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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒法

八戒

不邪命戒

八戒はっかいとは、在家信者に説かれる八つの戒で、五戒から飲酒戒おんじゅかいが除かれ、これに四つの戒が加えられたものです。といっても、解釈の上では、飲酒戒は第八戒に包含されるのであって、除かれているのでは無いとされます。

八戒とは普通、次項にて説明する八斎戒はっさいかい布薩戒ふさつかい)を言います。しかし、今ここに八戒として紹介しているものの原語は[P]Ājīvaṭṭhamakaアージーヴァッタマカ sīlaシーラでそれとは異なるものです。漢訳経典にはこれに該当する語がありません。そこで、これが八つの項目からなることから便宜的に八戒としています。もっとも、原語をそのまま訳したならば、ājīva(生活)+ aṭṭhama(第八)+ sīla(戒)。漢語で言えば、八命戒はちみょうかいあるいは八正命戒はちしょうみょうかいといったところとなります。

八戒とは以下のようなものです。

八戒 戒相
1 不殺生ふせっしょう いかなる生き物でも、故意に殺傷しない。
2 不偸盗ふちゅうとう 故意に他者の所有物を我が物としない。
3 不邪淫ふじゃいん 売買春、不倫しない。不適切な性関係を、誰であれ結ばない。
4 不妄語ふもうご 偽りの言葉を語らない。
5 不両舌ふりょうぜつ 二枚舌を使わない。離間語りけんご・陰口を言わない。
6 不悪口ふあっく 他者を誹謗・中傷しない。荒々しい言葉を使わない。
7 不綺語ふきご 噂話・世間話など、無駄口をたたかない。
8 不邪命ふじゃみょう 「非法」の職業・生業に従事しない。

以上のように、八戒は、五戒と比べると、口業くごう(語業)すなわち発言についての行為をより詳しく戒めています。第八戒に邪命じゃみょう、つまり「非法」の職業に従事しないことを挙げている点が特色です。

そこでまた、この戒はĀdibrahmacariyaアーディブラフマチャリヤ sīlaシーラと言われることもあります。その意味は「根本の清らかな行為たる戒」・「最初に行うべき崇高な行いの為の戒」。漢語で言うならば、本初梵行戒ほんしょぼんぎょうかいとなります。ただし、この語自体はパーリ語で伝えられた分別説部ふんべつせつぶ(上座部)の三蔵に直接見られるものではありません。分別説部の修道書として最も権威ある書、Visuddhimaggaヴィスッディマッガ(『清浄道論しょうじょうどうろん』)において言われるものです。

また、先ほど述べたように、漢訳経典や律蔵にもこれに直接該当する語は見あたりません。しかし、㸿子部とくしぶの論書と言われる『三法度論さんぼうどろん』や、『摩訶般若波羅蜜経まかはんにゃはらみつきょう』の注釈書『大智度論だいちどろん』における戒を定義する一説にこれとまったく同様の戒相が挙げられています。

尸羅秦言性善好行善道不自放逸。是名尸羅。或受戒行善或不受戒行善。皆名尸羅。尸羅者。略説身口律儀有八種。不惱害不劫盜不邪婬不妄語不兩舌不惡口不綺語不飮酒及淨命。是名戒相。若不護放捨。是名破戒。
尸羅しら〈śīla〉秦では性善というとは、好んで善道を行い、みずから放逸ほういつでないこと。それを尸羅と言う。あるいは戒を受けて善を行い、あるいは戒を受けずとも善を行うのもすべて尸羅と名づける。尸羅とは、要略して言えば身体と言葉の行いの律儀であって八種ある。(生けるものを)悩ませ、害しないこと。他の物を勝手に我がものとしないこと。不適切な性行為に及ばないこと。偽りの言葉を語らないこと。他を離間させる言葉を発しないこと。粗暴な言葉を用いないこと。無益な言葉を口にしないこと。飲酒しないこと。および法に則った生業なりわい〈浄命.屠殺・漁猟・人身や家畜の生産売買・酒造およびその販売・売春に関わる業以外の職〉に就くこと。これらを戒相かいそう〈戒の具体的な条項〉と名づけ、もしこれらを護らず放逸であるならば、これを破戒と名づける。

龍樹『大智度論』巻十三 尸羅波羅蜜義第二十一(T25, p.153b)

ここでは『清浄道論』とほぼ同様に、この八戒を以て根本的な戒とされています。

小乗・大乗諸派の伝統的教学では通じて、戒の本質とは正語しょうご正業しょうごう正命しょうみょうである、と言われます。実際、仏教修道の根幹をなす八正道のうち、正語・正業・正命は、戒・定・慧の三学でいうならば戒学に配当されます。ちなみに正見・正思惟は慧学、正念・正定は定学に配当されます。

