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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒法

瑜伽戒 Ⅰ. 瑜伽戒とは

『菩薩善戒経』と『瑜伽師地論』

瑜伽戒とは、『菩薩善戒経』および『菩薩地持経』、ならびに『瑜伽師地論』本地分菩薩地瑜伽処戒品にて説かれる菩薩戒であり、三聚浄戒の一環でその具体です。

『菩薩地持経』は、中印度から五胡十六国時代の北涼に至った印度僧、曇無讖により晋安帝代〈396-419〉に訳出されたもので、『瑜伽師地論』に二百年以上も先駆けて支那に伝わっていたものです。というのも、これは内容的に後代遅れて伝わった『瑜伽師地論』の本地分菩薩地とほとんど全同で、実際その部分訳・同本異訳であったためです。

故に『菩薩地持経』は末尾に「経」と題されていますが、しかしその体裁も内容も経典ではなくいわゆる論書の類であって、事実そのように扱われてきました。初期の漢訳仏典の標題には、しばしば経と論との区別がつけられていないものがあるのですが、まさに『菩薩地持経』がそれで、論であるのに経と題された典籍の一つです。しかし、それが実際は論書であっても、支那に初めてもたらされた菩薩戒〈三聚浄戒〉を体系的に説く典籍でもあったために専ら依用され、『菩薩戒経』あるいは『菩薩地経』とも称されています。

次に『菩薩善戒経』とは、南朝宋代の元嘉年間〈424-453〉に求那跋摩〈Guṇavarman〉によって訳出されたもので、一巻本と九巻本との二本あります。後代にはこの二本が合され、一巻本を巻第十として十巻本とされたものも存しています。

一巻本には「優波離問菩薩受戒法」との副題が付されていますが、その題の通り特に菩薩の受戒法に焦点があてられたものです。これを支那の華厳宗第三祖法蔵は、その内容に基づいて『重楼戒経』とも呼称しています。九巻本はその体裁も内容もいわゆる経典です。いわば菩薩とは何かを主題としたもので、六波羅蜜を明かしていく中に菩薩地戒品があり、菩薩が受けるべきものとしていわゆる三聚浄戒が説かれます。

一巻本もまた同じく三聚浄戒がいかなるものかを説きますが、それぞれ明らかにする戒の範囲が異なった部分があるなど、一巻本と九巻本とはいわゆる広略の関係にはありません。また、単純に一巻本は九巻本の部分訳であると言えるものでなく、そのようなことから両本が合されて十巻ともされたことがあったようです。

そして、『瑜伽師地論』とは、玄奘によれば弥勒の所説を無着〈Asaṅga〉が聴聞して著したとされる典籍で、大乗において最も重要な書の一つです。特に瑜伽行唯識派では根本典籍の一つとなっています。

無着とは伝統的には仏滅後一千年の頃に生まれた人であるといい、現在は四世紀の人であったと見なされています。つまり、先に挙げた『瑜伽師地論』の部分訳である『菩薩地持経』とは、無着によって著されて間もない頃に支那にもたらされていたものです。

玄奘は無着および『瑜伽師地論』について、以下のように伝えています。

阿踰陀國。周五千餘里。國大都城周二十餘里。穀稼豐盛華菓繁茂。氣序和暢風俗善順。好營福勤學藝。伽藍百有餘所。僧徒三千餘人。大乘小乘兼功習學。天祠十所。異道寡少。《中略》
城西南五六里。大菴沒羅林中有故伽藍。是阿僧伽唐言無著菩薩請益導凡之處。無著菩薩夜昇天宮於慈氏菩薩所受瑜伽師地論 莊嚴大乘經論中邊分別論等。晝爲大衆講宣妙理。《中略》
無著菩薩健馱邏國人也。佛去世後一千年中誕靈利見承風悟道。從彌沙塞部出家修學。頃之迴信大乘。其弟世親菩薩於説一切有部出家受業。
阿踰陀国〈Ayodhyā〉の周囲は五千余里、国の大都城の周囲は二十余里である。穀物の実り豊かで華果も盛んに茂っている。人々の気質は温和であり、その風俗は善順、福を積むことに熱心であって学芸に勤めている。伽藍は百有余ヶ所あって、その僧徒は三千人余りあり、大乗小乗を兼ねて習学している。天祠〈caitya. 神霊を祀った祠〉は十ヶ所あるが外道〈バラモン教徒など仏教外の思想・宗教〉は実に少ない。《中略》
城の西南五、六里にある大菴没羅林〈大マンゴー林〉には昔の伽藍がある。これは阿僧伽〈Asaṅga. 世親の実兄〉唐では無著と言う菩薩が請益して人々を教導した所であった。無著菩薩は夜に天宮〈Tuṣita. 兜率天〉に昇って慈氏菩薩〈Maitreya. 弥勒〉のもとで『瑜伽師地論』・『荘厳大乗経論』・『中辺分別論』等を聴聞し、昼は大衆の為にその妙理を講宣したのである。《中略》
無著菩薩は健馱邏国〈Gāndhāra〉の人である。仏陀が世を去られた後一千年に誕まれた。生まれつき聡明で承風悟道し、彌沙塞部〈Mahīśāsaka. 化地部〉にて出家修学したが、しばらくして信を大乗に廻らした。その弟、世親菩薩〈Vasubandhu〉は説一切有部〈説因部〉にて出家受業した。

