前項において示したように、中世復興された律宗には、覚盛が入って復興した唐招提寺を中心とするものと、叡尊が入って興隆した西大寺を中心としたものとの大きくいえば二つの流れがあります。
現在、唐招提寺は律宗の総本山となり、また西大寺は真言律宗の総本山となっています。と、ここで特に注記しておかなければならない、世人に全く誤解されている点があります。叡尊は一般に、「真言律宗」の祖など言われ、実際現在の西大寺一門では叡尊を真言律宗の祖師として位置づけていますが、実は叡尊は真言律宗なるものを主張しても開創してもいません。それどころか真言律などという言葉を口にしたこともない。
叡尊は確かに醍醐寺にて密教を学んだ真言僧です。そして、そもそも叡尊が興律を志すようになったきっかけは、長らく懸命に密教のあれこれを学び、その証果を正しく得るために修法しても一向にその証を得られず疑問を感じ、むしろ不信感をすら抱いていたことにあります。
三受学戒律事
文暦一年甲午卅四歳
凡奉受印可後十ケ年間或面受口決或書写尊法或披覧本経或談教相稽古随分不休修行経日無怠無深信心於此教常有残一疑殆禀承嫡々行者多堕在魔道猶如身子将非魔作仏悩乱我心耶如是思惟已経年月未生決智屡勘密終自憶不持浄戒不入七衆非仏子故
三.戒律の受学について
文暦一年甲午〈1234〉 (叡尊)三十四歳の時
およそ(密教を学び修する)印可を受けてからの十年間、あるいは口訣を面授されたり、あるいは尊法〈聖教・次第〉を書写したり、あるいは本経を披覧したり、あるいは教相について論じ合ったりするなど、随分と稽古して休むこともなく、修行を始めてから月日を経ても怠ることは無かった。けれども、この(密教の)教えに対して信心が深まることなど無く、いつも一つの疑念が心にあったのである。(密教の)禀承嫡々〈師資相承〉において、その行者のほとんどが魔道に堕していることは、あたかも身子〈Śāriputra. 舎利弗尊者。菩薩行(布施・忍辱波羅蜜)を捨てたために舎利弗尊者が魔道に堕ちたとする、『大智度論』にある一節に基づいた言〉のようでものであって、そのような有り様が私の心を悩み苦しませないということがあろうか。このように考えてから、すでに年月がずいぶん経てしまったが、いまだ(その理由が何か)決定的にはわからず、しばしば密かに思いあぐねていた。しかし、ついに自ら「それは淨戒を護持していないためだ」と得心した。(それぞれの立場・分際に応じた戒または律を正しく受持して)七衆〈仏教徒の総称。比丘・比丘尼・正学女・沙弥・沙弥尼・優婆塞・優婆夷〉に連なっていなければ、仏弟子では無いためである。
叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』
そもそも叡尊が出家して特に真言を学び行ずるようになったのは、実は自主的なことではありませんでした。叡尊は当初、大乗においても不可欠の基礎学となる『倶舎論』を学び、出家して後には四大乗〈華厳・天台・三論・法相〉、いわゆる顕教のうちいずれかを学ぶべきかを思いあぐねていました。そこで神託を仰いでそれに従うことにした結果、思いがけず真言密教を学ぶこととなっています。
叡尊は真言を相承するため、特に金銭的困難に直面して苦労し長い年月をかけながらも、ついに具支灌頂を受けています。とはいえ、にも関わらず、叡尊自らが記しているように、そのように密教を修学しながらも真剣に信じるには至らなかったといいます。そんな中、自らを含めた密教僧らが無戒・破戒であったならばいくら密教を修めてもまるで無駄、いや、むしろ魔道に堕ちるということを気づいたのは、『大日経』および『大日経疏』における持戒についての所説、そして空海によって弘仁年間および承和年間に書かれた二つの『遺誡』でした。
そしてそれらは、叡尊を納得させるのに十分すぎるほどの権威あるもので、また紛れもない真実であると首肯するに足る、当時の堕落した僧らの現実がありました。いずれにせよ、叡尊の戒律復興の志は、真言密教を修学修行する中において芽生えたものでした。
ところで、『大日経疏』には、持戒について非常に明瞭に説かれた一節があります。
若眞言行人。不曉如是淨戒。則雖口誦眞言身持密印心住本尊三昧。具修次第儀式供養諸尊。猶名造作諸法。未離我人之網。云何得名菩提薩埵耶。 《中略》
當持此戒方便。普入一切眞言行中。苟戒有虧而得成菩薩行。無有是處也。
もし真言〈密教〉の行人が、このように淨戒を持していなければ、たとい口に真言を誦し、身に密印を結び、心に本尊の三昧に住して詳細に次第儀軌を修し諸尊を供養したとしても、なお「諸法を造作する者」〈解脱できずに生死輪廻し続けて苦を受ける者〉といわれる。いまだ我人の網〈恒常的存在、我があるとの邪見〉を離れられていないのである。(そのような者を)どうして菩提薩埵などと言うことが出来ようか。 《中略》
まさにこの戒という方便を持って、あまねくすべての真言行の中に入るべきである。万が一にも、戒を守っていなくとも菩薩の行を成就出来る、などということはあり得ない。
善無畏説 ・一行記『大毘盧遮那成佛経疏』巻五(T39, p.629c)
これはそもそも「密教では」だとか「叡尊において」などという類のものではなく、律とは宗義などに全く関せず、仏教の出家者であれば何であれその実践において不可分のものです。密教であろうが法相であろうが禅・浄土・天台であろうが、誰であれ出家者であれば律を護持しなければならない。そして戒律を護持していなければ、いかなる修行もどれだけ懸命に日々修めても全く何一つ意味がない、あるいはただの邪法となってしまうとされます。
叡尊は、ただそこのところに紆余曲折を経て「ようやく気づいた」に過ぎません。
