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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒法

三聚浄戒 Ⅳ. 日本における理解

日本における伝戒の歴史

日本に仏教が伝わったのは、『日本書紀』によれば欽明天皇十三年〈552〉のことであったといいます。そしてそれは、百済の聖明王が欽明天皇に使者を遣わして釈迦牟尼の金銅像一体および荘厳のための幡蓋および経論のいくつかを献上したことによるものであったとされます。

その後、仏教は、蘇我氏と物部氏の政争の具とされるなど紆余曲折を経るも、やがて国を挙げて信仰し、その核とすべき宗教とされます。そして国家として伽藍を次々整備し、ことあるごとに人々を出家させて僧尼とし、経論の修学をさせるなどしています。また、支那の呉や朝鮮の百済・高句麗からの渡来僧があり、日本からも遣隋使や遣唐使によって僧を派遣するなど仏教の教学面での整備も進め、当時の支那で最新であった三論宗・法相宗がもたらされています。

そもそも仏教とは、三宝といわれる仏陀・仏法・僧伽と、それを信奉する在家者によって構成されるものです。また、その修道とは、戒学・定学・慧学の三学を次第して踏み行うもので、それによって生死輪廻の苦海から脱することを目指したものです。

しかしながら、その昔の支那に仏教が伝来した初めに同じく、当時の日本には未だ正しい意味での僧はなく、よって僧宝など不在であってまた戒学も無い、まったく仏教としては不完全な、形ばかりのものでした。いや、鑑真渡来以前にも、留学僧として唐に渡って長年学び、彼の地の事情をつぶさに知っていた多くの僧がありました。

中でも、これは中世の凝然による所伝ではありますが、道光という名の僧が天武天皇の命により、特に律をこそ学ぶために唐に派遣されていたといいます。

第四十代天武天皇御宇白鳳四年乙亥四月請僧尼二千四百餘人大設齋會。僧尼雖多未傳戒律。天武天皇御宇詔道光律師爲遣唐使令學律藏。奉勅入唐經年學律。遂同御宇七年戊寅歸朝。彼師即以此年作一巻書名依四分律抄撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日大倭國浄御原天皇大御命勅大唐學問道光律師撰定行法已上 奥題云。依四分律撰録行事卷一已上。淨御原天皇御宇已遣大唐令學律藏。而其歸朝與定慧和尚同時。道光入唐未詳何年當日本國天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅歳者。厥時唐朝道成律師滿意懷素道岸弘景融濟周律師等盛弘律藏之時代也。道光定謁彼律師等習學律宗。南山律師行事鈔應此時道光賷來。所以然者。古德記云。道宣律師四分律鈔自昔傳來。而人不披讀空送年月。爰道融禪師自披讀之爲人講之。自爾已後事鈔之義人多讀傳。已上取意。
第四十代天武天皇の御宇〈672-686〉、白鳳四年乙亥〈675〉四月、僧尼二千四百余人を請して大いに斎会〈僧尼に対する昼食の供養〉が設けられた。もっとも、僧尼の数は多くあったけれども未だ戒律は伝わっていなかった〈正統な仏教僧尼が不在であったことの指摘〉
そこで天武天皇の御宇、詔して道光律師を遣唐使(の一員)として律蔵を学ばせることとした。(そのため道光は)勅を奉じて入唐し、年を経て律を学んだ。そして遂に同御宇七年戊寅〈678〉、帰朝した。その師〈道光〉はそこでこの年、一巻の書を著して『依四分律抄撰録文』と名づけた。その序には「戊寅年〈678〉九月十九日、大倭国浄御原天皇の大御命、大唐学問道光律師に勅して行法を撰定した」已上とあり、その奥題には「『依四分律撰録行事』卷一」已上とある。淨御原天皇〈天武天皇〉の御宇、すでに大唐に(僧道光を)遣わして律蔵を学ばしめていたのであり、その帰朝は定慧和尚と同時であった。もっとも、道光が入唐したのは何年のことであったか未だ詳らかでない。
日本国天武天皇の御宇元年壬申〈672〉から七年戊寅歳〈678〉に至るまでの当時は、唐朝にて道成律師・満意・懷素・道岸・弘景・融濟・周律師等により、盛んに律蔵が広まっていた時代である。道光は定めてそれら律師等に謁え、律宗を習学したのであった。南山律師〈道宣〉の『行事鈔』はまさにこの時、道光により賷来〈もたらされること。将来〉されたのである。
その然る所以は、『古徳記』〈未詳〉に「道宣律師の『四分律行事鈔』は昔〈道光〉より伝来していたけれども、人々は(それを)披読することはなく、空しく年月を経ていた。しかし、ここに道融禅師〈聖武天皇代、良弁に請われて梵網布薩の説戒師を為したという僧〉が自らそれを披読し、人々の為にそれを講じた。それより以後、『行事鈔』の意義は人が多く読み伝えるようになった」已上取意とある。

凝然『三国仏法伝通縁起』巻下(日仏全 vol.101, pp.121b−122a)