八戒とは、五戒をより詳しく説いた戒であり、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道のうち正語・正業・正命を実現するための、在家信者のための戒です。

邪命 ―よこしまな職業・生業

八戒の第八にいわれる邪命、それは涅槃を求める者ならば離れるべき、よこしまな職業・生業、生活手段を意味します。

では邪な職業・生業、生活手段とは具体的に何か。

世界には理不尽な法律を布く国が複数あるため一概に言えませんが、それぞれの国・地方で禁じられている非合法の職業・生活手段が、一般的な意味で邪命だとまず言えるでしょう。では仏教的にいえばどうか。それは五戒の一々に抵触する職業、あるいは十善業道を侵さなければ成立しない生業は邪命となります。したがって、ただ俗法に則っている、違反していないからといって、それだけで善いと仏教は考えません。

たとえば、やくざなど暴力組織、・暗殺業、武器の生産業ならびに販売業、そして屠殺とさつ業や、人を含む諸々の生き物の販売業、殺傷目的の毒薬や麻薬、あるいは酒の生産業と販売業など、これらは不殺生もしくは不飲酒に抵触するものでありため、邪な職業です。

また、盗賊や詐欺師は当然のことながら、事実と著しく異なる説明によって物を販売して購入者に損失を与える商売は、不偸盗または不妄語に抵触するため、邪な職業です。売春など性風俗やその斡旋に関係する職業、これらは不邪淫に抵触します。当然ながら、売春婦など淫売、あるいは売春斡旋業も言うまでもなく邪な職業です。また、賭博の類から得た収入によって生活することも邪であるとされます。

ならば反対に邪ではない職業、法に則った生活手段、それを正命といいますが、それは何か。上記の諸職業を除くのはもちろんのこととして、五戒に触れない職業、十悪に反しないならば、それとして正しいものとなります。

ところで、江戸時代の京都にあって儒教や仏教・道教など諸々の思想・宗教を斟酌しんしゃく混交こんこうして石門心学せきもんしんがくといわれる独自の道を説いた石田梅岩いしだ ばいがんは、「職業に貴賎きせんなし」という言葉を遺しています。そして多くの場合、その出所は知られぬままに、今もなおその言葉を口にする者があります。しかし、その言は虚事というものです。職業に貴賤はあり、現代社会および人々はそれを決して大っぴらには口にすることはないものの、自明のものとしています。

職業差別など決してしてはならない、と口では云われます。が、では例えば売春婦であるとか、銀行以外の貸金業、特に闇金融に類する者など、それらはすでに日本で非合法なものでありますが、しかし職業として成立しています。それらはいやしくないのか。もし、それに関わるのが知られた者と身内が結婚する、親族になるなどとなったとき、多くの場合、その家族は猛反対することでしょうけれども、それは何故か。それは決して「非合法の職であるから」だけではないでしょう。

仮に合法であっても、そしてそれが相当な賃金を得ることの出来る大企業であったとしても、その会社が国や地方自治体にたかって人々の血税をすすり、ひそかに法すら破り、あるいは法の網の目をかいくぐって法外な報酬を得て得得とすることを生業なりわいとしているようなのがあります。それらは卑しい行い、職ではないのか。出資を極限まで抑えつつ、世の人々にできるだけ高額に売りつけるため恐るべき数々の所業を為している、動物たちの繁殖家であるとか生体販売に関わる業はどうか。それは業が卑しいのではない、その個人の質として卑しい者があるということであって混同してはならない、という反駁はんばくがあるかもしれません。が、果たしてそれは本当でしょうか。

一般に「世にある職業は誰かに必要とされるからこそ存在している。存在し得る」と云われます。なるほど、確かにそう云うことは可能でしょう。

けれども、そういう場合、「その必要とする者とは誰か」が問われることはありません。実際の処、それが無くとも社会は一向構わないにも関わらず、自身の利益を得るために強いてその居場所を作り出し、その実にまるで見合わぬ金銭を要求して居直っている輩は少なからずあります。実業に対しての虚業だけでなく、無くても良い名目だけや不必要な価値を加えて事物を売りつけようとするものも虚業と称したならば、それに当たる職業を数え上げるのに、十本の指では決して足りないでしょう。

そして、社会に必要不可欠とされる職業であっても、仏教からすれば邪命とされるものも五万とあります。仏教がいう邪命なるものをこの世から消し去ったならば、たちまち社会は立ち行かなくなるであろう、という者もきっとあるでしょう。しかし、そういうことは実現しない。というのは、社会が仏教、いや、法に全く従ったものとなることなど決してないからです。

