瑜伽戒とは以上に述べたようなものであるとして、ではそれをいかにして受け得るのか。その方法には従他受(従他正受)と自誓受(自浄心受)の二種あります。ただし、それは前述した瑜伽戒のみ受ける方法というのではなく、三聚浄戒として総じて受ける術です。
先ず従他受とは、誰か他者を戒師として請うて戒を受ける、正当な受戒法です。その戒師となりえるのは出家・在家を問いません。しかし、戒師となるのは、すでに三聚浄戒を受持して智と力とを具えており、よく自ら戒の内容を理解して他にそれを詳らかに示しうる者でなければなりません。
なお、これは具足戒の授受とは異なるため、戒師以外のいわゆる証明師などの人を別途に要しません。『瑜伽師地論』所説の三聚浄戒の受戒においては戒師が証明師を兼ね、また十方の諸仏諸菩薩にその証明を請うためです。『瑜伽師地論』では、従他受にしろ自誓受にしろ、それぞれどのように戒を請うべきか、戒を受けることを誓うべきかの次第や、戒を授受する両者がその際に用いるべき一連の文句が定められています。
そのような定められた文句あるいは行為を、これは律に倣っての用語ですが、白あるいは羯磨といいます。白とは、確認を意味するjñaptiの漢訳。羯磨とは、行為・業を意味するkarmaの音写で普通「かつま」と読みますが、戒や律の用語としてはれを特に「こんま」と読んでいます。
ここで全くの余談ながら、日本における仏教用語の読み方は基本的に呉音で行われますが、しばしば呉音でも漢音でも唐音でもない、特殊な読みが行われることがあります。羯磨を「こんま」と読むこともその一例ですが、他にこの項でしばしば出している意楽という語も特殊な読みがなされます。意楽とは、意志や意図を意味するāśayaの漢訳ですが、「いぎょう」と読んで「いらく」とは決して読みません。
とはいえ、これは日本ならではの特殊な事情なのですが、同じ仏教でも比較的新しい時代に伝わった禅宗などは、呉音や漢音でなく唐音(宋音)読みを好んで用いており、この問題は中々複雑です。宗によって正しいとされる読みが異なるためです。たとえば禅宗では経行を「きんひん」と唐音で読みますが、伝統的には呉音で「きょうぎょう」と読むのであってどちらも間違いとされないようなものです。さらに同じ禅宗であっても江戸期に明代の支那から伝わった臨済宗黄檗派(黄檗宗)など、また異なった明代の読みを行っています。
閑話休題。白・羯磨とは何かを現代風に言えば、いわば宣言あるいは提議と議決です。また、羯磨とはその原義どおりに行為のことで、律では特に「律に基づく行事、もしくは作法」が意味されます。
そしてそのような規定の言葉としての白と羯磨とは、そもそも翻訳者が異なることによる違いが第一にあるのですが、経や律・論など典籍によってそれぞれ若干異なっています。そのため、『瑜伽師地論』所説の羯磨を特に「瑜伽羯磨」と称します。ただし、これについては後に若干ながら補足説明します。
若諸菩薩欲於如是菩薩所學三種戒藏。勤修學者。或是在家或是出家。先於無上正等菩提發弘願已。當審訪求同法菩薩。已發大願有智有力。於語表義能授能開。
もし菩薩であってそのような菩薩が学ぶべき三種の戒蔵を勤めて修学しようと望む者は、在家であれ出家であれ、先ず無上正等菩提に対して弘願を発しなければならない。そして、審らかに同法の菩薩で、すでに大願を発して智あり力あり、その言葉の意味をよく伝えて解説出来る者を(戒師として)求め、その膝下に参じなければならない。
『瑜伽師地論』巻四十(T30, p.514b)
さて、三聚浄戒を受持することを発願した者は、その受戒に際して印度の礼法に則り、先ず戒師に対して五体投地してその両足に自らの額をつける勢いにて礼拝。心を鎮めて三宝の徳および戒師を恭敬しつつ、偏袒右肩して踞跪〈腰を落として左膝を立て右膝を地につける坐法〉あるいは長跪〈上体を起したまま両膝を地につける坐法〉して合掌しなければなりません。