凝然によれば、当時いまだ正統な伝律は無かったものの、律学は道光によって一応すでにもたらされていたようです。ただし、道光によって初めて本邦にもたらされた、律学に必須の典籍の一つ『行事鈔』が広く読まれ研究されることはなく、そもそも律蔵が講じられることもなかった、とされています。

ただし、現代の史学者により、この『三国仏法伝通縁起』における凝然の所伝と『日本書紀』における道光の入唐に関する記事とは、些かの齟齬があることが指摘されています。『書紀』では道光が遣唐使に交じって入唐したのは白雉四年〈653〉のこととされており、ならばそれは天武帝ではなく孝徳帝の代となるためです。その年代が白雉か白鳳かの混乱があると見られているのです。

とはいえ、いずれにせよ道光という僧が派遣されたこと、そしてその僧が『依四分律撰録行事』なる書を著したことは事実であったと見てよいようです。なお、『書紀』の所伝が正しいとすれば、それは奇しくも鑑真が日本に来朝するちょうど百年前のことで、それまで朝廷が僧尼の無戒なる状態にただ手を拱いていたわけではなかったことの一例です。

しかし、ただ典籍として学ばれたところでそれはあくまで学問上でのこと。その実際を知る者、律を実際に受持した日本僧が(入唐留学僧を除いて)まだほとんど無いことに違いはありませんでした。そしてまた、そのような律学について当時の僧侶たちはそれほど関心を払っていなかったのでしょう、『行事鈔』がようやく僧徒に学ばれるようになるのは、道光の帰朝よりおよそ80年も経て後の鑑真渡来直前のことであった、と凝然はいいます。

留学僧といえば、道昭(道照)〈629-700〉などは、唐で玄奘に直接師事し、同じ部屋にて起居させるほど寵愛されて唯識や『倶舎論』を学んでいた、とされます。その伝承の真偽はともかく、当時の唐で長年滞在するのに具足戒を受けず、また持戒の行儀を学ばずにいたとは考えられないことで、留学僧たちは必然的に戒律について最低限の教養と行儀を備えていたと見なければなりません。

ただし、そんな鑑真渡来以前の入唐僧らの多くは自身が業とする法相や三論の教学にこそ興味を集中していたようで、法相にしろ三論にしろその実践面で不可欠の筈の戒律について特別注意を払っていた痕跡がありません。また、仮に留学僧らが唐では比丘となって持戒生活を送っていたとしても、帰国後にその生活を維持したり、日本の寺家のあり方を改革しようとした者があったことの記録は、不思議なことに何故かありません。

ただ例外として一人、そんな日本仏教に戒律が欠落している状況を嘆き、その整備の必要性を主張していた僧がありました。唐に留学僧として足掛け十七年の長きに渡り修学し、養老二年〈718〉に帰朝し大安寺を創建した三論宗の道慈〈?-744〉です。

冬十月辛卯、律師道慈卒。天平元年爲律師。法師俗姓額田氏。添下郡人也。性聡悟爲衆所推。大寶元年隨使入唐。渉覽經典。尤精三論。養老二年歸朝。是時釋門之秀者唯法師及神㲊法師二人而已。著述愚志一巻論僧尼之事。其略曰。今察日本素緇行佛法規模全異大唐道俗傳聖敎法則。若順經典。能護國土。如違憲章。不利人民。一國佛法。万家修善。何用虛設。豈不愼乎。《後略》
(天平十六年〈744〉)冬十月辛卯、律師道慈が卒去した(道慈は生前の)天平元年に律師に任官。法師の俗姓は額田氏、添下郡の人である。その性が聡明であったことから人々から推され、大宝元年〈701. 実際は大宝二年〉に遣唐使に随って入唐した。(道慈は、長安の西明寺に滞留し)経典を広く披覧したが、中でも最も三論〈三論宗。『中論』・『十二門論』・『百論』を主たる所依の仏典とし研究対象とする学派。いわゆる中観派〉に詳しかった。養老二年〈718〉に帰朝。当時の釈門〈仏教僧〉で秀でていたのは、ただ(道慈)法師及び神叡法師〈新羅で法相を学び帰朝した僧〉の二人のみであった。(帰朝後に)『愚志』一巻〈『続日本紀』が以下にその要略を伝えるのみで現存しない〉を著述し僧尼の事を論じているが、その概略は以下のようなものである。
「今、日本の素緇〈在家信者と出家者〉が仏法を行う様を見ると、その規模〈規矩〉が全く大唐の道俗が伝える聖教の法則〈経や律にて説かれる仏教者としてのあるべきよう〉に異なっている。もし(日本の素緇が)経典(の所説)に順じたならば、(その功徳に依って)能く国土を護るであろう。しかし、もし(仏を祀りながらも、仏教の)憲章に違えたならば、人民を利すことはない。(日本)一国の仏法、そして万家の修善において、どうして虚設〈実のない見せかけ〉を用いるのであろう。なぜ慎まないのであろうか」《後略》

