さて、覚盛は自誓受戒の二年後となる嘉禎四年〈1238〉の興福寺にて、自身が創始した三聚浄戒の通受・自誓受による比丘としての受戒の正当性を論証しようと試みた『菩薩戒通別二受鈔』(『二受鈔』)を著しています。
この書の存在によって現代の我々もまた、戒律復興として覚盛らのなした自誓受戒の根拠と理論の大枠を知ることが出来ます。
問。通受別受其軌則如何哉。答。先通受者。以三聚羯磨攝律儀與攝善饒益同時總受。故名通受。次別受者。以白四羯磨等唯別受比丘等七衆律儀而不受餘二。故名別受。《中略》
問。凡問答雖及多重。未出依三聚羯磨發得七衆戒并成其性之聖教説。若有否。答。占察經上云。立願自誓而受菩薩律儀三種戒聚。則名具獲波羅提木叉出家之戒。名爲比丘比丘尼。即應推求聲聞律藏及菩薩所習摩得勒伽藏受持讀誦觀察修行。若雖出家來而其年未滿二十者。應當先誓願受十根本戒及受沙彌沙彌尼所有別戒。既受戒已亦名沙彌沙彌尼文依此經文唐土人師述通比丘戒自受他受之三聚軌則云。占察云。二種受自受從他受沙彌悔清淨已。若无好師。佛像前請十方佛菩薩爲師。發无上菩提心剃髮染衣。年滿二十卽發比丘具戒。經文竝解釋分明也
問:通受と別受との軌則はどのようなものであろう。
答:先ず通受とは、三聚羯磨を以て摂律儀戒と摂善法戒と饒益有情戒と同時に総受することである。故に通受と云う。次に別受とは、白四羯磨等を以て唯だ比丘等の七衆律儀を別受して、余の二戒〈摂善法戒・饒益有情戒〉を受けないことである。故に別受と云う。《中略》
問:およそ問答を積み重ねてきたきたけれども、未だに三聚羯磨によって七衆戒を発得し、その性を成じるとする聖教の説を出していない。(そもそもその根拠が)有るのか無いのか。
答:『占察経』巻上にはこう説かれる、「誓願を立て、自ら誓って菩薩律儀である三種戒聚を受けよ。さすれば具さに波羅提木叉〈戒本〉たる出家の戒を獲得して比丘・比丘尼となる。そしてまさに声聞の律蔵および菩薩が習学する摩徳勒伽蔵〈mātṛkāの音写。論蔵の意〉を探求して受持し、読誦・観察して修行せよ。もし出家せんとしてもその齢が未だ二十に満たない者は、先ず誓願して十根本戒を受け、さらに沙弥・沙弥尼の別戒を受けよ。そのように受戒したならば、沙弥・沙弥尼となる」と。この経文に依って唐土の人師〈新羅僧の義寂〉は、比丘戒の自誓受と従他受に通じる三聚浄戒の軌則を説明して、「『占察経』に「二種の受、すなわち自誓受と従他受において、沙弥が懴悔して清浄となった際、もし好師が無ければ、仏像の前にて十方の仏・菩薩を請じて師とし、無上の菩提心を発し、剃髮染衣してその、齢が二十に満ちていたならば比丘の具戒を発得することが出来る」と説かれている」と述べている〈該当するそのままの文言は義寂『菩薩戒本疏』に無いが、これは巻下「第三好心教授戒」の趣意であろう〉。(三聚浄戒をのみ受けることに依り七衆戒を得て、その性を成じ得ることは)経文〈『占察経』〉および(義寂による)解釈〈『菩薩戒本疏』〉によって分明である。
覚盛『菩薩戒通別二受鈔』巻上(日蔵 vol.13, pp.503a-507b)
このように、覚盛はまず三聚浄戒の受法に通受と別受の二通りがあると言い、そのいずれもが比丘として正当な受戒法であると主張しています。そして、そう言える根拠として、上では中略しましたが、まず義寂『菩薩戒本疏』を挙げています。またさらに、『占察経』をただ三聚浄戒をのみ受けることによって比丘となり得ることの根拠として示し、さらに重ねて「唐土の人師」〈ここでの「唐土」とは唐代の支那ではなくただ「外国の」という程の意で、新羅の義寂のこと〉の解釈を援用しています。
これは先に『占察経』について述べる中すでに示したものではありますが、覚盛の主張の根幹に関わる重要な点となるため、覚盛が援用した箇所の主要部分を以下に再度示します。
文中有二。一辨新學得戒之縁。二明法師不好教授。得戒縁中有三。一明自誓受法。二明從他受法。三覆結二受。聲聞法中出家五衆必從他受。在家二衆通自他受。如瑜伽論五十三中廣説其相。菩薩法中此經不分七衆之受。若准占察。七衆受戒皆通兩受。如彼上卷廣分別也。
文〈『梵網経』本文〉の中に二つの点が説かれている。一つには(新たに戒を受けようとする)新学の者の得戒の縁〈条件・方法〉が述べられ、二つには法師で教授するに相応しくない者について明かされている。得戒の縁には三種ある。一つには自誓受の法を明かし、二つには従他受の法を明かし、三つには総じて(自誓受と従他受の)二受を結する。声聞の法では、出家の五衆〈比丘・比丘尼・沙弥・式叉摩那・沙弥尼〉は必ず他者に從って受けなければならず、在家の二衆〈優婆塞・優婆夷〉は自誓受・従他受が通じて可能である。(これに関しては)『瑜伽師地論』巻五十三にて広くその相が説かれている通りである。(声聞法に対して、)菩薩の法の中、この経〈『占察経』〉では、七衆(それぞれの律儀戒)の受法は分かたれていない。そこでもし『占察経』の所説に准じたならば、七衆の受戒は(声聞法と異なって)すべて(自誓受と従他受の)両受に通じたものである。その上卷に広く分別〈識別して定義すること〉されている通りである。
義寂『菩薩戒本疏』巻下(T13, pp.503a-507b)
これは義寂が梵網戒の第二十三軽戒〈義寂はこれを「好心教授戒」と名づけている〉について釈する中での一節であることは先に示したとおりです。義寂はそこで『占察経』を持ち出しているのですが、確かに『占察経』の所説を真に受けてしまえば、自誓受であれ従他受であれ、ただ三聚浄戒を受けることによって七衆別解脱律儀を別を問うことなく、それぞれが受けんと願う律儀を備えることが出来ることになるでしょう。
しかし、これは前述したとおり、遠く隋代の支那以来、そして日本でも天平の昔に諸師から全く否定されていた説です。したがって、そのような従来の説に則ったならば、ここで義寂がそのように述べていたとしてそれは全く依るべきでない、いや、一顧だにする価値のないものです。しかし、もはや日本で正統な受戒は不可能であった時代にあって比丘僧伽の復興を目指す覚盛としては、この説は願ったり叶ったりのものでした。
さて、そこで覚盛が主張した通受とは、まさに「三聚浄戒の三戒を通じて〈総じて〉受ける」という受戒法であって、それによって僧俗の人は、それぞれの立場に応じた律儀戒を受け、各個の立場を確立するものだといいます。
実はそのような意味での通受という言葉は、覚盛による全く新しい用法で、それまでの「出家・在家が共通して受けるもの」という意味から全く変えられていたものでした。例えば従来の、後者での意味では、最澄などが菩薩戒を説明する中で用いています。それを覚盛は、独自の意味に恣意的に改変してしまったのでした。これについても南都の学僧らは覚盛を鋭く批判しています。
(覚盛による「通受」の意味の改変があったという事実を、現代において学問的に指摘したのは蓑輪顕量。)
次に別受とは、「三聚浄戒ではなく、僧俗それぞれの立場に応じて異なる律儀戒を別個に受ける」という受戒法であって、それによってその立場を確立するものだといいます。これは支那以来しばしば使われてきた言葉で、律儀戒の本来の受戒法をそのまま示した語です。
先ず、この覚盛の主張で何が問題かと言うと、ただ三聚浄戒を受けることによって七衆の別解脱律儀を受戒したことになり、ただちに七衆いずれかの立場が確立される、としている点です。次に、しかもそれを他者に従って受けるのでなく、ただ自ら誓って受けることも出来る、としている点です。
これらは上に様々に示してきたように、印度および支那の諸論師が説かず、むしろ完全に否定してきたことです。通受と自誓受の二ついずれによっても、比丘など七衆の律儀戒を受け得てその立場が確立されるなど、鑑真渡来以前の僧らが普照によって否定されていたのは例外として、誰も説かず実行もして来なかった主張です。
そして、この問題はもう一つの大きな問題を惹起します。それがその昔に最澄が主張し、しかし南都歴代の学僧らが全く否定してきた、ただ菩薩戒を受けることで比丘となり得るなどとした受戒法に、覚盛の言う通受自誓受は相似したものとなるためです。実際、覚盛はその主張が天台宗のそれに「似通ってしまった」ことを自覚しています。
