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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『長阿含経』「沙門果経」

原文

是故世尊。今我來此問如是義。如人乘象馬車習於兵法。乃至種種營生皆現有果報。今者沙門現在修道現得報不。佛告阿闍世王曰。我今還問王。隨意所答。云何大王。王家僮使内外作人。皆見王於十五日月滿時。沐髮澡浴在高殿上。與諸婇女共相娯樂。作此念言。咄哉行之果報乃至是乎。此王阿闍世。以十五日月滿時。沐髮澡浴於高殿上。與諸婇女五欲自娯。誰能知此乃是行報者。彼於後時。剃除鬚髮。服三法衣出家修道行平等法。云何。大王。大王遙見此人來寧復起念言。是我僕使不耶。王白佛言。不也。世尊。若見彼來當起迎請坐。佛言。此豈非沙門現得報耶。王言。如是世尊。此是現得沙門報也。復次大王。若王界内寄居客人食王廩賜。見王於十五日月滿時。沐髮澡浴於高殿上與諸婇女五欲自娯。彼作是念。咄哉彼行之報乃如是耶。誰能知此乃是行報者。彼於後時剃除鬚髮服三法衣。出家修道行平等法。云何大王。大王若遙見此人來寧復起念言。是我客民食我廩賜耶。王言不也。若我見其遠來。當起迎禮敬問訊請坐。云何大王。此非沙門現得果報耶。王言。如是。現得沙門報也。復次大王。如來至眞等正覺出現於世。入我法者乃至三明滅諸闇冥生大智明。所謂漏盡智證。所以者何。斯由精勤專念不忘。樂獨閑靜不放逸故。云何大王。此非沙門現在果報也。王報言。如是世尊。實是沙門現在果報。

爾時阿闍世王即從坐起。頭面禮佛足。白佛言。唯願世尊。受我悔過我爲狂愚癡冥無識。我父摩竭瓶沙王。以法治化無有偏枉。而我迷惑五欲實害父王。唯願世尊。加哀慈愍受我悔過。佛告王曰。汝愚冥無識但自悔過。汝迷於五欲乃害父王。今於賢聖法中能悔過者即自饒益。吾愍汝故受汝悔過。

爾時阿闍世王禮世尊足已。還一面坐。佛爲説法示教利喜。王聞佛教已。即白佛言。我今歸依佛歸依法歸依僧。聽我於正法中爲優婆塞。自今已後盡形壽不殺不盜不婬不欺不飮酒。唯願世尊。及諸大衆明受我請。爾時世尊默然許可。時王見佛默然受請已。即起禮佛遶三匝而還。其去未久。佛告諸比丘言。此阿闍世王。過罪損減已拔重咎。若阿闍世王不殺父者。即當於此坐上得法眼淨。而阿闍世王今自悔過。罪咎損減已拔重咎。時阿闍世王至於中路。告壽命童子言。善哉善哉。汝今於我多所饒益。汝先稱説如來指授開發。然後將我詣世尊所。得蒙開悟。深識汝恩終不遺忘。時王還宮辦諸餚膳種種飮食。

明日時到唯聖知時。爾時世尊著衣持鉢。與衆弟子千二百五十人倶。往詣王宮就座而坐。時王手自斟酌供佛及僧。食訖去鉢行澡水畢。禮世尊足白言。我今再三悔過。我爲狂愚癡冥無識。我父摩竭瓶沙王。以法治化無有偏抂。而我迷於五欲實害父王。唯願世尊。加哀慈愍受我悔過。佛告王曰。汝愚冥無識迷於五欲乃害父王。今於賢聖法中。能悔過者即自饒益。吾今愍汝受汝悔過。時王禮佛足已。取一小座於佛前坐。佛爲説法示教利喜。王聞佛教已。又白佛言。我今再三歸依佛歸依法。歸依僧。唯願聽我於正法中爲優婆塞。自今已後盡形壽不殺不盜不婬不欺不飮酒。爾時世尊爲阿闍世王説法示教利喜已。從坐起而去。爾時阿闍世王及壽命童子聞佛所説。歡喜奉行