『続日本紀』巻十五 天平十六年十月条(道慈卒伝)
(新訂増補『国史大系』普及版, 続日本紀』前篇, p.179)

道慈は、かつて南山律宗祖道宣が拠点とした寺であり、また印度から帰った玄奘が慈恩寺から移り住み、律の学匠でもあった義浄や密教の大阿闍梨であった善無畏など並み居る高僧が訳経に従事した、長安の終南山西明寺にて滞在し修学していました。唐代の西明寺は、印度の祇園精舎を模したものと伝説される大規模な伽藍が建ち並んで壮麗を極め、内外の行学兼備の諸学僧が雲集して仏教を研鑽した、当時の長安で指折りの中心的大寺院です。

そんな唐でも最先端の地にてその実際を、しかも足掛け十七年にもおよぶ長期に渡って目の当たりにしていたが故になおさら、日本における僧俗らがまるであるべき威儀を備えていないこと許せず、また仏門にあっても名聞利養に明け暮れる者も跋扈しておりそれを嘆き批判したのでしょう。

今挙げた日本の正史、『続日本紀』(以下『続紀』)「道慈卒伝」が伝えるのは、あくまでその略であるでしょうが、その著『愚志』から道慈のまさに志を垣間見ることが出来ます。道慈は『愚志』の中で、当時行われた仏教の有り様をして「虚設」などという言葉でもって批判していたようですが、そう云われた当の僧尼らは心中穏やかでなかったと思われます。

しかし、それが「虚設」と云われるにふさわしいものであったろうことは、僧尼の範となりその非法を監督するものとして設置されていたはずの僧綱が機能せず、また僧尼も妄りに振る舞っていたことが同じく『続紀』に記述されていることによって知られます。

己卯。太政官奏言。内典外敎。道趣雖異。量才揆軄。理致同歸。比來僧綱䒭。既罕都座。縦恣横行。既難平理。彼此往還。空延時日。尺牘案文。未經決斷。一曹細務。極多擁滯。其僧綱者。智徳具足。眞俗棟梁。理義該通。戒業精勤。緇侶以之推讓。素衆由是歸仰。然以居処非一。法務不俻。雜事荐臻。終違令條。冝以藥師寺常爲住居。又奏言。垂化設敎。資章程以方通。導俗訓人。違彝典而卽妨。近在京僧尼。以淺識輕智。巧說罪福之因果。不練戒律。詐誘都裏之衆庶。内黷聖敎。外虧皇猷。遂令人之妻子剃髪刻膚。動稱佛法。輙離室家。無懲綱紀。不顧親夫。或負經捧鉢。乞食於街衢之間。或僞誦邪說。寄落於村邑之中。聚宿爲常。妖訛成羣。初似脩道、終挾姧乱。永言其弊。特須禁斷。奏可之。
(養老六年〈722〉七月)己卯〈10日〉、太政官奏言す。内典〈仏典〉と外教〈儒教や道教〉とは、その道の趣が異なっているといっても、その才を量って職を司ることなど、その理致は同一である。この頃、僧綱〈玄蕃寮に属す寺院・僧尼の監督職〉等が都座に旗さして縦恣に横行すること久しく、もはやこれを糺し裁くことすら難しくなっている。(僧綱に任じられた僧徒らは)ただあちこち往還するだけで空しく月日を過ごし、尺牘〈書簡〉の案文〈草案〉は決断することなく放置し、一曹〈一官職〉としての細務〈細々とした事務〉を極めて擁滞〈滞ること〉させることがあまりに多い。そもそも僧綱とは、智徳を具足した真俗〈出家と在家〉の棟梁である。理義〈道理と正義〉に該通〈該博な知識を有すること〉し、戒業に精勤なる者である。緇侶〈出家者〉はその故に(僧綱の職位に)推讓〈自ら譲って人を推薦すること〉し、素衆〈在家者〉はその為に帰仰〈帰依し鑽仰すること〉するのだ。にもかかわらず、その居処が一つでないことを理由に法務を全うせず、雑事ばかり頻りに起こして終には令条〈律令〉に違反している。(そのようなことから以後は)よろしく薬師寺をもって(僧綱職に任じられた者の)常の住居とすること〈これ以降、機関としての僧綱は薬師寺に置かれ、その職位に任じられた者も同寺に居することとされた〉
また奏言す。化を垂れ教えを設けること〈仏法を広め教導すること〉は、章程〈規則・法式〉に従うことに依ってこそ四方に通じる〈普遍的になること〉。俗を導き人を訓じる〈教え諭すこと〉のに彝典〈常道〉に違ったならば、それが成功することはない。近頃、(平城)京の僧尼が、その浅はかな知識と軽い智慧でもって巧みに罪福の因果を説きまわり、戒律を練行することなくして都裏の衆庶〈民衆〉を詐誘〈欺き騙して誘うこと。ここでは仏教の名を借りて邪道に導くこと〉している。内には聖教〈仏教〉を蔑ろにして外には皇猷〈帝による治国の道〉を損なっている。遂には人の妻子に剃髪・刻膚〈自らの皮膚を一部剥いで経文などを刻むこと〉させているが、(そんな者は)ややもすれば仏法と称してたやすく室家を離れて綱紀に則ること無く、親や夫を顧みることがなくなっている。あるいは経典を持ち鉢を携えて食を街衢〈巷〉の間に乞い、あるいは(あたかもそれが正法であるかのように)偽って邪説を誦し、村邑〈村里〉の中に寄落し聚宿〈集団で泊まること〉することが常態化して、妖訛〈でたらめ。ここでは妖しく邪な思想を吹聴する輩〉が群れをなしている。(その輩共の振る舞いは)初めは(正法の)修道に似たものであるけれども、終には姦乱の様相を呈するのである。長期的にその弊害を考えてみたならば、特にすべからく禁断しなければならないことを奏可する。