玄奘『大唐西域記』巻五(T51, p.896b)

サンスクリット原題はYogācārabhūmi-śāstraで、その意は「ヨーガ行(者)の境地に関する論書」。それを玄奘が自ら印度にて学んで請来し、漢訳して『瑜伽師地論』としたもので、全百巻という大部の著となっています。道宣『大唐内典録』によれば、『瑜伽師地論』が訳出されたのは唐代太宗の治世、貞観廿一年〈647〉のことであったとされます。

ところで、先程から幾度か「瑜伽戒」との名称を用いていますが、実はいまだ『瑜伽師地論』がもたらされていなかった支那では当初、これを「地持戒」と呼称していました。そして、六世紀から七世紀の支那にて、偽経の疑い濃厚とされていたはずの『梵網経』が、突如として鳩摩羅什訳として用いられだします。結果、その所説の梵網戒と地持戒とは、支那における菩薩戒の二大系統として重んじられ、それがそのまま朝鮮と日本とに受け継がれています。

なお、『梵網経』は梵本および西蔵語訳も断片として伝わっておらず、また印度およびその周辺において言及された典籍もなく、依行されたその痕跡も全く無いものです。さらにその内容があまりに支那的であることは一読して直ちに感じられるところであり、鳩摩羅什訳とするにもかなり無理のある文体であると言わざるを得ないものです。支那の古徳らが偽経であると見なし、現在の学者らがほとんど支那撰述の偽経であると断じているのも無理からぬものとなっています。

そもそも、『梵網経』が偽経であるとの往古の見方を踏襲したならば、これを偽作した輩は、戒律について一知半解とすらいうに及ばない者であったようで、不可解な説を随所に説き散らしていると言えたものです。とはいえ智顗以来、そのような偽経は大乗戒の最も重要な典拠の一つとして見なされ用いられ、それはそのまま日本仏教全体に引き継がれてきたのですけれども。

さて、そんな折、玄奘が主として唯識や阿毘達磨の膨大な典籍を印度から持ち帰って翻訳していった中でも『瑜伽師地論』の影響力は非常に大きいものでした。また玄奘自身、『瑜伽師地論』に基づいていくつかの菩薩戒関係の典籍を編集して実用したため、以降はそれらが主要となり「瑜伽戒」と呼称されるようになっていきます。そこで旧来の『菩薩地持経』を旧論、新来の『瑜伽師地論』を新論とも称するようにもなっています。

よって瑜伽戒との呼称は印度以来の本来のものではなく、例えばyoga-śīlaあるいはyogācāra-śīlaなどと言った梵語に基づくものではなくて、あくまで支那以来の便宜的なものです。

『瑜伽師地論』が支那にもたらされて以降、唯識を宗とする派が形成され盛んとなる中、その注釈書がいくつか著されています。一つは玄奘の最も近い門弟であってその跡を継いだ慈恩大師基による『瑜伽師地論略纂』。そして、海東沙門すなわち新羅僧でやはり唯識の学僧であった遁倫〈道倫〉による『瑜伽論記』です。『瑜伽師地論略纂』は文字通り簡略なものであるのに対し、『瑜伽論記』は比較的詳細な注釈書で、その二本共に古来日本でも多く参照・依用されています。朝鮮の古代、新羅では玄奘の元に直に参じた優秀な学僧が幾人かあって唯識が盛んに研究され、また必然的に律や菩薩戒の研究が行われてたのでした。

ところで、この点世間では多く誤解されているようですが、いくら弥勒説であったとしても唯だ論書にのみ説かれる条項であったならば、それは所謂「戒」などとは言えぬものです。戒というからには、その根拠はあくまで仏所説の経か律かに依るものでなければなりません。

そこで、日本における伝統説では、『瑜伽師地論』所説の戒とはそもそも『菩薩善戒経』にて説かれた戒を弥勒菩薩が詳説したものである、とされています。そして実際、以上に挙げた諸典籍のうち『瑜伽師地論』が最も詳しく、体系的に説いたものであることから、『瑜伽師地論』をこそ主として瑜伽戒が語られることがほとんどとなっています。

瑜伽戒とは、あくまで『菩薩善戒経』を本拠としつつその他諸経所説の戒を統合したもの、というのが日本における伝統的見方です。

問。諸教三聚同異云何 
答。修多羅義根本所説。要略明相在本業經。阿毘達磨廣釋分別。體相窮究在瑜伽論。兩本善戒如來自説。彌勒詫此説瑜伽論。故瑜伽論全同善戒。攝論唯識全同瑜伽。
問:諸教における三聚浄戒の同異はどのようであろうか。
答:修多羅〈sūtra. 契経〉の義が根本の所説である。要略してその内容を明らかにしているのは『菩薩瓔珞本業経』である。(大乗の)阿毘達磨では広くこれについての注釈・解説が行われているが、その本質にまで迫って突き詰めているのは『瑜伽師地論』である。(一巻本と九巻本の)両本の『菩薩善戒経』は如来自ら説かれたものであるが、彌勒菩薩がこれに事寄せて説かれたのが『瑜伽師地論』であった。そのようなことから『瑜伽師地論』は全く『菩薩善戒経』に同じである。また『摂大乗論』と『成唯識論』(における三聚浄戒に関する所論)は全く『瑜伽師地論』に同じである。

