支那仏教における伝律の嚆矢は、嘉平年間〈249-253〉に中印度から洛陽に至った曇柯迦羅〈Dharmakāla. 法時〉により、大衆部所伝の戒本の訳出と、それに基づく戒法が始行されたことに依るとされています。
曇柯迦羅此云法時。本中天竺人。《中略》
以魏嘉平中來至洛陽。于時魏境雖有佛法而道風訛替。亦有衆僧未禀歸戒。正以剪落殊俗耳。設復齋懺事法祠祀。迦羅既至大行佛法。時有諸僧共請迦羅譯出戒律。迦羅以律部曲制文言繁廣。佛教未昌必不承用。乃譯出僧祇戒心。止備朝夕。更請梵僧立羯磨法受戒。中夏戒律始自于此。
曇柯迦羅、支那では法時と云う。もと中天竺の人である。《中略》
魏の嘉平年中〈249-253〉に洛陽に到来した。その時、すでに魏には仏法が伝わっていたものの、しかしその道風は全く乱れたものであった。衆僧(の姿をした者)があるとはいえ、未だ三帰も戒も受けておらず、ただ髪を剃り落として俗と異なった姿をしているだけであった。もし斎懺の事があったとしてもただ祭祀するだけのことであった。そこへ曇柯迦羅が(洛陽に)至って、大いに仏法を行じたのである。そこで諸僧は共に、曇柯迦羅に戒律を訳出することを請うた。すると曇柯迦羅は、律蔵の曲制や文言は詳細で多岐にわたるものであるが、仏教を未だ理解していないのであれば(もし律蔵を訳出したとしても)決して依用されることはないであろうと考えた。そこでただ摩訶僧祇〈大衆部〉の戒本を訳して、僧儀としてその朝夕の規矩に備えた。そして更に梵僧に請うて羯磨法〈三師七証・白四羯磨〉に依って受戒した。中夏〈支那〉の戒律はこの時より始まったのである。
慧皎『高僧伝』巻一(T50, p.324c)
しかしながら、それは律蔵そのものではなく、その禁止条項の要略を取りまとめた戒本が訳出されたに過ぎないものでした。『高僧伝』は同時に正規の受戒が行われたとしていますが、しかし肝心なのはその後であって、正しく寄る辺とすべき律蔵自体が無く、また少なくとも五年に渡ってそもそも僧とは何かや、僧としてどの様に振る舞うべきかなど教授しえる僧臘長き僧などがほとんど無い状況であることに変わりありません。
当時の印度そして中央アジアにおいても、律蔵とは基本的に暗誦・口授するものであったようです。たとえば、この百五十年ほど後に法蔵部の律蔵を支那にもたらした印度僧仏陀耶舎〈Buddhayaśas〉は、何か書かれた「本」を持って支那に来たったのではなくその全てを暗誦していたのであり、それを支那で漢訳する際に初めて典籍としたのでした(当時の支那の人々ははじめ、仏陀夜叉が律蔵すべてを暗誦していることを甚だ疑って信じなかったようです)。
曇柯迦羅が戒本のみ訳出したのは、そのように律蔵を全て暗誦・口授することは無理だと考えたためでもあったのかもしれません。そして実際、曇柯迦羅による戒本訳出と受戒がなされたとはいえ、それを契機に支那の僧らが正しく比丘として活動し始めたなどということは無く、依然として頭を剃っただけで俗人とまるで変わらぬ、形ばかり名ばかりの僧が大勢を占めていたようです。
律蔵そのものの伝来と翻訳は、その約百五十年余り後の弘始十一年〈409〉、鳩摩羅什〈Kumārajīva〉によって説一切有部の律蔵『十誦律』がもたらされ初めてなされています。その後、堰を切ったようにその他の部派の律蔵『四分律』や『摩訶僧祇律』・『五分律』などが支那にもたらされて続々と訳出。これにより、支那でも俄然律蔵への関心が高まり、といってもそれは支那に仏教が伝来してからおよそ三百五十年を経ており遅きに過ぎたものと言えますが、その研究が盛んとなっていきます。
隋代の当時、支那における律蔵に対する認識として、印度には五部律といって『四分律』・『五分律』・『十誦律』・『摩訶僧祇律』・『解脱律』という五つの律蔵が伝持され行われているとされていました。その認識は、そもそも当時は印度における部派と律蔵との関係が正確に理解されていなかったのでしょうが、今からすると少々不可解なものです。あるいは、そのような認識は天台大師智顗に始まったものかもしれません。なお、五部律などと言いながら、結局『解脱律』なるものの請来と訳出はなされませんでした。
そしてそれは後に、諸律蔵の所説・所伝を一緒くたにして理解し行うという、本来ありえない事態を生じさせ、しかし誰もそれを疑問に思わない体制としてしまっています。
ここで一応述べておかなければならない、律を理解するのに極めて重要なことが一点あります。それは、支那ひいては日本において当たり前に行われてしまった、諸律蔵の説を一緒くたにして理解・実行するということが、本来いかなることであるかです。
それは例えば、現代の日本とアメリカあるいはイギリスなど世界中の国々には自動車の運転・交通に関係する法がありますが、それらを全ていわゆる「道路交通法」であるといって混同。日本で自動車運転免許を取得した者が、日本において自動車を運転するのに基本的には日本のそれに依り従っておきながら、しかしある時にはアメリカの、しかしある場合にはイギリスのものに依るなどと主張し、実行するようなものです。そのような法の運用など、今も昔もありえないことです。
