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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説譬喩経』

いかに生きるべきか

現代日本仏教の風景 ―三界の狂人たち

日本の僧職者の中には、本来的な仏教の世界観を好まず、強いてこれを積極的・肯定的にしないと気が済まない人々があります。そしてそんな彼らが説法と称する、以下のような言葉を耳にしたことがあります。

「いやいや、仏教はけっして厭世的ではない。むしろこの世を積極的に楽しく、笑いながら、人らしく生きること。それを説くのが仏教なのです!」

「そのままで、いいんだよ?」

「にんげんだもの。何事も程よく楽しんで、この世を謳歌したら良いのデス」

仏教など関しない市井の人の一意見としてそのような思想を持ち、言うことに何ら問題はありません。けれども、それをあたかも仏教の真意、それが仏教の知見であるかのように言うことには大なる問題がある。「日本の坊さん」であったとしても、その話を聞く、仏教をよく知らぬ人からすれば本当の僧侶、いわば仏教のプロフェッショナルとして確かな知識と経験を有した者だと見なされるのであり、一定の信頼をもってその言葉は受け止められるためです。

それに対してそのような戯言を陳ずることは、鳥とは何かを知らずに鳥を買い求めてきた者に対し、ミミズを「これが鳥です」と言って売りつけようとするようなもの。いうまでもなく、それは欺瞞というものです。

「そんな馬鹿な」と思われる人もあるかもしれません。しかし、日本の僧職の多くが仏教のことをまったく知らず、その言のほとんどが仏教などまるで関しない薄っぺらい処世術の類でしかないのは、決して珍しい話ではありません。そのことは仏教学者たちもよく知っており、純粋な学者などには内心、日本で僧と言われる人々をひどく軽蔑しているのが少なからずあります。しかし同時に、学者の中には僧職者でもあるのがかなり存在しており、あるいは自身の研究や立場に支障が出る場合があるため、それが公に口にされることは決してありません。

そのような僧職の人が非常に多い日本仏教界の現状について、しばしば「日本の僧と言われる者にはまともに仏教を説く者、まして行う者などほとんどない」といった世間における批判の声を耳にします。けれども、それはある意味当然のことです。というのも、彼らが仏教のなんたるかを真に知ってそれを説き得るとして、それを直に説いてしまうと、彼ら自身のありかたや思想が完全に真反対で矛盾したものとなり、ほとんど全くの自己否定となってしまうからです。その故に立場上そして営業上、まともに説けるはずがない。

したがって、彼等が説法と称する言説の多くは、「人間だもの」に類する、祖師たちにまつわる人情噺などの浪花節で占められることなります。故に現今の日本の僧職者の大方が、一日の営業時間のうちのほんの数時間だけ袈裟衣を着、しかつめらしい顔やそれらしい笑顔を取り繕い、合掌しながらこう繰り返すのみであるのも頷けない話ではないでしょう。

「仏さまの大慈大悲!人は一人では生きていけない。ありがたい、ありがたい。ありがたや」

「ゴセンゾさまに感謝の心!手と手をあわせ、お陰様!」

「笑顔が一番、笑う門には福来たる!笑って生きる、それが一番!」

「亡くなった方、ご先祖様達は必ずあの世で見守っておられる。こうしてお寺にお参りしてお経を上げているのも聞いていて喜んでおられる。だからキチンと葬式を挙げ、法事を欠かさず、毎日仏壇に手を合わせ、節目節目に墓参りを欠かしてはならない」

「とにもかくにもココロが大事。にも関わらず、近頃の人々はココロを忘れてモノに支配されてしまっている。ナゲカワシヤァ」

日本の僧職の人の話を聞いたことがある者ならば、きっとこの類の説法ならぬご冗談は幾度も耳にしていることでしょう。そのような言葉のどこにも仏教など介在していませんが、檀家や信者相手にとりあえずそう言っておけばその場は取り繕えてしまう、という現実があります。けれどもそれは、世間で「餅は餅屋」とは言いますが、日本の僧職者らがやっているこの餅屋は、何も餅のことを知らず売らず、しかし餅屋の看板を上げて得体の知れない臓物を売りつける商売をしているという、世にも奇妙な様態であると言ってよい。

