五戒([S]pañca śīla / [P]pañca sīla)とは、仏教の在家信者が受持すべき五つの戒めです。
人が仏教徒となるためには、まず仏・法・僧の三宝に帰依しなければなりません。そしてさらに進んで五戒を比丘から受け、あるいは五戒を保つことをみずから宣言するのが一般的です。その内容な以下のようなものです。
1 | 不殺生 | いかなる生き物も、故意に殺傷しない。 |
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2 | 不偸盗 | 与えられていない物を、故意に我が物としない。 |
3 | 不邪淫 | 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。 |
4 | 不妄語 | 故意に偽りの言葉を語らない。 |
5 | 不飲酒 | 穀物酒や果実酒など、人を酔わせ放逸とするものを摂取しない。 |
(パーリ語による五戒、およびその受戒次第は別項「Pañca sīla 五戒」を参照のこと。)
これらは、在家の仏教徒としての禁止事項ではなく、あくまで理想的徳目であり、その行動指針です。仏教徒とは、必ずしも五戒を受けず、ただ三宝に帰依するのみで成り得るものです。
そこで戒とは、あくまで自身の意志によって受け、自ら努めて守り、それを己が習慣として身に備えていくものです。誰かから「守れ」と強制されるものでも、守らなかったからといって罰せられるものでもありません。これを守るか守らないかは、個人の自由意志にゆだねられます。
しかし、仏教が示すところの悟り、解脱・涅槃を得ようとするのであれば、最低でもこの五戒を受けてたもち、これを自らの身業と口業において実現する必要があります。
戒は、「何故その行為を戒めるのか」という観点から、性戒と遮戒という分類がなされています。
性戒とは、その戒める行為そのものが悪(性罪)であるもの。遮戒とは、その戒める行為が悪しき行為へとつながる可能性の大なるもの(遮罪)であるから避けるべきとされることです。そこで五戒を、この性戒と遮戒という見方から分類したならば以下のようになります。
不殺生 | 性戒 |
不偸盗 | |
不淫 | |
不妄語 | |
不飲酒 | 遮戒 |
この性戒と遮戒という戒の分類法からすると、殺生・偸盗・邪淫・妄語はその行為自体が悪である、すなわち性戒と規定されます。それに対し飲酒は、その行為自体は善でも悪でもないけれども、悪しき行為あるいは結果を引き起こす可能性が高い行為、すなわち遮戒とされます。
そこで伝統的このような分類が成されていることを盾に取り、「遮戒であるならば、少しくらい破っても良いだろう。問題ない」と言う者があります。しかし、これはまったく遮戒というものを誤解した証ともいうべき主張です。
性戒と遮戒によって戒める性罪と遮罪について、三世紀頃の西北印度にて編纂されたと思われる『大毘婆沙論』という仏典において、その理由が説かれています。『大毘婆沙論』は、大乗から小乗あるいは声聞乗といわれた部派のうちの一派、印度において最大の勢力をもっていた説一切有部の論書『発智論』の注釈書で、当時の諸師の様々な見解が伝えられています。漢訳仏典で最大の全二百巻。阿含として伝えられた仏陀の教えのすべてを分析、解釈しようとした膨大な内容のものです。
『大毘婆沙論』に説かれる教義を批判的にまとめた綱要書とも言える『倶舎論』は、説一切有部だけではなく、大乗の学徒にとっても必読の書の一つと古来されており、これを学んでいなければ大乗を理解することも出来ない、と言って良いものとなっています。
曾聞有一鄔波索迦。禀性仁賢受持五戒專精不犯。後於一時家屬大小當爲賓客。彼獨不往留食供之時至取食。醎味多故須臾増渇。見一器中有酒如水。爲渇所逼遂取飮之。爾時便犯離飮酒戒 。時有隣雞來入其舍。盜心捕殺烹煮而噉。於此復犯離殺盜戒。隣女尋雞來入其室。復以威力強逼交通。縁此更犯離邪行戒。隣家憤怒將至官司。時斷事者訊問所以。彼皆拒諱。因斯又犯離虚誑語。如是五戒皆因酒犯。故遮罪中獨制飮酒。
かつて聞く。ある在家信者の男があった。その性格は温厚で賢く、五戒を常に保って決して犯すことがなかった。ある時、家族に大勢の賓客があった。しかし彼は独りその場に往かず、食事時となって食事をとった。ところがその料理はとても塩辛く、たちまち喉が乾いてしまった。ある器を見ると、そこに水のような酒があった。男は喉の渇きに堪えられず、ついにこれを飲んだ。その時、(彼は)飲酒戒を破ったのだ。すると隣の家で飼っている鶏が男の家に入ってきた。そこで彼は盗心をもってその鶏を捉え、殺して煮て食べてしまった。ここにおいて、また(男は)殺生戒と偸盗戒を破ったのである。すると、隣の家の女が鶏が迷い込んでいないか尋ねてきた。勢い男はこの女性を強姦し、これによって更に邪淫戒も破ってしまう。隣家の者達は(男の)非道に忿怒して官憲に訴え出た。そこで役人が事の真偽を確かめるため(男を)尋問した。すると彼は「すべて事実無根」と虚言したのであった。これによって(男は)妄語戒もやぶり、ついに五戒をすべて、酒によって破ってしまったのである。この故に(五戒のうちで)遮罪にはただ飲酒のみが挙げられるのだ。
玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』巻123(T27, p.644b)
以上の話を聞いて、「そんなの大げさすぎる」・「そりゃ極端な話だ」と思う人もあるかもしれない。あるいは「私は酒に強いから大丈夫だ」と言う者もあるでしょう。確かにそのように思われる話かもしれません。また、酒を飲んだら皆が同じ事をするわけもないでしょう。しかしながら、これはその昔にそのような事件があったようにも思われ、作られた「例え話」であるとも思われません。
なぜなら、現代にあっても似たような話はそこらで起こっており、時として事件化されているからです。いや、事件化され社会の表面には出てこないだけで、同種の事態は今もそこここで生じていると考えてしかるべきでありましょう。普段はまさかそのようなことをする筈も無いと思われた男が、しかし酒が元で種々の痴態を晒し、あるいは女性を乱暴して後、それが発覚して後にこれを否定するなど、決して珍しい話ではない。これは男ばかりでなく、酒が元で種々の不道徳を犯すのは女も同様です。
そして巷間、「千丈の堤も蟻の一穴から」などと言われ、「割れ窓理論」などが言われるように、どのように些細と思われることでも、それを放っておけば重大な事態を引き起こすことになりかねないのは、今やよく知られたことです。
行きすぎれば不祥事を起こしかねないが、それ自体が悪とは言えないようなことであっても、それらを等閑視あるいは無視していれば、とんでもない惨事や不祥事も起こりかねないことは、現実の事象をながめれば、否定しえないでしょう。酒についても同様です。「無明長夜の酔いから醒めぬ」状態にあって、なぜことさらに酔いを重ねるというのでしょう。故に戒めるべき行為です。
(不飲酒についての詳細は、別項「飲酒戒 ―なぜ酒を飲んではいけないのか」を参照のこと。)
戒として示され、行うべき学処として挙げられる諸々の条項とは畢竟、防非止悪すなわち己の非を防ぎ、悪を止めるのものです。それは自らがその日々において意識し、努めてその指針として生きるていくことにより、それを己の自然な行為とするための「学ぶべきこと」、「いかに生きるべきか」の基礎となるものです。
非人沙門覺應