そして律宗を復興して以降も叡尊はまた真言密教を熱心に日々修法。その相承していた小野の松橋流〈無量寿院流〉は、やがて菩薩流〈西大寺流〉とも称されるものとなり、その流祖とされるようになっています。
当時、南都の僧で、法相宗や華厳宗・三論宗など本宗以外に真言を兼ねて行うことは常識的に行われていたことでした。実際、法相宗僧であり叡尊の同志であった覚盛もまた、その経緯は異なるものの同じく真言密教の松橋流を相承して実践しています。また覚盛の門弟らも代々、これは凝然も同様ですが、真言密教を奉じています。よって、叡尊を「真言密教と律とを兼ねて行った人であって、故に真言律宗の祖」というならば、覚盛もまた真言律宗の祖の一人としなければなりませんが、誰もそうは言いません。
(また、その両人いずれもが共に法相教学を重視し、その思想的背景としていたことについては、何故かほとんど無視されています。)
なんとなれば、まず「真言律」などと言い得る、律と真言密教が融合して何か特殊な思想や教義、ひいては宗派が形成されたということは過去一度もなく、事実そのようなものは現在においても存在しないためです。
繰り返しの言となりますが、真言であろうが禅であろうが浄土など何であろうが、僧・出家を名乗るのであれば律を受持することは至極当たり前のことです。律を受持せずに僧を名乗ることは、その奉ずる宗義がなんであれ全く認められるものではありません。また、律を護持せずして密教など行じたとしても何ら意味がないことは、密教でもその根本から言われていることであるため、近年そのような奇妙な造語を言う人が稀にありますが、わざわざ「律密不二」というような主張をする必要も必然性も全くありません。
密教系の僧職者に多く見られることですが、なんでも「不二」をつけて済ましてしまうのは浅慮の極み。それは要するに「不二」と言って誤魔化しているに過ぎません。
今言われるところの真言律宗とは、明治維新を迎えて廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていた際、明治政府による宗派の統廃合などを経る中で、叡尊を祖師として仰ぐ西大寺を本寺とする律宗一派が一宗派として独立する際に用いられた、新しい単なる名称にすぎないものです。あるいは「律宗西大寺派」などとするのが、よりその内実を表す正確なものであったのかもしれません。
いずれにせよ明治政府によって律宗の各本末寺院が真言宗に強制的に統合された際、西大寺一派は真言宗からの独立運動を政府に対して展開する中で、自らを「真言律宗」であると初めて唱えたのでした。
ただし、真言律宗という名称自体は、近世の戒律復興の端緒となった山城の槙尾山平等心王院が江戸中期に一派本山として幕府から認可される際、「真言律宗西明寺派」なる称をもってしており、すでに使用されていたものです。そしてその真言律宗なる称は、平等心王院から袂を分かった賢俊良永の弟子、真政円忍によって四方僧坊となった神鳳寺では、「真言律宗南方一派総本寺 大鳥山神鳳寺」とその名称を引き継いでいます。とは言え、同じく平等心王院出身の慈忍により中興され、後に四方僧坊となった野中寺では「一派律宗総本山 野中寺」と名乗って、真言律宗なる称を用いていません。
このことについて、河内延命寺の上田霊城氏によれば、「真言律」なる語が用いられだしたのは江戸中期以来のことであったと云います。そして、それもやはりその語に対応するような、真言宗と律宗とが融合して新たな教義が生み出されてのことではなく、ただ言葉としてそのような称が用いられだしただけのことであったとされます。
このようなことから、中世の叡尊によって中興された律宗の流れや、近世においてそれを継ぎ律を復興した人々の流れを「真言律である」などと理解し呼称することは、事実を反映した正確なものと言えず、むしろ自他に相当な誤解をもたらすものとなるでしょう。
ところで、先には全く触れませんでしたが、実は中世における戒律復興の流れにおいて、他にも必ず触れるべき二、三の人があります。建仁寺の栄西〈1141-1215〉と高山寺の明恵〈1173-1232〉、そして泉涌寺の俊芿〈1166-1227〉です。彼らは覚盛や叡尊より年代的にやや先行していた人で、この中では特に俊芿が重要です。
俊芿は肥後出身で、齢十八の時、天台座主忠尋の門人真俊なる者について出家した天台僧だった人です。もっとも、受戒はその翌年、太宰府観世音寺の戒壇にて受具したとされており、天台の密教ばかりでなく高野山にて真言密教の諸流を受法しているため、彼を単純にいわゆる天台僧だったと規定するのは不適切かもしれません。しかし、俊芿が天台教学を最も重く奉じていたのは確実です。
就中、俊芿が観世音寺の戒壇にて受具したといっても、それは律にて厳密に定められている諸条件を満たすものでは到底ない空虚な通過儀礼と化しており、いわば茶番劇としての受戒でした。そもそも、具足戒とは数え年で二十を迎えていなければ受けることは出来ず、仮に受けたとしても無効であって比丘となることは出来ません。
俊芿はしかし、いまだ齢二十に達していない十九歳にて具足戒を受けたとされており、したがって彼の受戒は不成立であってそこで彼が正しく比丘となりえたわけではありません。また、観世音寺の戒壇に律学に通じた人などありはしませんでした。しかし、平安中期からそのような形ばかりで不如法な茶番劇は、東大寺戒壇院にても極当たり前に行われるようになっていました。それがたとい不如法のものであれ、授受する両人が端から守らせるともりも守るつもりも無いものであれ、受戒という儀式を受けていなければ、国家の制度として僧籍を得ることが出来なかったためです。
そればかりか当時の戒壇院は、その人が具足戒を受けたという公的証明書である「戒牒」をいわば金銭で売っていた、すなわち公式に捏造していた可能性すらあります(例えば「明全戒牒」)。
