前項では特に印度以来の三聚浄戒について説く経論のいくつかを示しましたが、以下は支那および日本で三聚浄戒の典拠の一つとして、先に示した典籍に加え重んじられた経論をいくつか示します。というのも、印度の諸論書に全く言及されず、またそれが行われた形跡も見られないものの、何故か支那および日本でのみ非常に重要視された菩薩戒経ともいわれる大乗経典がいくつかあるためです。
故に印度以来のそれと支那でのそれとは切り分けて考える必要があります。これは現代的・文献学的観点からそのようにすべきというのではなく、仏教の源流から辿り、その印度からの伝統をこそ重んじるべきとする、いわばごく当たり前の仏教者としての態度から云うことであります。
もっとも、支那における三聚浄戒理解の根本にあるのは、先に挙げた『善戒経』・『地持経』・『瑜伽論』および『摂論』に全く基づいたものでした。しかし、ある時点から、支那においてのみ知られ用いられた経典に基づいた支那独自の解釈が、それまでの理解に加上されるようになり、通用するようになっています。しかもそれは、印度以来、そして支那でも当初理解されたものとしばしば大きな齟齬、矛盾をきた内容が説かれたものでした。結果として、支那の諸論師はその矛盾を解消しようと様々な解釈を加え、(時としてかなり無理で迂遠なる理屈でもって)会通せざるを得ないことになっています。
そのような経典のうち三聚浄戒について説き、支那で重要視されたものとしては、まず『菩薩瓔珞本業経』(以下、『本業経』)を挙げなければなりません。『本業経』とは、菩薩の階梯たる十住・十行・十廻向・十地・無垢地・妙覚地の四十二賢聖法を主題とし、菩薩の為すべき行として十波羅蜜を説く経典です。また十住以前に十信があるとして、いわゆる菩薩の五十二地にも言及したものです。
『本業経』には、隋代の開皇十七年〈597〉に費長房により上梓された支那の訳経史書であり、その後の経録の範となった『歴代三宝記』(以下、『長房録』)によれば、当時は竺仏念により晋の孝武帝の治世〈372-396〉に翻訳されたものと、智厳により文帝元嘉四年〈427〉に訳されたものとの二本があったといいます。
しかしながら、『長房録』に先行すること三年ながら、ほぼ同時代の開皇十四年〈594〉に著されていた、法経等による『衆経目録』(以下、『法経録』)では智厳訳の言及がなく、ただ前秦の竺仏念訳本のみが記載されています。そして、これについて後代の諸経録は『法経録』の説を継いで竺仏念訳のみを挙げています。実際、今伝わるのは竺仏念の訳とされる本のみです。
そのように『本業経』は、『梵網経』のようにその最初から偽経の嫌疑が掛けられていた経でも、必ずしも支那的口記に満ち溢れたものでもありません。けれども、『梵網経』同様、まず印度の諸論書にて全く言及されたことが無く、その内容として近似する説も一切見られないという類の経典です。
(そのようなことから、現代では文献学者らによって『本業経』も偽経であるとほぼ断定されています。が、本稿は学術的・文献学的に三聚浄戒を眺めようとするものではなく、批判的ながらもあくまで伝統的立場から三聚浄戒を講説せんとするものであるため、それをここで問題としません。)
仮に竺仏念が四世紀後半に訳したものであったとしても、しかし六世紀後半に天台大師智顗〈538-598〉がこの経に着目して言及するまで支那にて依行された形跡も見られません。あるいは、『梵網経』に同じく智顗がこれに着目し重用したことによって、むしろ更に注目されるようになったようにも思われます。
例えば、智顗はその著とされる『菩薩戒義疏』の中で、当時の支那に伝わっていた、あるいは行われていた菩薩戒経およびその受戒法に六種あることに触れ、その中に『本業経』を挙げています。
次論法縁。道俗共用方法不同。略出六種。一梵網本。二地持本。三高昌本。四瓔珞本。五新撰本。六制旨本。優婆塞戒經偏受在家。普賢觀受戒法。身似高位人自譬受法。
次に法縁を論じる。道俗共用の(菩薩戒を受ける)方法は様々にあって、今は略して六種を示す。一には「梵網本」〈『梵網経』〉、二には「地持本」〈『菩薩地持経』〉。三には「高昌本」〈「暢法師本」とも。大凡『地持経』の授戒法に大同ながら、受者に十遮を問う点で異なる〉、四には「瓔珞本」〈『菩薩瓔珞本業経』〉、五には「新撰本」〈凡そ十八科からなる「近代諸師所集」の授戒法。戒相として十重を説く。この十重は『梵網経』あるいは『本業経』に依ったものであろう。これが「新撰本」とされていることからすれば、智顗の当時に初めてそれらが流通しだしていたのであろう〉、六には「制旨本」〈智顗はその内容を全く省略しており詳細不明〉である。
智顗説 灌頂記『菩薩戒義疏』巻上(T40, p.568a)
この『菩薩戒儀疏』とは、『梵網経』所説の戒を、まず『十誦律』や『地持経』等々に基づいた従来の支那における戒律理解を踏襲しながら、さらに『本業経』を援用して註釈しようと試みている書です。現代、この書が果たして真に智顗の手によるものかどうか怪しまれるとの意見が文献学者から提出されていますが、これも今は問題としません。