律蔵も同様、何か不明点があってそれを理解するために他の律蔵を参照するなら全く問題などありませんが、実際に比丘として生活するのに、ある場合には『十誦律』に依るけれども他の場合は『四分律』に依るなどといった依行の仕方なども、あってはならないことです。しかし、支那および日本においては、それを「ありえないこと」「あってはならないこと」などと理解することはなく、「律蔵に五部の異なりはあるとはいえ、いずれも同じ律である」などといった態度でゴチャ混ぜにし、それが普通に行われきてしまったのでした。
もっとも、ここでさらに注記しておかなければならないことも一点あります。たとえば「ジュネーヴ交通条約」締結国同士であれば、自国で自動車免許を取得している者が(国際自動車運転免許を取得したならば)、その他の条約締結国にても自動車運転免許取得者と見なされて運転できるように、人がある部派において、もしくはある部派の律蔵に基づいて出家し比丘となったならば、その他の部派でも比丘として認められ受け入れられます。異なる部派に所属する、あるいはその護持する律が異なっているからと言って、仏教僧では無い、と排除されることはないのです。
(このことについてさらに詳しく、厳密に言おうとすると非常にややこしい問題に突き当たるので、今はこれ以上このことについて述べるのを止めておきます。)
いずれにせよ、そのような混沌とした律への理解が持たれつつも、当初もっとも重用され依行されたのは、やはり最初に支那にもたらされた『十誦律』でした。これは鳩摩羅什訳ですが、同じ鳩摩羅什により訳出された『大智度論』の所説とも『十誦律』はよく符合し、矛盾なく理解しやすいということもあったのでしょう。
(そのような事実からしても、『龍樹伝』はそのように伝えてはいないのですけれども、龍樹がもと説一切有部の比丘であった、あるいは比丘ではなかったにしても説一切有部の教学および律儀について通暁しうる立場にあったことが推測されます。)
そして、その同時期の玄始元年〈412〉、中印度出身の僧、曇無讖〈Dharmakṣema〉が北涼に到来し、大乗の『大般涅槃経』や『大集経』・『金光明経』など後代に大きな影響を与える大乗経を訳出。さらにまた『菩薩地持経』・『菩薩戒本』・『優婆塞戒経』等を訳出しています。これがいわゆる支那における菩薩戒の伝来と受持の嚆矢となります。また、元嘉八年〈431〉には同じく中印度〈一説に罽賓国〉の求那跋摩〈Guṇavarman〉が師子国〈セイロン〉を経由して海路で建康〈南京〉に至り、『菩薩善戒経』等を訳出。さらに南林寺に支那で最初となる戒壇を創立。そこで受戒を行ったといいます。
ところで、伝承によれば、求那跋摩は『四分比丘尼羯磨法』を訳出していたとされることから、それは『四分律』に基づいたものであったか、とも思われるかもしれません。しかし、求那跋摩が『四分比丘尼羯磨法』を訳出したというのは甚だ怪しい伝承であっておそらく事実でなく、伝説に過ぎないと思われます。
当時の状況や求那跋摩の出身を考えたならば、彼が法蔵部伝持の律蔵である『四分律』のそれを訳出したとは到底考えらず、これは学者によって指摘もされていますが、現存する『四分比丘尼羯磨法』の訳語などからしてやはり事実でないとしか思われないためです。求那跋摩の伝持した律蔵はやはり『十誦律』であって、その受戒もそれに基づいたものであったことでしょう。以来、支那にてはおおよそ律は『十誦律』を主とし、菩薩戒は『地持経』や『菩薩善戒経』に依るという体制が、このような経緯で成立しています。
(このような経緯を辿って受容されたという点を踏まえておくことは、支那における律と菩薩戒受持の実際を理解するのに極めて重要です。)
そこで隋代(北周)きっての高僧の一人であった浄影寺の慧遠〈523-592〉は、その著『大乗義章』において、特に『地持経』を本拠とし、律蔵および『涅槃経』や『成実論』等々の大小の経論を引きつつ、三聚浄戒について広く七つの観点〈七門分別〉から詳細に論じています。なお、慧遠が、本項の冒頭に示した『十地経論』を研究対象とする、地論宗南道派〈四分律宗の祖でもあった光統律師(慧光)を祖師とする一派。華厳宗の源流〉の主要人物であったことは留意すべき点です。
この書は、印度の無着により「大乗とは何か」が簡潔に表明されている『摂大乗論』と比してみれば、刮目すべき優れた着眼点や論旨も数多あるのですが、おおよそ空理的思弁的であって冗長にして迂遠と感ぜられるもので、修辞に修辞を積み重ねることを好む支那の論師らしい著作です。もっとも、そう言えるのは慧遠の著に限ったことではなく、支那の諸師全般に該当することです。むしろ『大乗義章』は後代のものに比すればかなり控え目とすら言えます。
それはほとんどの支那の仏教者が印度における実際を知らぬが故、あるいはいわゆる中華思想によって興味をすら持たなかったが故、そもそも漢字という表語文字による、漢語という言語自体とその文化に起因したものであったのでしょう。虚飾とすらいえる修辞にまみれた支那の論書の多くは、今の日本的感覚からすると非常に無駄が多く読み難いものです。が、それはそうしなければならない、それが当然であった当時の支那の常識・慣習によるものです。
さて、ここではそのうち巻十の「三聚戒七門分別」なる章において三聚浄戒との名称そのものについて解釈した第一門とその本質を論じた第二門、そして大乗・小乗における戒の異同を論じた第六門をのみ示します。