そこで覚盛はまた、貞慶など南都の学僧らがそうしてきたように、比叡山すなわち北嶺の大乗戒壇なるものにおける受戒の正当性を全く否定。それがいかに誤っているかを論じたうえで、自身の主張がどのようにそれと相違して「正しい」ものであるかを述べようとしています。
問。彼叡山僧徒依通受軌則既稱比丘。而此南都更不許。依此軌則成比丘性如何。答。彼以占察經爲依據明文。於受戒軌則猥依彼經。至於隨戒更不任彼經也。卽件經説云。卽應推求聲聞律藏及菩薩所習摩得勒伽藏。文既説可學聲聞律藏。而反違彼經文下彼律藏所説具戒及白四羯磨等小乘學。全不依學彼戒相。不用別受軌則。依之南都深所不許也。更非破依通受成其性之事。彼唯限通受軌則。不依別受而不學聲聞藏。此竝用通別二受。又兼學大小二藏。若不學律藏全不可成得戒幷其性之故也。既占察經説无好師之時纔用通受一法成比丘等之相。明知十師等滿足之時具可用通別二受云事。
問:彼の比叡山の僧徒は通受の軌則に依って(ただ梵網戒をのみ受戒することで、)既に比丘であると称している。しかし、(比叡山で行われる受戒の正当性など)この南都ではまったく認められるものではない。(にも関わらず、)その軌則によって比丘性を成じるなどというのであるか。
答:彼〈天台宗徒〉は『占察経』を以て(その独自の受戒制度における)根拠の明文としているが、受戒の軌則については猥りに彼の経に依りながら、随戒〈実際に受持する戒〉に関しては彼の経に依っていないのである。すなわち件の経に「まさに声聞の律蔵および菩薩所習の摩得勒伽蔵〈論蔵〉を推求すべし」と説かれている。既に「声聞の律蔵を学ぶべし」と説かれているのだ。しかるに、それに反して彼の経文に違い、彼の律蔵所説の具足戒および白四羯磨等の小乗の学を下して、全くその戒相〈戒の内容〉に依って学せず、別受の軌則を用いることも無い。そのようなことから南都は深く許さないのである。(南都の歴代は、天台宗の)通受に依ってその性〈比丘性〉が成立するという主張を論破しているのではない。彼は唯だ通受の軌則に限るのみで別受に依らず、声聞蔵を学びもしない(ことに問題がある)のだ。
しかし、此方は通受・別受の二受を用いる。そして大乗・小乗の二蔵を学ぶのである。もし律蔵を学ばなければ全く戒およびその性を得ることは出来ないためである。既に『占察経』に「好師が無い時は、わずかに通受〈『占察経』は「総受」といって「通受」といわない。覚盛はこのように従来の「通受(僧俗が通じて受けるもの)」の意味を、『占察経』の「総受(僧俗の戒を総じて受ける)」と擦り替えて用いる〉の一法を用いて比丘等の相を成じる」と説かれる。明かに知られるであろう、十師等(の別受に必須の諸条件)が満たされている時は、具さに通受・別受の二受を用いるべきということが。
覚盛『菩薩戒通別二受鈔』(日蔵 vol.13, p.510a)
ここで覚盛は、南都は北嶺に対して「更非破依通受成其性之事(通受に依ってその性〈比丘性〉が成立するという主張を論破しているのではない)」などと述べていますが、それは全くの事実誤認、いや、虚偽とすら言えるものです。
南都が最澄の昔以来批判してきたのは、さらに鑑真渡来の昔にそれまでの南都の僧らの正統性が否定されたのは、まさに「三聚浄戒の総受(通受)によって比丘性が成じる」などという、印度および支那以来、前代未聞の有り得ないことを言って実行していた点です。それを覚盛が全く知らなかった、理解していなかったとは考えられません。
覚盛はここで意図的に論点をずらし、自身の主張に沿ったものとするべくすり替えたのでしょう。そればかりでなく、覚盛は天台宗が『占察経』の所説を牽強附会していると批判していますが、彼自身は『瑜伽師地論』の所説を完全に附会することによって、通受なるものの正当性を主張しています。
最澄は『顕戒論』にて自身の主張が正しいと言わんとする中、「梵網之戒。雖先代傳。此間受人。未解圓意(梵網の戒を先代〈道璿・鑑真〉は伝えたけれども、此間〈近頃の日本〉の受者らは「円意」を理解していない)」などと言い、あくまで『梵網経』に基づいて所論を展開しており、『占察経』を持ち出してその根拠としてはいません。
そもそも最澄は、道璿および鑑真を敬愛しており、特に道璿については自身の禅相承(達磨大師付法相承)の血脈に載せて『内証仏法相承血脈譜』にその略伝を記しているほどです。そんな最澄が、その昔『占察経』による受戒が否定され、改めて東大寺戒壇院の具足戒および三聚浄戒の受戒が創始された経緯を知っていたことは十分考えられることです。
また、前掲の実範は、道璿が三聚浄戒のみで比丘となれることなど決して無いと否定していたことを伝えていますが、それもまたより時代の近い最澄は知っていたと考えることに決して無理はありません。そして、最澄が『占察経』の存在もその内容も知っていたと思うほうが自然でありましょう。けれども、『占察経』の所説を知っていたとして、その昔の道璿や鑑真などの所見もまた知っていたならば、『占察経』を論拠として梵網戒単受によって比丘となり得るなどという主張など出来るはずがない。
比叡山の大乗戒壇における菩薩戒単受の正当性を言うにあたって『占察経』が持ち出されたのは最澄の死後、その弟子にして日本天台宗第三祖となった円仁〈794-864〉によってであり、その著『顕揚大戒論』以来のことです。
円仁は最澄の徒弟として叡山の大乗戒壇ではなく、東大寺戒壇院にて比丘となった人です。最澄の死後に唐に渡った入唐僧でもあり、最澄以上に彼の地の実際を十年弱に渡って、会昌の廃仏にあって還俗させられるなど法難にあいつつ見聞しています。よって、彼も最澄の主張が非常識かつ無理筋であったことは十二分に知っていたはずですが、その昔の日本で道璿や鑑真が『占察経』に基づく自誓受戒によって比丘となりえるなどということを全く否定していたことは、もはや知らなかったのでしょう。そこで、最澄の後裔という立場から、その所論を護り補完し得る都合の非常に良いものとして、『占察経』を出したのだと思われます。
覚盛には、天台宗が同じくその正当性の根拠を『占察経』としているのは全く不都合であり、よって彼らの主張は誤った理解と引用の仕方に基づくものであると、これは南都の僧らに対して表明しなければならなかったのでしょう。しかしそれも、最澄が「此間受人。未解圓意(此間〈近頃の日本〉の受者らは「円意」を理解していない)」などと言って南都の僧綱らを批判したのと同じ論法であって、それを逆にそのまま最澄や円仁らの主張に向けたものと言えます。
また、『占察経』が明らかに「好師が無い時は」と覚盛のいう通受および自誓受に条件を設けていることについて、覚盛は「好師が無い時に限った話では無く、好師があったとしても通受自誓受すべき」などと主張しています。これは「もし通受を認めてしまったならば、従来の別受など不要のものとなろう」という批判に答えるための話でもあり、他の箇所にてもこの問題についての問答を展開しています。
覚盛が、日本天台宗の菩薩戒単受による比丘性獲得が可能とする主張について、『占察経』の所説に確かに則ってはいないから誤りであって不如法である、としておきながら、自らが正しく準じていると述べるその『占察経』の所説に背いて「好師があったとしても通受自誓受すべき」などと言うのは道理が通りません。結局、南都の律学者らが批判したように、覚盛のそれは恣意的な解釈であると受け取られて仕方ないものです。
つまるところ、覚盛の主張とは、鑑真の渡来当初の志忠・霊福など旧僧らの『占察経』に基づいての自誓受戒によって比丘たり得るとした主張や、最澄の菩薩戒単受によって比丘たり得るとした前代未聞の主張に、その経緯も論旨も内容も同一でないとは言え、本質的には全く同様のものとなったと断じて誤りありません。
ただし、これは覚盛自身が他でそう述べているように、覚盛の主張には、北嶺のそれとは決定的違いがありました。それは、菩薩戒の一環すなわち律儀戒として、梵網戒だけでなく律も必然のものとして受持するということ、そして通受だけではなく別受「も」執行するということです。