(ただし、智顗の師であった南岳慧思の撰と伝説される『受菩薩戒儀』は、主に『本業経』に依って構成されるものとなっています。その伝説が事実であれば、智顗以前、既に『本業経』が支那にて流布してその所説の授戒法まで実行されていたことになります。が、そもそも智顗がこれに全く言及しておらず、さらに後代に撰述されたものと疑うに足る根拠が多々あります。したがって、これは慧思の作では決してなく、より後代に編纂されたものであるのがあまりにも明らかなことから、ここでは取り上げません。)
では『本業経』には三聚浄戒がどのように説かれているのか。
佛子。十般若波羅蜜者。從行施有三縁。一財。二法。三施衆生無畏。戒有三縁。一自性戒。二受善法戒。三利益衆生戒。 《中略》
佛子。若一切衆生初入三寶海以信爲本。住在佛家以戒爲本。佛子。始行菩薩若信男若信女中。諸根不具黄門婬男婬女奴婢變化人受得戒。皆有心向故。初發心出家欲紹菩薩位者。當先受正法戒。戒者是一切行功徳藏根本。正向佛果道一切行本。是戒能除一切大惡。所謂七見六著。正法明鏡。佛子。今爲諸菩薩結一切戒根本。所謂三受門。攝善法戒。所謂八萬四千法門。攝衆生戒。所謂慈悲喜捨化及一切衆生皆得安樂。攝律儀戒。所謂十波羅夷 《中略》
佛子。先當爲聽法者與授菩薩法戒。然後爲説菩薩之本行六入法門。佛子。次第爲授四歸法。歸佛歸法歸僧歸戒。得四不壞信心故。然後爲授十戒。不殺不盜不妄語不婬不沽酒不説在家出家菩薩罪過不慳不瞋不自讃毀他不謗三寶。是十波羅夷不可悔法。
仏子よ、十般若波羅蜜とは、まず施を行ずるには三縁がある。一つには財、二つには法、三つには衆生に無畏を施すことである。戒には三縁がある。一つには自性戒、二つには受善法戒、三つには利益衆生戒である。〈以上、因果品第六〉 《中略》
仏子よ、あらゆる衆生で初めて三宝の海に入ろうとする者はまず信をもって本とし、仏家に在住するには戒をもって本としなければならない。仏子よ、始行の菩薩〈初発心の菩薩〉の信士〈優婆塞〉あるいは信女〈優婆夷〉で、たとい諸根不具〈身体に欠損ある者〉・黄門〈性的不具者〉・婬男・婬女・奴婢・変化人〈人に化けている神霊〉であったとしても戒を得ることが出来る。その皆が(菩提)心あって(菩提を得るために)向かう者であるから。初発心して出家菩薩たらんとする者は、先ず正法戒を受けなければならない。戒とは一切行功徳蔵の根本であり、正しく仏果の道を歩む一切行の本である。この戒はよく一切の大悪いわゆる七見六著を除く、正法という明鏡である。仏子よ、今こそ諸々の菩薩らの為に、一切戒の根本を制定する。いわゆる三受門である。摂善法戒とは八万四千の法門、摂衆生戒は慈悲喜捨(の四無量心)である。その化を一切衆生に及ぼし、皆に安楽を得せしめる。摂律儀戒は十波羅夷である。〈以上、大衆受学品第七〉 《中略》
仏子よ、まず法を聴く者の為に菩薩法戒を授与し、そうした後に菩薩の本行たる六入法門を説け。仏子よ、次第して四帰依の法を授けよ。帰依仏・帰依法・帰依僧・帰依戒である。四不壊信〈四不壊浄〉の心を得させるため、その後に十戒を授けよ。①不殺生・②不偸盗・③不妄語・④不婬・⑤不酤酒・⑥不説在家出家菩薩罪過・⑦不慳貪・⑧不瞋恚・⑨不自讃毀他・⑩不謗三寶、これらが十波羅夷、不可悔法である。〈以上、集散品第八〉
竺佛念訳『菩薩瓔珞本業経』巻下(T24, p.1019b, p.1020b-c, p.1022c)
この『本業経』にてもいわゆる三聚浄戒が説かれていますが、その内容が『善戒経』や印度撰述の諸論書におけるそれとかなり異なっています。摂善法戒を八万四千の法門、また饒益有情戒を四無量心であると抽象的にしながら、しかし律儀戒を七衆別解脱律儀とせず、またそれに言及もせずして十波羅夷であると断定する点です。そしてその十波羅夷とは、梵網戒の十重禁戒にまったく同内容のものです。
(また、『本業経』はそれまでの経論と異なり、「律儀戒」ではなく「摂律儀戒」とされている点を見逃してはなりません。)
『本業経』が三聚浄戒の一環として「十重八万威儀戒」などと説くのに対し、『梵網経』では十重四十八軽戒を説きますが三聚浄戒については全く言及がありません。その故に本稿ではあえて『梵網経』を示していないのですが、支那および日本では、十波羅夷(十重)の内容が『本業経』と『梵網経』とで全く同一であることから、『梵網経』は三聚浄戒に言及が無いもののそれを含意して説くものであると伝統的に理解されています。
そして日本では、その十重は文字通り律儀戒にも該当するものと理解した者が少なからずありました。が、このあたりは従来支持されてきた律儀戒は声聞戒と異ならないという説の兼ね合いから少々複雑、というか曖昧となってしまい、しばしば議論の元となって、多く異説の出る原因となっています。
ところで、『本業経』には、菩薩戒を受けること自体について非常に特異と言える説がいくつか示されています。