訓読

是の故に世尊せそん、今我れ此に來て是くの如き義を問はん。人、象馬車に乘て兵法を習ひ、乃至、種種に生を營みて皆な現に果報有るが如く。今、沙門、現在道を修して現に報ひを得るや不やと。佛、阿闍世あじゃせ王に告て曰く。我れ今、た王に問ふ。こころしたがひて答へらるべし。云何いかんが、大王。王家の僮使どうし内外ないげ作人さにんは皆、王の十五日に月滿つる時に於て、沐髮・澡浴して高殿の上にり、諸の婇女さいにょと共に相娯樂せるを見て、此の念を作して言く、咄哉とっさい、行の果報、すなわち是れに至る。此の王阿闍世、十五日に月滿つる時を以て、沐髮・澡浴して高殿の上に於て、諸の婇女と五欲自ら娯む。誰か能く知らん、此れ乃ち是れ行の報ひなるをばと。彼、後時に於て、鬚髮を剃除し、三法衣さんほうえを服し出家して道を修し、平等法を行ず。云何、大王。大王、はるかに此の人の來るを見てむした念を起して言はんや。是れは我が僕使ぼくしあらずやと。王、佛に白して言く、しからずなり、世尊。若し彼の來るを見ば、まさたちて迎へ、請ふて坐せしむべしと。佛言く、此れに沙門の現に報ひを得るに非ずやと。王言く、是くの如し、世尊。此れは是れ現に沙門の報ひを得たるなりと。復た次に大王、若し王の界内かいない寄居ききょ客人まれひとにして王の廩賜りんしむるが、王の十五日に月滿つる時に於て、沐髮・澡浴して高殿の上にて、諸の婇女と五欲自らたのしむを見、彼れ是の念を作す。咄哉、彼の行の報ひ是くの如きや。誰か能く知らん、此れ乃ち是の行の報ひなるをばと。彼、後時に於て、鬚髮を剃除し、三法衣を服し出家して道を修し、平等法を行ず。云何、大王。大王、若し遙かに此の人の來るを見ば、寧ろ復た念を起して言はんや。是れは我が客民にして我が廩賜をむものなりやと。王言く、しからずなり。若し我れ其の遠く來るを見ば、當に起て迎へ禮敬、問訊して請ふて坐せしむべしと。云何、大王。此れ沙門の現に果報を得るに非ずやと。王言く、是くの如し。現に沙門の報ひを得たるなりと。復た次に大王、如來至眞ししん等正覺とうしょうがくにして世に出現す。我が法に入る者は、乃ち三明さんみょうに至て諸の闇冥あんみょうを滅し、大智明だいちみょうを生ず。所謂、漏盡智證ろじんちしょうなり。所以者何ゆえいかんとなれば、斯れ精勤しょうごん專念せんねん不忘ふもうにして、ひと閑靜げんじょうなるを樂しみ、不放逸ふほういつなるに由るが故なり。云何、大王。此れ沙門の現在に果報を得るに非ずやと。王、こたへて言く、是くの如し、世尊。實に是れ沙門の現在の果報なり。

爾の時、阿闍世王、即ち坐より起て、頭面に佛足を禮し、佛にもうしてもうさく、唯だ願くは世尊、我が悔過けかを受けたまへ。我れ狂愚きょうぐにして癡冥ちみょう無識むしきたり。我が父、摩竭まがつ瓶沙びょうしゃ、法を以て治化ちけ偏枉へんおう有ること無かりき。而るに我、五欲に迷惑して實に父王を害せり。だ願くは世尊、哀みを加へ慈愍じみんして我が悔過を受けたまへと。佛、王に告て曰く、汝、愚冥ぐみょう、無識にして但だ自ら悔過す。汝、五欲に迷て乃ち父王を害せり。今、賢聖けんじょうの法の中に於て能く悔過せば即ち自ら饒益にょうやくせん。吾れ汝をあわれむが故に汝の悔過を受けんと。