そして受者および戒師は、以下のような白・羯磨をもって戒を授受します。
羯磨文 | 現代語訳 | 現代語訳 | |
---|---|---|---|
受者 | 我今欲於大徳所或長老所或善男子所。乞受一切菩薩淨戒。唯願須臾不辞労倦哀愍聴授 | 私は今、大徳のもと或いは長老のもと、或いは善男子のもとにおいて、一切の菩薩の浄戒を乞い受けようと思います。どうか願わくは一瞬としても厭うこと無く、私を哀れんで授けることを許し給え。 | 発願 |
唯願大徳或言長老或善男子。哀愍授我菩薩淨戒 | どうか願わくは大徳よ或いは長老よ、或いは善男子よ、哀れんで私に菩薩の浄戒を授け給え。 | 請師乞戒 | |
戒師 | 汝如是名善男子聴或法弟聴。汝是菩薩不 | 汝、《受者の名》という名の善男子よ或いは法弟よ、聴きなさい。汝は菩薩であるか? | 問遮 |
受者 | 是 | はい。 | |
戒師 | 発菩提願未 | 菩提を求める誓願を発しているか? | |
受者 | 已発 | すでに発しています。 | |
戒師 | 汝如是名善男子或法弟。欲於我所受諸菩薩一切学処受諸菩薩一切浄戒。謂律儀戒摂善法戒饒益有情戒。如是学処如是浄戒。過去一切菩薩已具。未来一切菩薩當具。普於十方現在一切菩薩今具。於是学処於是浄戒。過去一切菩薩已学。未來一切菩薩當学。現在一切菩薩今学。汝能受不 | 汝、《受者の名》という名の善男子よ或いは法弟よ、私のもとで諸菩薩の一切の学処・諸菩薩の一切の浄戒、すなわち律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒を受けようとする者よ、これらの学処・浄戒とは、過去の一切の菩薩は已に具え、未来の一切の菩薩はまさに具え、現在の一切の菩薩は今修めているものである。汝はこれを能く受けるか否か? | 授戒 |
受者 | 能受 《三説》 |
能く受けます。 《三度、同じやりとりを繰り返す》 |
|
戒師 | 《對佛像前。普於十方現住諸佛及諸菩薩。》 某名菩薩今已有我某菩薩所。乃至三説受菩薩戒。我某菩薩已為某名菩薩作証。唯願十方無辺無際諸世界中諸仏菩薩第一真聖。於現不現一切時処。一切有情皆現学者。於此某名受戒菩薩。亦爲作証 《三説》 |
《戒師は仏像の前にて、十方の諸仏諸菩薩に対して、以下のように白す》 《受者の名》という名の菩薩は、今すでに私《戒師の名》菩薩のもとに於いて、乃至三説して菩薩戒を受けました。私《戒師の名》菩薩は、已に《受者の名》菩薩の為にその証明を致します。どうか願わくは十方無辺無際の諸世界にある諸々の仏・菩薩など最も尊き、可視不可視のすべての時、すべての有情の現に覚せる者らよ、この《受者の名》という受戒の菩薩の為に、またその証明をなしたまえ。 《三度、同じ文句を繰り返す》 |
証明 |
以上のように次第して、といっても表中ではその最中に行うべき所作や心念などは省いていますが、戒師は受者に戒を授け、また受者は戒を受けて受戒は成立します。
ただし、上代の支那で現実に行われた瑜伽戒の受戒に際しては、上に挙げた『瑜伽師地論』の文言に必ずしも正確に則っては行われなかったようです。というのも、『瑜伽師地論』の翻訳者である玄奘自身が、これら『瑜伽師地論』菩薩地戒品にある受戒次第の一節を丸ごと抽出し、そこで玄奘は自ら適宜に語句の改変や挿入などして、現実の受戒に用いるのに適した受戒法則として体裁を整えた、『菩薩戒羯磨文』を編纂しているためです。
そのようなことから、一般に言われる「瑜伽羯磨」とは、むしろ『菩薩戒羯磨文』所説のそれを指したものとなっています。
白・羯磨における文言は、それらは真言や陀羅尼などとは全く性質を異にしたものであって、典拠にある語を一字一句たりとも変えてはならないような類のものではありません。そもそもそのようなものであれば翻訳すらままならないでしょう。その要はあくまで自他に対してその意味が通じて理解できることで、文意が同一であれば語句の若干の異同など問題とはなりません。