佛子。受十無盡戒已。其受者過度四魔越三界苦。從生至生不失此戒。常隨行人乃至成佛。佛子。若過去未來現在一切衆生。不受是菩薩戒者。不名有情識者。畜生無異。不名爲人。常離三寶海。非菩薩非男非女非鬼非人。名爲畜生名爲邪見。名爲外道不近人情。故知菩薩戒有受法而無捨法。有犯不失盡未來際。若有人欲來受者。菩薩法師先爲解説讀誦。使其人心開意解生樂著心。然後爲受。又復法師能於一切國土中。教化一人出家受菩薩戒者。是法師其福勝造八萬四千塔。況復二人三人乃至百千。福果不可稱量其師者。夫婦六親得互爲師授。其受戒者。入諸佛界菩薩數中。超過三劫生死之苦。是故應受。有而犯者勝無不犯。有犯名菩薩。無犯名外道。以是故。有受一分戒名一分菩薩。乃至二分三分四分。十分名具足受戒。是故菩薩十重八萬威儀戒。十重有犯無悔。得使重受戒。八萬威儀戒盡名輕。有犯得使悔過對首悔滅。一切菩薩凡聖戒盡心爲體是故心亦盡戒亦盡。心無盡故戒亦無盡六道衆生受得戒。但解語得戒不失。
仏子よ、十無尽戒を受け終ったならば、その受者は四魔を過度し、三界の苦を越え、生生世世にこの戒を失うことはない。(戒は)常に行者に随ってついに成仏に至る。仏子よ、もし過去・未来・現在の一切衆生で、この菩薩戒を受けない者など知性ある者と言えない。それは畜生に同じであって、人とは言えない。常に三宝という海から離れ、菩薩でもなく、男でもなく、女でもなく、鬼〈死霊・餓鬼〉や神でもない、畜生である。そのような者を邪見と云い、外道という。人情には程遠いものである。このようなことから知られるであろう、菩薩戒には受法は有っても捨法は無い。(いかなる罪を)犯すことがあったとしても(戒を)失なうことはなく、未来際を尽くす。もし人が来たって(菩薩戒を)受けようとしたならば、菩薩法師は先ず、彼の為に(菩薩戒について)解説し読誦し、その人の心を開かせ、意を解かせて楽著の心を起こさせ、そうして後に受けさせよ。
また、法師がいかなる国においてであろうとも、一人の出家者でも教化し、菩薩戒を授けたならば、この法師の功徳は八万四千の仏塔を建てることに勝るであろう。ましてやその受者が二人・三人および百千人となれば、その功徳は計り知れないものとなる。その戒師には、夫婦や六親眷属が互いに師となり受者となるも可である。その受者は、諸々の仏界・菩薩衆の中に入り、三劫に渡って生死流転する苦を超過する。そのようなことから(この菩薩戒を)受けるべきである。
受けていながら戒を犯す者は、受けてもおらず戒(の制する行為)を犯しもしない者に勝る。戒を犯す者を菩薩といい、犯さないけれども戒を受けていない者を外道という。戒を犯す者を菩薩といい、犯さない(けれども戒を受けていない)者を外道という。このようなことから、一分の戒を受ける者を一分の菩薩と名づけ、乃至二分・三分・四分、十分(の戒を受ける者を)具足受戒と名づける。このようなことから、菩薩には十重八万威儀戒がある。十重を犯したならば懴悔することは出来ない。しかしながら再び受戒することが出来る。八万威儀戒はすべて軽戒と名づける。もし犯したならば対首〈対首懴。一人から三人の比丘・比丘尼に対して自身の犯した罪を発露し散華すること。律蔵における悪作罪などの懴悔法〉によって悔過して悔滅することが出来る。
一切の菩薩の凡・聖の戒は、全て心を体とする。この故に心が尽きたならば戒もまた尽きる。しかし心は尽きるものでないから、戒もまた尽きることはない。六道の(あらゆる)衆生は戒を受けることが出来る。それにはただ、(戒の内容と授受についての)言葉を解することが出来るならば、戒を得て失うことはないのだ。
竺佛念訳『菩薩瓔珞本業経』卷下 大衆受学品第七(T24, p.1021b)
この大衆受学品における菩薩戒についての所説は、菩薩戒を一度受けたならばその戒体を失うことが無いこと、またもし重戒を犯したならば懴悔は出来ないものの再受戒が出来ること、そして授戒に際して先ずその内容を充分に言い聞かせなければならないとすることなど、いくつかの点では『瑜伽論』等のそれと同様です。
就中、「不受是菩薩戒者。不名有情識者。畜生無異。不名爲人(この菩薩戒を受けない者など知性ある者と言えない。それは畜生に同じであって、人とは言えない)」などと言い、さらに「有而犯者勝無不犯。有犯名菩薩。無犯名外道(受けていながら戒を犯す者は、受けてもおらず、戒の制する行為を犯しもしない者に勝る。戒を犯す者を菩薩といい、犯さないけれども戒を受けていない者を外道という)」などと言うのは、まさに尋常でなく、あまりにも極端な、正気の沙汰とは思えぬ言葉です。
むしろそのような刺激的な文言であったからでしょうけれども、支那の智顗や法蔵などはこの一節を憑拠として菩薩戒の優れたる由縁としています。彼らにとって『本業経』は紛う方なき金口説法の大乗経典であって、このような所説を異常などとは決して思わず、悪しき意味で捉えることは無かったからでしょう。