さて、俊芿は仏門に入って学を深めるうち、仏教の根本はまず正しく戒を受け持つことにあることを知り、特に戒律について南北の都に赴いて学んでいます。しかしそんな体たらくであった当時、やはり日本ではそれをまともに果たすことは甚だ困難、というよりむしろ不可能であったため、ついに建久九年〈1198〉、戒律を学ぶために宋に渡っています。そして彼の地に滞在すること足掛け十三年、新義の天台教学と南山律宗、そして臨済禅を学んで帰朝しています。
帰朝後は特に栄西に歓迎されて京に入り、請われてしばらく建仁寺に滞在し、衆徒に律など宋における僧院の規矩を講じています。その後、彼らは特に絹衣についての見解を異にしていたことが元で完全に決裂してしまうのですが、それまでは親しく交遊しています。
俊芿にとって、律で許されていながらも南山律宗はもとより支那の多くの宗では(もはやドグマとして)厳禁とされていた絹衣を着ることは許されざることであったのに対し、栄西は律や印度での実際に基づいて絹衣を着ることを可であるとして拘泥していませんでした。それが俊芿には決して許せぬことであったようです。
(栄西の仏教観・戒律観については、別項“栄西『日本仏法中興願文』”および“栄西『出家大綱』”、“栄西『興禅護国論』”を参照のこと。)
また、俊芿が帰朝して京にあることを聞きつけた貞慶は弟子戒如を遣わし、俊芿が伝えた大陸の作法や律儀の実際を学ばせています。この俊芿が宋より伝えた系統の律学は、それが京都の泉涌寺を拠点として行われたものであったことから、北京律と通称されています。
俊芿が支那から持ち帰ってきた様々な典籍や祖師像、そして宋代の支那の律寺や禅寺における法式・規矩の知識は、南都において戒律復興に尽力する諸僧にとって願ってもない非常に貴重なものであり、その後の日本の律宗において極めて重要な役割を果たしています。
俊芿が日本にもたらした数多くの典籍の中でも、宋代に南山律宗を中興した大智律師元照〈1048-1116〉による『四分律行事鈔資持記』(『資持記』)〈道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』の注釈書〉および『四分律刪繁補隨機羯磨疏済縁記』(『済縁記』)〈道宣『四分律刪繁補隨機羯磨疏』の注釈書〉、そして『四分律含注戒本疏行宗記』(『行宗記』)〈道宣『四分律含注戒本疏』の注釈書〉など律宗関連の典籍は全く新来のものであって、その良し悪しは別として、それまでの日本における南山律宗理解を変質させたほどです。元照の『資持記』や『済縁記』などの著作は、あくまで法相唯識教学を背景にしていた道宣の南山律宗を、天台の法華開顕の思想でもって再解釈したものであるためです。
また、俊芿はただ全く未将来であった書典ばかりではなく、日本にかつてもたらされていたものの、時代を歴るなかで散失してしまっていた重要な典籍を南都および北京に再びもたらしています。その中、律宗にとって最も重要であったのは、道宣による『四分律』に関する注釈書『四分律比丘含注戒本疏』〈『戒疏』〉・『四分律刪補隨機羯磨疏』〈『羯磨疏』〉、そして同じく道宣による南山律宗の教義が様々に開陳された『釈門帰敬儀』〈『敬儀』〉です。
当時、律学の中心などと自負していた興福寺を始め、東大寺や唐招提寺においてもまた、すでにそれらの道宣の重要な著作は失われており、ただもっぱら『行事鈔』を主として律学が行われていたといいます。そんな中、俊芿によってそれら失伝していた諸典籍が再びもたらされたのは、南都の興律を志す学徒らにはまさに僥倖といえるものだったのです。
さらにまた、俊芿が宋からもたらした南山大師や大智律師の頂相〈肖像画〉は、それらは現存しており非常に優れたものですが、その後の律師像の標準・定形とされるようになり近世まで受け継がれています。
覚盛と叡尊らが通受自誓受によって興律を果たした嘉禎二年〈1236〉の翌年、すでに俊芿はその十年前に逝去して無かったのですが、覚盛と叡尊らは俊芿が泉涌寺に伝え行っていた宋の法式を、その弟子定舜〈?-1244〉を南都海龍王寺に招くことによって直接学んでいます。よって、布薩など唐招提寺や西大寺にて行われた行事の法式は、鑑真以来南都で行われたものではなくて北京律由来、すなわち宋代の支那にて行われていた規矩のものです。
それは、唐代末から宋代にかけて全く支那風に改変され変質していた、南山衣・南山袈裟などともいわれる袈裟衣をこそ、仏陀以来の正統なものと全く勘違いしてしまった中世の律宗や新来の禅宗の人々が着していたことからも伺えます。
その衣帯について、宋代の支那僧らが着用していた袈裟衣を初めて日本に持ち込んだのは俊芿ではなく栄西でしたが、それを今も日本の律宗および真言律宗の僧職者らは伝えており、ただし何らか儀式の時のみ着用しています。元照は、宋代すでに崩れてその知識すら危うくなっていた僧らの袈裟衣および必須の持物について解説した書、『仏制比丘六物図』を著していますが、これを日本に初めて伝えたのも俊芿でした。
さて、北京と南都(南京)に展開した興律運動は当初、泉涌寺・唐招提寺・西大寺のおよそ三ヵ寺が本拠となって、それぞれの門流を形成しています。そして、円照および凝然が東大寺戒壇院に入ってこれを復興して以降は、その三ヵ寺に戒壇院を加えて四ヵ寺となっています。
俊芿にはじまる北京律の戒脈はあくまで別物として見なされていましたが、その後も唐招提寺・東大寺戒壇院と泉涌寺はしばしば交流し、むしろ泉涌寺から学ぶこと多くあったようです。しかし結局、泉涌寺の北京律は唐招提寺・東大寺戒壇院系の律宗にいわば吸収されています。いや、思想的には俊芿が伝えた泉涌寺の北京律(南宋代に元照により再興され、天台宗義を取り込んで変質した南山律宗)に、唐招提寺・戒壇院が全く同化したと見るのが正しいでしょう。