(もっとも、伝統的にはそれぞれ手前勝手に改変などされず、その根拠とした典籍にある言葉を尊重して、あくまでそれに沿ったものとされます。)
また、玄奘が若干編集の手を入れているといっても、玄奘は自ら印度の那爛陀寺〈Nālandā-saṃghārāma〉において師事した大学僧戒賢〈Śīlabhadra〉から直に菩薩戒すなわち三聚浄戒を受けているため、印度における受戒について実地の経験と知識とが『菩薩戒羯磨文』に反映されているとは充分に考えられることです。故に、往古の日本の律宗においても、三聚浄戒の授受に際してはむしろ『菩薩戒羯磨文』に則って行われています。特に例えば鎌倉期の興正菩薩叡尊は『菩薩戒羯磨文釈文鈔』を著してそれに注釈を加えています。
現代では瑜伽戒についての知識と実践とを持ち合わせている僧職の人など、律宗においてすら全く絶無となっていますが、少なくとも近世終わりまでは瑜伽戒は日本においても確かに行われていました。故に日本の覚盛によって考案され、叡尊らと共に実行されて以来連綿として行われた自誓受戒というものを理解するについても、また近世の日本における律宗の動向を知るにつけても、この瑜伽戒自体や『菩薩戒羯磨文』の知識は不可欠です。
(上掲の表では羯磨を原文のまま漢文で示しましたが、日本における実際の受戒においては伝統的に、和漢混淆で独特に読み下したものが用いられます。)
さて、先程述べたように、この受戒は基本的に授者と受者の一対一でも成立するものです。この点は律の授受に必ず必要とされる三師七証、すなわち十人以上の比丘が授戒に参加することが要請されるのとは異なります。また、その十人のうちの一人は具足戒を受けて最低でも十年以上、そして他の二人は五年以上を経過しており、経律に精通したものであることが不可欠の条件とされるのとも異なります。
三聚浄戒の戒師となり得る者は、その戒を受けてからの年数について問われることはありません。ただし、これについては後述しますが、その他に具えていなければならない諸々の徳がかなり厳しく規定されています。従他受戒の形式としては、律の授受法に用いられる白四羯磨に倣ったものとなっている点、在家の別解脱戒となる五戒や八斎戒の受戒法とは一線を画したものとなっています。
一応、ここで注意しなければならない点は、この受戒によって三聚浄戒を受けたとしても、出家者の場合は律儀戒をこの受戒だけで具えたことにはなり得ません。なんとなれば、特に比丘にとっての律儀戒とはまさしく律のことですが、それは別途、律の所制に則って三師七証など諸条件をすべて満たした上で、正しく白四羯磨による具足戒を受けていなければならないためです。あるいは沙弥の場合ならば、自身の和上から十戒を正しく受けなければなりません。
正確には、菩薩戒受けることを望む人は、在家であれ出家であれ、事前にそれぞれの立場に応じた戒あるいは律を受けていなければなりません。でなければ菩薩戒を受けることは出来ないのです。そもそも、伝統的に瑜伽戒の本拠とされる『菩薩善戒経』にはこうあります。
菩薩摩訶薩成就戒。成就善戒。成就利益衆生戒。先當具足學優婆塞戒沙彌戒比丘戒。若言不具優婆塞戒得沙彌戒者。無有是處。不具沙彌戒得比丘戒者。亦無是處。不具如是三種戒者得菩薩戒。亦無是處。譬如重樓四級次第。不由初級至二級者。無有是處。不由二級至於三級。不由三級至四級者。亦無是處。
菩薩摩訶薩が戒〈律儀戒〉を成就し、善戒〈摂善法戒〉を成就し、利益衆生戒〈饒益有情戒〉を成就するには、先ず優婆塞戒〈五戒〉・沙彌戒〈十戒〉・比丘戒〈二百五十戒〉を具足し学ばなければならない。優婆塞戒を具えずして沙彌戒を得ることなど有り得ず、沙彌戒を具えずして比丘戒を得ることもまた有り得はしない。そのような(優婆塞・沙弥・比丘の)三種の戒を具えずして菩薩戒を得ることもまた有り得ないのである。それは譬えば四階建ての楼閣が次第して(建てられて)いるようなものである。一階無くして二階を造ることは有り得ず、二階無くして三階を造ることは有り得ず、三階無くして四階を造ることが有り得ないように。