三聚戒七門分別釋名一 論體二 辨相三 制立四 大小不同五 大小異六 總別七
第一釋名。三聚戒者。謂律儀戒攝善法戒攝衆生戒。律儀戒者。亦一名離戒亦名正受戒。言律儀者。制惡之法説名爲律。行依律戒故號律儀。又復内調亦名爲律。外應眞則目之爲儀。防禁名戒。即此律儀離殺等過。故名離戒。正是所愛〈受の誤植〉離過之行。是故亦名正受戒也。攝善戒者順益名善。要期納善故名曰攝。離不攝過名攝善戒。攝生戒者。論中亦名利衆生戒。衆多生死名曰衆生。要期攝化故名云攝。離不攝過名攝衆生戒。以道益物。是故亦名利衆生戒也。此三積聚故云三聚。名義如是 《中略》
第二門中辨其體。於中有五。一受持分別。二作無作分別。三止作分別。四自利利他二行分別。五色心等三聚分別。 《中略》 次就止作二門分別。三聚別論律儀是止。止諸惡故。餘二是作。作諸善故。三聚通論一一之中皆有止作。律儀戒中防禁殺等名之爲止。修習慈心安穩心等對治殺果。修施治盜修不淨觀對治邪行。如是一切名之爲作。攝善戒中離其懈怠不攝善過名之爲止。修行六度説之爲作。攝生戒中離其獨善不化生過名之爲止。修行四攝饒益衆生説之爲作。良以三聚皆止惡故。經説三聚通爲律儀。皆作善故經中説爲善集諸善此三門竟 次就自利利他分別。行門有二。一分相門。三聚戒中前二自利後一利他。二助成門。三倶自行三倶利他自修三聚爲涅槃因。故通自利。修此三聚爲得菩提利益衆生。故皆利他此四門竟 《中略》
第六明其大小一異。大乘律儀與小乘戒爲一爲異。是義不定攝大接小得言是一。以是一故。小乘所受即大乘戒。故勝鬘説大乘威儀以爲毘尼出家受具。地持亦云。菩薩律儀即七衆戒據小。望大小外有大。得言是異。以是異故。地持説言。聲聞波羅提木叉戒比菩薩戒。百千萬分不及其一。問曰。若言菩薩律儀即是小乘七衆戒者。有人在俗受得菩薩三聚戒竟。然後出家更須別受出家戒不。有人釋言。不須更受菩薩戒中。已通得故。此義不然。菩薩戒中雖復通攝七衆之法一形之中不可並持七衆之戒。隨形所在要須別受。如人雖復總求出道隨入何地別須起心方便趣求。此亦如是
三聚戒七門分別釈名一 論体二 弁相三 制立四 大小不同五 大小異六 総別七
第一に名を釈す。三聚戒とは、すなわち律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒である。律儀戒とは、また一説に離戒あるいは正受戒とも云う。律儀とは、制悪の法を説いて律という。行は律戒に依ることから、律儀と称する。また内調することを律と言い、外形を真則に応じさせることを儀と言い、防禁を戒と名づける。すなわち、この律儀によって殺生などの過失を離れることから、離戒という。それは正に受ける所の離過の行であることから、正受戒というである。摂善戒とは、利益に順ずることを善といい、必ず善を得ることが期待されるものであるから摂という。不摂の過失を離れるものであるから摂善戒という。摂衆生戒とは、『摂大乗論』では利衆生戒ともいわれる。衆多の生死を名づけて衆生といい、必ず摂化することが期待されるものであるから摂という。不摂の過失を離れるものであるから摂衆生戒という。「道」によって物を利益することから、利衆生戒という。この三つを積聚することから三聚と云う。その名義については以上である。 《中略》
第二門ではその体〈本質〉を弁じる。中に五がある。一には受持分別、二には作無作分別、三には止作分別、四には自利利他二行分別、五には色心等三聚分別である。 《中略》 次に止作二門について分別する。三聚の別論では、律儀とは「止〈止悪〉」である。諸々の悪を止むものであるが故に。他の二戒は「作〈作善〉」である。諸々の善を作すものであるが故に。三聚の通論では、(律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒の)一一の中にすべて「止」と「作」とがある。律儀戒において殺生等を防禁すること、これを名づけて「止」とする。慈心・安穩心等を修習して殺生という果を対治し、布施を修して偸盗を治し、不浄観を修して邪行を対治する。これらのような全て(の律儀)、これを名づけて「作」とするのだ。摂善戒において、その懈怠を離れて善の過を摂しないこと、これを名づけて「止」とする。六度〈六波羅蜜〉を修行すること、これを説いて「作」とする。摂衆生戒において、その独善を離れて生過を化しないこと、これを名づけて「止」とする。四摂を修行して衆生を饒益すること、これを説いて「作」とするのだ。まことに三聚がすべて悪を止めるものであることから、経〈『菩薩地持経』〉に、三聚をもって通じて律儀であるとしている。そして、(三聚が)すべて善を作すものであることから、経の中に「よく諸々の善を集める」と説かれるのだ これで第三門(止作分別)を竟る。 次に自利利他について分別する。行門に二種ある。一には分相門であり、三聚戒の前二の戒は自利であり、後一の戒は利他とする。二には助成門であって、三倶に自行であり三倶に利他とする。自ら三聚を修したならば、それが涅槃の因となるから、自利である。この三聚を修して菩提を得ることを目的に衆生を利益するから、すべて利他となるのだ これで第四門(自利利他二行分別)を竟る。 《中略》
