、種種に生を營みて皆な現に果報あるが如く、今、此の衆、現在、道を修して現に報ひを得るや不やと。彼れ我に答へて言く、大王、現に沙門の果報、有りやと、是くの如く問ふに、此の事に答ふること是くの如し。此の事、實なり。此の事、異なり。此の事、異なるに非ず。異ならざるに非ずと。大王、現に沙門の果報、無きやと、是くの如く問ふに、此の事に答ふること是くの如し。此の事、實なり。此の事、異なり。此の事、異なるに非ず。異ならざるに非ずと。大王、現に沙門に果報、無きこと有りやと、是くの如く問ふに、此の事に答ふること是くの如し。此の事、實なり。此の事、異なり。此の事、異なるに非ず。異ならざるに非ずと。大王、現に沙門の果報、有るにも非ず無きにも非ずやと、是くの如く問ふに、此の事に答ふること是くの如し、此の事、實なり。此の事、異なり。此の事、異なるに非ず。異ならざるに非ずと。世尊、猶ほ人、李を問ふに瓜と報へ、瓜を問ふに李と報ふるが如し。彼れも亦た是くの如し。我れ現に報を得るや不やを問ふに、而して彼れ異を論じて我に答へたり。我れ即ち自ら念じて言く、我は是れ刹利王にして水澆頭種なり。縁無きに出家人を殺し、繋縛して驅遣せんと。時に我れ忿結心を懷き、是の念を作し已て即便ち捨て、去りぬ。
又た佛に白して言く、我昔一時、尼乾子の所に至り問て言く、大徳、猶ほ人、象馬車に乘て、乃至、種種に生を營みて現に果報有り。今、此の衆、現在、道を修して現に報ひを得るや不やと。彼れ我に報へて言く、大王、我は是れ一切智にして一切見の人なり。盡く知て餘り無し。若しは行き、若しは住し、坐し、臥して覺悟するに餘り無し。智、常に現じて前に在りと。世尊、猶ほ人、李を問ふに瓜と報へ、瓜を問ふに李と報ふるが如し。彼れも亦た是くの如し。我れ現に報を得るや不やと問ふに、而して彼れ我に答ふるに一切智を以てせり。我れ即ち自ら念じて言く、我は是れ刹利王にして水澆頭種なり。縁無きに出家人を殺し、繋縛して驅遣せんと。時に我れ忿結心を懷き、此の念を作し已て即便ち捨て、去りぬ。
Samaññaphala Suttaにおける該当句は、「bhagavā majjhimaṃ thambhaṃ nissāya puratthābhimukho nisinno purakkhato bhikkhusaṅghassā(世尊は中央の柱の傍にて東面し、比丘僧伽に向かって坐す)」。そもそも原本が異なるため、仏陀耶舎が訳した梵本あるいは胡本に「北面」とあった可能性も一応あるが、漢訳では支那における「君子南面す」なる通念を持ちこんでのことであろうが、東面が南面とされ、また師子座に処すとされて、より権威的に描かれている。師子座については、印度における「柱」がいかなるものか支那では理解されず、故に支那人でもよりその情景を想起しやすいようにしたということもあったであろう。▲
四方を見回すこと。▲
Samaññaphala Suttaにおける該当句は「upasamena bhikkhusaṅgho samannāgato(比丘僧伽が平静さを具えている)」であるが、これに依る限り「止観具足」などという訳は決して妥当なものではない。これは仏教の修習の根幹たる「止観」を言ったものではなく、単に「比丘たちが落ち着いて平静である」との意であると理解すべきであろう。▲
[P]Udayabhadda. 先には優耶婆陀とされているが、ここでは異なる音写名を載せる。本経は特に音写名が、六師外道なども同様に、統一されておらず揺れていることに留意。▲
性的に奔放で淫らであること。▲
牆(かきね)を踰(こ)えること。転じて他人に見られぬよう、男女が密通すること。不倫。▲
[P]Gaṅgā. ガンジス川、恒河。▲
Samaññaphala Suttaでは「amba」、すなわちマンゴー。支那の中原ではマンゴーなど産出されず、理解し得ないために支那で一般的な果物の名としたのであろう。▲
