八斎戒とは、仏教の在家信者に説かれる八つあるいは九つの学処からなる戒で、五戒のうち不邪淫が不婬に変えられ、さらに三つまたは四つの戒めが加えられたものです。八斎戒は、在家信者が僧伽において月二回行われる布薩の日、あるいは月毎に六日ある六斎日と言われる日に、精舎などに赴いて原則として一日一夜に限って守るよう説かれた一日戒で、これを布薩戒とも称します。
1 | 不殺生 | いかなる生き物も、故意に殺傷しない。 |
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2 | 不偸盗 | 与えられていない物を、故意に我が物としない。 |
3 | 不淫 | あらゆる性行為から離れる。 |
4 | 不妄語 | 故意に偽りの言葉を語らない。 |
5 | 不飲酒 | アルコールなど、酔わせ放逸とするものを摂取しない。 |
6 | 不坐臥高広大床 | 高く広い寝具や坐具でくつろがない。 |
7 | 不著香華瓔珞香油塗身 | 化粧や香水、宝飾品などで身を飾らない。 |
8 | 不作唱技楽故往観聴 | 音楽や演劇等を為さず、故意に鑑賞しない。 |
9 | 不過中食 | 正午から翌朝の日の出まで、固形物を口にしない。 |
(パーリ語による五戒、およびその受戒次第は別項「Aṭṭhaṅga sīla 八斎戒」を参照のこと。)
なお、六番目の戒から八番目の戒までは、これを説く経論によって順序の違いがあります。また、学処の名称としてここでは漢語のものを列挙しましたが、これも経論によって若干の語句の違いがあります。
ところで、八斎戒は[S]Aṣṭāṇga śīla、[P]Aṭṭaṅga sīlaなどと言いますが、これを直訳したならば「八戒」であり、「斎」に該当する言葉などありません。先に八つあるいは九つの戒などと言いましたが、これは七番目と八番目の学処を一緒の学処として挙げるか、別のものとして挙げるかの数え方の違いによります。その原語に従っていえば、九つではなく八つであります。
実際、漢訳仏典の中には八戒斎と訳されている場合もありますが、この場合、上に挙げた一から八までの戒に「斎」を学処として加えた九つの戒とした理解によります。いずれにせよ、八戒あるいは八斎戒、八戒斎と呼称しても、まったく同内容のことをいうものです。そこで上記の表では一応、九つの項目として挙げています。
八斎戒の「斎」とは、慎むことを意味する漢語ですが、これを仏教では特に正午を過ぎての食事を摂らないことを言い、さらに転じて午前中にとる食事のことを指します。仏教は日の出から正午までを「時」と言い、その間に摂る食事のことを「時食」と言いますが、その斎と同じ意味です。これに対して、正午過ぎの食事を非時食と言います。
原則として托鉢で得た食べ物によってのみ日々の糧を得、そして小欲知足を旨とする仏教の出家者にとって、正午を過ぎて夜明けまでの間は修行者にとって食事をとるのに適切な時では無い、との仏陀の言葉に従い、出家者は夜明けから正午までの間に、そして基本的に一日一食のみで生活しなければなりません。ただ例外的に早暁、陽が昇ってから粥を食すことは許されています。
なお、別項「戒とは何か」で述べているように、戒とは「してはならない行為」・「戒め」を云ったものでなく、「(良い)習慣」です。習慣ですから一日だけ、一時期だけ守って意味があるものでは基本的にありません。では八斎戒を守ることに意味がないかと言うと、そのようなことはありません。
八斎戒はほとんど出家の戒と同じです。といっても沙弥および沙弥尼の戒、いわゆる十戒です。沙弥・沙弥尼とは、仏教の正式な出家修行者である比丘および比丘尼となるための前段階で、基本的には十三歳以上、二十才未満の少年・少女の出家者です。十戒とは、八斎戒に加えて「金銀財宝などの財産を所有しない(不蓄金銀宝戒)」という項目が一つ多いだけであり、したがって八斎戒とは出家戒に準じたものです。
在家信者は、六斎日という月の決まった日には出家に準じ、世俗の生活を送っている上で完全には守れきることが出来ないかもしれぬ、五戒を含めた八斎戒を完全に守ることにより、自分の心身の食に対する欲望と対峙し、日々の生活を自ら反省して過ごすのです。
在家者にとって、第六から八までの項目は、大した忍耐も苦労も必要なく守りえるものでしょうが、少々キツイと感じられるであろうものは、最後の「不過中食戒」でしょう。正午から翌日の日の出まで、どのような固形物であっても、これを口にすることは出来ません。ただし、ヨーグルト飲料や牛乳など乳飲料を除く、ジュースの類ならば口にすることは出来ます。
畢竟、八斎戒の本質は、この不過中食戒にあります。
