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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説譬喩経』

人生、その滑稽なる悲劇

正見 ―無常・苦・無我

生きることは苦しみである、生・老・病・死は苦である、そのように世界を、人生を見ること。そしてまた、世界は因果応報によって生死流転し果てしないと見ること。それを仏教では正見といいます。仏教における修道の根幹、八正道の第一です。

正しくいえば、正見とはただそれだけを意味内容としたものではなく、そもそも世界がそのようであることの原因が、無我(非我)であるためという見解をその核心としたものです。

世のあらゆるすべての事物は無常であり、生じたものは必ず滅する定め。無常とは状態の変化することですが、人など生物においてそれは生まれては老い、そして病み、死として表れます。それはまさに苦であり、自らがどうすることも出来ないものです。それは何故か。何故どうにも出来ないのか。我々はその心身について、私の心、私の身体と思ってはいても、それらが決して自分自身でも自分の物でもない「我ならざるもの」であるためです。もしそれが自分のものであるならば、老いも病も自由勝手に制御し、死をも翻弄することが出来るでしょうが決してそのようなことはない。

そして世界は因果報応という業果の循環によって永遠に輪環している、と見ることを正とします。因果応報というのは事物の因果関係における諸作用・諸反応のことであり、物理の作用反作用など諸法則や化学の反応機構と同じものと理解することも可能で、そのようなことも勿論含んだものと言えます。しかし、因果関係というものを生命の一生に決して限らない点は、前述したように宗教的視点であり、また仏教に不可欠の前提です。

たとえば近世後期の日本で卓抜の高僧であったと断じて誤りない慈雲尊者は、その正見ということについて、以下のように語っています。

正法とは、経律論を多く記したを云ふでない。神通あるを云うでない。光明を放つを云うでない。無碍辯舌を云ふでない。向上なるを云ふでない。唯だ佛の行はせられた通りに行ひ、佛の思惟あらせられた通りに思惟するを云ふ。佛の思惟し行はせられた通りとは、近くは八正道じゃ。八正道とは正見正思惟、正語正業、正命正精進、正念正定のハつじゃ。正見とは諸法無我等を観じ断滅の見を起さぬことじゃ。正思惟とは諸法の自相平等相を思惟して疑はぬことじゃ。正語とは口四の悪を慎み守り失命の因縁にも犯ぜぬことじゃ。正業とは身三の善を守り刀杖火水難にも犯ぜぬを云ふ。正精進とは如是の法において精進修行するを云ふ。正念とは如是の法を憶念して日夜に忘れぬを云ふ。正定とは如是の法において一心憶持決定一相なるを云ふ。是れが正道の基じゃ。委きことは次第に先輩に聞て憶念したがよい。是の中に先ず正見が第一大切な事じゃ。見處が正しからねば餘事は皆黒闇じゃ。餘事の法の如くならぬは皆見の正しからぬ故じゃ。
 正法しょうぼうとは、経典・律蔵・論書の数々が記されたのを言うものではない。神通力〈不可思議な超常的能力〉のあることを言うものではない。光明を放つこと〈不可思議な現象が生じるもの〉を言うのではない。無碍辯舌むげべんぜつ〈立板に水のようであること〉を言うのではない。向上〈他より優れていること〉を言うのではない。ただ仏陀が行われた通りに行い、仏陀が思惟せられた通りに思惟することを言う。仏陀の思惟し行われた通りとは、近くは八正道のことである。八正道とは正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つである。
 正見しょうけんとは、諸法無我などを観じて、断滅の見〈唯物論的見解・因果応報を否定する思想〉を起さぬことである。正思惟しょうしゆいとは、諸法の自相平等相を思惟して疑はぬことだ。正語しょうごとは、口四〈妄語・綺語・悪口・両舌〉の悪を慎み守り、命を落すようなことがあってもこれを犯さぬことである。正業しょうごうとは、身三〈不殺生・不偸盗・不邪淫〉の善を守り、刀杖火水難に際しても犯さぬことを言う。正精進しょうしょうじんとは、如是の法〈仏陀が説かれた教え〉において精進修行することを言う。正念しょうねんとは、如是の法を憶念して日夜に忘れぬことを言う。正定しょうじょうとは、如是の法において一心憶持決定一相〈心を一処に留め、集中して揺るがぬ心の状態〉たることを言う。
 これらが正道しょうどうもといである。詳しいことは次第に先輩に聞き、憶念したらよい。これらの中で、先ず正見が第一に大切な事である。見処みどころ〈思想・世界観〉が正しくなければ他事はすべて黒闇となる。他事が法の如くでないのすべて、見の正しくないのが原因である。

『慈雲尊者法語集』(『慈雲尊者全集』vol.14. p.331

このような慈雲の言葉は、さらに時代を遡ること500年ほど昔の中世鎌倉期初頭の 明恵みょうえ上人のものとされる以下の言葉を受け、それをさらに正見にかけて言われたものと思われます。

