VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒法

瑜伽戒 Ⅲ. 像似正法

似非仏教

四他勝処法の四箇条はどれも理解しやすい内容のものであろうと思います。

しかし、最後の愛楽像似正法戒で戒められる「像似正法」については、具体的にどのようなものであるかの補足説明が必要でありましょう。これを単に「像似正法とは相似の正法のことです」だとか「像似正法とは、仏陀の教えであるかのようで実は違う教え・思想のこと」などと、それはそれで正しい言ではあるのですが、抽象的にして済ませるわけにはいかない。

実は『瑜伽師地論』では菩薩地分ではなく別の章〈摂事分調伏事〉において、像似正法とはどのようなものかが示されています。

云何名爲像似正法。謂略有二種像似正法。一似教正法。二似行正法。若於非法生是法想。顯示非法以爲是法。令他於中生正法想。如是法教實故諦故。非是正法。而復像似正法顯現。是故名爲似教正法。若廣爲他如是宣説。令他受學亦自修行。妄起法想習諸邪行。而自憍慢稱言我能修是正行。應知是名似行正法爲廣宣説像似正法。復説中間嗢拕南曰
初法等五種 次根等諸見
非處惡作等 後暴惡戒等
何が像似正法であろうか。略して二種の像似正法がある。一つには似教正法〈正法に似て非なる教え〉、二には似行正法〈正法に似て非なる修行〉である。
もし非法〈非真理〉に対して「法〈真理〉である」と想い、非法をもって「これが法である」と示し、他者に対してそれを「正法である」と想わせること、「このような法教は真実であって、真理である」と。それは正法ではないにも関わらず、しかし正法に似通わせて顕したものである。そのようなことから似教正法という。もし広く他者の為にこのように宣説して他者に受学させまた自らも修行して、妄りに「これこそ法である」と想って種々の邪行を修習し、しかも自ら驕り高ぶって「我こそよくこの正行を修行する者である」などと自称したならば、そのようなのを似行正法と言い、広く像似正法を宣説することとなる。また中間の嗢拕南〈uddāna. 無問自説〉を説いて曰く、
初めに法等の五種、次に根等の諸見と、
非処悪作等と、後に暴悪戒等なり。

『瑜伽師地論』巻九十九(T30, p.872c)

この一節ではまず総説した後に偈頌が示されていますが、これに続いてさらにその具体例が列挙されていきます。最後に説かれているウダーナは一見意味不明と思われるでしょうが、それはその具体例をまず総括して言ったものです。

現在においてもなお、巷間には大乗について全く無根拠に、あるいは牽強附会して語る者があまりに多くあるようです。それはすなわち瑜伽戒にて言われる像似正法を、まさに正法であると信じ、また説く者らが多くあることに他なりません。そこで、冗長となる感は否めませんが、しかし瑜伽戒だけでなく大乗というものを正しく理解するにおいても極めて重要な点であるため、ここではそれらを理解しやすいよう原文とその概略を併記したものを表にして以下に示します。

(ただし、今の所これを説く摂事分の梵本が伝わっておらず、したがってただ玄奘訳の漢文のみに依ったもので、しかも浅学愚蒙なる余輩のなしたものであるため、まったく原意を外れた錯誤となっている可能性があります。さらに詳しくは碩学についてその教導に従うことを勧めます。)