覚盛は、「通受で比丘となり得るのであれば、従来の別受は不要となるであろう」との批判に答え、「通受によって比丘となっても更に重ねて別受すべきである」と述べています。
問。若依三聚羯磨自受從他倶成其性。不應用依白四羯磨別受事。既成其性之故。得戒畢之故。可無用之故。同聲聞之故。答。凡化身土以聲聞僧爲正機之故。以白四受法三乘同爲根本軌則。依之通受之上重別受之也。《中略》
若依白四不受大僧戒。與聲聞僧同布薩時。彼聲聞比丘更不可許之。所以爲共彼尤可別受也。
問:もし三聚羯磨に依って自誓受と従他受と倶に(七衆それぞれ)その性を成ずることが出来るのであれば、(比丘出家の場合は)白四羯磨に依って別受する必要性が無くなるであろう。何故ならば(通受に依って)既にその性を成じるからであり、また(通受に依って)得戒し畢るからであり、もはや(別受は)無用となるからであり、(通受によって)声聞と同じ(比丘)となるからである。
答:およそ化身土〈報身仏としての釈迦牟尼が教化する世界〉においては声聞僧が正機とされるのであるから、白四羯磨の受法を(声聞・縁覚・菩薩の)三乗にて同じく根本の軌則とするのである。そのようなことから、通受の上に重ねてこれ〈具足戒〉を別受する。《中略》
もし白四羯磨に依って大僧戒を受けなければ、声聞僧と同じく布薩しようとする時、その声聞比丘はそれを許さないであろう。そのようなことから、彼らと(僧事を)共にする為にも、やはり当然のこととして別受すべきである。
覚盛『菩薩戒通別二受鈔』(日蔵 vol.13, p.508b)
ここで覚盛は、支那の法相宗祖基の『大乗法苑義林章』の所説に基づいてのことでしょうが、別受を受けるべきその理由として「化身土以聲聞僧爲正機(化身土においては声聞僧が正機とされるのである)」などと述べています。
化土や報土などといった理解を持ち出すと途端に空理的になるのですが、しかし、それは慈恩大師という法相宗における権威の人の論書に基づいた説です。そもそも、そのような「化仏の土には声聞是れ実。菩薩は是れ権なり」という理解は、何も覚盛に初まるものでなくて、それ以前の法相宗にて当たり前に行われていたものです(『応和宗論記竝恩覚奏状』)。その故に興福寺や東大寺の僧徒らに対して、覚盛はそう堂々と言うことが出来たのでしょう。けれども、それならば逆に、最初の者は通受であることを認めたとして、それ以降の者らは別受だけで良いではないか、ということにもなりましょう。
そもそも、通受なる律儀戒を含めた三聚浄戒の受戒法を覚盛が案出したのは、すでに正しく別受によって比丘となることが出来ないという、止むに止まれぬ状況を打破するためでした。東大寺戒壇院などでは通過儀礼としていわゆる別受は時折行われていたものの、覚盛らはそれが非法であって全く正統なものと認めていません。
実際、当時の戒壇院で行われていた授戒が全く失笑すべきお粗末な、到底正統と認められないものであったことは紛れもない事実であったでしょう。故に彼らはそれ以外で比丘となる方法、すなわち通受自誓受なる法を案出したのでした。
凡鈔出之趣更无他事。時代及末佛法至衰。雖欲作別受之軌則依无授與之師範。成就比丘等戒不能爲佛弟子。依之設雖无好師。依通受之軌則或自誓受從他。隨應爲令成七衆性而建立僧寶久住佛法也矣
およそこの鈔〈『菩薩戒通別二受鈔』〉にて主張した趣旨は他でも無く、世も末となって仏法は衰微し、別受の軌則を行おうと欲したとしてそれを授与しえる師範が無く、したがって比丘等の戒を成就して仏弟子となることは出来ないこと〈東大寺等における戒壇院での受具を否定した一節〉にある。これによって、たとい(別受を行い得る)好師が無いとしても、通受の軌則に依ってあるいは自誓受あるいは従他受により、まさに七衆の性を成就して僧宝を打ち立て、仏法を久住せしめるためである。
覚盛『菩薩戒通別二受鈔』(日蔵 vol.13, p.513b)
これは『菩薩戒通別二受鈔』の跋文で、通受は別受が不可能であるからこそのものであると、覚盛自らはっきり述べています。ところが、その打開策として新案したに過ぎなかった筈の通受の正当性を他に対して言う段となると、「実はむしろ通受のほうがより優れた受戒法であって正統なものである。けれども、いわば方便として別受は必要なのだ」などといった本末転倒を言わざるを得ないことになっていたのでしょう。
こうなると、彼ら南都諸宗が散々に批判してきた、最澄が『山家学生式』にて「梵網戒のみを受けることによって菩薩比丘となることは出来るが、叡山に十二年籠山して日本天台の教義を芯から染み込ませた者ならば、戒壇院にて小乗の律儀戒を「仮受」しても良い」などとした主張と、さらに近似したものとなってしまっています。
最澄は、十二年籠山した天台僧が具足戒を受けることについて、以下のように述べています。
凡佛寺有三一者一向大乘寺 初修業菩薩僧所住寺二者一向小乘寺 一向小乘律師所住寺三者大小兼行寺 久修業菩薩僧所住寺今天台法華宗。年分學生。並回心向大初修業者。一十二年。令住深山四種三昧院。得業以後。利他之故。假受小律儀。許假住兼行寺
およそ(印度以来の)仏教寺院には三種ある。一つは一向大乗寺、初修業の菩薩僧が住まう寺である。二つには一向小乗寺、ただ小乗の律師が住まう寺である。三つには大小兼行寺、久修業の菩薩僧が住まう(大乗・小乗兼学の)寺である。今の天台法華宗では、年分学生ならびに回心向大の初修業者は、十二年間、深山〈比叡山〉の四種三昧院に住させる。そして得業以降、利他のために小律儀〈具足戒〉を(東大寺戒壇院などにて)仮受〈「仮」のものとして受戒すること〉したならば、仮に兼行寺に住まうことを許す。
最澄『天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)』(T74, p.624c)
最澄は以上のように朝廷に対し主張し、その実現を要望してはいました。が、それが最澄の死後許された後の天台宗ではその仮受ということを実行する者はありませんでした。
もっとも、そんな天台の僧でありながら東大寺などの戒壇院で受戒した者はより後代、平安後期頃から生じています。しかしそれは、山門派〈延暦寺〉が寺門派〈園城寺〉を弾圧した天台宗内における醜い勢力争いの中で、叡山の戒壇院で受戒出来なくなっていた寺門派の僧徒がやむを得ずそうしていたというに過ぎません。すなわち、それは僧籍取得の為にしていたことであって、「仮受」として受けていたわけではありません。そしてそのような寺門派の行為は、まったく失笑すべきことですが、さらに山門派を激昂させています。
無論、覚盛やその説を信受した叡尊らは、『大乗法苑義林章』や『占察経』が自身の通受自誓受の正当性を裏付ける明瞭な主たる根拠であると、彼らなりに自信を持っていたのでしょう。しかし、それは別受と通受の優劣や必要性などといったことについて全く根拠となり得るものではありません。むしろそれは、『瑜伽論』の所説や従来の南都における伝統的見解に照らせば全く否定されるに違いないものでした。
ここで一つ見過ごせないのは、覚盛が、通受比丘は声聞比丘すなわち別受比丘の布薩に参加出来ないであろう、と考えていた点です。覚盛がそのように考えたのは、南都の興福寺東西金堂や東大寺戒壇院など従来の律宗を担っていた僧らが、覚盛らの得戒の正統性を認めず行事を共にすることを拒否していたことが背景にあってのことであったかもしれません。
いや、しかし、そもそも覚盛らは当時の戒壇院での受戒が正統でない不如法なものと否定していたのであり、ならば東大寺戒壇院等で受具した、覚盛らからするといわば「似非比丘」であった彼らと僧事を共にすることなど最初から出来る筈がありませんでした。よって、このように覚盛が別受比丘と通受比丘とが僧事を共に出来ないと考えたのは、当時の現実を反映してのことではなく、論理的帰結であったと考えたほうが良さそうです。
そもそも同一の結界内にある比丘が布薩などの行事を別にすること、それは「破僧(破和合僧)」といって仏教者として最も重大な罪、いわゆる五逆罪となる行為の一つです。