そしてここに、唐招提寺・東大寺戒壇院・泉涌寺の律宗をもって南山律宗の正統な継承者とする見方が生まれます。それに対し、西大寺の律宗は、唐招提寺など三ヵ寺の律宗とは思想背景が異なる、法相を宗義としたものであるとされ、故に正系と見なされぬようになっています。
円照および凝然は、唐代の南山律宗祖道宣にまで遡ってその教学の真意は天台の法華開顕にあったとし、また道宣の孫弟子たる鑑真も当然同様であったと見なした上で、覚盛すなわち唐招提寺一門がそれを正しく受け継いだものとしたのです。それに対し、叡尊に始まる西大寺一派はあくまで法相唯識をその背景としており、同じ律宗であっても傍系である、と。
これは円照と凝然による完全な誤認というか、元照の著作に記された南山律宗の再解釈の影響を最大限受けた彼らが各流を定義した結果です。律宗では、そのような宋代に中興された新たな南山律宗の見解を奉じる者を、「資持家」などと称します。そして、それが近世にまで尾を引く問題の元ともなっています。中世に復興された律宗は、西大寺系と唐招提寺・東大寺戒壇院・泉涌寺系のいわば対立構造を形成するようになるのです。
もちろん前述したように、そのような対立構造は、西大寺一派が真言密教を重視していたから生じた、などということでは全くありません。
(対立した、といっても全く没交渉で敵対したということでなく、まま交流はなされており、しかし僧事を共にすることはあってもその見解は全く異なっていました。)
さらに、後代の唐招提寺・戒壇院などの律宗では、覚盛は通受をあくまで便法とし別受こそ正規なものとしていたと捉え、これをまた道宣そして鑑真以来の南山律宗を中興して引き継いだものであったと見なすようになっています。これに対し、叡尊に始まる西大寺の律宗は通受こそ正式であって別受を便法としており、同じ律宗ではあっても南山律宗を正しく継承していない、やはり傍流であると見なしたのでした。ところが、そのような覚盛没後の唐招提寺系統の律宗における覚盛の通受・別受の見解に対する見方もまた、上で示した覚盛の『二受鈔』の所説からすると事実を反映したものとは言えません。
ところで、叡尊の法孫には、以下のような著述を残している者があります。
問曰。通別二受不同粗以如是。未知何時始東流。請具示之。答曰。別受作法則仏滅千年。至後漢明帝時騰蘭初至。人雖剃染未有歸戒。跨及曹魏將二百年。曇摩訶羅此云法時。依四分羯磨立十人受戒爲始。六百餘歳天台智者。華嚴香象。三論嘉祥。浄土善導。律宗道雲道洪智首南山等。皆唯別受人。通受作法。大唐遍學三藏至五天。於那蘭陀寺遇戒賢論師亦名正法藏。傅瑜伽始受此法。還震旦則授基法師。其後我朝道昭和尚入唐受此法歸朝弘之。雖然但在家分非出家法。亦不相續絶。又龍興寺大和尚渡海雖大僧受戒始而不相續。爰近來興正菩薩悲此法陵。則依瑜伽論説慈恩所譯。祈請好相。四人一時以自受羯磨自誓得戒。上人則第四也。其後漸漸入佛法人其數不可稱計。故當世受戒不共之通受爲本。兼行共門之別受。
問:通受と別受の二つの受戒法の不同についてはおおよそ以上のようであるとして、しかし未だそれらが何時から始めて東流したのか不明である。その詳細を示すことを請う。
答:別受の作法は、仏滅後千年、後漢の明帝の時に騰蘭〈竺法蘭〉が初めて(支那に)至り、人が剃髪染衣するようになったけれども未だ戒を受けることは無かった。その後、曹と魏の世を跨ぐこと二百年、曇摩訶羅ここに法時と云う〈Dharmakāla〉が『四分羯磨』に依って十人受戒〈三師七証・白四羯磨による受戒〉を立てたことに始まる。それから、六百余年の間、天台宗の智者大師〈智顗〉・華厳宗の香象大師〈法蔵〉、三論宗の嘉祥大師〈吉蔵〉。浄土宗の善導、律宗の道雲・道洪・智首・南山大師〈道宣〉など、その皆はただ別受に依った人である。
通受の作法は、大唐の遍学三蔵〈玄奘〉が五天竺に渡り、那蘭陀寺〈Nālandā-saṃghārāma〉に於いて戒賢論師またの名を正法蔵という〈Śīlabhadra. 当時の中インドの中心的代表的存在であった大僧院ナーランダーの学頭を務めていた人〉に遇い、瑜伽を伝えて初めてこの法を受けた。震旦〈Cīnasthāna. 支那〉に還ってそれを基法師に授け、その後に我朝の道昭和尚が入唐してその法を受け、帰朝して弘めたのである。しかしながら、それはただ在家分であって出家の法では無かった。そこで相続されず絶えたのである。また龍興寺の大和尚〈鑑真〉が渡海して大僧受戒〈具足戒の別受〉を始めたが、これも相続されなかった。そこで近来、興正菩薩〈叡尊〉がこの法〈通受〉の陵替していたことを悲しみ〈通受を「考案」して他を説得し、実行した中心人物は叡尊ではなく覚盛〉、『瑜伽論』の説と慈恩大師基の解釈〈『大乗法苑義林章』表無表章〉に依って好相を祈請し、四人が一時に自受羯磨によって自誓して得戒した。上人〈叡尊〉はその第四(に得戒した者)である。その後、(西大寺を中心として活動することとなる叡尊の門下に参じ)漸漸として仏法に入る者があって、その数は数え切れないほどとなった。故に当世の受戒は不共〈菩薩乗独自〉の通受を本と為し、兼ねて共門〈声聞・菩薩共通〉である別受を行うのである。
英心『菩薩戒問答洞義抄』(日蔵 Vol.13, pp.723b-724a)
この『菩薩戒問答洞義抄』とは、叡尊没後十八年後の徳治三年〈1308〉に著された書で、著者の英心とは叡尊の法孫で西大寺の人です。ここで英心は、「當世受戒不共之通受爲本。兼行共門之別受(当世の受戒は不共の通受を本と為し、兼ねて共門である別受を行う)」と陳べ、通受為本であると宣言しています。しかし、これは上掲の覚盛の『二受鈔』の所説から逸脱した西大寺門流の独自説とは到底言えず、むしろ覚盛の『二受鈔』をそのまま踏襲したものです。