像似正法
原文 意味 対応偈頌
諸以如來所説法教相似文句。於諸經中安置僞經。於諸律中安置僞律。 如来の法教と相似した語句・表現による偽経を諸経の中に紛れ込ませ、また諸律の中に偽律を紛れ込ませること。 法等
由増益或損減見。増益虚事損減實事。由此方便於無常等種種義門。廣爲他人宣説開示如是如是自他習行。 増益〈常見〉あるいは損減〈断見〉の邪見に基づいて虚事を増益して実事を損減するなど、(その誤った見解を)用いて無常等の種々の(仏教本来の)教えに仮託して他人の為に説き示し、またそのように自ら修行し、他者にも修行させること。
於宣説補特伽羅所有經典。邪取分別説有眞實補特伽羅。 人があらゆる経典を説示しているのを邪に理解し分別して、真実の補特伽羅〈Pudgala. 輪廻の人格的主体となる「不滅の霊魂」の意。外道以外にも仏教では犢子部がこの存在を主張した。従って、これは特に犢子部を批判したものであろう〉があると説くこと。
於種種假有法中。宣説開示爲實有性。 種々の仮有の法について、これを実有であると説示すること。
於遠離一切戲論究竟涅槃。分別爲有或爲非有。説爲有性或非有性。 一切の戯論を遠離した究竟涅槃を分別して「有る」あるいは「有るに非ず」とし、これを有性あるいは非有性であるとすること。
有一類補特伽羅。作如是説。世尊宣示稱揚讃歎密護根門。由是因縁寧不視色。乃至於法不以意思。而不繋念觀視衆色乃至以意思惟諸法。 「世尊は(現・耳・鼻・舌・身・意の)根門を密護(して色等の諸境に惑わされぬように)することを説示され、称揚され讃嘆された。そのようなことから、むしろ色を見ず、乃至、法を思はないようにしよう」と言って、繋念して諸々の色を観察せず、乃至、意を以て諸々の法を思惟しないこと。 根等諸見
聞世尊宣示稱歎簡靜而住。便作是言。寧無咎責不測量他。於應毀者而不呵毀。於應讃者亦不稱讃。而不有所呵毀稱讃。 世尊が物静かに生活することを説示され、讃嘆されたことを聞いて、「むしろ過失無き者を責めることをしても、他人を評価などしない。謗るべき者を謗らず、讃えるべき者を讃えず。(自他共に)呵責・称賛のいずれもすることなど無い」などと(解釈して)言うこと。
聞世尊宣示稱歎和氣軟語。便作是言。受默然戒都無言説爲極善哉。 世尊が優しく穏やかに語ることを説示され、讃嘆されたことを聞いて、「黙然戒を受けて一切言葉を発しないことこそ最も善きことであるとされた」などと(解釈して)言うこと。
聞世尊宣示稱歎節量衣食。便作是言。斷食而住露體而行最爲妙善。 世尊が衣食について節度あることを説示され、賛嘆されたことを聞いて、「断食し、裸でいることが最も善い」などと(解釈して)言うこと。
聞世尊宣示稱歎離諠雜住。息諸言説及以事業。便作是言。棄捨臥具。寂靜閑居。無所修習爲極美妙。 世尊が喧しく雑多な生活を離れ、諸々の議論や事業から離れるよう説示され、賛嘆されたことを聞いて、「臥具を捨てて寂静に閑居し、何も修習すること無くあるのが最も美妙である」などと(解釈して)言うこと。
聞佛説心將導世間。心營造一切。隨心所生起皆自在而轉。於如是等諸經義趣不如實知。或有一類。由惡取執作如是言。唯有一識馳流生死。無二無別。 仏陀が「心が世間を導く」・「心が一切を作り出す」・「心に従って生起するものは全て自在に転ずる」と説かれているのを聞いて、それら(が説かれた)諸経典の正しい意味について如実に理解せず、悪しき取執に基づいて、「ただ一つの識のみがあって、それが生死流転するのだ。(識に)二つ無く、別個のものも無い」などと(解釈して)言うこと。
聞佛許持戒士夫補特伽羅受百味食百千衣服。障道妙欲。設此品類正受用時亦不爲障。或有一類。由惡取執作如是言。世尊所説障道諸欲。若有習近不足爲障。 仏陀が持戒の人には百味の飲食・百千の衣服を受けることを許されたということを聞いて、道を修めるのに障害となる扇情的事物であっても布施として受けることは障りとなることはないのだと理解し、悪しき取執に基づいて、「世尊が説かれた道を修めるのに障害となる扇情的事物に、もし近づき親しんだとしても、障りとなることなど無い」などと(解釈して)言うこと。
聞佛説諸阿羅漢於現法中於食言説蘊界處等不捨不取不如實知。便作是説。如我解佛所説法者。阿羅漢僧於其死後無所覺了。 仏陀が「諸々の阿羅漢は現法〈現世〉において、食・言説・五蘊・十八界・十二処等について捨てることもなく、取ることもなく、また如実に知ることもない」と説かれているのを聞いて、「我が仏陀の説かれた法を理解したならば、阿羅漢僧にはその死後において悟ったことなど無いこととなる」などと(解釈して)言うこと。
有一類。不如實知世俗勝義二諦道理。違二諦理。作如是言。諸蘊無我。云何無我造作諸業令我觸證。 如実に世俗諦・勝義諦の二諦の道理を知らず、二諦の理を誤解して、「諸々の蘊が無我であるならば、どうして無我が種々の業を造って、しかし我にその報が現れるのであろうか」などと(解釈して)言うこと。
本性愚癡多行謗毀。彼於九種内正住心不如實知。於諦觀行念 住觀行不如實知。由不知故。爲他宣説唯信解作意是奢摩他品。唯信解作意是毘鉢舍那品。唯信解作意能得究竟。自亦習行。 その本性が愚昧であって多くの誹謗をなす者が、九種心住〈等持にいたるまでの九段階の定心。止行の階梯〉のうちの正しき心住について如実に知らず、また四諦の観行・四念住の観行について如実に知らず、その無知なるが故に他者の(正しくない)言葉・教導を鵜呑みにして無闇に信じ、(誤っているものを指して)「これは奢摩他〈śamatha. 止〉である」・「これは毘鉢舍那〈vipaśyanā. 観〉である」・「これによって究竟〈siddhi / nirvāna. 悉地 / 涅槃〉を得る」などと他者に説き、また自ら修行すること。
非處惡作而不思惟。 非処悪作に違犯しながらそれを思惟しないこと。 非処悪作
於其讀誦觀行作意。皆有堪能而樂僧事。亦於其中見勝功徳。爲他宣説。 読誦・観行・作意において堪能であり、僧事〈授戒や布薩など僧伽における行事〉を行うことを願い、それに勝れた功徳があると見た者が、他者の為に説き示すこと。《特にこの項目はその意味内容が不明瞭》
於戒於修有所堪能。而於惠施見勝功徳。遊歴諸方。於自禁戒所遮止處多有毀犯。集諸財物奉佛法僧。 持戒および修習において堪能であり、布施には勝れた功徳があると見た者が、諸方に遊歴して禁戒にて制止されている行為に多く違犯することによって諸々の財物を集め、それを仏法僧の三宝に供養すること。
於善説法毘柰耶中既出家已。展轉相引專以聽聞爲其究竟。 (仏陀により)善く説かれた法と毘奈耶〈律〉において出家しながら、(修禅もせず思惟もせず)ただそれらを聴聞することだけを以てその究竟とすること。
見諸苾芻大族大福多獲衣等所有利養。捨少欲等而往其所恭敬叙慰現親誨喩。令新苾芻邪心動作。 多くの親族や多くの信者がある比丘が多くの衣などの布施を得ているのを見て、少欲を捨ててその比丘の所にいって媚びへつらい、(そのさもしい様を見せることで)新たに比丘となった者の邪心を惹起させること。
棄捨如來所説甚深空性相應所有經典。專樂習學隨順世間文章呪術。而不自察懷聰明慢。又欲令他知己聰敏。 如来が説かれた甚深なる空性に関する経典を捨てて、世間に通用あるいは迎合した言説・呪術を習学し、自らが優れているなどと慢心を懐きながらもそれに気づかず、あるいは他者に自分が聡明であることを知らしめようとすること。
折伏暴惡及諸犯戒。爲欲於彼暴惡犯戒作不饒益發起惡思。 暴悪なる者や諸々の犯戒者を折伏し、そのような暴悪あるいは犯戒の者に不利益を被らせようとして、悪しき思考を起こすこと。 暴悪戒
搆集種種矯詐威儀。 種々なる人を欺き騙す威儀を作り出すこと。
以解世間文章呪術。多求多獲所有利養。 世間に通用あるいは迎合した言説・呪術を理解し実践して、様々な利養を多く求め、多く得ようとすること。
損惱於他以其非法積聚財寶作有罪福。 (人や神、動物など問わず)他者を損害し、その非法なる行為でもって財宝を収得し、罪ある福をなすこと。
即於彼能引無義像似正法。以諸因縁開示建立。 以上のような不正なる像似正法を諸々の因縁をもって(他者に)開示し、作り上げること。