僧伽とは「一味和合」を旨とする出家者組織です。そしてその一味和合とは、僧伽に属する比丘皆全てが律を守り従っていることを前提として、一つの界内〈現前僧伽〉にある比丘が全員参加して行事(僧事)を共にすることを意味する語です。そのようなのを例えば「同一住処同一説戒」とも言い、釈尊在世はもとより仏滅後以降にも、僧伽における重大指針です。
その一味和合を、通受比丘なる存在が生じることによって果たせなくなるとは本末転倒の極み。通受の比丘の存在は、そのような破僧につながる大問題を引き起こしかねないものであることが、知ってか知らずしてか、ここで述べられています。
いずれにせよ、通受比丘と別受比丘とは異なるものであるから、通受比丘は別受比丘と僧事を共にするためにも別受することが必要である、というのが覚盛の主張です。
この問題に関聯して、これは覚盛が「比丘になるには別受と通受という二つの方法がある」とした主張からすると必然の帰結であったのかもしれませんが、「比丘には別受比丘と通受比丘という二種があって、それぞれ守るべき戒律は同じではあるけれども、戒律に違犯した際の処遇が異なる」などという、これまた前代未聞の主張が展開されてもいます。
その要を簡潔に言えば、通受によって比丘となった者は、あくまで「菩薩戒としての律」を受けてその戒体を得たのであるから、もし何らか違犯したとしてもそれはおしなべて悪作〈duṣkṛtaの訳で、その音写は突吉羅。軽微な罪となる行為〉であり懺悔可能である〈『瑜伽論』の所説を牽強附会した主張〉。けれども、別受によって比丘となった者は、あくまで「声聞戒としての律」を受けたのであるから、違犯した場合には律蔵に制されたとおり罪の軽重があり、場合によっては懴悔不可能である、というものです。
異常である、と評する他ないほど、これらは常軌を逸した主張です。
たとえば、極端な例でそれを示したならば、通受で比丘となったと称する者と別受で比丘となった者とが、律の四波羅夷〈性交渉・重大な窃盗・殺人・大妄語〉のいずれかを犯した場合、通受比丘ならば悪作罪であってそれを告白・懺悔すれば何事もなかったように再び比丘たり得、しかし一方の別受比丘は波羅夷罪となってただちに比丘で無くなり僧伽から追放される、ということです。
当然、そのような設定をしてしまったならば、懴悔出罪や布薩そして自恣など僧伽における重要な行事を、通受比丘と別受比丘とは共にすることなど出来るわけがない。覚盛は、通受と別受の比丘とは異なる、懴悔の範囲や方法も異なる、などと発想した時、それがこのような極めて重大な問題を引き起こすものとなりえるとの考えが及ばなかったのでしょう。
実はこの点について叡尊は異を称え、覚盛と見解を全く別にしています。叡尊はたとい通受によって、すなわち菩薩戒として比丘律儀を得たとしても、随行も違犯した場合の処置も、必ず律蔵の所制に従わなければならないとしていました。その同志として戒律復興した覚盛と叡尊の門流が、同じ律宗であっても自門・他門などと互いに別者として区別し、異なる派を形成するようになる一因はここにもあります。
とは言え、いま示したように覚盛は、そのような起こり得る大問題を解消すべく、通受の後に重ねて別受すべしと云い、両受した者が何か律に違犯した場合には、律蔵と『瑜伽論』の双方に基づいてそれぞれ懺悔・出罪しなければならないとしています。
そして実際、覚盛自身、自誓受の九年後つまり『二受鈔』を著した七年後に、先ずは叡尊と共に別受を自ら受け、また門弟らに対して授けたと云います。しかしながらこれは、戒律の厳持を目指していたはずの覚盛にしては問題ある行動でもありました。
和尚徳者差互不同。律中所列百三十餘種。十夏一種必須限定。餘之徳相如師資法中。故九夏和尚受戒得罪。
和尚(たりえる者として)の徳は(諸律蔵にて)互いに必ずしも同様ではなく、律の中で百三十余種が列挙されているけれども「十夏を已に過ごしている」という一種については必ず共通し限定されている。その他の徳相については師資法の中にて明らかにされている通りである。したがって(もし)九夏(しか経ていない者が)和尚として具足戒(および沙弥戒)を授けたならば罪を得る。
道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』巻上「受戒縁集篇第八」(T40, p.25c)
ここでは敢えて道宣『行事鈔』の一節を引きましたが、道宣がこのように指摘するまでもなく、比丘となって十夏を経過していない者は、受具足戒の場において和尚となること、すなわち誰か弟子をとって沙弥とし、それを比丘として僧伽に認証してもらうことは出来ません。それは律において基本的かつ常識的な事項です。
しかし、覚盛は自らが一夏足らないことを自覚し、上記規定もまた勿論知りながら、敢えて無理押しして叡尊と共に別受を自ら受け、また門弟らに対して授けたと云います。
一、別受事
九夏ニ成リ候シ時始行シ、九夏ノ和尚ハ得戒・得罪ト定タルニ満足シテ、「明年可レ行」ト某ハ申候シヲ、窮情房、「明年マデ生キモヤセンズラウ、是程難レ有法ヲ空シテ止ナンハ無二本意一事也。ゲニ悪シカルベクハ、授テ後懺悔ヲコソセメ」ト候シカドモ、弟子ヲ蓄ワエン料ニモ授バコソ、唯難レ有仏法ヲ興サン料ナレバ、クルシカラジニテ候シ也。某与二窮情房一トハ如レ律波羅提木叉ヲ為二和尚一受レ之。其ノ後、両人為二和尚一各ノ弟子ニ授テ候也。尼ノ十ニ夏ヨリ始二行之一。
一、別受の事
(通受自誓受によって比丘となり)九夏を経た時に始行した。(律蔵では)九夏の和尚(が他に具足戒を授けること)は得戒得罪〈十夏已上の年限という条件を満たしていない授者、いわゆるその受者の師僧たる和上にはその行為、すなわち僧伽が具足戒をその受者に授けることを乞うことは罪となる。ただし、ただそれだけによっては受者の受具が不成立となることはない〉と定められていることに満足し、
「明年、(夏安居を過ごして十夏を満たしてから)これ〈別受〉を行じよう」
と私が言ったのに対し、窮情房〈覚盛〉は、
「明年まで(我々は)生きていないかもしれない。(もし死んでしまって)これほど有難き法〈比丘僧伽の再興〉を虚しく頓挫させてしまうことは本意で無い。本当にそれが(律の規定に反するという点で)悪いことであったとしても、(別受によって具足戒を他に)授けて後に(授者である我々が)懺悔をしたらば良いであろう」
と言われた。(別受は)弟子を蓄える為に授けるものであるけれども、ただ有難き仏法を興そうとする為であるならば、(律の規定に違ってまで別受を始行しても)差し支えないかとも思った。そこで先ず私と窮情房とが、律の通りに波羅提木叉〈prātimokṣa. 律蔵の諸規定を要略したもの。戒本〉を和尚として別受した。その後、両人が和尚となって、それぞれの弟子に授けたのである〈ここに叡尊の律についての誤認が見られる。具足戒(律)を授ける主体はあくまで「僧伽」であって、受者の師匠すなわち和尚ではない。授戒における和尚の役割とは、あくまでその弟子が具足戒を受けることの許可を、その戒壇上に集う自身を含む比丘全員すなわち僧伽に「乞う」ことに過ぎない。故に受者の和尚をして乞戒師と称することがある。ただし、このような誤認は何も叡尊に独自のものではなく、支那以来、そして鑑真渡来以降の日本で多く共有されたものであった〉。尼の(別受は、嘉禎二年から)十二夏を経てからこれを始行した〈叡尊がここで始めたという、女性を比丘尼とするべくした授戒、すなわち比丘尼僧伽の復興については、中世における女性の救済活動と現代的評価はされよう面がある一方、覚盛や叡尊らがなした通受自誓受という戒律復興の方法以上に、伝統的にはさらに大きな問題を孕むものであった。なお、ここでなぜ十夏でなく十二夏であったかといえば、比丘尼は受具後十二夏を経ていなければ和尚尼となれず、比丘尼の受具を執行し得ないためである。そしてこれは非常に重要な点であるが、比丘は沙弥尼・比丘尼の和尚になることは出来ない。女性出家者の師はあくまで女性出家者に限られる〉。
『興正菩薩御教誡聴聞集』(岩波『日本思想体系』鎌倉旧仏教, p.208)
本来十夏を経過していなければならないところを、覚盛が九夏で別受を始行したいと願い出し、一夏足らないことは律の規定に違って問題があったけれども「興法のためならば」と叡尊はそれを了承し、別受を初めて実行していたことがここから知られます。