毎月六斎日、あるいは満月と新月の月二日は、精舎などで比丘らの説法を聞き、瞑想するなどして静かな一日を送れれば良いのでしょうけれども、日常の職や雑務に追われる在家の身では、なかなかそうはいかないのが現実でしょう。そこで、これら八斎戒は義務でなく、それを行うことが可能な者のみに対して勧められます。
六斎日とは、月のうち八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日の六日間を言います。これらの日は、仏陀の教えに従い、斎戒を持して功徳を積む日であることから、六斎日と言われます。もっとも、これらは現在の世界で主流となっている太陽暦ではなく太陽太陰暦、いわゆる旧暦での話です。
それにしてもなぜ六斎日に八斎戒を受持すべきと説かれるのか。『大智度論』によれば、往古の印度では、これらの日は悪鬼が人の生命を奪おうとし、そのため病気など不吉な出来事が起こりやすいとされていたようです。
問曰。何以故。六齋日受八戒修福徳。答曰。是日惡鬼逐人欲奪人命。疾病凶衰令人不吉。是故劫初聖人。教人持齋修善作福以避凶衰。是時齋法不受八戒。直以一日不食爲齋。後佛出世教語之言。汝當一日一夜如諸佛持八戒過中不食。是功徳將人至涅槃。如四天王經中佛説。月六齋日使者太子及四天王。自下觀察衆生布施持戒孝順父母。少者便上忉利以啓帝釋。帝釋諸天心皆不悦言。阿修羅種多諸天種少。若布施持戒孝順父母多者。諸天帝釋心皆歡喜説言。増益天衆減損阿修羅。是時釋提婆那民見諸天歡喜。説此偈言六日神足月 受持清淨戒佛告諸比丘。釋提桓因不應説如是偈。所以者何。釋提桓因三衰三毒未除。云何妄言持一日戒功徳福報必得如我。若受持此戒心應如佛。是則實説。諸大尊天歡喜因縁故。得福増多。復次此六齋日。惡鬼害人惱亂一切。若所在丘聚郡縣國邑。有持齋受戒行善人者。以此因縁惡鬼遠去。住處安隱。以是故六日持齋受戒得福増多。
是人壽終後 功徳必如我
問:何故、六齋日に八戒を受け、福徳を修めるのであろう。
答:それらの日は悪鬼が人を逐って人命を奪おうと欲し、疾病や凶衰によって人を不吉ならしめようとする。この故に劫初〈世界の初め〉の聖人は、人に斎を持し、善を修して福を作すことを教え、それによって凶衰を避けさせた。(しかしながら、)その時の斎法とは八戒を受けることではなく、直に一日食べないことを斎であるとしていた。後に仏陀が世に出られ、教えて彼らに語って言われた。「汝らはまさに一日一夜、諸仏のように八戒を持し、中を過ぎては食さないように」と。この功徳は人をして涅槃に至らせる。『四天王経』の中にて仏が説かれたように、月の六斎日に使者・太子、及び四天王が自ら下って、衆生が布施し持戒し、父母に孝順なることを観察し、もしそれが少なければたちまち忉利天に昇ってそれを帝釈天に報告する。帝釈・諸天は心に皆悦ばず、「阿修羅の種こそ多く、諸天の種は少ない」と言う。もし布施し持戒し、父母に孝順なることが多ければ、諸天・帝釈は心に皆歓喜し、「天の衆を増益し、阿修羅を減損する」といった。この時、釈提婆那〈帝釈天〉の民は諸天の歓喜するのを見て、この偈を説いて言った。六日と神足の月に、清淨戒を受持すれば、(しかしながら、これを聞いた)仏陀は諸々の比丘に告げられた。「釈提桓因〈帝釈天〉はそのような偈を説いてはならない。なんとなれば、釈提桓因は三衰〈老・病・死〉・三毒〈貪・瞋・癡〉を未だ除いていない。どうして妄りに一日戒を持てば、功徳・福報必ず我が如くならんと言うことが出来ようか」と。もしこの戒を受持したならば、心はまさに仏の如くなるであろう。これこそ実説である。諸々の大尊天は歓喜する因縁によって、福を得ること増すます多い。また次にこの六斎日には、悪鬼が人を害して一切を悩乱する。もし在るところの丘聚・郡県・国邑に斎を持ち戒を受けて善を行ずる人があれば、その因縁によって悪鬼は遠く去ってその住処は安穏となる。この故に(月のうち)六日は斎を持ち、戒を受けたならば福を得ること増すます多いのだ。
この人は壽終って後、功徳必ず我が如くならん。
龍樹『大智度論』巻十三 尸羅波羅蜜義第廿一(T25, p.160a)
そこで人々は古の聖人の教えにより、これらの日を何事もなく過ごせるようにと丸一日絶食していたといいます。しかし、釈尊が菩提樹下において仏陀となられて後、丸一日絶食するだけであった習慣を、仏教徒には「八戒を守り、午後を過ぎて食事を摂らない日」というものに改め、その目的を「悪鬼の災厄から逃れるため」に加えて「涅槃に向かわしめるため」としたのだといいます。
あるいはまた、パーリ語で伝えられてきた上座部の聖典Suttanipātaには、八斎戒および六斎日について以下のように説かれています。
gahaṭṭhavattaṃ pana vo vadāmi, yathākaro sāvako sādhu hoti. na hesa labbhā sapariggahena, phassetuṃ yo kevalo bhikkhudhammo.