求那跋摩訳『菩薩善戒経』(T30, p.1013c)
この点について、印度はもとより当時の支那僧らには常識でわざわざ言及する必要もなかったのかもしれません。
いや、『瑜伽論』自体でも、比丘・比丘尼の律儀戒に限っては自誓受が通用しないことを、万一そのような主張がなされたことに備えてのことでしょうけれども、その理由を含めて明らかにしています。
隨轉差別者。謂有堪受律儀方可得受。此中或有由他由自而受律儀。或復有一唯自然受。除苾芻律儀。何以故。由苾芻律儀非一切堪受故。若苾芻律儀。非要從他受者。若堪出家若不堪出家。但欲出家者。便應一切隨其所欲自然出家。如是聖教便無。軌範亦無。善説法毘柰耶而可了知。是故苾芻律儀無有自然受義
隨転の差別とは、律儀を受けるに堪えるのであれば、まさに受けることが可能たることである。これについて、あるいは他者に由り〈他受〉または自らに由って〈自誓受〉律儀を受ける方法がある。あるいはまたさらに一つ、ただ自然受〈従他でも自誓でもなく、自然に戒を備える〉がある。ただし、苾芻律儀〈ここでは比丘律儀の名を以て出家すべての立場に該当するものとされる〉は例外である。なんとなれば、苾芻律儀は万人が受けるに堪えるものではないからである。もし「苾芻律儀は、必ずしも従他受によるもので無い」などとしてしまえば、出家に堪えようが出家に堪えなかろうが、ただ出家を望んだならば、たちまちの誰であっても思うがままに自然と出家(であると自称)することが可能となってしまうであろう。もしそのような主張がまかり通るのであれば、聖教〈仏法〉は軌範など無いものとなり、また理解すべき善説の法〈Dharma. 教え〉と毘柰耶〈Vinaya. 律〉とは無きに等しいものとなろう。そのようなことから、苾芻律儀には自然受の義は成立しないのだ。
『瑜伽師地論』巻五十三 摂決択分(T30, p.589c)
このように明瞭に、ここでは出家の五衆をすべて苾芻律儀としてまとめ言っていますが、出家分の律儀戒は自誓受も自然受も有り得ないと断じられています。ところが後代ともなると、支那にてそのような見解が全く無かったわけでもありませんが、特に印度から程遠くまた支那とも海を隔てた日本では、三聚浄戒あるいは梵網戒を受けるだけで比丘となり得るなどといった、本来ならばありえない主張がなされていくことになります。
実は鑑真大和尚が日本に正規の戒律をもたらす以前、日本で僧とされていた者らは、ただ三聚浄戒を自誓受したことによって比丘となり得ると思い、実際そのとおり実行していました。しかしながら、鑑真の渡来によってそれが非法であって全く認められるもので無いと諭され、しぶしぶながらも旧戒を捨てて新たに鑑真から正式に受戒しています。その時、彼らを承服させるのに示されたのが、まさに今示した『瑜伽論』の一節であったといいます。
もっとも、三聚浄戒をただ自誓受することによって比丘となり得るかどうかの問題は、中古の日本で鑑真由来の戒律がまったく断絶し、日本仏教界全体が再び無戒状態となった際になされた戒律復興にも関わっていくこととなり、そう一概に言うことが出来なくなっていくのですけれども。
次に自誓受ですが、それは文字通り自ら誓って戒を受ける方法です。しかし、これは菩薩戒を受けんとするも戒師となるべき資格を具えた人を全く見いだせない際のやむを得ない代替手段であって、いわば二次的受戒法です。これは必然的に従他受に比すればその次第はかなり簡便なものとなっています。自誓受といってもその受者は、これは象徴として具体的な形あるものを要請してのことでしょうけれども、如来像の前にて受戒すべきとされます。受者は如来像の前にて心を鎮めて三宝を恭敬しつつ偏袒右肩し、踞跪あるいは蹲跪〈膝を地につけずしゃがむ坐法〉して合掌し、以下のように自ら誓って戒を受けるのです。