しかしながら、唐招提寺・戒壇院などの門流がそう見なすようになったように、その後の西大寺における叡尊の法孫らは、自身らの門流の独自性をただ通受することに置くようになっています。また、特に『瑜伽論』の所説をこそ専ら採ることをもって自身らの特徴であると自己規定し、唐招提寺や戒壇院の律宗と立場を峻別するようになっていきます。
とは言え、その後の律宗諸派は揃って、それがはっきりいつからとは断定し難いのですが、おおよそ応仁の乱など戦乱期に入ると、比丘らが正しく持戒持律の日々を送りえる世情になくなって再度荒廃し、律の相承はついに断絶。西大寺にしろ唐招提寺・戒壇院・泉涌寺にしろ、叡尊・覚盛以前の唐招提寺や戒壇院がそうであったように、ただ教学的学問としての律学として、あるいは単に儀式・儀礼としてのみ伝えられるに過ぎない場となって、元の木阿弥となったのでした。
誠に皮肉な話ですが、別受相承が絶えたという如何ともし難い状況を打破して律を受け厳持するために創出されたはずの通受すらも、ただ形式的・儀礼的に行うようになったのです。初めから守らないことを前提として授受する伝統的な受戒、守るつもりなど全く無いのにその儀式の中で「よくたもつ」と言って済ましてしまう具足戒の受戒、そんな馬鹿な話はありません。しかし、それが事実、歴々として行われてきました。
けれども、長く続いた戦乱の世が豊臣秀吉による天下統一により終焉を迎え、ついに天下泰平となった慶長年間〈1596-1615〉、真言宗の明忍〈1576-1610〉とその師晋海〈?-1611〉、元法華宗の学僧であった慧雲〈?-1611〉、同じく元法華宗徒でありながら西大寺に入っていた友尊〈?-1610〉・空渓〈?-1612〉の五人により、京都の槙尾山平等心王院において再び戒律復興の旗が打ち立てられています。それは、唐招提寺や戒壇院のものではなく、西大寺にて相伝されていた叡尊由来の法式に基づいた通受自誓受によるものでした。
このように歴史を眺めてみると、中身など無くとも何事かをただ形式的・学問的に伝えることを全く無価値である、と一概に断じることも出来なくなるでしょうか。実際、一度何事かの形式すらも失伝してしまえば、それを再び興すことは極めて困難、いや、多くの場合は不可能となるのが人の世の常と言うもの。日本というのは非常に物持ちの良い国で、宗教としての仏教はほとんど捨てて無くしてしまいましたが、仏教にまつわる古い文物については最もよく保存し今に伝えています。
そのようなことから、たとい宗教としての仏教はほとんど伝えてはいないながらも、その文物をよく残しているがために、思想・宗教としてこれを復興することは比較的容易いことです。その意志と能力とを持つ者がありさえすれば。
しかしながら、こと戒脈(特に律の相承)ということになると、話は全く別です。いくら律学やその法式など、いわば外的な知識や文物がよく保存されていたとしても、律の相承が断絶してしまうということは甚だしく深刻な事態を引き起こし、その復興は極めて困難になります。
事実、現代に於いても、たとえばスリランカやタイ、ミャンマーなど仏教が古来信仰されてきたる国々だけでなく、仏教を受容し信仰するようになってきたアメリカやオーストラリアなど西洋においても叫ばれている比丘尼僧伽の復興が正統として認められないのも、その律の相承が途絶えてしまっているからこそのことです。比丘尼僧伽の復興あるいは設立が試みられているのは何も東南アジアにおける上座部(分別説部)の系統だけではなく、実はチベットにおいても同様です。しかし、そのいずれもが正法律の観点からして、大勢としてはその正統性も正当性も認められていません。律の相承が断絶するということは、それほど深刻な事態であり、また厳密な根拠をもってこそ復興を果たし得るものです。
さて、近世における戒律復興の波は、中世におけるそれとは異なって、真言宗・天台宗・浄土宗・法華宗・臨済宗そして曹洞宗など、多くの宗派に多大な影響を及ぼしています。
中世と近世のどちらにせよ、その時代背景としては、続く動乱がようやく落ち着いて世情が安定した頃であり、しかし仏教界がその全体として衰退・堕落してただ名利を得るためだけ、生活の糧や術として行われ、戒律などまったく廃絶して僧徒が奔放に振る舞っていました。そのような中にあって、その頽廃を問題とそれぞれ立ち上がった者が少なからずあったのはいずれの時代も同様です。しかし、ではそこで何故に、中世の戒律復興の時とは異なり、近世のそれが諸宗に広くその影響を与え得たのか。
その一因は、明忍ら最初の同志には、覚盛がそうであったのとは異なり、その背景に法相宗という特定の宗派の思想やしがらみが無く、またいわゆる宗派としての律宗再興などという意識が希薄であったためであろうと思われます。そしてなんといっても、覚盛を批判した当時の興福寺や東大寺などの僧らのような、通受自誓受の正当性を疑う存在は近世にもはやありませんでした。
明忍は西大寺に出入りして叡尊の諸著作を盛んに筆写し、また西大寺の老僧〈高珍など〉に請うて律学や法式を学んでいはしました。が、実に不思議なことに西大寺自体は近世の戒律復興に参加しておらず、ほとんど関知していません。いや、明忍ら最初の五人の中には、元は法華宗徒でありながらその堕落を嫌って脱宗し西大寺僧となっていたという友尊がありました。が、それはあくまで一個人の動きであって西大寺として動いたものではありませんでした。
近世当時の西大寺は、叡尊を祖として仰ぐ律宗としてありながら、もはや組織として改革刷新することなど出来ない体制となってしまっていたのでしょう。むしろであったからこそ、明忍らは様々なしがらみにそれほど縛られず、自由に活動できたということもあったかもしれません。