第六に大乗・小乗の同異を明らかにする。大乗の律儀と小乗の戒とは同一であろうか異別であろうか。この義は定まっていない。もし大を以て小を包摂したならば、同一であると言い得る。それらが同一であれば、小乗の受ける所の戒はすなわち大乗戒である。故に『勝鬘経』では大乗の威儀を説いて、「毘尼出家受具〈毘尼すなわちvinaya(律)に基づいた出家受具〉」という。また『地持経』では「菩薩律儀はすなわち七衆戒である」と説かれる。もし小を以て大を望んだならば、小の外に大が有ることになって、それらは異なると言い得る。それらが異なっていることから、『地持経』にて「声聞の波羅提木叉戒と菩薩戒とを比したならば、百千万分の一にも及ばないものである」と説かれる。
では、ここで疑問であるが、もし菩薩律儀が小乗の七衆戒であるというならば、ある人が在俗の時すでに菩薩の三聚戒を受けており、その後に出家したならば、更に別して出家戒を受けなければならないのであろうか。(このような疑問に対し、)ある者は「更に受ける必要はない。菩薩戒の中にて、すでに通じて得ているからである」などと解釈している。しかし、そのような理解は正しくない。菩薩戒の中にもまた通じて七衆の法を包摂しているとは言え、一形〈一つの立場〉で(出家・在家の)七衆戒全てを併持することなど出来はしない。その形〈立場〉の所在に応じて必ず「別受」しなければならないのだ。それは、あらゆる人が解脱の道を求めたとしても、各々の様々なる境地にあって、それぞれ異なる決心に相応しい方法によって、その道を歩むようなものである。その同異については以上である。
慧遠『大乗義章』巻十(T44, pp.659a-663a)
慧遠はここで、非常に重要な理解をいくつか示しています。その一つは(『菩薩地持経』の一節に基づいて)「三聚浄戒は律儀戒である」としつつ、また三聚浄戒の一々の戒には止悪と作善の両意義があって、すべて自利利他に渡るものだとすることです。これは慧遠が、先に示した『菩薩善戒経』にて三聚浄戒を「重楼四級」と喩えた所説に基づき、あるいは『摂大乗論』の三聚浄戒についての所説を、少々行き過ぎた理解であると思えるものの、敷衍したものであるのでしょう。
なお、慧遠が着目した「菩薩已受三種律儀戒所謂律儀戒。攝善法戒。攝衆生戒」という『菩薩地持経』における一節の、「三種律儀戒」などと三聚浄戒自体があたかも律儀戒であると説いているかに思える語については、同本異訳である『瑜伽論』すなわちYogācārabhūmi-śāstraの梵文の該当箇所をみれば、"tatra samāttaṃ śīlaṃ yena tri-vidham api bodhisattvaḥ śīla-samādānaṃ kṛtaṃ bhavati saṃvara-śīlāsya kuśala-saṃgrāhaka-śīlasya sattvārtha-kriyā-śīlasya ca."とあって三種(tri-vidha)を律儀、つまりsaṃvaraであるとする語も一節もありはしません。
したがってそれは、まず訳者であった曇無讖の誤訳とまでは言えぬとも不適切な訳であり、またただ曇無讖の訳文にのみ依って梵文に触れ得なかった慧遠の単なる誤解であって、「三種律儀戒」とあることから「三聚浄戒は律儀戒」などとする主張に正当性はありません。
(同様の事態、これと似たような話は、何も慧遠一人のみが為したものではなく、多くの支那の学僧もまた当然のように行っているのですけれども。)
そしてもう一つは、律儀戒における大乗・小乗の相違点は何かという点です。
これらの慧遠による三聚浄戒(菩薩戒)理解は、後代の支那の諸師に広く、そしてまた強い影響を与えており、特にたとえば律儀戒であってもただ止悪にとどまらず作善でもあるとする理解は後代、三聚浄戒の一々の戒、あるいは何であれ菩薩における戒の条項の一つ一つにはすべて、三聚戒の意義を備えたものであるとする主張を生み出していきます。
さらにもう一点重要なのは、これは非常に現実的な問題提起で実際そのような事例があったからこそのことでしょうが、人が在俗の時に(五戒を受けた上で)三聚浄戒をすでに受けていたならば、その者が後に出家しようとした際、改めて具足戒を受ける必要があるのか、という問いに答えを示した点です。その答えは「改めて具足戒を受けなければならない」わけですが、その理由を含めて述べる中、「隨形所在要須別受(その形の所在〈立場〉に応じて必ず「別受」しなければならない)」としている点を見逃してはいけません。
いや、それは「答えを示した」などというより、ただインド以来の当たり前をここで改めて確認しただけ、と言ったほうが良いかもしれません。いずれにせよ、それがインド以来の常識であるとはいえ、当時の支那ではその点が未だ曖昧な者が数多くあったのでしょう。
事実、印度および支那では、以前在家あるいは沙弥としてそれぞれの戒を受け、さらに菩薩戒(三聚浄戒)を受けていた者が、後に比丘出家することを欲したならば、必ず改めてその律儀戒である具足戒(律)を受けていました。日本でよく知られている人を例に挙げたならば、例えば印度出身の不空三蔵は十五歳の時に菩薩戒を受けていましたが、二十歳となった際に改めて具足戒を受け、晴れて比丘となっています。また、支那の鑑真和尚は十八歳にて十戒を受けて沙弥となり、その翌年に菩薩戒を受戒。そして二十二歳となって比丘となるべく具足戒を受けています。