爾の時、阿闍世王、世尊の足を禮し已て、しりぞきて一面に坐す。佛、爲に説法して教へを示し利喜せしむ。王、佛の教へを聞き已て、即ち佛に白して言く、我れ今、佛に歸依きえたてまつる。法に歸依し奉る。僧に歸依し奉る。我れ正法しょうぼうの中に於て優婆塞うばそくと爲ることをゆるしたまへ。自今已後じこんいこ形壽ぎょうじゅつくすまで不殺ふせつ不盜ふとう不婬ふいん不欺ふぎ不飮酒ふおんじゅならん。唯だ願くは世尊及び諸の大衆だいしゅあすに我がしょうを受けたまへと。爾の時、世尊、默然もくねんとして許可こかしたまふ。時に王、佛の默然としてしょうを受けたまふを見おわりて、即ち起て佛を禮し、めぐること三匝さんそうしてかえりぬ。其の去て未だ久しからざるに、佛、諸の比丘に告て言く、此の阿闍世王、過罪かざい損減そんげん已て重咎じゅうこうけり。若し阿闍世王、父を殺さざれば、即ち當に此の坐上に於て法眼淨ほうげんじょうを得べし。而して阿闍世王は今、自ら悔過し、罪咎ざいこうの損減已て重咎を拔けりと。時に阿闍世王、中路ちゅうろに至て、壽命じゅみょう童子に告て言く、善哉ぜんざい善哉ぜんざい、汝今、我に於て饒益する所多し。汝、先に如來の指授しじゅ開發かいほつ稱説しょうせつし、然して後、我をひきいて世尊の所に詣り、開悟をこうむることを得たり。深く汝の恩をしりつい遺忘ゆいもうせずと。時に王、宮にかえりて諸の餚膳ぎょうぜん、種種の飮食おんじきべんず。

明日みょうにち、時到て唯だしょうのみ時を知る。爾の時、世尊、衣をけ鉢をして、しゅの弟子千二百五十人とともに、王宮おうぐうに往詣して座に就て坐したまふ。時に王、手自てずから斟酌しんしゃくして佛及び僧をす。じきおわりて鉢を去り、澡水そうすいを行じおわんぬ。世尊の足を禮して白して言く、我、今、再三さいさん悔過す。我れ狂愚にして癡冥、無識たり。我が父摩竭瓶沙王、法を以て治化し偏抂有ること無し。而るに我れ五欲に迷ひ、實に父王を害せり。唯だ願くは世尊、哀みを加へ慈愍して我が悔過を受けたまへと。佛、王に告て曰く、汝、愚冥、無識にして五欲に迷ひ、乃ち父王を害せり。今、賢聖の法の中に於て、能く悔過せば即ち自ら饒益せん。吾れ今、汝を愍んで汝の悔過を受くと。時に王、佛の足を禮し已て、一小座を取り、佛の前に於て坐しぬ。佛、爲に説法して教へを示し利喜せしむ。王、佛の教へを聞き已て、又た佛に白して言く、我れ今再三、佛に歸依し奉る。法に歸依し奉る。僧に歸依し奉る。唯だ願くは、我れ正法の中に於て優婆塞うばそくることを聽したまへ。自今已後じこんいこ、形壽を盡すまで、不殺・不盜・不婬・不欺・不飮酒ならん。爾の時、世尊、阿闍世王の爲に説法し、教へを示して利喜せしめ已り、坐より起て去りたまひぬ。爾の時、阿闍世王及び壽命童子、佛の所説を聞て歡喜かんぎ奉行ぶぎょう

脚註

  1. 咄哉とっさい

    「咄」は驚いた時に発する声、あるいは呼びかけの声を意味する字で、ここでは「ああ」とか「おお」などと感嘆して発するの声。

  2. 三法衣さんほうえ

    比丘が必ず所有しなければならない三種の法衣。すなわち大衣(僧伽梨)・上衣(鬱多羅僧)・下衣(安陀会)からなる三種のいわゆる袈裟衣、三衣。

  3. 如來にょらい

    [S/P]tathāgata. tathā(如・真理)からāgata(来た)と理解されたことによる訳。あるいはtathā(如・真理)へgata(行った)と理解されて如去とも訳された。いずれの理解が正しいかは定めがたいが、支那では主に前者、西蔵では後者の理解が伝統的になされている。仏陀の異称(如来の十号)の一つ。

  4. 至眞ししん

    [S]arhat / [P]arahant. 阿羅漢。(供養を)受けるに相応しい者。修行完成者。応供、真人とも。如来の十号の一。

  5. 等正覺とうしょうがく

    [S]abhisaṃ-bodhi, samyak-sambodhi. 正しい覚り、(真理の)全き理解。あるいはそれを備えた者の称。如来の十号の一。

  6. 三明さんみょう

    仏陀あるいは阿羅漢が自ずから備える三つの智慧。過去を明らかに見通す宿命明、未来を通達する天眼明、現在に煩悩が全く尽きたことを知る漏尽明。

  7. 漏盡智證ろじんちしょう

    三明の一。漏盡智証通あるいは漏盡智証明 (『雑阿含経』)。煩悩が全く尽き、自身がもはや二度と生を受けることは無い最後身であると明らかに知る智慧。解脱知見。

  8. 悔過けか

    Samaññaphala Suttaの該当箇所では「tassa me, bhante bhagavā accayaṃ accayato paṭiggaṇhātu āyatiṃ saṃvarāyā(大徳よ、世尊よ、私は罪を罪として受け入れ、未来において(二度となさぬよう)制する)」、あるいはその阿闍世王の言葉に答えて釈尊は「paṭikaroti(贖う)」と表現している。