『続日本紀』巻九 養老六年七月己卯条
(新訂増補『国史大系』普及版 続日本紀』前篇, pp.93-94)

この生々しい記述から、現代日本の寺家にもよく認められる浅ましい有り様、さらにはカルトじみた新興宗教にしばしば見られる怪しく卑しい様相が、1300年前の昔にすでに現出してことが伺われます。なお、興福寺本『僧綱補任』および『七大寺年表』によれば、この当時に僧綱に任じられていたのは、義淵(僧正)・観成(大僧都)・弁正(少僧都)・神叡(律師)の四人です。

義淵は、大宝三年〈703〉から神亀五年〈728〉に死を迎えるまでの二十五年間という長きに渡り僧綱の長たる僧正に任じられていた、道慈の師僧であったとされる人です(興福寺本『僧綱補任』「道照道場道慈道境。以上皆義淵一室弟子也」)。

ところで、これは先に述べたことの繰り返しとなり、また諸々の史料にそのような記録も伝承も無いため推測に過ぎないことながら、しかし常識的に必ずそうであったろうと見るべきことですが、唐の寺院に留学滞在した当時の日本僧らは、入唐して早々に具足戒を受け比丘となっていたと思われます。なんとなれば、そもそもそれが仏教僧として至極当然のことであり、そうしなければ滞留する寺院にて正規の僧として扱われることはなく、その席に連なることも出来ず、したがって留学僧として様々な不利益が生じるからです。

事実、これは後に触れることでもありますが、戒師請来のために派遣された栄叡と普照は、入唐した直後に具足戒を受け比丘となっています。

道慈が唐で律学に専ら励んだということまではなかったとしても、しかし常識として、十七年あまりを過ごすなか比丘としての振る舞い・仏教者のあるべきようを自ずから備えていたと考えるのが自然です。道慈の、実は仏教者としては当然であったろうと云える、感情的なものでないその知識と経験からした批判的言動。それはしかし、いまだ仏教のなんたるか、戒律の重要性やその正統を知らない、あるいは知りながら敢えて無視していた当時の人々には、むしろ彼が実に頑固で不協調的であるとの印象を与えていたのでしょう。

「虚設」の中で生きる人には「虚設」こそが正義であってその生きる道であるのに、それを横から批判する者は彼らにとってやっかいな加害者、その和を乱す不埒者でしかない。そのような構造は、現代の日本社会においてもしばしば見られる事態です。

編者不明ながら日本初の漢詩集『懐風藻』「道慈伝」には、以下のような一節があってその様子を伺うことが出来ます。

養老二年。歸來本國。帝嘉之。拜僧綱律師。性甚骨鯁。為時不容。
養老二年〈718〉、(道慈は)本国に帰来した。帝はこれを喜び、僧綱の律師に任命した。(しかし、道慈の)性は甚だ骨鯁〈意志強固で不屈であること〉であって、その時代に(仏教者として正しくあるべきという主張が)受け入れられることはなかった。

『懐風藻』「道慈伝」

『懐風藻』にわざわざ伝記付きでその歌を載せられているのは、道慈が当時「性甚骨鯁。為時不容」とされたとはいえ、そのような態度が仏教者として正しいと編者によって高く評価されていたからこそのことでありましょう。

そんな道慈の志が他に直接影響を与えたのか、当時はそのような自省と求法の志が気運として高まっていたのかしれませんが、ついにその実現のための契機を作る人が現れています。元興寺の隆尊です。

隆尊により、栄叡と普照を唐に派遣することになる経緯を伝えるのが、嘉承元年〈1106〉に当時蒐集し得た東大寺に関わる諸資料が寺僧の某により編纂され、長承三年〈1134〉八月十日に東大寺僧観厳によりさらに集大成されたものとされる寺誌、『東大寺要録』の一節です。

