それがいかに自他に利益をもたらすか否かという点を、その価値基準とすること。そのような本経で説かれている態度は、19世紀のイギリスの哲学者ベンサム(J. Bentham)などによって構築された功利主義(Utilitarianism)、あるいは19世紀後半から20世紀前半のアメリカのデューイ(J. Dewey)などに代表される実利主義(Pragmatism)に通じるものです。いや、イギリスやアメリカの哲学者などがようやく言い出すその二千年以上も前から、それを賢者・智者の態度として説いてきたのが仏教です。
仏教は、仏陀の教えは、我々が「いかに苦しみを克服するか」・「苦しみの悪循環から抜け出すか」のためのもの。そのために智慧と慈悲とを獲得し、増長させるためのものであって、仏壇や神棚、供物台に鎮座させて拝み倒すようなものではありません。あるいは、飾り棚に飾ってうっとりとながめ、人に開陳したり自慢したりするようなものでもありません。
仏陀はこのようなことについて、「筏の喩え」をもって示されています。人が、この岸からかの岸まで河を渡るために筏を造り用いたとして、もしすでに目的とした渡河を果たして対岸に上がったならば、そこではもはや後生大事に筏を運ぶ必要などは無い、という喩え話です。
また、肝心なのは河を渡ることであって、筏のつくりや見かけではありません。いかに合理的に造られ、見た目もよく問題のなさそうな筏であっても、まず河に浮かべて乗らなければ要を為しません。いかにも見栄えのしない粗末な作りのものであっても、水にしっかり浮いて乗ることが出来、人がこれによって河を渡ることが出来るならば、その筏は良いものです。
人というものは面白いもので、時に非合理なものに依って、合理的に円滑に物事を進め得ることがあります。
ある思想がいわゆる合理的なものでなかったとしても、それを人が奉ずることに依って四無量の思いが備わるのであれば、それは一先ず良いことです。「鰯の頭も信心から」と言いますが、鰯の頭でもそれを信仰することにより、その人に慈しみが芽生え、四無量心が育まれるならば実に結構なことです。もっとも、それがすすんで「絶対唯一神おイワシ様」などとなってしまい、さらに「南無おイワシ大明神と唱えると救われる。病気が治る!ジョーブツ出来る!」となってしまうと一大問題で、故に「一先ずは」なのですけれども。
いずれにせよ、我々人、いや自分に遺されている時間は決して多くはありません。人生は、古来多くの賢者智者らが等しくそう述べているように、決して長いものではなくあっという間に過ぎ去っていってしまうものです。自らの真に叶えたいという目的を達成するのに躊躇しまごついているようでは誠に「もったいない」というもの。
"Handadāni, bhikkhave, āmantayāni vo, Vayadhammā saṅkhārā, appamādena sampādetha". Ayaṃ tathāgatassa pacchimā vācā.
「さあ、比丘たちよ、諸々の作られたもの(諸行)は衰え滅びる性質のものである。怠らずに励んで目的を果たせ」
これが如来の最後の言葉であった。
DN. Mahāparinibbānasutta, Tathāgatapacchimavācā
その目的を果たすのに頼りとすべきは自分のみであり、誰か人に頼むことも、人に連れて行ってもらうことも出来ません。それはどこまでも自身がなすべき、我が大事です。
そこで、その自らを運ぶ筏や舟の格好の良し悪しなど問題でなく、それが川や海を渡り得るかこそ大事であって、また実際に自らその舟を漕ぎ出し向こう岸に向かうことです。
世間には、これをどう間違えてしまったものか、あたかも鬼の首でも取ったかのようにして、この『ケーサムッティ・スッタ』を根拠とし、ほとんどすべての事柄について疑うばかりとなって、ついには判断停止してしまうなど極端で非建設的な懐疑論者(Skeptic)となってしまう人があります。そして、そのような態度こそ本来的仏教的態度であるなど捉え違えてしまう輩もあります。
あるいは、これも稀にでなく見られるのですが、「私だけの仏教」・「私のダルマ」などといった類の、いわば吾輩仏教とでもいうべき珍妙な説を立てる者があります。またはこの教説を根拠とし、みずからの独自説が正しいことの証明とし、あまっさえ口汚く罵るように、その他の説の批判を開始してしまう人もあります。
しかし、それは本経の所説から大きく外れた行為に他なりません。
繰り返しますが、この経において仏陀が説かれていることは、まずは疑ってかかれ、何も信じるな、他人に頼ることなかれなどということではなく、自分が聞いた思想(情報)に対して、それが自らの貪瞋痴に基づく行為につながるか否か、四無量心を持つのに資するものであるか、その是非を自分自身で試し確かめよ、というものです。