実際、明忍ら初期の律僧らは、南山大師や大智律師を祖師として仰ぎ、戒律を現に持するという実際面に関しては盛んにその著作を研究し依行しているものの、いわゆる南山律宗の教学本体についてはほとんど全く関心を寄せていません。また、彼らは叡尊をも深く敬していましたが、それと西大寺とはやはりほとんど無関係であったようです。
中世以来、南山律宗の本拠・本流は我が宗であると誇っていた唐招提寺の律宗に至っては、そのような戒律復興の動きに触発されながらも、それをある意味において苦々しく思っていたようです。自身らはこれといった興律の努力も戒律を秉持[へいじ]することもなく、空虚なる儀礼として受戒を執り行ってきたことをもって、しかし中世どころか古代より一貫して律を代々相承してきたなどという虚文を、近世の唐招提寺や東大寺戒壇院の寺僧らはその典籍のいくつかにおいて記しています。
近世の戒律復興を成し遂げた明忍らの志は、「律宗などという一宗派」に拘わったものではなく、仏教そのものの復興にありました。であるからこそ、当時の堕落し頽廃し尽くした仏教者のありかたに疑問を抱いていたあまねく諸宗の僧徒がその志に賛同し、その僧坊に参じて持戒持律するようになったのでしょう。
実はそのような仏教そのものを復興しようとの志は叡尊自身にも見られたものであって、まさにそれを明忍らが引き継いだのだとも言うことが出来ます。近世の戒律復興は、西大寺にて形骸化し全く行われなくなっていたとはいえ典籍と学問としては伝えられていた叡尊の志を、明忍らが自覚的に継いだのでもあったのです。
明忍律師が草して遺した「通受血脈図」〈西明寺蔵〉なるものには、叡尊とは弥勒菩薩(の『瑜伽論』)を大元として、玄奘から慈恩大師の法相唯識系の戒脈(戒理解)と道宣から元照の南山律宗の戒脈(戒行)との双方を受け、束ねた人であったとの認識が記されています。
(叡尊がそのような者であると見なされたことから中世以来、戒壇院や唐招提寺の律宗からは西大寺派の律宗は傍流であると断じられています。)
この図は、「通受血脈」と一応題されたものではあるものの、実際は先に触れた西大寺の英心『菩薩戒問答洞義抄』にある通受と別受の相承についての理解をそのまま図示しようとしたものとも言えます。そしてこのような律相承についての理解は、平等心王院の衆僧にも共有されており、「當寺受法人者專可仰此血脈矣(当寺において受戒した者は専らこの血脈を仰ぐべし)」〈『明忍律師之行状記』〉とされています。
現代の学者の中には、明忍律師らに始まる近世戒律復興の流れを「西大寺由来の真言律である」とする見方を採る者があります。確かに、明忍らは西大寺に伝えられていた叡尊の法脈をこそ継いだ者と言えます。が、しかし、真言律という捉え方自体がまず前述したように全く不適当です。そして、明忍が書き遺した血脈図からしても、明忍にはそんな意識は微塵もないことが見て取れ、「真言律」などという見方がまるで正しくないことを証しています。
いや、明忍もまた真言密教を修めてはいました。明忍は、慶長四年〈1599〉に神護寺中興晋海の元で出家した翌五年、いずれの流によるものか今の所不明ですが、四度加行を修しています。明忍も叡尊に同じく、最初真言僧として仏門に入っていたためです。ただし、真言密教を修めていたといっても、それは「慶長五年十一月十五日、十八道ヲ開白シ四度加行セリ。ソレモ猶カタチノミナル有樣ナリ。本意ナケレ」〈『明忍律師之行状記』〉と率直な所感が伝えられており、ただ形式的なものであって全く不本意なものであったようです。そして明忍自身、興律のため律学に励むなどする中で、まったく密教の修法を行じなかったわけでもありませんが、殊更に密教の修法や修学に打ち込んだ痕跡はありません。
もっとも、これは特記すべきことですが、明忍は西大寺の叡尊の書以外にも高山寺所伝の明恵上人の書をも多く筆写しており、その影響もまた強く受けていたことが確実です。あるいは明忍が受戒して後に僧名を以白から明忍と変え、さらに支那へ渡海して求法の旅に出たのは、まさに明恵への思慕の現れでもあったことのように思われることです。
明恵は華厳宗を主としながら戒律の重要性を訴えつつ、真言密教に打ち込んだことでも知られる人です。そのようなことを踏まえたならば、明忍が密教の修学に打ち込んだ形跡がないといっても、密教を軽んじていたということでは無く、中世の興律に携わった僧が多くそうであったように、持律を前提とした諸宗兼学を志し、やはり同じように密教を修めていたと考えられます。しかし、明忍はそれを果たすだけの年月を経ることなく、対馬にて三十五の若さで早逝しています。
明忍以降の法孫もまたそれぞれ真言を兼修し、槙尾山にて五年を過ごしたのちに派遣された各地の寺院にて、興律に務めると同時に、地域の民衆を助けるため盛んに密教の修法を行じていたことが知られます。
その中でも特筆すべきは、平等心王院から出て当代の名僧、律師であると名高くなっていった慈忍慧猛〈1613-1670〉が、西大寺中興第四十八代長老の高喜〈1586-1663〉から、それまで門外不出の秘法とされ、その一臘と二臘のみが相承していたという、叡尊から嫡々相承されてきた真言密教小野流の一たる松橋流〈西大寺流・菩薩流〉を叡尊の再来であるとして伝受されたことです。
天如天如二字不審是を傳へて及高喜長老に至る。此時に當て河州に慈忍和上と云あり。野々村野中寺中興にして道行一世に高し。長老深く此和上に歸して以謂吾儕僅に軌則の律を持つて八戒尚缺たり。彼師は然らず。外 には四分の具足戒を全ふして内には三密の醍醐味に飽けり。然れば則吾儕は菩薩の末葉に在れども劫て菩薩の家聲を落し。彼師は他山の律將といえへども正く菩薩の本懷を得たり。設ひ一山の僧制に違すとも。此正嫡をして彼高僧に傳へば。人法相應して大に人天を利せんと。卒に及其法流と悉曇とを授ること。亦靜慶師の菩薩に傳ふるが如し。於是西大の衆徒其僧制に違することを罪し。遂に其職を奪ふて長老をして退去せしむ。此より長老其法流の極秘其悉曇の奥旨皆慈忍和上に傳ふ。故に其法是より野中寺に全ふして劫て西大寺には缺たり。