五年癸酉。《中略》 又有元興寺沙門隆尊律師者。志存鵝珠。終求草繋。於我国中。雖有律本。闕傅戒人。幸簉玄門。嘆無戒足。卽請舎人王子處曰。日本戒律未具。假王威力。発遺僧榮叡。隨使入唐。請傅戒師。還我聖朝。傅受戒品。舎人親王卽爲隆尊奏。勑召件榮叡入唐。於是興福寺榮叡。與普照倶奉勑。四月三日。隨遺唐大使多治比眞人廣成。到唐國。
(天平)五年癸酉〈733〉、《中略》 また元興寺沙門隆尊律師という者があり、その志は鵝珠〈小さな命でも決して害わず守ろうと努めること。ある比丘が、托鉢に訪れた宝玉職人の家で誤って宝玉を飲み込んだ鵝鳥の命を護るため、自らの身命を擲とうとした、という『大乗荘厳経論』巻十一にある説話に基づく語〉にあって終に草繋〈どれほど小さな律の条項であってもこれを厳密に守ろうとすること。またはそのような比丘のこと。賊により地面から生えた草でもって捕縛された比丘達が、生草を損傷してはならないという律の条項を守るために、たやすく引きちぎることが出来る草であってもこれを害わなかった、という『大乗荘厳経論』巻三にある説話に基づく語。「結草の比丘」とも〉たることを求めていた。
「我が国の中には律蔵の典籍は有るけれども、(肝心のそれを実行する)伝戒の人が欠けて無い。(私は)幸いにも玄門〈出家。玄は鼠色で、支那以来僧侶の衣の色を象徴・代表したもの〉に交わることが出来たとはいえ、戒足の無いこと〈持戒は三学の初めであり、仏道修行の根本たることを戒足という。『仁王経』や『涅槃経』等で用いられる語。ここでは日本に正統な律の伝来・実行が無く、仏道を全う出来ないことの意〉を嘆くばかりである」
と。そこで舎人王子〈天武天皇の第三皇子、舎人親王。淡路廃帝(淳仁天皇)の父〉のもとに参じ、
「日本(仏教)には戒律が未だ具わっておりません。王の威力を借り、僧栄叡を派遣し大使に随行させ唐に入らせたまえ。そして伝戒師を請うて我が聖朝に還らせ、戒品を伝受させたまえ」
と請い求めた。舎人親王は隆尊の為にこれを(天皇に)上奏し、勅にて件の栄叡を召して入唐させることとなった。そこで興福寺の栄叡は普照と共に勅を奉じ、(同年)四月三日、遺唐大使〈第10次遣唐使〉の多治比真人広成に随行して唐の国に至ったのである。

『東大寺要録』巻一 本願章(筒井英俊校訂『東大寺要録』, p.7)

隆尊もまた日本における仏教に戒律が欠けてないことを、彼の場合は道慈と立場が異なって「自らが出家していながら実は正しく出家者でないことを嘆いている」のですが、舎人親王を通じて帝に戒師招聘の必要性を上奏したとされています。

隆尊はその三十三年後の天平勝宝三年〈751〉に律師として僧綱に任じられ、また翌四年四月九日に修された東大寺の盧遮那仏落慶法要の際には講師として出仕するなど、それなりに学徳の人であったようです。しかし、その時すでに道慈は七年前に卒去して無く、また道慈と若い頃の隆尊との繋がりを示す直接の史料は、拙には今のところ見いだすことはできません。

隆尊については、今は散失してその一部が宗性『日本高僧伝要文抄』などに載せられたことにより知られるのみとなっている、鑑真の弟子として共に来日し日本初の僧伝を著した思託による『延暦僧録』に「高僧沙門釈隆尊伝」(「隆尊伝」)として伝わっています。このことからも、隆尊は当時から鑑真請来の契機となった人であると認識され、評価されていたことが知られます。

さて、鑑真が天平勝宝五年〈753〉に渡来して正規の律および菩薩戒がもたらされる以前の、日本で出家としてあった者らは、前述の『占察経』に基づいて三聚浄戒を自誓受することによって正統な比丘足り得ると考えていたようです。もっとも、『占察経』は玄昉により天平七年〈735〉に初めて日本にもたらされたと思われる経典であるため、それ以降に行われていたであろう行儀であったと推測されます。

ではその以前はどうであったのか。これが全くの不明となっています。瑜伽戒も梵網戒のいずれも日本にすでに伝わっていたのですが、それらを受けることで出家となることは出来ないのですが、何らかの形で僧と沙弥との区別をつけていたことだけは確かです。

結局、鑑真およびその門弟らが渡来するや、彼らの仏教僧としての正統性は、これは婉曲にではあってしょうけれども否定されています。具足戒を正しく受けていなかった、すなわち正しく別受していなければ、どうやっても僧となることは出来ないためです。そこで、これは仏教者本来のあり方としてはもちろんのことながら、聖武太上天皇の強い意向としても、東大寺に設けた戒壇において、改めて正しく受戒することが求められています。

ところがこれに対し、旧来の志忠や霊福・賢璟などの、言ってしまえば自称僧侶・非正規であった旧僧の一部が反発。これに対し、自ら唐に入った直後に具足戒を受けた上で支那における戒律についての実際を具さに見て回り、ついに当代きっての律僧と称賛されていた鑑真を本朝に招聘した一大功労者であった普照は、そのような旧僧らを集めて『瑜伽論』の所説に基づいて道理を説き、彼らの誰も反論出来ぬまでその主張を悉く破したといいます。