また他に特異と言える点としては、戒の「分受」を許しているところです。分受とは、ここでは特に十無尽戒について云われるものですが、数ある戒条のうち自身が護持しえるものをのみ選んで、文字通り「戒を分けて受ける」ことを意味します。もっとも、同様に分受を許す経典には『優婆塞戒経』があります。これは文字通り優婆塞すなわち在家信者には、その戒である五戒を分受することを許したものです。
いずれにせよ、戒の原意やその意義からすると、分受しても良いすることは非常におかしな、理に叶わないものと思えることで特殊な説だと言わざるを得ません。第一、「戒を受けていない者は人非人であって畜生に同じ」などと言っておきながら、「分受を許す」とは一体どうしたことでしょうか。守らなくともその戒を受けていること自体が重要としながら分受しても良い、などと云うことは、整合性がまるで取れない、おかしな言舌です。
(これら種々の不審で不合理な説がその所説の戒について見られることから、現代の学者らが『本業経』を偽経であると断ずるのも無理はありません。)
さて、先に述べたように特に智顗がその著の彼此に引用するなど重用して以来、支那の諸師及び日本では『本業経』は非常に重要視され、三聚浄戒の本拠の一つとして必ず挙げられるものとなっています。例えば、今ここで日本の学僧の見解を示すのは不適切かもしれませんが、鎌倉後期の凝然は以下のように述べています。
問。諸教三聚同異云何
答。修多羅義根本所説。要略明相在本業經。阿毘達磨廣釋分別。體相窮究在瑜伽論。兩本善戒如來自説。彌勒詫此説瑜伽論。故瑜伽論全同善戒。攝論唯識全同瑜伽。
問:諸教における三聚浄戒の同異はどのようであろうか。
答:修多羅〈sūtra. 経典〉の義が根本の所説である。要略してその内容を明らかにしているのは『本業経』である。(大乗の)阿毘達磨では広くこれについての注釈・解説が行われているが、その本質にまで迫って突き詰めているのは『瑜伽論』である。(一巻本と九巻本の)両本の『菩薩善戒経』は如来自ら説かれたものであるが、彌勒菩薩がこれに事寄せて説かれたのが『瑜伽論』であった。そのようなことから『瑜伽論』は全く『菩薩善戒経』に同じである。また『摂論』と『成唯識論』(における三聚浄戒に関する所論)は全く『瑜伽論』に同じである。
凝然『律宗綱要』巻上(T74, p.7b)
現代の文献学からの見方がどのようなものであるにせよ、支那及び日本の仏教としての伝統的見方としては、ここで凝然が概説しているのが、ほぼ通じて認められたものとなっています。
三聚浄戒が語られる時、特に中世以来の日本では必ずと言っていいほど言及され、その典拠の一つとされてきた経典として、『占察善悪業報経』(以下、『占察経』)があります。
しかしながら、この経は偽経の疑い極めて濃厚、いや、間違いなく偽経であって決して依るべきでないものと断じて可なるものです。と云うのも、まず出処が不明であり、さらになんと言ってもその内容があまりにも怪しく不合理であり、故に往古の経録の数々にても信用ならないものとされていたためです。
たとえば、『占察経』について、『長房録』にはかく記してます。
占察經二卷
右一部二卷。檢群録無目。而經首題云。菩提登在外國譯。似近代出妄注。《中略》 勅不信占察經道理。令内史侍郎李元操共郭誼就寶昌寺問諸大徳法經等。報云。占察經目録無名及譯處。塔懺法與衆經復異。不可依行。勅云。諸如此者不須流行
『占察経』二卷
右一部二卷。諸々の経録を調べてもその名目が無い。しかし経の首題には「菩提登が外国にて訳したもの」とある。おそらくは近代、妄りに書き記されたものであろう。《中略》
(開皇十三年〈593〉、隨の文帝楊堅は、民間で『占察経』に基づいた妖しげな卜占と肉体的自虐的懴悔行がなされていることを知り、)
「『占察経』の所説を信じてはならない」
と勅した。また内史侍郎の李元操と司馬郭誼とを宝昌寺に遣わして、法経などの諸大徳に(『占察経』の所説について)質問させた。すると、
「『占察経』は目録にその名も訳処も無く、その塔懺法〈懺悔法〉は諸々の経典と異なっており、依行すべきではない」
との答えであった。(これを受け、文帝はさらに、)
「このような経典を流行させてはならない」
と勅命するに至った。
費長房『歴代三宝記』巻十二(T17, p.904c)
このように、費長房は隋の文帝がこの経への信奉と流通をすら禁じたと伝えています。そして、この話を裏付けるように、『法経録』ではこれを「衆経疑惑」すなわち偽経の疑いあるものの内に入れています。また、やや後に著された彦琮の『衆経目録』(以下、『彦琮録』)でもこれを「名雖似正義渉人造(正法に似せて人が捏造したもの)」と疑われる「五分疑偽」の内に入れ、『長房録』および『法経録』同様に見ています。
そして更に、唐代の南山大師道宣により麟徳元年〈664〉に編纂なった経録『大唐内典録』においてもまた、やはり『占察経』は偽経として扱われています。
占察經兩卷上卷一百八十事卜占
《中略》
右諸僞經論。人間經藏往往有之。其本尚多。待見更録
『占察経』二卷上卷には一百八十事の卜占が記されている
《中略》