或る時云はく。末世の衆生 、仏法の本意を忘れて、只、法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀をたつなり、衣を着ざるなり、又学生也、真言師也とのみ好みて、更に宗と貴むべき仏心を極め悟る事を弁へざる也。上代大国、猶此の恨みあり。況んや末世辺州、何ぞ始めて驚くべきやと。
上人常に語り給ひしは、光る物貴くは、蛍玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天小野皇などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智 の姿なりとも、是をぞ梵天帝釈天も拝し給ふべき。
あるとき(明恵上人は)仰せられた。
「(今のような)末世の人々は、仏教の本意ほいを忘れて、ただ法師が尊く思えるのは光を放つからだ、(神通力をもって)空中を飛ぶからだ、断食するからだ、(寒さの中でも)衣を着ないからだ、あるいは博識だからだ、密教に通じて祈祷を能くするからだといった事のみ好んで、決してその核心として貴ぶべき仏の覚りを極め悟ろうとすることなどない。(といっても、)仏ご在世のインドにおいても、やはりこの様なことはあったという。ましてや今のような末世の辺境国たる日本では、今更驚くべき事でもなかろう」
と。上人が常に語られていたことがある。
「光る物が貴いというのであれば、蛍や玉虫を貴べばよい。飛ぶ物が貴いと言うのであれば、とびからすを貴んだらいいだろう。断食して衣を着ないのが貴いと言うのであれば、蛇で冬に穴に籠もっているのや、尾長虫おながむしの裸で地面を這っているのを貴んだらいい。博識な者が貴いならば、頌詩を作るのに通じ、古典の多くを暗誦していたという白楽天はくらくてん小野篁おののたかむらなどをこそ貴んだらよかろう。しかしながら、詩賦の才能によって閻魔の老・病・死という棒を避けることは出来ない。ならば博識な僧など虚しいものあって、殊更に貴ぶ必要はない。ただ仏陀がこの世に現れて成し遂げられ、教え残されたことを悟ることこそ励むべきである。たとえそれが文盲・無知であるかの様であっても、そのような者こそ梵天や帝釈天も礼拝するのだ」

『栂尾明恵上人伝記』巻上

明恵は当時の日本で随一の聖僧として尊ばれ、その死以降も宗旨宗派を問わず大変尊敬され続けた人です。慈雲もまた、江戸時代には明恵の伝記や遺誡などが盛んに出版されていたことから明恵の言葉に触れて深く敬しており、その著作で引用もしています。明恵の以上の言葉は実に人の性というものを批判的に指摘し、また仏教の本質に直に迫ったものとなっています。

しかし、世の中では「本質が大事だ」・「本質を見定めろ」などと簡単に言い、それはその通りであるのですが、事物の本質を見定めることは、普通の人にとってそう簡単なことではありません。人はそれほど深く物事を考えてなどいないし、そもそもアレコレ考えることが出来ない者のほうが多くあります。そうするには、多くの場合、生まれ持った一定の才知が必要です。そして仮にその本質を知って理解したとしても、日常生活するうちにそれを忘れ、一体何故自分がそうしているのかの目的を失ってしまうことがあります。

たとえば、ここは仏教を講説しているので仏教を引き合いにしますが、日頃からブッキョー、ブッキョー言っていたとしても、ともするとそれはたちまち空念仏からねんぶつとなり、ただ惰性でそう言っているに過ぎなくなります。というのも、それは他でもない、まさに私自身のことであり、その恥ずべき様であってそれをよく自覚して知っているからです。

悲劇、それは喜劇

人が仏教を奉じるようになる契機は様々であるでしょう。しかし大抵は、この生が苦しみであることを多少なりとも自ら感じている中、仏教がそこから脱する道を示していることに、貴いものを得難いものを感じてのことである筈です。あるいは、世間で常識的に言われている様々なことに、何かおかしいと漠然と感じていた時に、縁起や空といった仏教の根幹思想に触れ、まさにこれこそ私が求めていた答えであろう、と期待し廻心する人もあるでしょう。

生きることはまことに苦しい、なんとかこの苦しみを逃れる術は無いものかと薄々ながらでも思ううち、その道を示す思想に遇えた。そうして熱心に最初は学び励んでいても、いつしか当初感じていた苦しみは薄れ弱まり、新たな苦しみそして楽しみが生じて、そちらにうつつを抜かすようになる。けれども、人生とは苦に満ちたものであるという事実が変わることはなく、やがてまた重く鈍い苦しみが生じてのたうち回る。

それは人のさが であり、何も珍しいことでも特別なことでもありません。しかし、その様のそのなんと愚かで滑稽なことか!実に多くの悲劇とは、また喜劇であります。その故に人はまた、そこに愛しさを感じ、さらには美しさまで想うことがあるのでしょう。

(冒頭、トルストイが『仏説譬喩経』に言及していたことを述べましたが、彼は当時の白ロシア人ですからキリスト教をその思想基盤とした人です。と同時に、彼の思想はそれへの猜疑や抵抗・葛藤があって伝統的キリスト教義から逸脱しており、その作品にはいわば仏教「的」視点もまた現れています。いまだトルストイの作品を読んだことがない、しかし文学を愛する人ならば是非ともそのいくつかを読むことを勧めます。)

人の人生とはいかなるものか、世界とはいかなるものと見るか。その初門となるべき寓話を説くのが『仏説譬喩経』です。

この『仏説譬喩経』に説かれている寓話を、単に「あら、これはおもしろい。よく出来た仏教説話だ」などと受け取るだけであれば、とは言えそのような人こそ甚だ多いのですけれども、畢竟ひっきょう仏教について何も理解することは出来ません。しかし、これをまさしく「我が人生の滑稽にして愚かなる、そして悲しきありさまである」と真に捉えたならば、それが無闇矢鱈に滑稽を繰り返すだけの「我がこの生の意義」を見出す契機となるに違いない。

今、ここに菲才が『仏説譬喩経』を紹介したのもやはり、それがたといわずかであったとしても、それぞれ自身の生を意義を見出す人の現れることを期してのことであり、やがてそのような人がそれぞれ真摯に仏道を修めることを願ってのことに他なりません。

Bhikkhu Ñāṇajoti(沙門覺應)