この記録から知られる彼らがその時なしたという別受なるものに、極めて重大な問題が潜んでいることを喝破しなければならない。そもそもここで本当に問題であったのは、覚盛と叡尊とが別受を行うための法臘が「一年不足していた」とかそんなことでは無い。
実は、覚盛と叡尊が弟子らに授ける前に受けたというそれは、別受などとは全く云い難いものでした。古今の学者や僧職者らにも、この極めて重大な点に気づき、指摘する者は何故か全くありません。
そもそも、律を授け得る先住の比丘が日本に全く欠けていたことから、彼らは通受自誓受という(その正当性が甚だ疑問視される)「全く新しい方法」を案出し実行することによって比丘となったとしていたのに、「律の如く波羅提木叉を和尚として之〈別受〉を受ける」などとは、誠に不審です。「律の如く」と叡尊は言っていますが、しかし「波羅提木叉を和尚として」という律の規定など存在しません。
(その適否はともかく、叡尊が何に基づいてそう言ったのかは後述。)
そして彼らがまず最初の受者となったならば、五夏以上がその必須条件とされる教授師や羯磨師は当時誰も務め得ません。すなわち、その二人がまず「別受」したと叡尊は言っていますが、それは自誓受に等しいものであって、しかも確固たる根拠にも基づかず理論武装することなど無く行われたものでした。
これは結局、他に授けるならば自身らが受けていなければ恰好がつかない、その戒脈が成立しない、ということへの、いわば辻褄合わせで行ったことであったのでしょう。いや、通受により比丘となった者と別受で比丘となった者とは別物である、戒体が異なる、などと覚盛が定義してしまっていた以上、どうしても自身たちも別受を受けていなければ他に授けることは出来ず、整合性がとれないことを意識したのでしょう。
しかし、「通受と別受とでは比丘の種類が違う」などと云い出してしまった結果、それがいわば自縄自縛となって、そのような不合理・不如法なデタラメをせざるを得ないことになってしまっていた。その故からか、彼ら自身で「波羅提木叉を和尚として」実行したという別受の内容がいかなるものであったかはまったく伝わっていません。いずれにせよ、覚盛と叡尊によって始行されたという別受とは、このような経緯によるものでした。
ところが、覚盛にしろ叡尊にしろ通別二受することを理想としていたのですが、その後の徒弟らは必ずしも通別二受しておらず、通受のみで済ましていた者が相当数あります。すなわち、通受と別受とでは比丘としての種類が異なるなどという話は曖昧となっていったのでした。また、覚盛や叡尊が言った、通別二受すべしという方針も、後代の門徒の多くはいわば等閑視しています。
そしてその通受も、覚盛と叡尊の後には「善好の師」が存在するようになって自誓受である必要も必然性もなくなったため、通受自誓受ではなく、通受従他受による形式で行われることも多くなっています。
ここで仮に覚盛の主張に沿って言ったならば、通受が必ず自誓受でなければならない、などということは全くありません。そして、「通受従他受」の場合、自誓受のように懴悔して好相を得ることなど要求されず、また別受のように三師七証といわれる最低十人の比丘が授戒の席に列することも必須とされません。
単に三聚浄戒の受法について云うのであれば、たった一人の戒師のみがあれば事足りる(受戒の証明は戒師が兼ねて行う)、というのが『瑜伽論』の所説です。ただし、『瑜伽論』はあくまで受者がすでにその分際に応じた律儀戒を受けていること、すなわちいわゆる別受をすでに受けていることを大前提として三聚浄戒を受けよとしているのであって、覚盛や叡尊が意図したそれとは全く異なるものです。
しかし、彼らはその『瑜伽論』所説の受戒法を根拠の一つとして、通受なる方法を編み出し行ったのでした。先に、覚盛について「彼自身は『瑜伽師地論』の所説を附会して通受なるものの正当性を主張」したと述べましたが、それはこのような点についても言えることです。覚盛の引用は無理すぎる言わざる得ません。
覚盛は、やはり『二受鈔』では南都の学僧らおよび自身の門流らを納得させるのに不十分なものであったようで、『二受鈔』から八年後の寛元四年〈1246〉、さらに『菩薩戒通受遣疑鈔』(『遣疑鈔』)を著してその所論を補完しようとしています。
問。近世以來遁世之輩受三聚三戒而稱比丘衆持五篇禁戒以爲菩薩法事似新議。有何明據。答。本論瑜伽中説菩薩大戒。攝律儀戒者即七衆戒。方受此戒有二軌則。一者通受所謂通於攝善攝生正受三戒。是盡未來際唯菩薩法也。七衆雖別羯磨無異。但至隨相所持不同。謂比丘者護持二百五十戒等。乃至近事護持五戒等是也。二者別受所謂不通攝善攝生。別受律儀。是盡形壽。同聲聞法也。七衆所受羯磨有異。謂比丘者白四羯磨。乃至近事三歸羯磨等是也。隨相但是五篇七聚。不通菩薩不共戒也。前通受法既受三聚。故通菩薩不共大戒皆護之也。此二作法雖二不同皆是菩薩受戒作法。其中近世所受軌則是即通受之軌則也。此二軌則引瑜伽説如是判。事詳在梵網義寂疏也。表無表章菩薩戒中盡未來際比丘等戒名爲通受者亦即是也。故非新議矣
問:近世以来、遁世の輩が三聚浄戒の三戒を受けて比丘衆であると称して五篇の禁戒を持し、以って菩薩の法としている事は「新議」〈以前無かった新しい主張〉のようである。どのような明確な根拠に基づくものであるか。
答:本論である『瑜伽師地論』の中に菩薩の大戒が説かれている。摂律儀戒とは七衆戒である。この戒を受けるには二つの軌則がある。一つには通受、いわゆる摂善法戒と摂衆生戒〈饒益有情戒〉に通じて、正しく三戒を受けること。これは未来際を尽くすものであって、唯だ菩薩のみの法である。七衆(の立場)はそれぞれ別であるけれども(受戒の際に用いる)羯磨に異なりは無い。ただし随相について所持(するそれぞれの律儀戒)は同じではない。すなわち、比丘は二百五十戒等を護持し、乃至、近事〈優婆塞・優婆夷〉は五戒等を護持するのだ。二つには別受、いわゆる摂善法戒と摂衆生戒とに通じないものであって、別に律儀のみを受けること。これは尽形壽〈その一生限り〉であって、声聞の法に同じである。七衆それぞれが(戒を)受ける際の羯磨に異りがある。すなわち、比丘は白四羯磨であり、乃至、近事は三帰羯磨等である。(比丘の)随相はただ五篇七聚〈律蔵所説の禁止諸事項の分類〉(に基づいたもの)であって、菩薩の不共戒には通じない。前の通受の法は三聚を受けることから、菩薩不共の大戒に通じるものであり、皆がこれを護るのだ。
この二つの作法は、二つ同じで無いとはいえ、いずれも菩薩の受戒作法である。その中、近世にて受ける所の軌則は、すなわち通受の軌則である。この二つの軌則は、『瑜伽師地論』の説に依拠してそのように判じるのである。その詳細は『梵網義寂疏』〈義寂『菩薩戒本疏』〉にある。「表無表章」〈基『大乗法苑義林章』巻三にある、特に七衆戒とその受戒について法相の立場から詳説した一章〉にて、菩薩戒の中に尽未来際の比丘等の戒を名づけて通受とするのは、またまさにこの事を言ったものである。故に「新議」などでは無い。
覚盛『菩薩戒通受遣疑鈔』(日蔵 vol.13, p.515a-b)
この一節は『遣疑鈔』の最初の問答において展開せられたものです。これはまさしく、覚盛らが自誓受戒してから十年を経てもなお、南都の学僧らが依然として通受自誓受による受戒の正当性に疑義を呈していた証です。むしろ納得する者が少なかったからこそ、このように重ねて云わなければならなかったのでしょう。
現代の学者らはしばしば、何かそれまでになかった主張をなした者について、「それまでにない新しい発想の転換であった」だとか「旧弊を打破した新しい思想である」などと褒めそやして評価しようとします。しかし、仏教においてただ「新しい」ことは評価されるものではなく、逆に多くの場合、否定的意味が込められたものとなります。なんとなれば前代未聞で新しいということは、往々にして仏陀以来の伝統に無いことや根拠薄弱なことであり、すなわち非仏教であることを意味する可能性があるためです。