このあたりの経緯は、『法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記』など鑑真和上の伝記や唐招提寺の史書などには、その内容が決して好ましいものでなかったからでしょうけれども、まったく触れられていません。

それはしかし、今は散逸してその全体が失われてしまった日本最古の僧伝たる思託『延暦僧歴』普照伝に伝えられ、幸いにもそれが鎌倉中期に著された宋性『日本高僧伝要文抄』に収録されたことによって、吾人の今も知り得るところとなっています。

自至聖朝合國僧不伏。無戒不知傅戒來由。僧數不足。先於維摩堂已具叙竟。從此已後伏受戒。其中志忠靈福賢璟引占察經許自誓受戒。便將瑜伽論決擇分第五十三巻詰云。諸戒容自誓受。唯聲聞律儀不容自受。若容自者。如是律儀都無規範。志忠賢璟等杜口無對。備以衣鉢受戒。
(普照・鑑真・思託らが)聖朝〈日本〉に到着しても、国中の僧は(鑑真らによってもたらされた正統な戒律を改めて受けることを)承服しなかった。(彼らは)無戒であって伝戒の来由〈正統な受戒法やその内容〉を知らず、また(正統な受戒のために必要な)僧〈比丘〉の員数〈原則として授戒は最低でも十人、いわゆる三師七証の比丘が揃わなければ出来ない。辺地では五人以上〉も不足していたのである。そこで先ず(普照は、興福寺)維摩堂にて(正統な戒律とその受戒について、旧僧らを集めて)詳細に講述した。するとそれ以降、(旧僧の大半は鑑真からの)受戒を受け入れていった。
しかしながら、その中でも志忠・霊福・賢璟は『占察経』を引用して自誓受戒(によって比丘となりえること)が許されていると主張(し、自身らが自誓受戒によって比丘となっていると反発して、鑑真から改めて受戒することにあくまで反対)した。そこで(普照は)『瑜伽師地論』決択分巻五十三の所説を示して彼らを詰問した。菩薩の諸戒は自誓受が許されているものの、しかし唯だ声聞律儀〈『瑜伽師地論』では「苾蒭律儀」と限定しているが、これを思託は出家者の律儀全てを代表しての言であると解して「声聞律儀」と変えている。そしてそのような思託の理解は正しい〉のみは自誓受は容認されていないこと。もし(声聞律儀の)自誓受を許したならば、如是の律儀〈仏陀以来の出家の律儀〉は全て無規範なものとなってしまうことを諭したのである。すると志忠・賢璟等は口をつぐんでもはや反論出来なかった。(そこで彼らも)衣鉢を以て(改めて鑑真のもとにて)受戒することになった。

宋性『日本高僧伝要文抄』第三 高僧沙門釈普照伝
(日仏全 vol.101, p.69a)

結果、彼ら旧僧は『占察経』に基づく戒を「捨て」、改めて戒壇院にて具足戒および三聚浄戒を受けたといいます。

もっとも、彼らが鑑真からの受戒を受け入れたとは言え、決して鑑真らに心服したわけでありませんでした。政治的には従わざるを得なかったものの、旧僧には以降もことあるごとに反発する者があったことが『延暦僧録』や『東大寺要録』などにおける記述から知られます。その具体的理由は、あれこれと推測することこそ出来ますが、何らその手がかりとなる史料が伝わっておらず、今となっては知る由もありません。いずれにせよ鑑真和上による正規の戒律の伝来は、全ての僧徒から両手を挙げて歓迎されたものとは到底言い難いものでした。

このような日本の旧の自称僧侶らのあり方や主張は、日本が支那以上に印度から遠く、また海波によって隔てられているが故に印度およびその周辺からの渡来僧がほとんどなく、ために印度・支那における実際について無知であったために生じたものと言えます。

そもそも日本の僧徒には、これは支那の僧徒らにも同様に言えることですが、それ以上に小乗であるとか声聞であるとか外道などといった存在が、ただ典籍の中にて目にする言葉上のものに過ぎず、現実に目にして接する機会などほぼ全く無いものでした。そのような環境こそ、日本の仏教が世界のそれからすると独自、ある場合には全く別物の異常なものとなった一大要因と考えられます。

彼らはいわゆる外道としのぎを削る必要も必然性もなかったものの、しかしその故にむしろ仏教内で争い合いました。平安期以降、特に鎌倉期以降ともなると、護法の為などでなく、他宗に対して自宗の優位性など主張するため、むしろ非仏教的な思想を次々生み出した僧徒が多く出ています。その類の者等は当然、様々な仏典を根拠として示してその主張が三国伝来の正当なるものであることや、印度以来の正統なるものであることを証しようと試みています。しかし、そのほとんどが全く印度にも支那にも見られなかった独自の、すなわち非仏教的思想でした。

それは、一概におしなべてかく言うことは少々乱暴かもしれませんが、奈良・平安期の南都六宗などは例外として、古代から近世にかけての日本仏教にほぼ一貫して言えることです。