三聚浄戒を受ける以前にそれぞれの立場に応じた律儀戒を受けていること、もしその立場を変えようと欲するならば改めてその立場に応じた律儀戒を受けることは、印度以来常識的に行われ続けていたことで、それは当然、支那において踏襲されています。
さて、また慧遠は菩薩戒が小乗戒に優越するものであることを、以下のように主張しています。
次辨寛狹。小乘律儀但防身口。不遮心過。名之爲狹。大乘律儀通防三業。目之爲寛。云何得知。小乘律儀但防身口。不遮心過。彼小乘中但説身口七善律儀以之爲戒。不説十善以爲戒故。故成實言。戒防身口定慧防心。云何得知。大乘之戒通防三業。如地經中説十善道爲律儀故。《中略》
次辨長短不同之義。小乘之戒止在一形不通異世。名之爲短。菩薩戒法一受得已。若不退失菩提之心及不増上起煩惱犯盡未來際畢竟不失。名之爲長。故地持云。菩薩無有捨身失律儀戒。何故如是。聲聞爲欲一形期果受戒之時自誓要期言盡形壽。一形已來是彼要期分齊之限。故不失戒。一形已後不復是彼要期之限。所以失戒。菩薩爲欲多身求果受戒之時自誓要期盡未來際。盡未來際是彼要期分齊之限。故不失戒
次に寛狹を論じる。小乗の律儀はただ身体と言葉の行為を制するものであり、心の咎を制するものではない。これを狭とする。大乗の律儀は通じて三業を防ぐものである。これを寛とする。何故そう言えるのであろうか。小乗の律儀はただ身体と言葉(の過失)を防ぐものであって心の過失を防ぐものではない。かの小乗においてはただ身体と言葉の七善律儀を説くのみであって、それを戒とする。十善を以て戒とすることはないためである。故に『成実論』には「戒とは身体と言葉(の過失)を防ぐものであり、定慧は心(の過失)を防ぐものである」と説いている。では、どのように大乗の戒は三業を通じて防ぐものであると言えるのであろう。それは『地持経』において十善道を説いて律儀としているからである。 《中略》
次に長短不同の義を論じる。小乗の戒はただ一形に留まるものであって、異世に通じたものでない。これを短とする。菩薩の戒法は一たび受得したならば、菩提心を退失せずもしくは増上の煩悩による違犯しない限りは、盡未来際を尽くすものであって畢竟失うことはない。これを長とする。故に『地持経』に「菩薩は身を捨てても律儀戒を失うことはない」と説かれる。何故、そのようであるのか。声聞とは一形に証果を期するものであるから、受戒の時に自ら誓って(証果を)要期して「尽形壽」と云う。一形已来はその要期の分際であるから戒を失することはない。しかし一形已後はその要期の限りではないから、戒を失する。菩薩は多身〈生々世々〉に渡って果を求めようとするから受戒の時に自ら誓って尽未来際を要期する。尽未来際はその要期の分際の限りであるから、戒を失うことはない。
慧遠『大乗義章』巻十(T44, pp.661c-662a)
ここで、慧遠はまた大乗の律儀の小乗に勝る点として、小乗の律儀が身口の過失にのみ対したものであるのに対し、大乗のそれは身口意の三業通じて過失を防ぐものであると、『成実論』における戒の定義と『地持経』の所説とを併記しています。しかし、私見ながら、これについては慧遠が『地持経』の所説を拡大解釈というか、恣意的に曲解した感が否めません。
また、戒を受けた後のいわば有効期限が大乗と小乗とで異なり、小乗は「この人生限り」であるのに対して大乗は「未来際が尽きるまで」であるから、菩薩戒がより優れていると主張しています。しかし、仮に菩薩戒を受けた人が死んだとして、結局は未来世にても受戒しなければならないというのですから、それはどこまでも理念的なものです。
このような菩薩戒の永続性は、後代も常に取り沙汰される点で、戒を受けた際に人に備わるという「戒体」という、いわゆる形而上学的なモノに関するものです。戒体については部派以来、それが心に属するものであるのか、それとも物に類するものであるかなどといった見解の相違が多く見られ、大乗なかでも支那のそれとなると、非常に込み入った門外漢にはまるきりチンプンカンプンな複雑怪奇の議論が展開するようになっていきます。
以上の如き慧遠による菩薩戒の理解は、といってもそれはほとんど『地持経』や『涅槃経』などに基づいていますが、その後のいわば標準となり、後代に引き継がれていきます。その影響の大きさから言えば、「支那歴代諸師の三聚浄戒理解の根底には慧遠の所見がある」と考えても差し支えない程です。そしてそれは、日本の先徳達も意識的であれ無意識的にであれ、慧遠のそれを継承しさらに敷衍展開した理解をしていたことを意味します。
さて、そんな慧遠とほとんど同時期、同じく重大な影響を後代に与えることとなる、既存の説を踏まえてさらに新しい典拠とその理解を菩薩戒に持ち込んだ者がいました。天台大師智顗〈538-598〉です。
菩薩戒者。運善之初章却惡之前陣。直道而歸生源可盡。聲聞小行尚自珍敬木叉。大士兼懷寧不精持戒品。 《中略》
今言戒者。有律儀戒定共戒道共戒。此名原出三藏。律是遮止儀是形儀。能止形上諸惡。故稱爲戒。亦曰威儀。威是清嚴可畏。儀是軌範。行人肅然可畏。亦曰調御。使心行調善也。定是靜攝。入定之時自然調善防止諸惡也。道是能通。發眞已後自無毀犯。初果耕地蟲離四寸。道共力也。此二戒法既是心上勝用力。能發戒道定與律儀並起。故稱爲共。薩婆多説。律儀戒禪戒無漏戒。此名雖出三藏。今菩薩戒善亦有此三。若要誓所得名曰律儀。若菩薩定共道共。皆止三業通稱戒也。若攝律儀。攝善法。攝衆生。此三聚戒名。出方等地持不道三藏。大士律儀通止三業。今從身口相顯皆名律儀也。攝善者。於律儀上起大菩提心。 能止一切不修善事勤修諸善。滿菩提願也。攝生者。菩薩利益衆生有十一事。皆是益物廣利衆生也。戒品廣列菩薩一切戒竟。總結九種戒皆爲三戒所攝。律儀能令心住。攝善自成佛法。攝生成就衆生。此三攝大士諸戒盡也。瓔珞經云。律儀戒謂十波羅夷。攝善謂八萬四千法門。攝生謂慈悲喜捨。化及衆生令得安樂也。