忌憚なくいえば、学者らは何か新しく独自なものでなければ自身らの研究対象、すなわち飯の種にならないからそう言うのでありましょう。あるいはその手合の称賛・評価をしたのが、特に一昔前の学的世界では日本的左傾思想の風に載ることが良しとされた時代の(左巻きの)人であったから、と見ることも十分可能であります。
よって覚盛は、ここでどうしても「新しくなど無い」と言わなければならなかったのですが、しかし、それは明らかに新しいものでした。実際、覚盛の法孫である東大寺戒壇院中興二世の凝然〈1240-1321〉は、これは覚盛の死後のことですけれども、それが「新しい」ものであったことを暗に認めてしまっています。
問。震旦諸師學大乘人而解律藏秉持弘傳爲依通受門。是別受門耶 答。古來諸師依別受門。秉持律藏。弘通戒法。本宗習學大乘。諸師隨宜弘法。彼此不定。戒是三聚妙戒。定慧有空中道。攝律儀門專弘律藏。古來律師皆其輩耳
問:震旦〈支那〉の諸師で、大乗を学ぶ人にして律蔵を秉持〈厳密に護持すること〉し弘伝したのは、通受門に依ったのであろうか、あるいは別受門であったろうか。
答:古来の諸師は別受門に依って律蔵を秉持し、戒法を弘通している。本宗〈覚盛・叡尊によって刷新された律宗〉は大乗を習学し、諸師それぞれが宜しいと思う法に従って法を弘める。(通受によるか別受によるかは)彼此〈唐招提寺と西大寺の律宗〉で定まっていない。(律宗における)戒学は三聚の妙戒である。定学・慧学は有教〈声聞乗〉・空教〈中観〉・中道教〈唯識〉にある。摂律儀門は専ら律蔵を弘める。古来の律師は皆、そのような輩である。
凝然『律宗綱要』巻上(T74, p.8b)
凝然は、覚盛によって創始された通受なる方法によって比丘となることの正当性を認めた上で、しかしそれは覚盛・叡尊以来のことであって、従来はすべて別受によって授受され相伝されてきたものであると陳べています。
覚盛および叡尊らによって中興された律宗は、戒律の授受の点において遠くは唐代の道宣、そして日本では鑑真以来のものとは異なる、本来ならばそこに連続性を認めることの出来ないものです。しかし、その戒脈は途絶していたとはいえ、覚盛も叡尊も自覚としては、「純然たる」とまでは言えずともあくまで法相教学、あるいは法相の重要典籍たとえば『瑜伽師地論』や「表無表章」(『大乗法苑義林章』巻三)を重要な憑拠の一つとして道宣以来の南山律宗を再興し、さらに仏教を興隆することを目指したもので、実際それぞれがそう自負していました。
叡尊ら当初の同志らは、もちろん覚盛の以上のような主張に納得し、同調したからこそ揃って「通受自誓受」を行い、それによる戒律復興を成し遂げたと自認したに違いありません。特に叡尊は、嘉禎元年〈1235〉の興福寺常喜院において覚盛から「表無表色章」の講義を聞いた時、三聚浄戒を通受することによって七衆の性をそれぞれ成じることが出来るのを「明知(明らかに知んぬ)」などと確信したことを、その日記『金剛仏子叡尊感身学正記』巻上に自ら記しています。
嘉禎元年乙未卅五歳
正月十六日移住当寺自十八日至二月三日十五日開講読師戒如上人知足房 四ケ日覚証聖舜房十一ケ日三月十八日於東大寺戒禅院始聴聞四分律行事抄第一巻同秋於当寺東大寺聴聞余三巻開講師興福寺円晴律師也《中略》
然今春秋二季聴聞律部顧前所修多背正法無厭不浄財不足為出家無成律儀戒不可称仏子若無浄戒是遺教経文也諸善功徳皆不得生前々可悲依自此戒得生諸禅定及滅苦智恵後々無時重欲受戒能受五縁身器不浄所対七縁唯仏法時中種々思惟都無期方但五戒八戒許自誓受即受五戒為優婆塞脱虚受信施之咎離仮名苾蒭之称深修三密五相之観念専配自利々他之勝益但尋求一代聖教若無為方当如是行又憶念
興福寺覚盛律師貯為遂次竪義暗表無表章且有先年勧須詣彼禀承即参篭常喜院経十七箇日一遍披談畢以釈意明知大乗七衆依瑜伽等聖論所説通受三聚尽未来際自受従他随其発心皆悉得戒各得其性矣於是弟子歓喜余身渇仰撤骨
嘉禎元年乙未〈1235〉 三十五歳
正月十六日、当寺〈西大寺〉に移住した。十八日から二月三日に至るまでの十五日間、講律が開かれた。読師は戒如上人知足房が四日間、覚証聖舜房が十一日間であった。三月十八日、東大寺戒禅院にて初めて『四分律行事抄』第一巻を聴聞した。同じ秋、当寺ならびに東大寺にてその他の三巻を聴聞した。開講師は興福寺の円晴律師であった。《中略》
そのように今年の春・秋の二季に渡って律部を聴聞したところ、これまで自分が修めてきた行が多く正法に背いたものであったことが顧みられた。不浄の財を厭うことがなければ「出家」とするに足らず、また律儀戒を護持していなければ「仏子」と称することも出来ない。「もし浄戒がなければ、諸々の善功徳はすべて生ずることが無い」これは『遺教経』の文である。今まで(様々に修行してきたけれども、それが実は非法であったこと)は悲しむべきことだ。(同じく『遺教経には』)「この戒に依って諸々の禅定及び滅苦の智恵が生じることが出来る」ともある。これより後には(もはや非法のままで無益な修行に励む)時など無い。そこで重ねて(正しく仏弟子となるために)受戒したいと思うけれども、能受の五縁〈五助縁。『行事鈔』に説かれる発菩提心を助ける五種の縁〉に於いて(私自身が)身器不浄であり、所対の七縁〈叡尊が何を意図したものか不明瞭。あるいは『彌沙塞羯磨本』にある僧伽を正しく運営するための七縁か?〉は唯だ(末世ではなく、正しく僧事が行じられていた)仏法の時のみにおけるものであった。(今の日本において、出家者として正統な受戒をする何らかの方法が無いかと)様々に思惟したとしても、全くその可能性としてすら期待出来る術など無い。ただ(在家信者として受けるべき)五戒・八戒に関しては、自誓受が許されているのみである。そこで五戒を受けて優婆塞〈upāsaka. 在家男性信者〉となって、(似非出家であるにも関わらず信者から)虚しく信施を受けることの咎から脱し、仮名苾蒭〈ただ名前ばかりの比丘。似非出家。「名字無戒の比丘」とも云う〉の称を離れよう。そうしてから、(在家の密教行者として)深く三密五相〈三密瑜伽・五相成身観の略。ここではただ密教の修習一般を指す〉の観念を修し、専ら自利利他の勝益を回向して、ただひたすら一代聖教を尋ね求める。もし(正しく比丘となるための受戒について)何の手段も無いならば、まさにそのように修行することにしよう。
そういえば興福寺の覚盛律師は次の竪義〈学侶・官僧となるために必須の論議法会における答者〉をするために「表無表章」〈基『大乗法苑義林章』巻三にある、特に七衆戒とその受戒について法相の立場から詳説した一章〉を暗誦しているという。ならばそこで、先年の勧めもあって、彼から(律学を)禀承すべしと思い、常喜院〈貞慶がその弟子覚真(藤原長房)の助力を得て興福寺内に建立した律学の道場〉に参籠した。そして十七日間、(「表無表章」を)一通り講義してもらった結果、その解釈の意によって明らかに知ったのである、大乗の七衆は『瑜伽論』等の聖論の所説に拠れば、三聚浄戒を尽未来際に自誓受あるいは従他受によってその発心に従い通受したならば、皆悉く戒を得てそれぞれの性を得ることが出来ることを。ここに至って弟子〈叡尊〉はその喜びに身を震わせて、渇仰撤骨〈骨の髄まで仏陀を深く信じること〉した。
叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』巻上
このように叡尊は、東大寺および西大寺にて行われた律学の講義を聞いて、実は自身が出家と称するに値せず、さらには仏弟子と云うにすら及ばない者であることを一層自覚。そのような自身の欺瞞なる状態を何とか解消したいと思うもその方法が無く、途方にくれていました。しかしそこで、覚盛のもとで律についての講義を通して聞く中、覚盛の主張する三聚浄戒の通受によって比丘となり得るという構想に納得。俄然として興律の志を燃やし、その実現に向けて律学にますます励むようになった、と叡尊はいいます。