天如天如の二字が正しいか不審がこれ〈西大寺の松橋流と中天竺相承の悉曇〉を伝えて後々、ついに高喜長老に至った。この時、河州〈河内国。もっとも、実際は当時、慈忍はまだ河内ではなく山城の巌松院にあった〉に慈忍和上と云う者があった。野々村の野中寺中興であり、その行業高潔なること世間に名高かった。高喜長老は深くこの和上に帰依して、
「我ら西大寺の衆徒は、かろうじて軌則〈儀礼・学問〉の上での律を伝えてはいるが、八斎戒すらもまともに守ってはいない。しかるに彼の慈忍師はそうではない。外には四分律の具足戒を全うし、内には三密の醍醐味を極めている。それに対して我ら西大寺の衆徒は興正菩薩の末葉でありながら、むしろ菩薩の家名を汚し、彼の慈忍師は他山の律将ではあるけれども正しく興正菩薩の本懐を得て行っている。たとい西大寺一山の僧制に違反することとなろうとも、この(西大寺流の)正嫡をして彼の高僧に伝えたならば、人法相応して大いに人天の利益となるだろう」
と思っていた。そこで(長老は西大寺僧制に背き、)とうとうその法流と悉曇とを(慈忍に)授けたが、それはあたかも静慶師が興正菩薩に伝えた時に同様なるものであった。しかしながら西大寺の衆徒は、(高喜長老が)その僧制に違えたことを罪し、遂にその職を奪って長老を追放してしまった。
このような経緯によって、長老はその法流の極秘とその悉曇の奥旨とをすべて慈忍和上に伝えた。故に西大寺の法流はこの時点から野中寺に全て伝えられ、むしろ西大寺には失われてしまったのである。
菩提華祥瑞『悉曇相承来由』出『梵学発軫』(『慈雲尊者全集』)
これは西大寺由来の通受自誓受を継いで興律を果たした明忍の法孫としては、この上ない出来事であったでしょう。西大寺の僧制に背いてまで慈忍に松橋流を伝授した高喜長老とは、かつて明忍に律学を教えた高珍の弟子であった人です。しかし、その慈忍は槙尾山平等心王院から、とある出来事がきっかけとなって退衆しており、叡尊由来の密教の法流は槙尾山に伝えられることはついにありませんでした。ただこのことにより、叡尊の法系を継ぐ者となったとの意識は、慈忍において非常に強まっていたと言えます。
慈忍は、後に天下の三僧坊〈平等心王院・神鳳寺・野中寺〉と謳われるようになる寺院の一つ野中寺を、荒れ果ててただ一宇のみが残されていた状態から中興しています。そしてその慈忍の風儀を継いだ野中寺は、慈忍の没後に律院僧坊としての威容が整えられ、諸宗に持戒持律の風儀を伝える重要な拠点となって、大きな役割を果たしていくことになります。
(近世戒律復興を果たした人々については、別項「月潭『槙尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』」および「元政『慧雲海律師伝』」、「戒山『雲龍院正専周律師伝』」、「戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師傅』」等を参照のこと。)
しかし、槙尾山に端を発した興律の動きが諸宗に波及するようになるも、やがてそれぞれが宗派意識を先として戒律を眺めるようになると、また宗旨宗派の縄張り根性を遺憾なく発揮。再び戒律を持する意味、本来の目的を見失って形骸化していきます。
(そのような状況の中現れ、「正法律復興」を唱えたのが慈雲尊者でした。しかし、当時のそうした背景を知らずしては、慈雲の業績の真価を知ることは出来ません。なお、慈雲が唱導した正法律とは何かについては、別項「『根本僧制』 ―正法律とは何か」を参照のこと。)
そもそも律儀とは、戒と同様に菩提の因となるものであると同時に、律儀とは仏教を長く世に留め、正しく伝えるためのものでもあります。なんとなれば、法宝を伝えるのは僧宝、すなわち僧伽であって、その僧伽を正しく維持・継承するための唯一の範たるものが、律蔵所説の律儀であるためです。
汝等比丘。於我滅後當尊重珍敬波羅提木叉。如闇遇明貧人得寶。當知此則是汝大師。若我住世無異此也。
比丘たちよ、我が滅後には波羅提木叉〈prātimokṣa. 律蔵の諸規定を箇条書きに要略し集成したもの。戒本〉を尊重し珍敬しなければならない。暗闇の中で明りに遇い、貧者が宝を得るようなものである。これが汝らの大師であると知らなければならない。もし私が(ここで般涅槃せず)長く世に住したとしても、これに異なることは無い。
鳩摩羅什訳『佛垂般涅槃略説教誡経』(T12, p.1110c)
『仏遺教経』は支那以来、日本にても全宗派的に奉じられてきた経典ですが、中でもこの一節は非常によく引用されています。仏滅後によるべきは、あくまで律蔵の所制であると認識されています。
覚盛や叡尊が通受自誓受の九年後に別受を行なったことは前述のとおりですが、その際、自身らがまず別受を相承して無ければいけないということで、彼らは「波羅提木叉を和尚となして」別受したといいます。しかしそれは「律の如く」などではなく、この『仏遺教経』の一節に基づいた発想によるものだったのでしょう。その志として、なんらか仏典の根拠に基づいて行おうとしたのは理解できるものの、しかしその受戒の正統性の根拠には全くならないものでした。
さて、またこの他に、律というものがどれほど正法すなわち仏教の命脈を支えるものであるかを示すものとして、多くの仏教僧に頻繁に取り上げられてきた一節があります。
大徳迦葉語諸長老。爲初説法藏毘尼藏耶。諸比丘答曰。大徳。毘尼藏者是佛法壽。毘尼藏住佛法亦住。是故我等先出毘尼藏。
大徳迦葉〈Mahākāśyapa. 摩訶迦葉〉は諸々の長老に尋ねた、
「(仏陀の遺法を結集するに際し、)先ず法蔵と毘尼蔵〈Vinaya Piṭaka. 律蔵〉のどちらを先に説くべきであろう」