若不會遇具足功徳補特伽羅。爾時應對如來像前自受菩薩淨戒律儀。應如是受。遍袒右肩右膝著地。或蹲跪坐作如是言。我如是名。仰啓十方一切如來已入大地諸菩薩衆。我今欲於十方世界佛菩薩所。誓受一切菩薩學處。誓受一切菩薩淨戒。謂律儀戒攝善法戒饒益有情戒。如是學處如是淨戒。過去一切菩薩已具。未來一切菩薩當具。普於十方現在一切菩薩今具。於是學處於是淨戒。過去一切菩薩已學。未來一切菩薩當學。普於十方現在一切菩薩今學。第二第三亦如是説。説已應起。所餘一切如前應知
もし(菩薩戒を持して戒を授けるだけの)徳を具えた人に出逢うことが出来なかったならば、その時には如来像の前にて自ら菩薩の淨戒律儀を受けよ。それには以下のように受けなければならない。遍袒右肩して右膝を地に著け、或いは蹲跪して坐しこのように言え。
「私《受者の名》は、敬って十方一切の如来・入大地の諸菩薩衆に申し上げます。私は今、十方世界の仏菩薩の御下にて、誓って一切菩薩の学処を受け、誓って一切菩薩の浄戒、すなわち律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒を受けたいと思います。それらの学処・浄戒は、過去の一切の菩薩がすでに具え、未来の一切の菩薩はまさに具え、現在の一切の菩薩が今具えているものです。それらの学処、それらの浄戒において、過去の一切の菩薩はすでに学び、未来の一切の菩薩はまさに学び、現在の一切の菩薩が今学んでいます」
第二、第三と以上のように繰り返して言わなければならない。誓い終わったならば座を立つが、その他のすべては前の(従他受)と同様であると知るべきである。
『瑜伽師地論』巻四十一(T30, p.521b)
自誓受の場合、以上のように独りただ自ら誓ってそう言うのみです。ただし、これは印度以来の伝統として、必ず三度繰り返して言わなければなりません。
以上のように『瑜伽師地論』所説の自誓受は、特に中古以来の日本において『占察経』や『梵網経』などの(中国撰述の偽経の疑いが極めて色濃い)経説に則って行われた、自誓受戒とは比べるべくもないほど簡素なものです。なお、菩薩戒は声聞戒の「尽形寿」すなわち「この身命が終わるまで」とするのとは異なって「尽未来際」であるとされますが、それは以下のように説かれていることによります。
若諸菩薩轉受餘生忘失本念。値遇善友。爲欲覺悟菩薩戒念。雖數重受。而非新受亦不新得
もし菩薩が(現世の生を死によって終え、来世に)転生〈parivṛtta-jāti〉して(前世での)記憶をなくすも、善友〈kalyāṇa-mitra〉に出会って(前世で受けた)菩薩戒を想起せんとして再々度(菩薩戒を)受けたならば、それは初めて受けたものでも新たに得たものではないのだ。
『瑜伽師地論』巻四十(T30, p.521a)
菩薩戒とは、有情が生死流転して数々の生を経巡ってもなお失うことのないものです。その故は、戒を受けた時に備わる戒体というものの為だとされます。そのような菩薩戒の戒体の永続性を、これは日本で言われだした言葉だと思われますが、「一得永不失」と言います。
実はこの戒体について、それが心に属するものであるか物に属するものであるかなどと部派以来様々に論じられ、それぞれが見解を異にしています。特に場所と時代を移して支那および日本ともなると、印度以上に抽象的議論となって空論化し、むしろ宗論を戦わせる道具、宗我を育む要因ともなって収束がつかなくなっていったのでした。日本では、菩薩戒の一得永不失であることを逆手にとって、中世に戒律が全く廃れるようになる頃には「無戒の比丘より破戒の比丘」と言い始め、ついには自らの破戒を誇るようにさえなった者が多く出現しています。