閑話休題。そもそも鑑真和上が招聘されるに至った契機は、そのさらに昔の推古天皇代において、日本で僧とされていた者がその叔父の頭をなたで叩き割って殺したという事件にまでさかのぼります。これに激怒した推古帝は、その僧のみならず全ての非法の僧を罰しようとしたところ、帝に仕えていた百済僧観勒が、日本の僧には律儀を具えず無戒であることがそもそもの問題であることを奏聞。そこで初めて、仏教には戒律が必須であること、国としても僧に正しく律儀を具えさせる必要のあることを意識しています。

そして律令制を支那に倣って整備し国家としてその体裁を整えていく中、ようやくその念願が叶ったのが、聖武天皇の治世における鑑真の渡来による正規の戒律伝来でした。

ところが、日本から支那へと渡航して彼の地の実際や知識を持ち帰る僧侶らが各時代にそれなりにあり、そんな彼らは各々重大な影響を与えているものの、しかしそのような無知は依然としてその後の時代それぞれに存在しています。そして、そのような無知の故に、仏教としては珍奇なる主張が様々になされ、それに基づいた問題を多く生じさせています。

例えば平安初期、最澄が梵網戒単受によって比丘となり得ると強弁したことによって論争を惹起したことは、言ってしまえば天平の昔に否定された話を、最澄がただ立場を変えて蒸し返したようなものです。しかもそれは結局、天平の昔における旧僧らがそうであったように、最澄の「純粋なる宗教的・仏教的信条」などといったものに基づいたのではなく、全く彼の政治的事情からなされたものでした。

(最澄の主張自体については別項「最澄『山家学生式』」を、またその主たる論拠とした『梵網経』については「梵網戒」を 参照のこと。)

とは言え、鑑真和上の渡来によって整備された本来の受戒制度は、その後百年を経たころより次第に衰微し、ついに平安中期には実質的に断絶。戒壇院での受戒は全く内容の無い、ただ形ばかりの通過儀礼として継続されるのみとなっています。以来、もはや日本では正規の授戒を行うことが不可能となっています。そして律宗自体もまた衰微を極め、法相宗の興福寺および華厳宗の東大寺における一部の僧らが相伝するようになっていました。

(当時の日本仏教の状態を示す一例として、別項「戒山『中川寺實範律師伝』」を参照のこと。)

そこに、平安後期これを問題視した興福寺出身の実範〈?-1144〉が現れてその礎を築くと、後に同じく興福寺から出た解脱上人貞慶〈1155-1213〉などがその遺志を継いで戒律復興の実現に向かいます。結果、それを嘉禎二年〈1236〉に現実のものとしたのが、覚盛〈1194-1249〉・叡尊〈1201-1290〉・圓晴・有厳の四人でした。

ところが、その戒律復興は本来決してありえないはずの、事実として支那歴代及び天平の昔の日本でも全く否定されていた、ただ三聚浄戒を自誓受することによるものでした。そして、その正当性を証する根拠の一つとされたのが、まさに前述の『占察経』です。

先程、最澄の大乗戒壇の主張を「天平の昔に否定された話を、ただ立場を変えて蒸し返したようなもの」と述べましたが、そう云うならば、鎌倉期に覚盛と叡尊らによってなされた戒律復興もまた、実は同じく天平の昔に否定された話の蒸し返しでした。しかも、それが最澄の主張した梵網戒単受による比丘出家を全面否定してきた、鑑真の流れにあると自負する者らによってなされたのですから、実に皮肉な話であったといえましょう。

事実、覚盛や叡尊およびその門流らがその嚆矢として仰いだ実範と貞慶のいずれもが、三聚浄戒の受戒のみによって比丘となり得るという主張を悉く、そして全く否定していました。例えば実範は以下のように断言しています。

戒是佛法壽命。衆生福田。三學依之立。七衆因之成焉。有云。若總受三聚淨戒者。雖不別受比丘別解脱戒而成菩薩比丘性。地持等説。攝律儀戒中有七衆別解脱戒。故淨影破云。此義不然。菩薩戒中雖復通攝七衆之法。一形之中不可竝持七衆之戒。隨形所在要須別受。如人雖復總求出道隨入何地別須起心方便趣求。此亦如是云云 道璿和上同淨影意也。故大小乘一切苾芻皆別得其別解脱戒成苾芻性。
戒とは仏法の寿命、衆生の福田である。三学はこれより立ち、七衆はこれより成じる。或る者は言う、「もし三聚淨戒〈菩薩戒〉を総受したならば、比丘の別解脱戒を別受せずとも菩薩比丘性を成じる。『菩薩地持経』等に『摂律儀戒の中に七衆別解脱戒が含まれる』と説かれている」と。しかし、故淨影〈浄影寺慧遠。支那隋代の高僧〉は(そのような主張を)論破し、「そのような理解は正しくない。菩薩戒の中にもまた通じて七衆の法を包摂しているとは言え、一形〈一つの立場〉で(出家・在家の)七衆戒全てを併せ持つことなど出来はしない。その形〈立場〉の所在に応じて必ず別受しなければならないのだ。それは、あらゆる人が解脱の道を求めたとしても、各々の様々なる境地にあって、それぞれ異なる決心に相応しい方法によって、その道を歩むようなものである。この(三聚浄戒とは別途に律儀を別受しなければならない)ことについても同様である」と云っている〈慧遠『大乗義章』〉。道璿和上〈鑑真以前に普照らによって招聘され渡来し、大安寺にあった天台と律とに通じた支那の学僧〉も淨影の見解と同様であった。故に大小乗の一切の苾芻〈bhikṣu. 比丘〉も皆、別してその別解脱戒を受けてこそ苾芻性〈比丘性〉を成じることが出来るのだ。