右の諸々の偽経論は人間〈俗世間・世俗〉の経蔵に往往にして収録されている。その(疑いある)本はなお多くあり、更に疑偽経論録に載録されることを俟つ。
道宣『大唐内典録』巻十 歴代所出疑偽経論録第八(T55, pp.335c-336a)
道宣は、『占察経』を俗間で流行、いわば民間信仰で用いられている、いかがわしい経典の一つとしているのです。これは道宣が『占察経』の所説に依る筈のないことを示し、引いては(当初の)南山律宗の教学に『占察経』を持ち込む余地など無いことの明瞭な証と言えます。
と云うのも、後代、新羅において『占察経』が注目され、菩薩戒の理解にその重要な典拠の一つとして用いられたことに影響を受け(義寂『菩薩戒本疏』、後述)、南山律宗を継承しているはずの日本の律宗においてこの『占察経』を根拠とし、印度でも支那でも在り得なかった主張がなされ、またその主張に基づいた諸活動が展開されるためです。そのような点で、決して積極的な意味ではないのですが、『占察経』は日本の特殊な戒律理解や受戒を知るのに極めて重要です。
ところが、武則天の治世〈690-705〉に明佺等によって編纂された『大周刊定衆経目録』(『武周録』)では、何故か武則天の勅命により『占察経』は真経(正経)として扱われ出します。それを受けて智昇は、開元十八年〈730〉頃に編輯した『開元釋教録』(以下、『開元録』)にて、『占察経』に関して以下のように述べています。
占察善惡業報經二卷云出六根聚經亦云大乘實義經亦名地藏菩薩經亦直云占察經
右一部二卷其本見在沙門菩提登。外國人也。不知何代譯占察經一部。 《中略》 今謂不然。豈得以己管窺而不許有博見之士耶。法門八萬理乃多途。自非金口所宣何得顯斯奧旨。大唐天后天册萬歳元年。勅東都佛授記寺沙門明佺等。刋定一切經録以編入正經訖。後諸覽者幸無惑焉
占察善悪業報経二巻『出六根聚経』・『大乗実義経』・『地蔵菩薩経』とも云い、また直に『占察経』と云う。
右一部二巻のその本を見るに沙門菩提登〈菩提燈〉訳とある。外国人である。いずれの時代に占察経一部を訳したか不明。 《中略》
(『長房録』が伝えていることは)今から言えば正しくない。一体どうして管窺〈管見〉を以てして博見の士あることを許さないことなど出来ようか。法門には八万の理あって多様である。自ら金口〈仏陀自身の言葉〉によって説かれたものでなければ、誰がこのような奥旨を顕すことが出来ようか。大唐武則天の天冊万歳元年〈695〉、東都仏授記寺の沙門明佺らに勅して、一切経録を刊行し(『占察経』を)以って正経として編入した。これによって後世の諸閲覧者は幸いにも(『占察経』を偽経であるなどと)惑うことが無いであろう。
智昇『開元釋教録』巻七(T55, p.551a)
以上の一節で中略したのは、『長房録』にある『占察経』の項を丸ごと引用した箇所で、これを智昇は何故か「今謂不然(今から言えば正しくない)」などと全く否定し、逆に「金口所宣(仏陀が自ら説かれたもの)」であると断定しています。彼は『占察経』の所説に疑問を持たなかったどころか、むしろ「奧旨」であると見ているのです。
『開元録』は一般に、最も信頼しうるとされる経録です。しかし、ここでは『占察経』の取り扱いに関して武則天の干渉があって、また智昇もそれをそのまま是認したことが伺えるものとなっています。支那における経録編集も訳経も、まさしく国家事業として行われたものであったため、帝の意向に逆らうことなどあり得なかったのでしょう。いずれにせよこれ以降、『占察経』は「経録の上では」真経とされるようになっています。
先に、道宣は『占察経』をいかがわしい経典と見なしており、故に「道宣が『占察経』の所説に依る筈のないことを示し、引いては(当初の)南山律宗の教学に『占察経』を持ち込む余地など無い」と述べました。が、そこでしかし、南宋代の支那ともなるとその事情が変わったのでした。事実、南山律宗の復興を試みた元照が、戒律にまったく関しない点ではあるものの、『観無量寿経』の註釈『観無量壽仏経義疏』にて『占察経』の一節を援用しています。
いずれにせよ、『占察経』が偽経の疑い濃厚と見られたのは、所説の懴法や妖しげな卜占によるものであって、戒に関してではありません。しかし、『占察経』では懴法と卜占と受戒とが密接に関連して説かれており、それは結局戒に関する所説への疑いに連なるものです。
ここでは『占察経』の全てを示すことは出来ないため、ただ三聚浄戒に関する一節をのみ、その前後を含めて示します。