[...]
pāṇaṃ na hane na cādinnamādiye, musā na bhāse na ca majjapo siyā. abrahmacariyā virameyya methunā, rattiṃ na bhuñjeyya vikālabhojanaṃ.
mālaṃ na dhāre na ca gandhamācare, mañce chamāyaṃ va sayetha santhate. etañhi aṭṭhaṅgikamāhuposathaṃ, buddhena dukkhantagunā pakāsitaṃ.
tato ca pakkhassupavassuposathaṃ, cātuddasiṃ pañcadasiñca aṭṭhamiṃ. pāṭihāriyapakkhañca pasannamānaso, aṭṭhaṅgupetaṃ susamattarūpaṃ.
tato ca pāto upavutthuposatho, annena pānena ca bhikkhusaṅghaṃ. pasannacitto anumodamāno, yathārahaṃ saṃvibhajetha viññū.
dhammena mātāpitaro bhareyya, payojaye dhammikaṃ so vaṇijjaṃ. etaṃ gihī vattayamappamatto, sayampabhe nāma upeti deve”ti.
さて在家者〈gahaṭṭha〉の行うべきつとめ〈vatta. 義務〉を、私は汝らに語ろう。この通りに行う者は、善い声聞〈sāvaka. 教えを聞く者、仏弟子〉である。全き比丘の法〈kevala bhikkhudhamma. いわゆる具足戒〉(を護持すること)は、財を所有する者〈sapariggaha. 妻帯者。ここでは在家者の意〉によっては成し遂げることは出来ない。
《中略》
生きものを殺してはならない。また、与えられていないものを取ってはならない。嘘を語ってはならない。また、酔わせるもの〈majja〉を飲んではならない。性交渉〈methuna〉による非梵行〈abrahmacariya〉を控えよ。夜の非時食〈vikālabhojana. 正午から翌日の日の出までの食事〉をしてはならない。
花環〈māla. 装飾〉を着けず、香料〈gandha. 塗香〉を用いてはならない。地に(直接)臥具〈mañca〉を敷いて寝よ。実に、これが「八支〈aṭṭhaṅgika〉からなる布薩〈uposatha〉である」と云われる。苦を終焉した仏陀が知らしめられたものである。
そこでまた、半月〈pakkha〉の十四日と十五日、そして八日に布薩を修めよ。そして、八支を備えた完全な姿の神変月〈pāṭihāriya pakkha〉を、清らかな心で(過ごせ)。
そこでまた、布薩を修める者は早朝に食物と飲物とを、比丘僧伽〈bhikkhusaṅgha〉に、清らかな心で喜びながら、それにふさわしく智者として分かち与えよ。法〈dhamma. 道義〉によって母と父とを養え。人は法〈dhamma. 正当・道義的〉なる商売〈vaṇijja. 交易〉に従事せよ。このように怠ること無く、つとめる在家(者)は、(その死後には)自光天〈sayampabha. 六欲天〉という神々のもとに趣く。
Suttanipāta, Cūḷavagga, Dhammikasutta, 395, 402-406 (KN 5.26)
布薩([P]uposatha / [S]upavasatha)とは、実はもともと古代インドのバラモン教における新月と満月の日の祭式で、信者たちが寺院や祠堂などに趣いてバラモン達に布施をなし、供犠や祭儀を行って、その一日を断食して過ごすというものでした。そして、仏陀の当時、そのような布薩という習慣はすでに社会一般に風習として根づいていたようで、それをマガダ国王ビンビサーラの勧めを受け入れた釈尊が、これを仏教に取り入れられたものと伝えられています。
もっとも、布薩を釈尊が取り入れられたといっても、バラモン教における布薩の祭儀をそのまま行いはせず、いくらかの紆余曲折を経て、出家修行者においては律の条項を再確認して僧伽の結束を強める日となり、在家信者にあっては寺院に趣いて比丘らからの説法を聞き、出家に準じた静かな生活を送る一日となっています。そのような日となったのも、仏陀が積極的に制定されたものでなく、布薩という習慣に馴染んでいた在家信者からの要請によって次第にそのような日となっていったものでした。