そもそも戒を護持しない者が、あるいはそれによってむしろ戒にますます違犯するような者が、どれだけ戒体について口角泡を飛ばすかの如く議論したとしても、それはまったく虚しいことでしかありません。現実に戒を極力持して六波羅蜜、すなわち福徳と智慧の二資糧を満足していくことこそ最も肝要です。
実に皮肉な話となりますが、今なお正しく菩薩戒を受持しようと思う者は、そのような無益な宗論・過度な形而上的議論から離れるべきです。
とはいえ、現代は有益無益問わず、学問の対象としてではなく道としての仏教についてのまともな議論など、僧職者らの間ですら微塵もなされることもない時勢です。日本仏教においては戒も律も蒸発して無く、瑜伽戒などその名目すら知られていない時代となっています。そんな時にあって菩提心を発した者は、まずはたとい犀の角のようにであったとしても、戒を自ら受け独り勤めていくのが善いでしょう。
さて、以上のように「三聚浄戒の受戒法には」従他受と自誓受の二種があるとして、律儀戒のそれには従他受と自誓受、そして自然受の三種があるとされます。では、それら方法の間に功徳の多少などの違いがあるのか。
問諸有律儀若由自受。若由他受。若從他受若自然受。如是所受律儀所獲福徳。爲有勝劣差別不耶。答若等心受亦如是持。當知無有差別。
問:諸々の律儀はあるいは自受に由り、あるいは他受に由り、あるいは従他受に由り、あるいは自然受に由るものである。そのように受けた律儀には、その方法によって獲られる福徳に優劣などの違いはあるだろうか。
答:もし等しき心で受け、また同じく護持しているのであれば、そこに違いなどは無い。
『瑜伽師地論』巻五十三 摂決択分(T30, p.591c)
これはその功徳について述べられているもので、その正統性について述べられたものではありませんが、受者が「等心」によって受持しているのであれば、戒の受法がどのようなものであったとしても違いなど無いと明かされています。
たとえば、在家の人で三聚浄戒を受けたいと願ったとして、しかし五戒を受けたことが無く、また授け得る出家者も全く身近に見出すことが出来ないならば、まず五戒を自誓受したら良いでしょう。そしてその上で、三聚浄戒を正しく受けたら良い。出家の律儀戒は全く例外であるとして、在家の五戒や八斎戒ならば自誓受であっても引け目を感じる必要など全くないことは上記の一節に明示されていることです。
三聚浄戒、すなわち菩薩戒を現実に受持することによる功徳は何か。それは三種の円満が成就されることであると、『瑜伽師地論』にて説かれます。
如是菩薩依止一切自毘奈耶。勤學所學。 便得成就三種圓滿安樂而住。
このように、菩薩がすべての自毘奈耶〈svavinya〉に依って勤めて学んだならば、三種の円満〈saṃpatti〉を成就〈samanvāgata〉して安楽に住す。
『瑜伽師地論』巻四十一(T30, p.521b)
ではその三種の円満とは何か。それを簡略に示せば以下の通り。
意味 | ||
---|---|---|
加行円満 prayoga-saṃpatti |
諸菩薩於淨戒中行無缺犯。於身語意清淨現行。不數毀犯發露自惡。 | その菩薩は、浄戒を受けてその行いに違犯なく、身体と言葉と心との行いが清浄で妥当となって、しばしば罪を造らず、また自ら(為した)悪を発露する。 |
意楽円満 āśaya-saṃpatti |
諸菩薩爲法出家不爲活命。求大菩提非爲不求。爲求沙門爲求涅槃非爲不求。如是求者不住懈怠下劣精進。不雜衆多惡不善法雜染後有有諸熾然衆苦異熟。當來所有生老病死。 | その菩薩は、法〈dharma〉を求めて出家したのであって生活〈jīvikā〉の為にでなく、大菩提〈mahā-bodhi〉を求めて求めずとせず、沙門〈śrāmaṇa〉および涅槃〈nirvāṇa〉を求めて求めずとしない。そのように求める者は、懈怠〈śrāmaṇa〉にして精進を欠くこと〈hīnavīrya〉が無く、種々の悪・不善の法・不浄なる後有・灼熱の苦の異熟果、及び未来世に生・老・病・死を受けることはない。 |