考えてみるに、これも遠く過去を振りかえって見ると歴史的なものであって、彼らがそのようなあり方を漫然とし続けていることは気の毒なことでもあります。寺の世襲ということは、すなわち思想・宗教の自由を奪ってその子に強制するということであり、しかもそれが「生業としての思想・宗教」なだけに非常にたちが悪い。寺生まれの二世・三世で、実は仏教そのもの、あるいはその寺が属する宗派の教義・思想を全く信じることが出来ず、惰性で信じていても学ぶ気は全く無いために、まるで仏教について知らない者は意外なほど多くあります。普通、それは信じているとは言わないでしょうけれども、それでも充分やっていけるのです。

幼少時からその後継者となるべく強制され、もがき苦しむ寺生まれの子は五万とあります。しかし、そんな彼等はあれこれ反抗しながら、結局寺を継いでいくことになる。もちろん寺稼業には不自由な短所も多々あるものの、しかし世間一般からすれば様々な点で益の多い稼業であるだけに簡単に手放すことも出来ず、自ずから彼等は「ビジネスとしての宗教事業家」となっていくという構造があります。

それもまさに業の果報というもので、因果な話でありましょう。そして、その果はまた因となり止め処なく続いていくでしょう。なんら自ら変わろうとせず惰性としてならば、確実に悪い方に向かって変わりつつ。

娑婆世界

確かに「この世をいかに生きるか」を仏教は説くものです。が、それは「この世をいかに見るか」で随分話が変わります。

人が迷いのうちに死に、迷いのうちに生まれてまた死んで際限の無い様をして、平安期初頭、唐代の支那から真言密教を日本に伝えた空海は還暦を目前としたころ、このような言葉で表現しています。

悠悠ゆうゆうたり悠悠たり、はなはだ悠悠たり。内外ないげ縑緗けんしょう、千萬の軸あり。
杳杳ようようたり杳杳たり、太だ杳杳たり。みちと云ひ道と云ふに百種の道あり。
え諷へなましかば、もといかがなさん。知らず知らず、れ知らず、
思ひ思ひ思ひ、思ふにせいること無し。牛頭ごず、草をめて病者を悲しび、
断菑だんし、車をわかつりて迷方めいほうあわれぶ。三界さんがい狂人きょうじんきょうせることを知らず、
四生ししょう盲者もうじゃもうせることをらず。生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終りにくら
《中略》
それしょうは吾がこのみ にあらず。死また人 にくむ。しかれども猶を生まれき生まれ之いて六趣に輪転し、死に去り死に去て三途に沈淪す。我を生じる父母ぶもも生の由来を知らず、生を受くる我が身もまた死の所去しょこを悟らず。過去をかえりみれば、冥冥みょうみょうとしてそのはじめを見ず。未来に臨めば、漠漠まくまくとしてそのおわりを尋ねず。三辰、いただきに戴けども暗きこと狗眼くがんに同じく、五嶽、足を載すれども迷えること羊目ようもくに似たり。日夕にっせきに営営として衣食えじきの獄に繋がれ、遠近おんごんわしおい名利みょうりの坑におちいる。《原漢文》
限りなし限りなし、なんと限りないことであろうか、
内外ないげ縑緗けんしょう〈仏教および外教の書物〉には千も万もの巻軸がある。
暗く深し暗く深し、なんと暗く深いことであろうか、
〈思想・宗教〉という道には百種の道がある。
書を絶やし、諷誦〈素読・暗誦〉することも無ければ、真理をいかに知られよう。
(もしそうなれば)知らず、知らず、私も知ることはなく、
思い、思い、思い、思ったとして聖者も知ることはない。
牛頭ごず〈神農〉は草から薬を作って病める者を哀れみ、
断菑だんし〈周公旦〉は車を操り方角を示し迷った者を愍んだ。
三界さんがい〈全ての宇宙〉狂人きょうじんは自ら狂っていることを知らず、
四生ししょう〈全ての生物〉盲者もうじゃは己がめしいていることをらない。
生れ、生れ、生れ、生れて、生の始めに暗く、
死に、死に、死に、死んで、死の終りにくらし。
《中略》
そもそも生〈生まれ、そして生きること〉は私の好むことではなく、また死は人の憎むものである。しかしながらなお、(我々人は)生まれ変わり、生まれ変わりしながら(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天いずれか)六趣に流転して、死に去り、死に行きながら(地獄・餓鬼・畜生の)三途に沈淪している。私を生んだ父母であっても、(我が)生の由来を知らず、生を受けた我が身もまた、死の行き先を悟れはしない。過去をかえりみたとしても、冥冥としてその始まりを見ることは出来ない。未来を臨んだとしても、漠漠としてその終わりを知ることなど出来はしない。三辰〈太陽と月と星々〉をこの空に頂いていながら暗暗としていることは犬の眼に同じく、五嶽〈支那における五名山、神話で盤古が死んで出来た山とされる。ここでは「大地」の意〉を足下に踏んでいたとしても迷えることは羊の目に似ている。昼夜に営々として衣食に追われる監獄に繋がれ、遠近わかたず追い求めて、名誉と財産という深い坑に堕ちている。