今、我々はもはや封建社会になく、また王族や独裁者、あるいは社会主義・強者ん主義による専制政治下には幸いにもないため、職業選択の自由が保証されており、ある程度その自由を謳歌することが出来ます。しかしながら、人にはいかんともし難い生まれながらの境遇、持って生まれた能力や運、また不可逆の年齢・老いがあります。

そこで自身の分、能力、立場に応じて、可能な限り自身が努力し、希望する職、生きる道を選ばなければなりません。人は出来ることしか出来ませんが、その出来ること、勤めればきっと為し得ることをすらせず、ただ自らの職や境遇を嘆くのは愚かにすぎるというものです。まず己が努力すること。でなければ、自分の分をすら知ることは出来ません。ただ現状に不満ばかりを感じていても虚しいだけで意味はない。

何事も人任せにせず、人のせいにもせず、自分が選択し決意し、それぞれの立場に応じてすべきことなし、その分に応じた生活、人生を送る。その選択を正しいものとするか悪しきものとするか、それは全て自分の問題です。

仏陀は涅槃に至る道を開き、またその道程を詳しく残されました。いずれの道を生きるか、それぞれの道にはまた多くの分岐点があって、人は常に選択しなければなりません。自由社会であるとはいえ、しかし現実には極限られている選択肢の中から、自らの道を選択すること、それは自身の人生をどう生きるかの問題であり、自分自身が決めるべきことです。

出家者の邪命

では出家者の邪命とは何か。それは四邪命しじゃみょうあるいは五邪命ごじゃみょうであると言われます(『大毘婆沙論だいびばしゃろん』)。

四邪命とは、人が出家して比丘となる受具足戒のとき、比丘なることが認められた後に必ず言い聞かせられる、律蔵に規定された比丘が離れるべき四つの食を得る方法(生活手段)です。その四つとは、下口食げくじき仰口食ぎょうくじき方口食ほうくじき四維口食しいくじきです。

下口食とは、薬を調合するなど医療、穀物や木を植えるなど農業によって食を得ること。仰口食とは、星の運行など自然の諸現象を観察することなどによって食を得ること。方口食とは、有力者など富裕層に近づいて、彼らの為に便宜を図ったり、彼らに甘言・巧言して自らの利を計ったりすることによって食を得ること。最後の四維口食とは、諸々の呪術・占術・吉凶の呪いを行うことによって食を得ることです。

また五邪命とは、一つには、普段の自分を隠してさも高い徳があるかのように振る舞うなどして、在家信者の信を得、食を得ること。二つには、自分がもつ神通力や特殊な力、あるいは徳を在家信者にひけらかして食を得ること。三つには、占術や人相占いを行って食を得ること。四つには、人々に対して大声を出したり恫喝するなどして食を得ること。五つには、人々に甘言・巧言して布施させるように仕向けることです。

では反対に出家者の正命・浄命とは何か。それは、まず第一に、晴天雨天や気温の寒暖を問わず、三衣をまとって鉄鉢を持ち、朝に町や村を巡ってその日の食を托鉢によって得ることです。また、在家信者からの食事の招待を受けること。あるいは精舎や庵に布施として持ち込まれた料理を食し、またその寄進によって生活することです。というのも、比丘はみずから料理などしてはならないとされるからです。また、寺院や精舎の結界内で料理したものを食すことも律儀の違犯いぼんとなります。

また、日本ではしばしば正午以降、夜においてすら街頭に立って托鉢たくはつの真似をしている僧形の者がありますが、托鉢は午前中のみ可能なことであって、昼以降に托鉢するなど本来ありえません。

仏陀はその最後の出家修行者に対する説法の中で、「清浄しょうじょうに自活せよ」と重ねて遺戒されています(『仏遺教経』)。ここでいう清浄とは、漠然と「清らかに」などという意味ではなく、具体的に仏陀によって定められた律の規定に違反しないことです。それは、農耕などによる労働・生産活動などから離れ、上に挙げた四邪命・五邪命などから離れた生活です。

一般に、支那の禅宗から行われ出した自給自足の生活を日本でも良しとし、むしろそれが仏教僧本来のあり方だと見る風潮がありますが、実は仏教の修行者としては非法・破戒のものです。

したがって、仏陀が説かれた「自活」とは、一般的な意味でのそれとは大きく意味が異なります。それは仏教の出家修行者は常識的な意味と真反対に、経済的には「全面的に在家信者に依存しなければいけない」、ということを意味します。仏教の修行者をしていう比丘びくとは、[S]Bhikṣuビクス、または[P]Bhikkhuビックの音写ですが、それは「(食を)乞う者」の意です。

非人沙門覺應