叡尊自らがそう記しているように、自誓受戒が許されるのはあくまで五戒・八斎戒であり、比丘となるために律を受けること、すなわち受具は自誓受戒では成立しないということは、印度以来、そして支那・日本でも当たり前の常識でした。そして、正統な受具が当時の日本ではもはや不可能であることも、叡尊は確かに知っていた。故に叡尊は絶望の淵にあって還俗をすら、というより自らが最初から出家者などで無かったと考えていました。そんな中、叡尊は覚盛による「表無表章」の講義を聞いてその考えを改め、むしろそのために喜びに打ち震えた、というのです。
しかしながら、印度・支那そしてそれまでの日本における経緯と伝承とを前提とし、今その覚盛の所論を披覧してみたならば、多く疑念の余地があって直ちに首肯できるものなどでは全然ありません。忌憚なく言えばそれは、その全体とまではいかぬとも、多く堅白異同なものです。
覚盛の主張を詳しく知るには、もちろん『二受鈔』と『遣疑鈔』を直接読まなければなりません。しかし、それを理解するには、当然のことながら覚盛が根拠とした諸典籍を読解している必要があり、また支那・日本におけるそれまでの歴史的経緯を知っておかなければいけない。その上で、若干ながら後代に著されたものではありますが、律宗の西大寺派と唐招提寺(および戒壇院)派との見解における大きな相違点をまとめ論じたものである、『通受比丘懺悔両寺不同記』を披覧することは極めて有益となるでしょう。
(もし、これをただ現代的学問的に整理されたものとして理解したい者には、今のところ蓑輪顕量氏の研究〈『中世初期 南都戒律復興の研究』〉が最も詳しく、それに当たるのが尤も好適です。)
結局のところ、当時の現実として、日本で戒律復興するのには他の方法を取りようがなかった、覚盛を批判した東大寺戒壇院や興福寺など南都の僧らにしてもただ口ばかりアレコレ批判するだけであって、自身らが何か出来るわけでも何か実行したわけでも無かった、ということに尽きるのでありましょう。
日本仏教にて久しく無かった「空理・空論を振るうだけでなく、また内実を伴わない儀式・儀礼に終止するのでない、現実に戒律を護持した僧」が再び世に存在するようになった、いわば既成事実化したと評するのが妥当と思えることです。
しかしやはり、その正当性ということについて国際的に考えたならば、それはつまり「仏教の正統として」考証したならば、ということになるのですが、到底認められるものでは無かったと言わざるを得ません。
実は、先に『占察経』について述べる中、それが支那でも古来偽経であるとされ続けていたことや、支那および日本でも古代から『占察経』による自誓受戒が不可とされてきたことを明らかとしましたが、むしろ戒律復興がすでに果たされていた中世中頃の日本でも、そもそも『占察経』自体が支那で依るべきでない怪しい偽経とされていたことの認識がありました。
また、先に述べてきたように、印度そして支那はもとより日本においても古代の道璿や鑑真から実範など律学の先徳が代々、三聚浄戒によって具足戒を総受しえるなどという主張や、具足戒等の出家戒の自誓受など全く認めていなかったことは当然知られており、その伝統的見解は継承されていました。故に自誓受による比丘得戒の正統性は甚だ疑問視、いや、覚盛以降の南都でも否定され続けていたようです。
問。占察經是僞經。云云 如何。答。首疏正引之。列諸部得戒員數。南山霊芝多依用之。又内典録入録。不云僞經。依用利益多。毀謗招鬼業歟。左引可見。
問。自誓受戒比丘。律蔵衆法應足數耶。答。可足數也。既得戒體。又號比丘。有何所闕不許之乎。但彼小乘衆斥非律蔵受戒比丘不許之非所遮。彼唯小乘不依用大故。若自門衆僧行律蔵受戒等應無妨者也。是則南北両京共許義歟。
問。實範蔵俊等意。設以三聚羯磨雖行通受軌則。不能號比丘。不成比丘性故。是則戒成就性不成就人也。凡成比丘性。必以白四羯磨得其受戒人故。不爾唯受菩薩戒人。比丘性不成故。律蔵行事不能足數。如無根二根等受五戒者。雖成五戒不得名近事。是則戒成就性不成就人也。今自誓比丘亦爾。云云 如何。答。是則南都諍論也。彼實範等。是云戒成就性不成就人不依用占察經等。是所以。然既以三聚羯磨受得戒者。攝律儀者七衆戒故。五八十具戒圓満成就勿論也。占察經義寂守千意。可成戒性義立之。是號通受七衆。況智首律師大疏中。諸部比丘得戒員數列之。非成性者何號比丘乎。彼及異義。此絶諍論。性戒成就條勿論者也。
問:『占察経』は偽経である、とされるがどうであろう?
答:『首疏』〈智首『四分律疏』〉にはまさしくそれ〈『占察経』〉が引かれ、諸部〈諸々の律蔵〉の得戒の員数に列ねている。南山〈道宣〉や霊芝〈元照〉も多くそれを依用している〈元休の憶説。道宣は『占察経』を依用などしていない〉。また(『占察経』は)『大唐内典録』〈道宣が編纂した経録〉にも収録されており、そこで「偽経である」とはされていない〈これも元休の憶説。道宣は『占察経』を「偽経」と断定まではしていないが、それまでの経録の説を踏襲し、いかがわしく怪しい偽経の疑い強いものとしている。また、南宋代の元照は確かに『占察経』を依用しているが、それは浄土教に関してであって、戒律に関してではない〉。(そもそもこの『占察経』を)依用することの利益は大きいものである。(それを「偽経である」と)毀謗することは鬼業〈悪しき結果〉を招くであろう。以下に述べることを見よ。
問:自誓受戒の比丘〈北京律、すなわち泉涌寺を中心とした律宗では南都のように「通受の比丘」といわず「自誓の比丘」と称した。これは泉涌寺一門が「自誓受」の正統性の根拠を専ら『占察経』としていたに対し、南都の唐招提寺や西大寺が『占察経』以外にも様々な典籍を以てして「通受・自誓受」が正統なものとしていたことによる。そもそも『占察経』では自誓による摂律儀戒の受戒を「総受」といって「通受」などとしていない。前述のように「通受」とは覚盛によって意味のすり替えがなされた言葉であった。行為としては同じようなものであったが、双方の論拠が異なっていたのである。その点からすれば、そのように称を異ならせたことは妥当と言えるものであった〉は律蔵の衆法〈諸々の規定〉を満たしたものであろうか?
答:満たしたものである。(自誓の比丘は自誓によって)既に戒体を得たのであり、また比丘と称している。どのような不足があって、これを許さないと言うのであろう〈ここでの元休の言説は全く反論になっておらず、何の証明にもなっていない〉。ただ彼の小乗の衆〈自誓受および通受を認めない南都の興福寺や東大寺の律学衆らに対する当てつけ〉が、律蔵(の規定に従った)受戒の比丘では無いとしてこれを許さないのは、(自誓受または通受自体の正当性を)否定するものではない。彼らは唯だ小乗であって、大乗を依用することがないためである。たとえばもし、自門の衆僧が(それが全く不如法で、正統な受具として成立しないものであるにも関わらず)律蔵受戒等を行ったとしても、それを(非法であるとして)妨げることは無いであろう。これ〈自誓受または通受による比丘得戒〉はすなわち、南北両京(の新しい律宗)が共に許している義である。
問:実範や蔵俊などの意では、たとい三聚羯磨によって通受の軌則を行ったとしても、比丘と称することは出来ない。比丘性を成就していないためである。これはすなわち戒成就・性不成就の人である。およそ比丘性を成ずるには、必ず白四羯磨によってその受戒を得た人でなければならないためである。そうせずして、唯だ菩薩戒を受けただけの人ならば、比丘性など成立しないためである。(そのような人は、比丘として)律蔵の行事に参加することは出来ない。たとえば(在家の)無根〈無性器の者。黄門・半択迦〉・二根〈両性具有者〉などの者が五戒を受けたとして、彼は五戒を得ることは出来るけれども、近事〈在家信者〉と称することは出来ないようなものである〈在家信者が五戒を受けるのに、性器が無い、あるいは欠損している、または両性具有であることを理由に制限されることはない。そこでしかし、人の性のいずれかを男女どちらか一方の性器を有することに求めたならば、その信者が優婆塞(信士)であるのか優婆夷(信女)であるか決め難くなるという問題が厳密に考えたならば生じる。実際、そのような見方、問題意識が義寂『菩薩戒本疏』においてなされており、その説に元休が則った言〉。このようなのが「戒成就・性不成就の人」である。今の自誓の比丘もまた同様であるとされるが、どうであろう?