復次未來之世。若在家若出家諸衆生等。欲求受清淨妙戒。而先已作増上重罪不得受者。亦當如上修懺悔法。令其至心得身口意善相已。即應可受。若彼衆生欲習摩訶衍道。求受菩薩根本重戒。及願總受在家出家一切禁戒。所謂攝律儀戒。攝善法戒。攝化衆生戒。而不能得善好戒師廣解菩薩法藏先修行者。應當至心於道場内恭敬供養。仰告十方諸佛菩薩請爲師證。一心立願稱辯戒相。先説十根本重戒。次當總擧三種戒聚自誓而受。此亦得戒。復次未來世諸衆生等。欲求出家及已出家。若不能得善好戒師及清淨僧衆。其心疑惑不得如法受於禁戒者。但能學發無上道心。亦令身口意得清淨已。其未出家者。應當剃髮被服法衣如上立願。自誓而受菩薩律儀三種戒聚。則名具獲波羅提木叉。出家之戒名爲比丘比丘尼。即應推求聲聞律藏。及菩薩所習摩徳勒伽藏。受持讀誦觀察修行。若雖出家而其年未滿二十者。應當先誓願受十根本戒。及受沙彌沙彌尼所有別戒。既受戒已亦名沙彌沙彌尼。即應親近供養給侍先舊出家學大乘心具受戒者。求爲依止之師。請問教戒修行威儀。如沙彌沙彌尼法。若不能値如是之人。唯當親近菩薩所修摩徳勒伽藏。讀誦思惟觀察修行。慇懃供養佛法僧寶。若沙彌尼年已十八者。亦當自誓受毘尼藏中式叉摩那六戒之法。及遍學比丘尼一切戒聚。其年若滿二十時。乃可如上總受菩薩三種戒聚。然後得名比丘尼。若彼衆生雖學懺悔。不能至心不獲善相者。設作受相不名得戒
また次に、(仏滅後の)未来世において、あるいは在家あるいは出家の諸々の衆生で、清浄なる妙戒を受けようと求めるも、以前に甚だ重い罪過を犯したことがあるために戒を受けることが出来ない者は、まず既に述べたような懺悔[さんげ]の法を修めなければならない。そして至心に身・口・意の善相〈卜占による吉相〉を得たならば、ようやくその後に(戒を)受けるべきである。
もしその衆生が摩訶衍道〈大乗道〉を修行することを欲し、菩薩の根本重戒を受けることを求め、および在家・出家の一切の禁戒、いわゆる摂律儀戒・摂善法戒・摂化衆生戒〈饒益有情戒〉を総じて受けることを願ったとしても、善好なる戒師で菩薩法蔵〈菩薩蔵〉を詳かに理解している先達を見出すことが出来なければ、至心に道場において(仏・菩薩像を)恭敬・供養し、十方の諸仏・諸菩薩を仰いで授戒の戒師となることと、その証明を請わなければならない。そして一心に誓願を立て、その戒相を列挙する。先ず十根本重戒を説き、次に三種戒聚〈三聚浄戒〉を総じて挙げて、(それを護持することを)自ら誓って受けるのである。このようにしても戒を得ることが出来る。
また次に、未来世の諸々の衆生が、出家することを求めあるいは既に出家していたとして、もし善好の戒師および清浄なる僧衆に会うことが出来ず、その心が疑いに惑って如法に禁戒を受けることが出来ない者は、ただよく発無上道心を学び、また身口意をして清浄ならしめよ。そして未だ出家していない者ならば、剃髮して法衣を被着し、すでに述べたように誓願を立てて、自ら誓って菩薩律儀である三種戒聚を受けよ。さすれば具さに波羅提木叉〈戒本〉たる出家の戒を獲得して比丘・比丘尼となる。そしてまさに声聞の律蔵および菩薩が習学する摩徳勒伽蔵〈論蔵〉を探求して受持し、読誦・観察して修行せよ。
もし出家せんとしてもその齢が未だ二十に満たない者は、先ず誓願して十根本戒を受け、さらに沙弥・沙弥尼の別戒〈十戒〉を受けよ。そのように受戒したならば、沙弥・沙弥尼となる。そして、先に既に出家し大乗心を学び具さに戒を受けている者に親近し供養し給侍して、依頼して依止の師とせよ。教えと戒とについて質問し、沙弥・沙弥尼に定められた法の如くにその威儀を修めよ。もし如是の人〈大乗戒の先達〉に出会うことが出来なければ、ただ菩薩が修学する摩徳勒伽蔵に親近し、読誦・思惟・観察して修行せよ。そして慇懃に仏法僧の三宝を供養せよ。もし沙弥尼でその齢が十八以上の者であれば、自ら誓って毘尼蔵〈律蔵〉の中の式叉摩那〈正学女〉の六戒法を受け、及び遍く比丘尼の一切戒聚を学べ。その齢が二十に満ちたならば、そこで前述の通りに菩薩の三種戒聚を総受せよ。さすれば比丘尼と名乗ることが出来る。もしその衆生が懺悔を行じたとしても至心に行わず、善相を得ることが出来なければ、たとい受相を作したとしても得戒とはならない。
《伝》菩提燈訳『占察善悪業報経』巻上(T17, p.904c)
このように、『占察経』にも大乗を奉ずる者が受けるべきものとして三聚浄戒が挙げられています。そしてその内容とは、『本業経』に同じく「摂律儀戒・摂善法戒・摂化衆生戒」であるとしています。就中、やはりこの経が「律儀戒」と言わず「摂律儀戒」としてる点は、極些末と思われるかもしれませんが留意すべき重要な点です。そしてまた、『占察経』は三聚浄戒の具体的内容を全く明らかにしていません。
また三聚浄戒に併せて「菩薩根本重戒」あるいは「十根本重戒」なるものの名目を挙げていますが、それが一体どのような内容のものかの言及が全く無い。さらに言えば、沙弥が本来の十戒を受ける前に受けるべきものとして、「十根本戒」なる名目も挙げていますが、これもその内容が一切知られぬものです。よって「十根本重戒」と「十根本戒」とは同じものか別なものかも、おそらくは同じものなのでしょうけれども、しかし判然としません。そして、三聚浄戒と十根本戒とは別なものであるようです。
あるいは、『占察経』では「當刻木爲十輪。依此十輪書記十善之名。一善主在一輪。於一面記(木を刻んで十輪とし、この十輪に十善の名を書け。一善は一輪にあり、一面に記す)」とあり、卜占に用いるサイコロの如き木片に十善を意味する十輪を刻めなどとしていることから、十根本重戒とは十善戒のことかとも取れますが、やはり経文にはそれが明示されていません。