菩薩戒とは、運善の初章にして却悪の前陣である。直道にして生死の本源を尽くすものである。声聞の小行〈自利〉に於いてすら、なお自ら波羅堤木叉〈別解脱律儀〉を珍敬する。大士〈菩薩〉の兼懐〈自利利他の志〉に於いては、なおさら戒品を厳持しないことなどあり得ようか。 《中略》
今、戒について言えば律儀戒・定共戒・道共戒とがある。これらの名はもと三蔵〈声聞乗の経・律・論〉に出る。律とは遮止、儀とは形儀の意であって、よく形上〈身体と言葉〉の諸悪を止める。故に戒と称するのだ。これをまた威儀とも云う。威とは清厳にして畏るべきこと、儀とは行人を軌範して肅然として畏るべきことである。またこれを調御とも云う。心行をして善ならしめるものである。定とは静摂である。入定の時、自然として(心を)善ならしめ、諸悪を防止する。道とは能通である。発真〈歓喜地〉以後には自ら毀犯することは無い。初果(に至った者)が地を耕やす時は、(地中の)虫は(自ずから耕す深さから)四寸離れるが、それは道共の力である。この二つの戒法は心上の勝用力である。よく戒を発すれば道共と定共と律儀とは並び起こる。故に共と称するのだ。
『薩婆多論』〈『十誦律』の注釈書。『薩婆多毘尼毘婆沙』〉には律儀戒・禅戒・無漏戒として説かれる。これらの名目は三蔵によって出されたものであるけれども、菩薩の戒善にもまたこの三つの名がある。要誓して得る所を名づけて律儀と云う。そして菩薩の定共と道共と、それら全て三業を制するものを通じて戒と称する。
摂律儀・摂善法・摂衆生というこれら三聚戒の名は、『方等陀羅尼経』・『菩薩地持経』に出るものであって、三蔵に通じたものではない。大士の律儀は通じて三業を制止するものである。今は身・口の相が顕わであることからそれらを律儀と呼称する。摂善とは、律儀を備えた上で大菩提心を起し、よく全ての善事を修めないことを制して諸々の善を勤修し、菩提を得んとの願いを満たす。摂生とは、菩薩が衆生を利益するのに十一事があるが、それらは全て物を益して広く衆生を利すものである
「菩薩戒品」〈『菩薩地持経』〉は広く菩薩の一切戒を列挙し、また総じて九種の戒を結しているが、それらは全て三聚戒に包摂せられるものである。律儀戒はよく心を安住させ、摂善戒は自ずから仏法を成就し、摂衆生戒は衆生を成就する。この三聚戒は大士の諸戒を包摂し尽くしたものである。『瓔珞経』には、「律儀戒とは十波羅夷であり、摂善法戒は八万四千法門、摂衆生戒とは慈悲喜捨であって、その化を衆生に及ぼして安楽を得せしめる」と説かれている。
智顗説 灌頂記『菩薩戒義疏』巻上(T40, p.563b-c)
もっとも、当時の『梵網経』は従来、訳者・訳場不明の偽経であると見なされていました。それがむしろ智顗の代になって注目され、重要な菩薩戒経として扱われたのを契機に、歴代の諸師もまた真経として見なし言及するようになったとすら思えるものです。またそれは、前述したように、偽経との嫌疑はなかったもののそれまで全くと言っていいほど言及されなかった『本業経』についても同様です。
智顗によるこのような理解もまた、後代の諸宗に広く、そして大きな影響を及ぼしています。それは日本においても全く同様です。特に上掲の一節の最後にて『本業経』の「律儀戒謂十波羅夷(律儀戒とは十波羅夷である)」とする一節を支持して引いたことは、日本で大きな問題を生じさせています。
また、『梵網経』についてはその後、賢首大師法蔵もその注釈書『梵網経菩薩戒本疏』を著し、そこではやはり上掲の『本業経』に特有な一節を援用するなど、それらは支那における菩薩戒経の代表とでもいうべき位置に置かれるようになっています。この法蔵の三聚浄戒理解についてはまた後に触れます。
さて、慧遠や智顗とは一世代後に出た、華厳宗第二祖とされる智儼〈602-668〉は、『華厳経』の注釈書『華厳経内章門等雑孔目章』(『孔目章』)を著す中で、三聚浄戒にも一章を設けて触れています。
第二地初三聚戒章
三聚戒者。一攝律儀戒。二攝善法戒。三攝衆生戒。其戒種類略有四種。一依瑜伽四波羅夷等。二依瓔珞梵網經十無盡戒。三依方等經二十四戒。《中略》 四依十地論十善法戒。問此戒何別。答準依戒相。亦有差別。二十四戒爲初學者受。亦寄在俗人。十無盡戒在得位前。通其道俗。四波羅夷戒。在於直進。爲出家人。略寄相別。據其根行。利益亦得説通。十善法戒。寄在十地。見聞及修行。其義亦通。又此十善戒。是性戒無別受法。
第二地初三聚戒章
三聚戒とは、一つには摂律儀戒、二つには摂善法戒、三つには摂衆生戒である。この戒の種類には略して四種がある。一つには『瑜伽論』に基づく四波羅夷などであり、二つには『瓔珞経』・『梵網経』に基づく十無盡戒、三つには『方等経』に基づく二十四戒である。 《中略》 四つには『十地経論』に基づく十善法戒である。
問:これらの戒にはどのような異なりがあるであろうか?