答:この問題は南都における諍点である。彼の実範等がそれを「戒成就・性不成就の人」と言い〈実範がそのようには記した典籍があったか?〉、『占察経』等を依用していないのはそのためである〈元休の誤認、あるいは歴史的経緯をまったく無視した強弁。まずそもそも道宣は『占察経』の所説など歯牙にも掛けていない。そして日本でも、道璿や鑑真の昔以来、『占察経』に依拠した比丘としての自誓受による得戒の正統性は全く否定されていた〉。しかしながら、すでに三聚羯磨によって戒を受得したならば、摂律儀とは七衆戒であるのだから、五戒・八戒・十戒・具足戒の戒を円満して成就することは勿論である。『占察経』や(これを依用した)義寂〈新羅僧。『菩薩戒本疏』〉や守千〈宋代の法相の学僧。覚盛や叡尊は通受自誓受の正当性を裏付けるものの一つとして、その著『般若心経幽賛崆峒記』を依用した〉の意図は、戒と性とが成就するという義を立てたものであった。これを「通受の七衆」と称する。ましてや智首律師の大疏〈『四分律疏』〉の中には、諸部の比丘得戒の員数に列ねている。もし(比丘)性を成就したのでないならば、どうして比丘と称することなど出来ようか。(しかるに)彼〈南都の興福寺や東大寺などの律学衆〉は異義を唱えており、此れ〈北京の泉涌寺および南京の唐招提寺・戒壇院、そして西大寺の門流〉は(自誓受または通受を疑問視する)諍論を絶っている。(自誓受または通受によって)性と戒とを成就することが勿論のことであるためだ。
元休『徹底章』(日蔵 vol.13, pp.677b-678a)
この『徹底章』を著した元休は、俊芿より一世紀ほど後の人で、泉涌寺を中心としたいわゆる北京律を奉じている人であったようです。『徹底章』の中で元休は、俊芿およびその門流ならびに南都の新たな律宗の流れを擁護すべく様々に想定問答を展開しており、その相手がまさに南都の興福寺や東大寺の律学衆でした。
(俊芿とは中世の戒律復興において非常に重要な役を演じた人で、彼については後述します)。
今挙げた一節からは、すでに北京南京のいずれでも戒律復興がすでに果たされて一世紀を経過しようという中でも、『占察経』やそれに基づく通受に対して大きな疑義・反発が南都に強く存していたことが知られるのです。
そこで元休は、暗にそのような南都の律学衆らを「彼唯小乘不依用大故」といって「小乗」であるとさえ謗っています。これは彼も言及している実範や蔵俊、遡っては道璿や鑑真そして普照など古代の伝戒の人々、引いては貞慶など中世の戒律復興に大きく貢献した先徳をも否定し、腐しているのに等しい言です。これは元休がその流れには直接無い、宋代の支那にて律を学んできた俊芿由来の北京律に与する者であったこそ言い得たことであったように思えます。
ここでまた、自誓受によって受戒した人を「戒成就・性不成就の人」なる新しい概念(?)で表していることは注目すべき点です。なんとなれば、そもそも「(受)戒を成就すること」と「性を成就すること」とを別個に考えるのは不審であるためです。
例えば、人は具足戒を諸々の諸条件を満たして正しく受けることにより比丘となる、すなわち比丘性を備えることになります。具足戒は所定の規定と条件を備えた者のみに対して受戒が成立するものであり、その受戒が成立したことをもって人は比丘となるのです。無根者や二根者、あるいは黄門など遮難に触れる者であるならば、そもそも具足戒を受けること自体が出来ずに前もって弾かれてしまうため、「戒が成就する」ことはありえない。よって「戒成就・性不成就の人」、すなわち「具足戒は正しく受け得ているけれども、比丘ではない人」などというのは、具体的にどのような者を指していうのか、今の所の私にはわかりません。
ここでの元休の主張は多く無根拠で誤謬に満ちたものですが、就中面白いのは「若自門衆僧行律蔵受戒等應無妨者也」すなわち「たとえばもし、自門の衆僧が(それが全く不如法で、正統な受具として成立しないものであるにも関わらず)律蔵受戒等を行ったとしても、それを(非法であるとして)妨げることは無いであろう」と、南都の興福寺や東大寺の旧来の律学衆を批判している点です。
これは旧来の律学衆の痛いところをブスリと突くもので、こう言われると彼らも正当性だ何だと言いづらいこととなる。いや、彼らもそれは自覚していたでしょう。彼ら南都の律学衆がもはや単なる通過儀礼にすぎないものとして行っていた、戒壇院での受具は、茶番劇以外の何物でもありませんでした。ならば、互いに正当性など無いとしても、現実に律を受持している方に社会的には軍配があがることとなるでしょう。事実そのように世間は見ていた。
いずれにせよ、前掲の『菩薩戒通別二受鈔』にて覚盛がまさに「若依白四不受大僧戒。與聲聞僧同布薩時。彼聲聞比丘更不可許之(もし白四羯磨に依って大僧戒を受けなければ、声聞僧と同じく布薩しようとする時、その声聞比丘はそれを許さないであろう)」と危惧していたように、覚盛没後においても南都の律学衆らは通受あるいは自誓受によって比丘となったと称する新たな律宗の門徒らを「律蔵行事不能足數(律蔵の行事に参加することは出来ない)」として、律の行事を共にすることを拒否していたのでしょう。これは何も覚盛没後においてではなく、生前からそのように見なされていたことであると言って良いことです。
(といっても、覚盛没後にはその門流に円照および凝然が出て東大寺戒壇院を領しており、唐招提寺や西大寺などの門流によって通受自誓受によって比丘となりえるとされて以降は、東大寺戒壇院はもはや従来の如き「国家の戒壇」ではなくなって刷新された律宗の一寺院というべきものとなっています。そのため、実際は旧来の南都の律学者らと、唐招提寺・戒壇院や西大寺などの新たな律宗の徒らが「律の行事を共にする」機会もほとんど無かったように思われます。)
中世、覚盛や叡尊により戒律復興が果たされてから百年頃には、その新たな律宗の(それまでの歴史的経緯や三国の伝統から乖離した)主張を擁護せんとする書がそれぞれの門徒によって様々に著されていますが、まさに『徹底章』もそのような書の一つです。ただし、前述したように、この書に書かれていることを真に受けることなどできません。
さて結局、南北の律宗の通受・自誓受の正当性を保証するものとしては、経説としては(偽経である)『占察経』にしかなく、また印度の諸論師については皆無で、ただ智首『四分律疏』や守千『般若心経幽賛崆峒記』、そして義寂『菩薩戒本疏』など支那および朝鮮の論書にしか無かった、ということがより明らかとなるでしょう。やはり、彼らのいう通受および自誓受の正当性は、南都の興福寺らが当時も依然としてそうしていたように、甚だ疑問視するべきものでした。
いずれにせよ彼らが通受自誓受によって戒律復興を果たしたとするその後には、そこには多くの困難、紆余曲折あったのですけれども、覚盛・叡尊のいずれもが持律持戒の日々を送りながら律学を繁盛させています。そしてその両人ともが真言密教を行じて瑜伽を深めただけなく、特に叡尊を中心とする西大寺の門流は積極的に利他、今で言うところの社会福祉活動を展開。そのようなことによっても、その門流はひろく世間に認められ、篤く信仰されるようになっています。目の当たりに持律の菩薩僧らが全国あちこちで活動したことで、その正統性の正否には目がつぶられ、事実として「戒律復興は果たされた」ものとなったのです。
平安後期からいわゆる末法思想が貴族間で流行して浄土教が真剣に信仰され始め、鎌倉期になるとそれが庶民の間にも下りてきていた中に、持戒持律の僧が少なからず表れ、実社会において利他行を展開した。となれば、当時の貴賤の人々はこぞって、なおさら彼らを尊び信仰するようになった、ということは十分頷ける話です。
(現在、松尾剛次の研究により、従来そのように見なされてきたのとはまるで異なって、中世鎌倉期もっとも世に信仰された教団は法然や親鸞の浄土教でも日蓮の法華宗でもなく、叡尊や忍性の西大寺や極楽寺を中心とした律宗であったと論証されています。)
既成事実化したといえば、比叡山のいわゆる大乗戒壇が仏教の制度としてなどでなく国家の制度として認められたことも、同様に見なし得ることではありましょう。しかし、比叡山が最澄の死後まもなくして刀杖を手にする僧形の無頼漢らの魔窟となり、むしろ桓武帝の遺志と大乗の威光とやらを逆手にして京の皇や人々を度々脅かし、世人にいっそう末法の嘆きをもたらすようになったのと、南都の刷新された律宗とは真逆の、対称的なものです。
さて、覚盛は比較的短命で、自誓受戒後十四年の建長元年〈1249〉、五十六歳にてその生涯を終えています。しかも、覚盛が名実ともにいわゆる律僧として活動し得たのは、興福寺から唐招提寺に移った後のわずか六年程で、遺した著作も、非常に重要な書をいくつか遺していはしますが、それほど多くはありません。それに対し、叡尊は三十六歳の時に自誓受戒してから六十四年後となる正応三年〈1290〉、九十歳にてその生涯を閉じる最後まで筆を執って様々な多くの著作を遺し、また社会的にも幅広く興法利生に力を尽くしています。
先に少し触れましたが、戒律復興を果たした同志たる覚盛と叡尊との間には、様々な点で見解と持戒についての態度の相違がありました。かと言って、それで覚盛と叡尊が敵対していたなどということは全くありません。叡尊は覚盛の浅はかに思える言動についてしばしば苦言を呈してはいるものの、覚盛が世を去るまで興法興律の志と事を同じくして活動しています。
覚盛は才知縦横な人であったのでしょうが、しかし思慮深いわけではなく、少々感情的で浅薄なところのある人であったようです。むしろその故に魅力的な人であった、のかもしれません。両者の戒律についての見解や態度でまずもっとも大きな相違は前述のとおりですが、その行業についての違いをごく簡潔に言ってしまえば覚盛は緩く粗雑で、叡尊は厳しく細やかな態度であったことです。そして民衆から支持されたのは圧倒的に叡尊およびその門流でした。
もっとも、覚盛がごく短期間しか律僧として活動しておらず、またその見解や態度のあちこちも多く疑問が残るものであったとはいえ、その門流に優れた学僧・律師が数多輩出されています。中でも東大寺戒壇院を中興した円照〈1221-1277〉およびその弟子凝然が出たことは、後代への影響という点で甚だ大きなことであったと言えます。
凝然は華厳宗の学僧であると同時に、特に覚盛の唐招提寺系の律宗を継ぐ者であり、また天台思想をもって南山律宗を再解釈した元照の教義にある意味忠実であった人で、その立場から律宗の教学や歴史などをまとめた書をいくつか著しています。中でも『律宗綱要』が最も重要で、次いで唐招提寺と西大寺の律宗がいかに異なるかを簡潔に記した『通受懺悔両寺不同記』も日本の中世における律宗の特徴を知るのに必読の書となっています。