しかしなんといっても、『占察経』のこの一節で最も驚くべき特異な点は「三聚浄戒をただ自誓して総受することによって比丘・比丘尼となることが出来る」と明言しているところです。これはその他多くの仏典の所説・所論から完全に逸脱し、従来の支那における戒律理解にも大きな齟齬をきたす言です。
また、二十歳未満の者が出家を志して沙弥となる際、沙弥・沙弥尼の別戒を、これは十戒のことでしょうけれども受けよと言っていますが、これが自誓受によるのか従他によるのかも少々曖昧です。おそらくは自誓受によるのであって、十根本戒以外に十戒を自ら受けることによって沙弥となり得ると言っているのでしょう。しかし、すると沙弥となるべく自誓受する場合、三聚浄戒は関係が無いことになる。
そもそも、最初に「善好戒師がいなければ自誓受せよ」と言っておきながら、自誓受して沙弥となった後に「先舊出家學大乘心具受戒者(先に既に出家し大乗心を学び具さに戒を受けている者)」を依止師として沙弥としての威儀を学べ、などとしているのも全く整合性がとれていない。すでにそんな者があるのならば、そもそも自誓受にて沙弥となる必要がないのだから。
すなわち、全くややこしい話となりますが、まず『占察経』がいうところの三聚浄戒と十根本重戒とは別物であってしかもその内容は不明であり、また三聚浄戒のうちの摂律儀戒とは、ただ比丘・比丘尼の律儀戒をのみ含意したものであって、そこに沙弥など他の律儀戒などは含まれていないかのようです。
以上指摘した以外にも、『占察経』には曖昧で不明瞭な、まったく取るに足らない説があちこちに散見されます。
実際、これが古来の支那で撰述された偽経とされ続けていながら、しかし突如として武則天によって天冊万歳元年〈695〉から真経と経録の上では扱われるようになっていたとはいえ、受戒に関して『占察経』の所説が支那にて現実に実行されたことはほとんど無かったようです。
ただし、管見ではただ数例のみ、支那で『占察経』の所説に依拠して戒律について立論する人があったことが知られます。その一つは現在、むしろ日本の書によってのみ知り得るところとなっています。
智首律師依占察經明大乘法。三聚淨戒自誓從他。二受之法總受三聚。於中依其攝律儀戒成七衆姓。名爲比丘比丘尼等。如彼疏第一引彼經所説即令行者專尋彼經。通別二受行相周備。新譯諸師細開戸牖。舊家諸師亦鉤此幽。
智首律師は『占察経』に依って大乗の法を明らかにしている。三聚浄戒の自誓と従他の二受の法によって総じて三聚浄戒を受けるのである。その中、摂律儀戒成に依って七衆の姓を成じ、比丘・比丘尼等とするのである。彼の疏〈智首『四分律疏』〉の第一巻に『占察経』の所説を引用しているのは、行者にその経文を読ませようとしているのであろう。そこでは通別二受の行相が完備して(説かれて)いる。新訳の諸師は詳細に(律学の)門戸を開き、旧家の諸師もまたその幽を探っているのだ。
凝然『律宗綱要』(T55, pp.335c-336a)
凝然はここで智首〈567-635〉の『四分律疏』を引いてこのように言っていますが、極めて残念ながら『四分律疏』自体が断片のみ伝わって現存していません。
智首とは道宣が師事した唐代初頭の支那の人で、当代きっての律僧であったと言われる人です。凝然はその著で多く智首律師の疏を引用して律を講じていますが、その智首が『占察経』を引用していたことをもって、その所説の正統なることを言いたかったのでしょう。けれども、上に示したように、智首の弟子であった道宣は『占察経』をそれまでの経録に従って真経として扱っていません。もし、仮に智首が『占察経』を当時の訳経僧らが怪しんでいたのと異なり真経であると見ていたとしても、弟子の道宣はそのような見方に同調していなかったことは明らかです。
また、凝然のこの引用の仕方も我田引水の感があって、これだけでは智首が『占察経』の所説をそのまま実行せよなどと言っていたとは思われません。智首がどのような意図でこれを持ち出していたのか、あるいはどのような文脈でこのようなことを言っていたのかは、『四分律疏』の該当箇所を通して見なければわかりませんが、今述べたようにもはや現存しておらず、それを確かめるのは不可能となっています。
そしてまた一人、『占察経』をもって論拠の一つとしていたのがあったことが知られます。それは智首よりかなり時代が下った宋代初頭の法相唯識の学僧、守千であり、その著である慈恩大師基『般若心経幽賛』の注釈書『般若心経幽賛崆峒記』にて伝えられています。
問瑜伽雖有菩薩三聚自受之文。未知得通七衆。以不。答准墨字号占察善悪業報経上巻。具通七衆。乃至式叉摩那。亦自受故。経云。復次未来之世。若在家出家諸衆生等。欲求受清浄妙戒。《以下、『占察経』文、中略》設作受相。不名得戒。准此経意。惣許自受。十種得戒中有持律得故。
問:『瑜伽師地論』に菩薩の三聚浄戒の自誓受の文が有りはするけれども、未だ七衆(の律儀戒)に通じ得るものであるか知らない。どうであるか?