それを一体どうして、自らが他者を論難あるいは中傷する、その根拠とすることがありましょうか。今太字にして強調した点をごっそり除き、これをただ単に「ゴーリテキに自ら考え、実証せよ」などというものとしてしまったならば、無論それも要点の一つではあるのですが、まさしく画竜点睛を欠くものとなります。
そして、むしろこの教説をもって我慢を増長し、他者との争いに際してやたらと持ち出してしたり顔をするようであれば、まったく「論語読みの論語知らず」ならぬ「仏典読みの仏教知らず」となってしまうに違いありません。いや、あるいは古の諺でこのように言われた輩に他ならない。
諺 に曰く、孝経を 擎 げて母の 頭 を打つと云ふ。《原漢文》
諺に「(孝を説く)『孝経』を高く手に捧げ持ちながら、母の頭を殴りつける」という。
《自身の奉じている筈の思想と、その実際の行いとがまるで正反対であること。》
空海『秘蔵宝鑰』巻中(『底本 弘法大師全集』, vol.3, p.135)
己で引いておきながら、この言は「現代の私にこそ向けて放ったものであろう」と思えるもので、我が耳に痛切なる響きをもって聞こえるものです。取り繕ってそういうのでなく、真に我が大なる非を顧みずにはいられない。
しかるに仏教を学び、行じ、信じることは、自分が正しいことを他に対して認めさせるためのもの、認めてもらうためのものではないでしょう。いや、そのために仏教を信仰しているのだ、などという人もあるかもしれません。が、それは全く虚しいことであると言わざるを得ません。
仏陀はこのように言われています。そして、これが事実であることを認めることは、誰しも容易いものであるでしょう。
samo visesī uda vā nihīno, yo maññatī so vivadetha tena.
(自分あるいは自分の奉じる説が)「等しい」とか、「勝れている」とか、「劣っている」などと考える者。彼は、それによって口論するであろう。
SN, Nandanavaggo, Samiddhi sutta.
KN, Aṭṭhakavaggo, Māgaṇḍiya sutta.
これと同様に大乗の龍樹もまた、これは上に引いた阿含での仏所説をそのまま承けての言であったと思われますが、『大智度論』の中にてこう述べています。
我法真実餘法妄語。我法第一餘法不実。是爲闘諍本。
我が法は真実にして、余法は妄語なり、我が法は第一にして、余法は不実なりとする、是を闘諍の本と為す。
龍樹『大智度論』巻一(T25, p.64a)
自身がどのような見解を持つか、どのような経緯でその見解をもつに至ったかなど、他に対して誇るべきことでも、その優劣を競うべきことでもありません。そのようなことが、一体どうして自他の安楽に利することとなるでしょうか。
もし人が、道を歩むその大きな大きな助けとなる善友を得ることが出来ず、また誰か己を理解する者に遇うことも出来ないならば、ただ独り静かに、みずから為すべきことを為しつつ歩む以外ありません。そもそも人は、他人を真に理解することは出来ない。
ekassa caritaṃ seyyo, natthi bāle sahāyatā.
eko care na ca pāpāni kayirā, appossukko mātaṅgaraññeva nāgo.
孤独に行くほうが良い。愚か者を友とするな。
孤独に歩め。諸々の悪をなさず、悠然と求めることなく、林の中の象〈mātaṅgarañña〉のように。
KN, Dhammapada, Nāgavagga 330.
先に言ったことの繰り返しとなりますが、自他への害意、悪意を持たず、慈しみなどの心をもって対することは非常に重要なことです。それは、他でもない自身を利することです。しかしながら、慈しみなどの心を持つことは、人の性からいって決して容易なことではありません。いわば人の性の正反対を行おうというものです。故に日々に忍辱という術によって、修禅という手段によって、継続的にこれを育み強めなければ、日常この思いを維持するのは難しいことです。
今ここに言ったことも、みずから確かめるべきことであって、実際にみずから確かめ得るものです。その時こそ、その人はきっと、それがまさしく「長きにわたる利益と安楽をもたらす」ものであることを知るでしょう。
そしてまた、それをみずから確かめることによって、仏陀に対する信がいや増すこととなる。はるか二千五百年前に活躍され、今もなお智慧と慈悲と獲得する道を指し示し、その広大なる恩恵を授けつづける仏陀という誠にすぐれた大人物に対する深い尊敬、この上ない聖人に対する畏敬の念が。
沙門覺應 稽首和南 (Bhikkhu Ñāṇajoti)