空海『秘蔵宝鑰』巻上(『底本 弘法大師全集』, vol.3, pp.113-117)

我々人はその好むと好まざるとにかかわらず、ただ生まれては死に、生まれては死んで、ひたすら苦しみの循環の中に漂うのみ。何もわからず生まれ、闇雲に生き、そしてまたいつのまにか死を迎える。ある者は悲惨の極みと表するも生ぬるいほどの苦しみの連続を受ける生を送り、ある者はこの世の苦など苦とも思わぬ生を謳歌し、しかしその大部分は良いことも悪しきことも卓抜することなく波間を漂う流木のように生き、しかしその誰もが老い、病み、苦しんで死ぬ。

死んで全てが終わりならばむしろどんなにか良いけれども、それで終わらせることは出来ず、また自身の業に応じた果報としてなんらかの生を受ける。そのような漫然とした生を繰り返すことを、どう肯定的に見よ、というのか。

これは空海が日本人であるから、真言宗であるからとか密教の人であるからなどという視点ではなく、仏教者に通じた世界の見方です。そのような見方がまずあるからこそ、そこから「ならば、いかに生きるべきか」という話になる。世界とは、生とはそのようなものであると知って、たちまち泣きわめいても無駄なことであり、あるいは無気力になったり自暴自棄になったりすることは実に愚かしいことです。

仏教が世界を悲観的に見てはいますが、だからといって自暴自棄や無気力になることを勧めているのでは全然ありません。

それは譬えば、まず自身がある位置があらゆる危難の潜む剣呑な場所であることを知ったならば、そこからいかに脱出するかを考えなければならない。その場所が危険だからと泣きわめいたところで意味はありません。そこから脱し、目指すところがあるならば、そこに行くための地図や方位磁針が必要です。しかし、もしその地図がまるでデタラメであり、その方位磁針も完全に狂っていたならば、その人が目的とする地に到達することなど絶望的で、ほとんど不可能でありましょう。そもそも地図が杜撰であれば、まず今の自分の位置がどこにあるかすらわからない。

また、その目的地は、本人が行ったことなどないからこそ地図と磁石が必要ですが、その地図の出処や根拠を確かめることもまた必要です。それがある程度確からしいと認められたならば、その地図を無闇に疑い続けて動かないようでは仕方ありません。地図に従って目的の地に向かいながら、その確かさを自らまた確認していけばよい。

そのように、我々が今ある処がいかなる場所でいかなる状況であるかを明かし、さらに仏教として行くべき方角を示さんとしているのが、まさにここで紹介している『仏説譬喩経』です。

仏教の第一歩は、生きることには苦しみと滑稽な愚かさとがあることを見つめ、その基となるものから離れることです。それを「出離」あるいは「出要」などと仏教では言います。出離の思いを持たず、あるいは実際に出離せずして仏教を理解しようとすることは、譬えば大海にただよう小舟の上に独りあり、そこからただ手を伸ばし、しかし我が身を一切水に触れさず濡らさずして、深き海底に潜む財宝を探り取ろうとするようなものです。

出離が仏道の初門において重要な世界観とその実際の態度であることは、声聞乗であろうが菩薩乗であろうが全く変わりません。そのような仏教の世界観を、巧みな譬喩によって説いているのがこの『仏説譬喩経』です。