答:戒相に準拠して言ったならば、またさらに差別がある。二十四戒は初学者の為に授けるものであり、また在俗の人に寄せたものである。十無盡戒は得位前〈十地未到〉の者の為であり、道俗に通じたものである。四波羅夷戒は直進〈大乗へ直参すること〉するものであって、出家の人の為である。総じて言えば、それぞれその根行〈その能力と立場、修行〉に拠ったものであって、その利益についてもまた通じて説くことが出来る。十善法戒は、十地に達した者に寄せたものである。見聞及び修行、その義もまた通じる〈意味不明〉。また、この十善戒は性戒であって別受の法は無い。
智儼『華厳経内章門等雑孔目章』巻三(T45, p.546a-b)
ここで智儼は、三聚浄戒に『瑜伽論』の四波羅夷等、『本業経』・『梵網経』の十無尽戒、『大方等陀羅尼経』(『方等経』)の二十四戒、そして『十地経論』の十善法戒の四種あることを挙げています。
就中、『方等経』所説の菩薩二十四戒を取り上げ、これを三聚浄戒の一環として示すのはそれまで無かったことです。事実、以上では中略しましたが、二十四戒についてのみその内容の一々を明らかにしています。それは当時、二十四戒がそれほど知られていないがためであったと思われます。ここで『本業経』・『梵網経』の十無尽戒を取り上げているのは、智顗以来それが定着していたことによるのでしょう。
そしてまた他に注目すべきことを智儼は述べています。上記一節に続き、四種あるとして挙げた戒には、それぞれ相応する受者の別があるとしているのです。すなわち、『方等経』の二十四戒は大乗の初学者あるいは在家信者、『本業経』・『梵網経』の十無尽戒は僧俗通じて十地未到の者、『瑜伽論』の四波羅夷は出家者、『十地経論』の十善法戒は十地以上の者の戒であるとしています。そして十善戒には特に別受の法など無い(十地、特に離垢地以上に至った者がおのずから備える性戒)としている点です。
これは当時支那に伝わっていた諸々の菩薩戒経や論書を、それぞれの所説に基づきつつ、三聚浄戒の枠内にて体系的に理解するよう試みたものです。
特に、やはり『本業経』の「律儀戒とは十無尽戒」とのみ断定する一節は、従来から根本とされてきた『地持経』や『瑜伽論』などの所説とはそのままでは整合性がつかないため、このように体系化して位置づけ、理解する必要が生じたのでしょう。智儼は最後に、その基本的な理解は真諦訳の『摂大乗論』に基づいたものであって、人はそれに準ぜよと述べています。それは智儼が、印度以来の菩薩戒の受持を、(印度の論所では全く言及されていない『本業経』などを用いだした)支那にて矛盾なく継承せんとした者であったことの証でもあります。
智儼はまた、後の日本で盛んに論じられることとなる律儀・摂善法・饒益有情の三聚浄戒のいずれにそれら戒の何が具体的にどう配当されるのか、ということは全く問題としていません。それは要するに、当時の支那では『瑜伽論』や『摂論』などの所説からして自明のことであって問題とする必要などまったく感じられていなかったことの裏返しなのでしょう。
さて、支那における戒律ということならば、南山律宗祖道宣〈596-667〉に触れずに済ますことは出来ません。
道宣とは、それまで主流であった『十誦律』ではなく、師事した智首〈567-635〉や法礪〈569-635〉の説を継いで『四分律』を主体としながら諸律蔵の諸説を統合した律宗を建てた人です。晩年、道宣が終南山に住して教線を張ったことから、その律宗を南山律宗といいます。
道宣の律宗は、ただ律蔵を研究して厳密に護ることのみを主張するが如き宗でなく、あくまで大乗として戒学(律学)をその根本に据えて定学と慧学とをすべからく修めるべきとするものです。その教学は(宋代の支那および中世の日本でそう見なされたように天台教学などでは決してなく)特に瑜伽唯識教学を背景としたものです。故に当然、律は三聚浄戒の一環として位置づけられています。
当時、支那には他に東塔宗や相部宗等の律宗が存在していましたが、後代最も支持され残ったのがその南山律宗です。日本に律を伝えた鑑真は道宣の孫弟子で、すなわち日本に伝わる律宗はすべて南山律宗であって、道宣を祖師と仰がないものはありません。もっとも、学問というか典籍としては南山律宗以外のものも日本にもたらされており、特に相部宗のものがしばしば併行して学ばれています。
道宣は多くの著作を遺していますが、しかし、三聚浄戒について触れ、その詳細を言わんとしたものはほとんどありません。三聚浄戒についてわずかに触れているものの中でも、殊に特徴的なのは以下の一節です。
揖佩三身憑依三學。爰初投足先奉戒宗。戒本有三。三身之本。一律儀戒謂斷諸惡。即法身之因也由法身本淨惡覆不顯。今修離惡。功成徳現故 二攝善法戒謂修諸善。即報身之因也 報以衆善所成成善無高止作。今修止作二善。用成報佛之縁 三攝衆生戒即慈濟有心功成化佛之因也 以化佛無心隨感便應。今大慈普濟意用則齊
(法身・報身・応身の)三身をその身に完備するには三学を拠り所とする。それには先ず戒宗を奉じなければならない。戒の本には三種がある。三身の本である。一つには律儀戒、諸々の悪を断じる。すなわち法身の因である 法身は本より清浄なるも悪はそれを覆して顕さない。今は離悪を修せばその功成ってその徳が現れるために斯く云う。 二つには摂善法戒、諸々の善を修める。すなわち報身の因である 報ずるに諸々の善を以てす。善を成ずるのに止善と作善より高きものは無い。今は止善と作善の二善が報仏の縁と成ることによる。 三つには摂衆生戒〈饒益有情戒〉、有情を慈済して化仏〈応化身〉の因となる 化仏が心の感ずるに隨って応じないことなど無いことを以て、今は大慈の「普く助ける」という意により斎とする。
道宣『釈門帰敬儀』巻上(T45, p.856b)
ここで道宣は、三聚浄戒と仏陀の三身とを連関させ、それぞれ法身・報身・応身の果報をもたらす因であると陳べています。道宣は何故そういうのかを割り注にて示していますが、これはそれまでの支那諸師において見られなかった新しい意見であると見てよいものです。三聚浄戒が菩薩の核心であって仏陀となることの因であり、仏陀は三身を備えるものであるならば、三聚浄戒の各戒が三身それぞれの因となるのだと解したのでしょう。