宿因円満 pūrva-hetu saṃpatti |
諸菩薩昔餘生中修福修善。故於今世種種衣服飮食臥具病縁醫藥資身什物。自無匱乏。復能於他廣行惠施。 | その菩薩は、過去の他生〈pūrva anyā jāti〉において福を積み善を修めたが故に、現世において種々の衣・托鉢による飲食・坐臥具・病時の医薬・家具など欠乏すること無く、また他者にも広く施すことが出来る。 |
戒とは防非止悪のものです。
五戒であれ十善戒であれ、自ら戒を持し日頃よく気をつけて自他に苦をもたらす行為を自ら制するよう生きる者は、次第にであっても非法を離れ、自らの悪を止めることが出来ます。そして、その結果として畏れなく、不安なく、後ろめたい思いを離れて、心軽やかに生きることが出来るようになれば、瑜伽を修めるその土壌が整います。
持戒とは止観を修める者に、いや、仏教者はすべからく行じなければならない必須のものですが、それは「ホトケ様が定められたことであるから、とにかく守れ。バチが当たる」などというものでなく、自らが自らを救うための必須条件です。
そもそも仏教の修道とは、戒・定・慧の三学を次第して行じるものです。戒なくして定はなく、定なくして慧など有りえません。故に戒は、苦海から脱せんとする者、菩提を求める者はその最初に必ず受け、その初めから十全とは行かないことは当然として、しかし漸く勤めて修めるべしとされます。また、これはあくまで副次的なものではありますが、戒を持して生きることはまた福徳でもあり、その果報として来世において物理的に恵まれるということもあるとされます。宿因円満として言われているのがそれです。
戒とは「富は悪である。何が何でも誰であれ清貧を貫け」などと理不尽に強制するものではありません。財貨などの富は、出家者は除外されますが、人によって全く異なるそれぞれの分際で法に則る限りにおいていくらでも稼ぎ、蓄えたらよいでしょう。そこで問題となるのは、それをどのように見て扱い、どう使うかです。
そのような諸々の果報、持戒の功徳が示されたのが三種の円満です。『瑜伽師地論』はまた項を改め、持戒の功徳はいかなるものであるかを重ねて示しています。
如是菩薩大尸羅藏。能起當來大菩提果。謂依此故菩薩淨戒波羅蜜多得圓滿已。現證無上正等菩提。乃至未證無上菩提。依此無量菩薩戒藏正勤修習。常能獲得五種勝利。一者常爲十方諸佛護念。二者將捨命時住大歡喜。三者身壞已後在在所生。常與淨戒若等若増諸菩薩衆。爲其同分爲同法侶爲善知識。四者成就無量大功徳藏。能滿淨戒波羅蜜多。五者現法後法常得成就自性淨戒。
このような菩薩の大尸羅蔵〈mahā śīla-skandha. 大戒蔵〉は、来たるべき大菩提果の基となるものである。すなわちこれに依って菩薩の浄戒波羅蜜多〈śīla-pāramitā〉を円満して現に無上正等菩提を証し、乃至、未だ無上菩提を証していない者は、この無量なる菩薩戒蔵に依って正勤修習して、常に五種の勝利〈pañcānuśaṃsa〉を獲得する。一つには常に十方諸仏によって護念される。二にはまさに命終せんとする時、大なる歓喜に包まれる。三には命が終わって後、転生した処々において、常に浄戒と等しいもしくはそれ以上の諸菩薩衆と同分となり、あるいは同法侶となり、善知識となる。四には無量の大功徳蔵〈puṇya-skandha〉を成就し、よく浄戒波羅蜜多を満足する。五には現法〈dṛṣṭa dharma. 現世〉が終わって後、性戒〈prakṛti-śīla〉を成就する。
『瑜伽師地論』巻四十二(T30, p.522c)
戒とは、声聞であれ大乗であれ、菩提を得ることの基礎として修めることが第一義です。
声聞乗・大乗の別を問わず仏教を奉ずる者であるならば、まったく独自の僻事や遠大なる思想を言葉遊びかのように云々するのでなく、現実の生活において正しく戒を理解し受持しないことはまったく有り得ません。