答:墨字号『占察善悪業報経』の上巻に准じたならば、つぶさに七衆、乃至、式叉摩那に通じるであろう。また、自誓受であるが故に、経〈『占察経』〉に「また次に未来の世において、もしくは在家もしくは出家の諸々の衆生が清浄妙戒を受けることを欲したならば、《上掲の『占察経』の一節。中略》たとい受相を作したとしても得戒とはならない」とある。この経の意に准じたならば、(律儀戒を含めた三聚浄戒を)総じて自誓受することが出来る。十種得戒〈仏在世に具足戒の受得に十種あったこと。『四分律』などではそのいくつが見られない『十誦律』独自の説〉の中に「持律得」〈文脈からすると、十種具足戒のうち摩訶迦葉の自誓得具足戒のことであろうか?これは十比丘僧伽での白四羯磨が受具の標準と仏陀により決定される以前の、ただ摩訶迦葉についての特例であって、「善来受具」に相似たものである。しかしながら、十種具足戒のうちの「持律得」といえば「持律第五得受具足戒」を指すであろうし、これは辺地では五比丘僧伽による白四羯磨での受具を行うことを許した語である。ここで守千が自誓受の根拠としてこれを挙げることのは意味不明であり不審〉があるためである。
守千『般若心経幽賛崆峒記』巻中
この一節は、後に詳しく述べる中世日本における戒律復興を志した覚盛が比丘戒の自誓受戒の根拠の一つとして挙げていることから重要です。
そしてまた更に、これは支那ではなく新羅における法相の論師である義寂が『占察経』に直接言及していたことが知られます。
文中有二。一辨新學得戒之縁。二明法師不好教授。得戒縁中有三。一明自誓受法。二明從他受法。三覆結二受。聲聞法中出家五衆必從他受。在家二衆通自他受。如瑜伽論五十三中廣説其相。菩薩法中此經不分七衆之受。若准占察。七衆受戒皆通兩受。如彼上卷廣分別也。
文〈『梵網経』本文〉の中に二つの点が説かれている。一つには(新たに戒を受けようとする)新学の者の得戒の縁〈条件・方法〉が述べられ、二つには法師で教授するに相応しくない者について明かされている。得戒の縁には三種ある。一つには自誓受の法を明かし、二つには従他受の法を明かし、三つには総じて(自誓受と従他受の)二受を結する。声聞の法では、出家の五衆〈比丘・比丘尼・沙弥・式叉摩那・沙弥尼〉は必ず他者に從って受けなければならず、在家の二衆〈優婆塞・優婆夷〉は自誓受・従他受が通じて可能である。(これに関しては)『瑜伽論』巻五十三にて広くその相が説かれている通りである。(声聞法に対して、)菩薩の法の中、この経〈『占察経』〉では、七衆(それぞれの律儀戒)の受法は分かたれていない。そこでもし『占察経』の所説に准じたならば、七衆の受戒は(声聞法と異なって)すべて(自誓受と従他受の)両受に通じたものである。その上卷に広く分別〈識別して定義すること〉されている通りである。
義寂『梵網戒本疏』巻下之本(T40, p.658a)
義寂とは、新羅華厳宗祖とされる義湘〈625-702〉の弟子で、七世紀後半から八世紀にかけてあった朝鮮の人です。義寂がいつごろこの『梵網戒本疏』を著したかは不明ですが、義寂が生きたのはちょうど支那の武則天の治世の頃に重なります。先程示したように、それはまさに偽経とされ続けていた『占察経』が真経として大蔵経に編入された時期のことです。あるいは義寂は『占察経』が唐にて真経とされたことにより、そして彼が支那ではなく新羅という辺境の地の人であった為に、これを根拠として持ち出し得たのかもしれません。
ところで、この一節は梵網戒の第二十三軽戒を解釈する中にて述べられたものです。第二十三軽戒とは、菩薩戒を受けることを望むも近くに好師が無い場合には、必ず懺悔し好相を得た上で梵網戒を自誓受しなければならないとする戒です。いや、その核心部は、新学の菩薩が来たって様々な質問をされた時には、軽蔑や慢心・悪心に基いて、それに答えないことがことがあってはならない、とする戒です。
そこで義寂は、この軽戒について述べる中、受戒法には自誓受と従他受のあることを明かし、菩薩戒に関しては自誓受と従他受のいずれもが出家・在家の別なく可能であることを『占察経』に依って触れています。しかしそれは、後述しますが、支那で従来否定され続けていた説でした。
さて、支那においても、比丘・比丘尼となるには、あくまで三師七証・白四羯磨など諸条件を全て満たした上で具足戒を受けなければなりませんでした。そしてその上で改めて菩薩戒、すなわち三聚浄戒を受けて菩薩比丘となっていました。それは印度以来の伝統、「あたりまえ」であり、支那に『菩薩地持経』がもたらされて以来実行されてきたもので、また上掲の様々な仏典に確かに基づいたものです。
支那の諸師らは、『占察経』の所説がその他多くの仏典や伝統のそれとあまりに矛盾しており、その内容も極めて不明瞭であることから、依然として疑義あり、依行しようにもしようがなかったのかもしれません。
(もし、これが往古の支那の諸師がそう見なし、今の文献学者らもまたそう見なしているように、支那撰述の偽経であったならば、その作者は戒律どころか仏教についても一知半解であり、そもそも頭の出来が実に悪い者であったとしか思われぬものです。いや、『占察経』は偽経に違いないもので、やはりその著者は阿呆であったと言わざるを得ない。)
ところが、そのような事情を全く知らず、これを本拠としての受戒を実行した国がありました。日本です。先程示した一節において、凝然がわざわざ以上のように述べていることにも関係することなのですが、これについてはまた後述します。