Samaññaphala Suttaでは「labuja」、すなわちジャックフルーツ(パラミツ)。マンゴーに同じく支那で知られてないものであるため、一般的な果物の名に変じたのであろう。▲
刹利は[S]Kṣatriya / [P]Khattiyaの音写。印度古来の四姓制度における第二に位置する士族階級。必ずしも士族の階級であるから王たり得る、ということはなかったであろうが、釈尊の出身である釈迦族も刹利に属するものであった。▲
刹利が王位を継ぐに際して「水を頭に注ぐ儀礼」いわゆる灌頂をもってする種族であることを表した言。密教における重要な儀礼「灌頂とは、刹利の儀礼を取り入れたものであった。▲
Samaññaphala Suttaに該当句無し。マッカリ・ゴーサーラは、この世の一切を構成する十二要素には特定の相関関係はなく、すべて偶発的に離合を繰り返すものであり、したがって行為にはその性質に基づく結果を生み出すことは無いと否定した。そのことからすれば、この一句は特に婆羅門教において推奨される供儀や祭祀を否定したものであろう。人が何等かの行為を為したとしても、それが特に意味あるものとは決してならないことを意味した語。彼は、宇宙論的長大な時間を苦しみつつ生き続け、その期間において人がなにをどうしようと無駄であるとし、やがてついに輪廻という苦の終焉を自ずから迎えるという。
ただし、Samaññaphala Suttaには、これに該当する句「natthi, mahārāja, dinnaṃ, natthi yiṭṭhaṃ, natthi hutaṃ(大王よ、布施無く、供儀無く、祭祀無し)」を、アジタ・ケーサカンバリンが述べたものとして伝えている。▲
地・水・火・風の四要素。ここでの大は普遍の意。▲
現代日本においてもよく見られる、人は死ねば、ただその構成要素がバラバラとなるのみであって無に帰し、したがって来世も後世も有りはしないという見解。唯物論。▲
Samaññaphala Suttaによれば、パクダ・カッチャーヤナは世界には「satta kāyā(七身)」のみ実在することを主張していたという。そこでその七とは、pathavikāya(地身)・āpokāya(水身)・tejokāya(火身)・vāyokāyo(風身)・sukhe(楽)・dukkhe(苦)・jīva(生命)であるという。そこでそれらによって構成されるあらゆる事物か、そこにはもちろん人・動物も含まれるが、すべて虚無なるものであって何らの(主体的・能動的)力も有しておらず、それら自身らの構成要素に影響を及ぼすことなど決してなく、ただ偶発的に苦・楽を感じるだけで無力にあるのみとの意。
漢訳の本経、および同じく『長阿含経』所収「梵動経」にはそのような彼の具体的主張は何ら伝えられておらず、漠然として朦朧である。▲
怨讐。本来「恨んで仇とすること」の意であるが、ここでは対立の意か?ならばパグダ・カッチャーヤナの主張した七身それぞれが「相互に対立や融合するなど干渉することは無い」という意であろう。▲
何を言わんとしたものか不明。
あるいは「數」は藪の写誤か?ならばこの語は、あらゆる事物の因果関係・相互作用を否定するパグダ・カッチャーヤナの主張からすれば、なんら確定的未来などなく先の見通せない文字通りの「藪の中」という意であろう。いずれにせよSamaññaphala Suttaに該当語句が無く、また『長阿含経』に「數中」であれ「藪中」であれ、その用例が本経以外に無いため判断しかねる。▲
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が色・声・香・味・触・法の六境を各々覚知したときに生じる感覚について言ったものであろう。我々は能動的に為し得ることは何一つ無く、ただ偶発的・受動的な刺激に対してただ苦・楽を感覚するのみということを言わんとしたのであろう。
あるいは「六」は七の写誤であって、Samaññaphala Suttaにいう「satta kāyā(七身)」を言わんとしたものか。▲