  9. 摩竭まがつ

    [S/P]Magadha. 摩伽陀、マガダ国。仏陀在世当時はガンジス川中流域一帯を支配した強国の一。仏陀が入滅して100から200年の後に印度のほぼ全域を初めて統一する強大な国家となる。

  10. 瓶沙びょうしゃ

    [S]Vimbisāra / [P]Bimbisāra. 頻婆娑羅、ビンビサーラ王。軍事・外交・内政に優れ、マガダを強国へと発展させた人。仏陀だけでなくマハーヴィーラなど沙門の庇護を行ったが、子のアジャータサットゥに幽閉されついに殺されたとされる。

  11. そう

    [S]saṃgha / [P]saṅgha. 僧伽、僧侶、サンガ。仏陀の教えの門に帰依し、その教えを行いつつ後世に伝える出家者らによる自治組織。僧は本来、僧伽の略であって誰か一人の出家者を指す語でない。ここではその原意での僧であり、仏陀の元にある出家修行者ら全体の意。

  12. 正法しょうぼう

    [S]saddharma / [P]saddhamma. 正しき思想・教え。ここで「正しき」とは、道理に凖じて違わず、自他を涅槃に導くに適切・正当なものとの意。
    Samaññaphala Suttaには該当語句なし。

  13. 優婆塞うばそく

    [S/P]upāsaka. 在家男性仏教信者。

  14. 形壽ぎょうじゅつくすまで

    この世における寿命が終わるまで。それ以降の一生涯。

  15. 不殺ふせつ不盜ふとう不婬ふいん不欺ふぎ不飮酒ふおんじゅ

    いわゆる五戒。詳細は別項「五戒」かつ「Pañca sīla」を参照のこと。

  16. しょう

    請食(しょうじき)。食事の招待。仏教の出家修行者をもてなすのに最も一般的で、今に至るまで東南アジアで行われている方法であり習慣。
    仏教僧は原則として一日一食であり、その食事は正午以前に摂り終わらなければならないため、在家信者らは出家者を自宅などに食事へ招待するのに朝方から午前十時頃に行われる。

  17. 默然もくねんとして許可こかしたまふ

    仏陀の当時、何か依頼や賛否を問う議題があったとき、その賛意を示すのには何ら言葉を発せず、沈黙をもって応えていた。この習慣、社会的習慣は仏教とともに支那および日本に伝えられ、その儀礼において今も行われている。

  18. めぐること三匝さんそう

    印度一般における礼法。貴人や尊者、聖人、師匠などに丁重な敬意を示すのに、その人の周りを右に三回まわる。現在も印度の伝統的な作法として行われているが、支那および日本では仏教にまつわる礼法として今に伝えられる。

  19. 法眼淨ほうげんじょう

    [P]dhammacakkhu. 仏教における聖者の階梯、その境涯の第一段階、須陀洹([S]srotāpanna / [P]sotāpanna)に至ること。
    阿闍世王は、父を殺すという重大な悪業をなしていたがためにここで法眼浄を得ることが出来なかったが、その恐るべき業果をいわば相殺することは出来た、ということであろう。

  20. 善哉ぜんざい善哉ぜんざい

    [S/P]sādhu, sādhu. 「善い哉!」あるいは「すばらしい!」と讃える語。

  21. 澡水そうすい

    印度では古来、右手を用いて直接に掴み食事することから、その食後には必ず手を洗う必要があり、またその口をうがいする習慣がある。したがって、ここで言われる「澡水」とは、手を洗い口を漱ぐこと。

  22. 歡喜かんぎ奉行ぶぎょう

    Samaññaphala Suttaの該当句は「attamanā te bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinandunti(比丘達は世尊の語られたことを喜び、受容した)」。現代、漢語であっても「歓喜」は容易く理解し得るであろうが、奉行と聞いてピンとくる者は多くないであろう。しかし、それはパーリ語でそうあるように、(肯定的に)受け入れる、喜んで奉じるとの意であると理解すればよい。

仏陀の言葉