と。そこで諸々の比丘は、
「大徳よ、毘尼蔵とは仏法の寿命であります。毘尼蔵が住せば〈律がこの世で正しく伝持されたならば〉仏法もまた住す〈仏教は末永くこの世に伝わる〉でしょう。その故に我々は先ず毘尼蔵を誦出するべきです」
と答えた。
僧伽跋陀羅訳『善見律毘婆沙』巻一(T24, pp.674c-675a)
『善見律毘婆沙』とは、支那以来、日本でも伝統的に『四分律』の注釈書の一つと見なされてきたものです。
(近代に高楠順次郎博士により、『善見律毘婆沙』が実は南方の分別説部がパーリ語によって所伝してきた律蔵に対する、大徳Buddhaghosa〈五世紀頃の印度出身でセイロンの分別説部大寺派教学の大成者〉による注釈書Samantapāsādikāの漢訳であったと判明。)
この一節は支那以来、非常に多くの僧が引用してその戒めとしてきたものです。たとえば臨済宗祖栄西もまた、その著『出家大綱』にてこの言葉を引き、後続への教誡としています。
厥佛法者齋戒爲命根不可不識其命根焉其五千軸經巻號佛法読誦而不行教乎
そもそも仏法とは斎戒を命根とする。その命根について無知などということはあってはならない。その五千軸の経巻を仏法という。これを読誦しながら、どうしてそこに説かれる教えを行わないのか。
栄西『出家大綱』
(詳細は別項「栄西『出家大綱』」を参照のこと。)
しかし、「律は仏法の命根」であるはずが、それをある宗旨宗派の箔をつけるためのただ名目上のお飾りにし、逆に仏法を滅ぼす具としてしまえば何にもなりません。
また、僧侶のありかたとして「一味和合」ということが仏陀以来説かれていますが、その言葉は何故か今、むしろ日本のまったく無戒の僧職者らこそが好んで口にする言葉となっています。しかしそれは、まさに「おためごかし」というもので、彼らが誤用している「みんな仲良く」などという幼稚な意味でも「少々問題があっても目をつぶって多数に従え」などという規範無き烏合の衆たることを勧めたものでもありません。一味和合とは、あくまで「律を範とした比丘らが衆を分かたず、僧事を共にすること」を意味する言葉です。
宗派を形成すること自体が悪などということはありませんが、それによって我他彼此の壁を立てて僧事を共にしないことで破和合僧すなわち破僧を犯し、その中で戒も律もすべて無視して馴れ合いながら「一味和合」を口にするなど笑止千万。和合とは、律に従い守る個々人を前提として、その集合体・組織の中において初めて成立するものです。
また、「釈迦在世に宗派無し」とは、近世江戸期後半の慈雲尊者の言葉ですが、それはまさしくその通りであって、そもそも「吾が仏尊し」といった詮無い宗派意識を先として仏教を眺めようとすること自体が、大いに道に外れ、過つ因となることです。まして戒律についてそれぞれ独自性を打ち出そうとし、また彼此の優劣を競うが如くする宗派根性を以て実践するなど本来ありえないことです。
当然ながら三聚浄戒についても全く同じことが言え、そもそも宗派など全く関係のないものです。そして実際のところ、元来の三聚浄戒自体は難解で複雑なものでは全くありません。しかし、上来示したように、支那ですでにその傾向があった上に日本においてはさらに多く宗学的・空理的に戒律について理解してきました。古代・中世・近世の一時期を除いては、それもほとんど実践すること無しに。
再び日本仏教には戒律など完全に消え去って無くなった今、最後の牙城とも言うべき諸宗の宗学、諸宗門における学問上の仏教すら死んで行われもしなくなっているようです。そうであれば、逆に特定の宗義・宗学などに全くかかずらうことないより古い形の、本来のいわば素朴な三聚浄戒をこそ、個々人が如説に行うことが可能となったと言えましょう。
それは、形式的な意味での伝統の脈絡には直結しないものとなるかもしれません。そも伝統なるものは非常に曖昧とした言葉・概念で、その内実は大抵、むしろ因習と称すべき、空虚な名目に過ぎなくなっていることがしばしばです。あるいは、イギリスのEric John Ernest Hobsbawmが言ったような、後代に「創られた伝統〈捏造された伝統〉」であることも非常に多くあります。
そもそも、出家の具足戒いわゆる律儀戒の授受に関しては全く別の話となりますが、三聚浄戒すなわち菩薩戒の伝統ということ、それはどの宗派においてもしばしば権威主義的にその重要さが主張されてきたものですが、その戒脈ということについて言えば、実はそんなものに大した意味などありません。大乗戒の相承に限って言えば、一般には口やかましくその重要さが主張される「師資相承」など、大した価値のあるものではないのです。
なんとなれば、そもそも三聚浄戒は自誓受することが可能であって、「誰から受けたか」などまったく問題とならないことが、むしろその三聚浄戒を説く諸仏典において明瞭であるからです。この点においても、やはり戒と律とは全く別の性質のものです。
したがって、自らを大乗に信を置くものであって菩薩たらんとする者が、しかし身近に菩薩戒の戒師として妥当な人が無いならば、むしろ仏典に直にそして確かに基づき、それぞれ別受(在家信者ならば五戒・八斎戒の自受は可能)を果たした上で、後代の杜撰あるいは空理的な解釈を排除して『瑜伽論』などの所説に正しく則り、三聚浄戒を自ら誓って受けるのが良いでしょう。そして無論、それをただ儀式・儀礼的に受けるのでなく、娑婆の処世の指針として勤めて日々生きたならば、現当二世に渡って少ならからぬ果報をもたらすものとなるに違いありません。
あるいは自らを声聞乗の徒であると規定する者であっても、『菩薩善戒経』や『瑜伽論』系のものであるならば、三聚浄戒を護持することで失うものなどありはせず、むしろその人の生を豊かにするものとなるにきっと違いありません。
相似比丘慧照