凝然『律宗綱要』巻上(T74, p.7b)

ここで凝然はその冒頭、一見して系統が全く異なる『本業経』と『菩薩善戒経』および『瑜伽論』とを、ただ三聚浄戒を説くものとして一緒くたにしてしまっています。しかし、「修多羅の義は根本の所説」とするのは、現代の文献学からの見方がどのようなものであるにせよ、仏教としての伝統的見方としては正しいものです。

そしてこの後半についての説については全く異論の無い、正確な把握が成されています。事実、『瑜伽師地論』自体にて、その所説の戒がいかなるものかが以下のように述べられています。

復次如是所起諸事菩薩學處。佛於彼彼素怛纜中隨機散説。謂依律儀戒攝善法戒饒益有情戒。今於此菩薩藏摩呾履迦綜集而説。菩薩於中應起尊重住極恭敬專精修學。
また次に、以上の様に起てた諸々の菩薩の学処は、世尊が彼此の経に於いて様々な機会にて散説されたものである。いわゆる律儀戒〈saṃvara-śila〉・摂善法戒〈kuśala-saṃgrāhaka śīla〉・饒益有情戒〈sattvārtha-kriyā-śīla〉に拠って、今この菩薩蔵〈bodhisattva-piṭaka〉の摩呾履迦〈mātṛkā. 論〉において総集して説く。菩薩は(この菩薩戒を)尊重して最も恭敬し、勤め励めなければならない。

弥勒説 無着著『瑜伽師地論』巻四十(T30, p.521a)

ここで最初に挙げられる律儀戒(摂律儀戒)とは、出家や在家などその者の立場によって異なるものでこれを七衆別解脱戒とも言うのですが、その他多くの経典や律蔵・論蔵にて広く説かれる常識的なものです。その故に『瑜伽師地論』では、しばしばその必要から部分的に言及され解釈されてはいますが、その内容の一々を特に詳らかにはしません。

次に、要略して言えば、摂善法戒とは六波羅蜜を、そして饒益有情戒とは四摂法を実現するためもので大乗に特有のものです。これを不共といいます。冒頭、瑜伽戒とは「三聚浄戒の一環」であると述べましたが、その具体的内容が瑜伽戒です。

瑜伽戒の構成

瑜伽戒の構成は、特に厳重に護るべきとされる四他勝処法とその他四十三の戒条からなっています。そのようなことから、これは特に日本においてのことですが、瑜伽戒をまた四重四十三軽戒とも呼び習しています。もっとも、四重四十三軽戒との呼称は、『菩薩善戒経』や『菩薩地持戒』・『瑜伽師地論』にて説かれているためそう言うのではなく、『梵網経』にてその所説の戒を自ら「十重四十八軽戒」と言っているのに合わせたもので、本来のものでありません。

そして実は、瑜伽戒の四他勝処法以外の戒条の数え方には諸説あって典籍や朝鮮と日本の論師によって異なり、これを「四重四十二軽戒」であるとか「四重四十四軽戒」・「四重四十五軽戒」であるとする場合もあります。これが瑜伽論について知らんとする者を混乱させる要因の一つとなっているようです。

まず、四十三軽戒とするのは『瑜伽師地論』に基づくものであって、一般にこれが正説とされます。しかしながら、先行していたその部分訳である旧論、『菩薩地持経』に基づくと四十二軽戒です。これは『瑜伽師地論』にはある一箇条が、他の箇条に統合されているのではなく、そもそも欠けて無いためです。また、八世紀頃の新羅における唯識の祖とされ戒律にも精通して『梵網経古迹記』などを著した太賢〈大賢〉は四十五軽戒としています。

太賢と同じく新羅僧の遁倫〈道倫〉は、その中で圓測や憬興など朝鮮諸師による既存の見解を紹介しつつ四十二軽戒・四十三軽戒・四十四軽戒・四十五軽戒説を挙げ、諸説どのような理由で異なっているかを逐一説明しています。その上で、遁倫は『瑜伽師地論』に基づく四十三軽戒を正説としています。

日本では、東大寺戒壇院の凝然が支那および朝鮮での既存の説を集成し、これについてその著のあちこちで言及しています。しかし、これは支那以来のことでもありますが、菩薩戒すなわち三聚浄戒について瑜伽戒に限らず(本来全く別系統である)『梵網経』ならびに『菩薩瓔珞本業経』等の所説の戒とを合して理解しているためか、諸説いずれかを必ずしも正説とはしておらず、しばしば四十四軽戒の名を用いています。

さて、以上のように諸説ありはしますが、瑜伽戒とは四他勝処法とその他四十三の戒条によって構成される、四重四十三軽戒のものであると一応認識して誤りないものです。