そこで布薩の日とされたのは、やはり世間で定着していた新月(黒月十五日)と満月(白月十五日)の日の二日であり、さらに新月・満月それぞれの日から八日目と十四日目の四日の、都合六日間でした。すなわち、太陰暦でいうところの一ヶ月の内の8・14・15・23・29・30日の六日間が布薩の日となり、これを一般に六斎日と称します。
先に示した『大智度論』がそれとなく伝えているように、布薩とはバラモン教においては断食の日であったのですが、仏教の場合は八斎戒という学処をたもつ特別な日となっています。特には、断食ではなく、その日正午から翌朝の日の出まで一切の固形物を摂らないという、いわば節食の日であることが主眼です、そのように、正午から翌朝までの食を摂らないことを「 不非時食」と言います。不非時食は出家者にとっては日常のことですが、それを在家信者は布薩の日に限って準じることを推奨し、今に至っています。
なお、出家者にとっての布薩とは、その構成員たる比丘および比丘尼らが、それぞれその半月間、律の規定に違反した行為の無かったことを確認する儀式となっています。いわば僧伽の清浄性を保つための行事です。この儀式の内容から、布薩はまた説戒とも称されます。
しばしば世間には、多くの仏教学者や僧職者の中にさえ、出家者にとっての布薩を「僧がその罪を懺悔する法会である」などと理解し説明する者があります。しかし、それは全く適当な理解でなく、むしろ全く誤ったものです。
なぜなら、何らかの罪を犯して懺悔・出罪していない比丘は布薩に参加することなど出来ないためです。懺悔によって許される程度の罪を犯したことを自覚する比丘は、布薩に参加する以前にその罪に応じた方法で告白・懺悔し、出罪していなければなりません。もし懺悔によって許されない重罪を犯した比丘は、布薩に参加することが出来ません。なにより、その布薩の場において、罪を告白・懺悔する次第などどこにもなく、ただ独りの長老比丘が、波羅提木叉といわれるおおよそ二百五十条からなる律儀の条文を読み上げるのを聞くのみとなっています。仮にその波羅提木叉を聞いている間に、自らに犯した罪のあることを自覚した比丘は、布薩の進行を止めてはならず、すべてが終わって後に別途懴悔・告白すべきと規定されます。
さてまた、釈尊は六斎日に八斎戒を守ることを、「過去の諸仏の道」であると言われたのだ、とも伝えられています。
以上のことから、六斎日に八斎戒を守るのはインド古来の習慣を引き継ぎ、さらに往古の諸仏の習慣に倣ったものであることが知られます。六斎日や布薩がそうであったように、仏陀釈尊はしばしば、当時のバラモン教や世間で行われていた習慣・儀礼を仏教に取り入れて換骨奪胎し、仏教として意義をもった行事に変えられたのでした。
冒頭、八斎戒を「原則として一日一夜に限って守るもの」などと述べましたが、これを一ヶ月間、あるいは半年、一年あるいは一生守ることも可能です。八斎戒とは、必ずしも六斎日に限ってだけ守るべきものではないからです。結局、その守る日や期間は、人の自由意思、誓願によって定まります。
そこで六斎日に限らず長期間に渡って八斎戒を守ることを「長斎」と言います。実のところ六斎日の他にも、長斎月あるいは神足月と言われる月が説かれており、これは一年のうち一月・五月・九月の三ヶ月のことで、これらの月に斎戒を保てば功徳・福徳が増す、などとも言われます。
実際として過去の日本には、長斎を行っていた人々があり斎戒衆などと呼ばれていました。それは主に寺院内にて暮らす在家信者で、その精舎、僧伽の運営を助け、比丘らが律儀上出来ないことを変わりに行う人々です。そのような人々をまた浄人、あるいは寺男などとも言います。
あるいは近年、と言っても百年ほど前のことですが、河口慧海が生命を賭しての一大冒険を経て赴き、幾年か過ごしたチベットから帰還し、明治期当時の堕落しきった日本仏教に憤慨し、思うところあって還俗しています。けれども、慧海は還俗してなお、以前から護持して犯すことのなかった斎戒を捨てることはありませんでした。慧海は結局、その生を閉じるまで持戒生活、長斎して過ごしたのです。
斎戒を保つこと、それは決して誰も彼もが出来ることではありません。しかし、それぞれの能力と誓願に基づき、円満なる一日とすることを願って実行される八斎戒は、まさに満月が晴れた夜空に高潔ですがすがしい光を放つように、人の心を晴れさせ、ついに満月に比される涅槃へ運ぶ種となるものです。
非人沙門覺應