なにやら、ここで避けるべき像似正法の具体例とされるもののいくつかは、まさに現代の日本の寺家など僧職者らのほとんどや仏教系新興宗教団体の職員や信者らが当たり前のように説き行っているものに他ならない、逆の意味で実に現実的なもののようです。

しかし、これが著されたのは今から1600年程も前の北印度においてのこと。以上のように具体的に説かれているのは、むしろ当時の印度において同様の者が数多あったことの証といえるかもしれません。そしてそれらと同じような輩が、時と場を全く移した現代日本においてもなお世に跋扈して、似非仏教をもって仏教としているのでしょう。

誠に憐れなのはそれを他者から説かれて真剣に信じ、純粋にそれを行っている人々と言えるでしょう。そして、最も罪作りなのはそのように信じさせている輩共です。世には人に信仰させる者らは実はそれを全然信じていないという事態が往々にしてありますが、自ら深く信じて他にも勧める者らもまた実にタチの悪いものです。もはやこれは悲劇であると同時に喜劇であるという、一度で二様に楽しめてしまう滑稽なる事態でありましょう。

これは全く余談となりますが、日本の近世最初期になされた戒律復興の機運が百年を経たころから弛緩してまた元の木阿弥となりかけていた際、これを今一度正そうとした慈雲尊者は、以上の如き『瑜伽師地論』所説の相似正法を意図し、それを正すために正法律を提唱して釈尊の昔に帰ろうとの運動をしています。

(慈雲の正法律については、別項「慈雲『根本僧制』 ―正法律とは何か」を参照のこと。)

実際、以上のように避けるべきものとして像似正法なるものの具体が明らかとなっていれば、それを意識して避けることは比較的容易いことです。大乗を奉ずる者、菩薩戒を受持する人は、これらをよく気をつけて特に戒めて避けるべきことです。