あるいは法相唯識をその教学の根本に据えていた道宣は、その重要な典籍の一つである『成唯識論』にある三身説と三聚浄戒とを絡めて説明しようとしたものかもしれません。しかし結局、その説は経論に基づいたものではなく、あくまで道宣による私的理解といえるものです。
ところで、道宣もまた三聚浄戒のいずれに何が配当されるかなど全く述べていません。ただ、その著『四分律刪繁補闕行事鈔』(『行事鈔』)の沙弥別行篇にて、律儀戒は声聞の基本的に異ならないものであることを言うのみとなっています。
若據二乘戒縁身口。犯則問心。執則障道。是世善法。違則障道。不免三塗 《中略》
若據大乘戒分三品。律儀一戒不異聲聞。非無二三有異。護心之戒更過恒式
もし二乗の見解に基づいたならば、戒とは身体と言葉についてのものであって、もし犯したならばその心〈動機・経緯〉が問われる。犯戒となる行為に執着れば仏道の障碍となる。これは世善の法である。 《中略》
もし大乗の見解に基づいたならば、戒には三品の別がある〈三聚浄戒〉。律儀の一戒は声聞のそれと異ならない。もっともそれに二、三の異なりが無いわけでなく、菩薩の護心の戒とは恒式〈形式〉に囚われるものではない。
道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』巻上(T40, p.604a-b)
伝統的にこの一節はしばしば取り沙汰されています。ここで特に「律儀一戒不異聲聞(律儀の一戒は声聞に異ならない)」と言うその根拠は、『瑜伽論』にある「律儀戒者。謂諸菩薩所受七衆別解脱律儀(律儀戒とは、諸々の菩薩が受けるところの七衆別解脱律儀である)」と考えて間違いない。
しかし、道宣はまた、声聞律儀に対比して菩薩律儀には「非無二三有異(二、三の異なりが無いわけではない)」とも言っていますが、それはどのような「異なり」であるか。
今一般に、菩薩戒とは「形式よりも動機や心を重視する傾向がある」〈『岩波仏教辞典』〉などと理解されています。しかし、これは誤認というべきものです。動機や心の状態を犯戒の基準とするのは、その全てに通じてとまでは言えなくとも、律いわゆる声聞戒にても同じく見られることです。ここで道宣が述べているように、支那において菩薩戒の特色とされるのは「護心之戒更過恒式」、すなわち菩薩戒とは「身口だけではなく意をも制するものであって、形式に必ずしも拘らないこと」、いわば教条主義的でないことです。
そしてそれは道宣に特有の理解ではなく、上来示したように支那における菩薩戒の理解をそのまま踏襲したもので、特には『地持経』・『瑜伽論』に基づいたものです。もっとも、ここでは余談となりますが、この「非無二三有異」の一節はむしろ後代の日本の律宗にて問題とされ、それが具体的に種々の大乗戒経所説のどの戒条を意味するものであるのかが論議され、あれこれと解釈されるようになっています。
さて、最後に挙げるのは、支那仏教において後世に重大な影響を与えた人、華厳宗第三祖の法蔵〈643-712〉のそれです。法蔵は『梵網経菩薩戒本疏』を著す中、華厳宗の立場から、特に『本業経』を頻繁に引いて『梵網経』所説の菩薩戒を注釈しています。
すでに述べたように、『梵網経』には三聚浄戒について全く言及がないのですが、法蔵は『本業経』の所説を根拠としていわゆる梵網戒を三聚浄戒の一環として理解しています。
第六所詮宗趣者有二。先釋宗後顯趣。問宗之與趣何別。答語之所表曰宗。宗之所歸曰趣。又釋宗是言下所尊。趣即標其意致。宗中亦二。先總後別。總者。以菩薩三聚淨戒爲宗。以是文中正所詮顯。所尊所崇唯此行故。別中有五。一約受隨。二約止作。三約理事。四約造修。五約縁收。初者創起大誓要期三聚。建志成就。納法在心故名爲受。受興於前持心後起順本所受令戒光潔故名爲隨。又受是總發萬行後生。隨是別修順成本誓。要具此二資成正行故以爲宗。 《中略》
五縁收者。謂諸菩薩波羅密行莫不具足三聚。所謂發三聚心修三種行成三迴向。菩薩萬行莫過於此故以爲宗。第二趣者意也致也。謂持此三戒増長三學。成就三賢十聖等位。究竟令得三徳三身無礙佛果。是意趣也。謂一律儀離過顯斷徳法身。二攝善修萬行善以成智徳報身。三以攝衆生戒成恩徳化身故也。宗趣竟也
第六に所詮の宗趣を(明らかにするのには)二つに分ける。先ず宗を釈して、後に趣を顕す。
問:宗と趣とはどのような違いがあるのか。
答:言葉で表現するものを宗といい、その宗が帰着するところを趣という。またこれを解釈すると、宗とは言葉によって尊ばれるものであり、趣とはその(言葉によって導かれた)意致〈境地〉の標である。宗の中にはまた二種ある。先ず総、後に別である。総とは、菩薩の三聚浄戒をもって宗とする。この文の中で正しく詮顕するところ、尊ぶところ、崇めるところは、唯だこの行に依るものである。別には五種ある。一には受隨に約し、二には止作に約し、三には理事に約し、四には造修に約し、五には縁収に約す。《中略》
五の縁収とは、諸々の菩薩の波羅密行は三聚浄戒を必ず具足することである。すなわち三聚心〈直心・深心・大悲心。菩提心のこと〉を発し、三種行〈戒・定・慧〉を修し、三廻向〈菩提廻向・衆生廻向・実際廻向〉を成す。菩薩の万行はこれに尽きるものであるから宗という。第二に趣とは意であり、致である。すなわちこの三聚浄戒を持して三学を増長し、三賢・十聖等の位を成就し究竟して、三徳〈法身・般若・解脱〉と三身〈法身・報身・応化身〉の無礙なる仏果を得させる。これが意趣である。すなわち第一に律儀戒は過失を離れて断徳法身を顕し、第二に摂善戒は万行の善を修して以て智徳報身を成就し、第三に摂衆生戒によって恩徳化身を成就するからである。以上が宗趣である。
法蔵『梵網経菩薩戒本疏』巻上(T40, p.604a-b)
この『梵網経菩薩戒本疏』もまた、まさに支那の論師による経疏らしい誠に迂遠で冗長なものですが、三聚浄戒をもって菩薩の核心とすることは従来通りです。この一節の最後にて、三聚浄戒のそれぞれが仏陀の三身それぞれを得る因とするのは、前述の道宣の説を取り入れたものと思われます。
以上、あくまで概説で全く不十分なものではありますが、支那における三聚浄戒の理解は、おおよそ今示したような経緯と変遷を辿ったものです。
(本来は法顕や玄奘ら印度に渡った僧らに倣い印度及び東南海をつぶさに見て回った義浄〈635-713〉や、また唐末には衰微していた南山律宗を天台教学を持ち込んで中興した宋代の霊芝寺元照〈1048-1116〉の文言も示すべきですが、今は一旦、ここまでとしておきます。)