実範『東大寺戒壇院受戒式』(日蔵 vol.13, p.485a)

実範はここで、浄影寺慧遠の『大乗義章』や鑑真に先駆けて日本に招聘され大安寺や比蘇山寺に居した道璿〈702-760〉の言葉を引き合いに出し、三聚浄戒の受戒のみで比丘となり得るなどという主張を退けています。

いまだ戒律の理解が十分でなかった支那の隋代に同じく、鑑真和上渡来以前にもそのような類が存在して普照らに論破されていたことは先に述べたとおりですが、平安後期の日本にてもそのような経緯を知らず踏まえず、未だ同様の主張をする者があったのでしょう。またあるいはこの言は、比叡山において平安初期から続けられていた梵網戒単受という日本天台宗独自の体制への批判であったかもしれません。

このような印度および支那以来の立場を、やはり貞慶も全く同様に取っていました。貞慶はまた当時、最澄の主張および日本天台宗における受戒が全く根拠なく、その正統性も正当性もない、けれどもただ政治的には勅許されてしまったものであるという南都に継承されてきた認識を、改めて一書を著して強調しています。

夫尋戒根源。凡於菩薩所修六波羅蜜。戒波羅蜜中有三種不同。一者攝律儀戒。謂正遠離所應遠離法。二者攝善法戒。謂正修證應修證法。三者饒益有情戒。謂正利益一切有情。其中第一律儀戒者。聲聞菩薩大乘小乘共受戒也。以此律儀戒或名具足戒。或名比丘戒。故方成大小比丘僧。設雖菩薩先受比丘戒卽烈比丘衆。其上可受菩薩戒也。若菩薩不受比丘戒者。是應非比丘衆哉。
そもそも戒の根源を尋ねてみれば、およそ菩薩が修めるべき六波羅蜜の戒波羅蜜の中に三種の不同がある。一つは摂律儀戒、すなわち正しく遠離すべき法を遠離するもの。二つには摂善法戒、すなわち正しく修証すべき法を修証するもの。三つには饒益有情戒、すなわち正しく一切有情を利益するものである。
その中の第一、律儀戒とは声聞・菩薩、大乗・小乗の共に受ける戒である。この律儀戒をあるいは具足戒と言い、あるいは比丘戒とも言って、(律儀戒を受けるが)故に大乗・小乗の比丘僧と成りえる。たとい菩薩であったとしても、(出家であれば)先ず比丘戒を受けて比丘衆に列なる。その上で菩薩戒を受けなければならない。もし菩薩で比丘戒を受けなければ比丘衆にはなり得ないのだ。

貞慶『南都叡山戒勝劣事』(日蔵 vol.13, p.495a)

特に覚盛は法相宗の人であり、また貞慶の門弟(正確には貞慶の弟子戒如の徒弟)の中でも最年少ながら突出した秀才であったとされます。故に当然、『善戒経』や『瓔珞経』および『梵網経』、そして『瑜伽論』・『摂論』等々の経論はもとより、それまでの支那及び日本における戒律史や諸師の見解などに充分過ぎるほど通じていたでしょう。

ところが、覚盛はそれら従来の見解を覆し、それまで否定され続けていた三聚浄戒のみによって、しかも自誓受で比丘となり得るなどという主張を、法相宗祖である慈恩大師基『大乗法苑義林章』「表無表色章」や義寂『菩薩戒本疏』、特に主としては『占察経』を論拠として「捻出」。まさにそれに基づいて果たされたのが、中世の覚盛ら四人による戒律復興でした。

(なぜそれが四人で行われたのか。それは僧宝すなわち僧伽とは四人以上の比丘が集って初めて成立するためで、最低でも四人なければならなかったためです。)

覚盛はしかし、その正当性の裏付けとしていくつかの仏典に基づいた所論を構築してはいたものの、それが他から批判され軋轢を生じさせるものであることは十分承知していました。

覚盛は、三聚浄戒を自誓によって総受したことで比丘となったと自認してはいながら、起居していた興福寺松院から唐招提寺へと移るまでの七、八年の間はそれを隠し、それはもちろん不本意なことであったでしょうけれども、当時の宋から新たに伝わり律衣とされた袈裟衣〈南山衣〉や褊衫などを着ることは無く、当時の「普通の人〈無戒僧〉」と同様の外儀で振る舞っていたといいます。