三聚浄戒の戒師は、誰であっても勤め得るものではありません。たとえその者がどれだけ聡明であったとしても、そもそも浄信〈śrāddha〉無き者から戒を受けてはならないと規定されます。『大智度論』に「仏法の大海は信を以て能入す」と説かれますが、そんな者から受けたならば受者は(その意義や実践について)よく思案〈avakalpayet〉することはなく、畢竟意味が無いためです。
また、慳〈lubdha〉・貪〈lobhābhibhūta〉・大欲〈maheccha〉・不知足〈asaṃtuṣṭa〉などある者も戒師とはなり得ないとされます。さらには破戒者〈śīla-vipanna〉・戒を軽視する者・怠惰な者〈śaithilika〉、あるいは瞋〈krodha〉・恨〈upanāha〉ある者、不堪忍多き者〈akṣāṃti-bahula〉、他者の破戒に我慢ならない者、怠惰な者、懶惰なる者、昼夜無く睡眠するを楽しみ、横臥を楽しみ、仰臥を楽しみ、世間話を楽しむ者からも戒を受けてはなりません。
そして、落ち着き無き者、(印度の習俗に基づいて穢れを清めるために)牛乳を撒く際にも善心に集中して修習することが出来ない者、暗愚〈śaithilika〉・愚昧の類〈momuha-jātīya〉・極めて鬱々とした心〈saṃlīnacitta śaithilika〉なる者、さらに菩薩の経蔵および菩薩蔵〈bodhisattva-piṭaka〉の論〈mātṛkā〉を誹謗する者もまた、戒師として不適格とされます。以上のように見た時、三聚浄戒の戒師になり得る者は、出家在家を問わないとは言え、出離の徳ある者でなければならないことが知られるでしょう。しかし、その受戒に際して条件が課せられるのは受者についても同様です。
とは言え、戒師に比すればその条件は緩くなっています。たとえ仏教徒として七衆いずれかの別解脱律儀を具えていたとしても、菩薩蔵を誹謗する者、あるいは(大乗において)信無き者には、三聚浄戒を授けてはならないとされるのみです。その故は、大なる功徳を生むはずの菩薩戒を受けさせることが、逆に大なる罪業を造る因となってしまうためです。
そこで、万一、信無き者や決意無き者に授戒するような事態を防ぐため、このことは受戒法の項で言及すべきであったことかもしれませんが、三聚浄戒を受戒することを希望する者には、先ず菩薩蔵の論、そして学処〈戒〉および違反の具体的内容を説くべきとされます。それによって、その受者自らがよく考え、そのような菩薩戒を受持するに自分が堪えうるか、ただ他者から勧められただけで受けるのでなく、また他者より優れようとして受けるのではないことを確かめさせるのです。
このようにして初めて、受者は自らの信と意志とに基づいて菩薩戒を受け得ます。
ところで、受者に事前にその内容を事細かく開示する点は、律の受戒とは全く異なっています。律すなわち具足戒を受けるに際しては、その詳しい内容が事前に開示されることは決して無いためです。具足戒の場合、その受戒中に於いてすらその戒相が一々詳しく説かれることは無く、ただ受戒が成立した直後に最重罪である四波羅夷罪と出家生活の根本指針である四依法が示されるのみです。その故は、当初それらの内容を受戒が完了する前に説き示していた際、受者が「あまりに厳しくて自分には無理だ」と受戒の途中で尻込みして辞めてしまったことがあったためと伝えられています。
そもそも、律蔵に規定される様々な条項の詳しい内容を、具足戒を受けていない者に明らかにすること自体が禁じられています。その逐一を信者非信者を含めて在家者が知ったならば、世間話や噂、あるいは他者のあら捜しをして誹謗を加えることを好む者の恰好の的になって、僧伽に何の益も無くむしろ混乱するであろうためです。
このような点においても、三聚浄戒の授受には菩薩としての利他の精神が生かされ反映されていることが知られるでしょう。
前述したように、瑜伽戒の内容であるいわゆる四重四十三軽戒の戒条を犯した場合、その罪は四重あるいは四十三軽のいずれであってもすべて悪作であるとされます。
又此菩薩一切違犯。當知皆是惡作所攝。應向有力於語表義。能覺能受。小乘大乘補特伽羅。發露悔滅。若諸菩薩以上品纒違犯。如上他勝處法失戒律儀。應當更受。
これら菩薩の一切の違犯〈āpatti〉は、悪作〈duṣkṛta〉に包摂されると知られなければならない。まさに力あり、言葉の意味を表現・理解・受諾できる小乗の人〈Śrāvakayānīya〉あるいは大乗の人〈Mahāyānika〉に、発露し懺悔しなければならない。もし菩薩が上品纏を以て他勝処法に違犯したならば戒律儀を失う。(それでもなお菩薩戒の受持を望むのであれば)また再び受けよ。
『瑜伽師地論』巻四十一(T30, p.521a)
悪作とはduṣkṛtaの漢訳で、律ではしばしばその音写である突吉羅との語が用いられます。それは本来律の用語であって、罪としては最も程度が軽いものです。一人あるいは複数の上座もしくは同法侶に懺悔することによって許される罪です。なお、懴悔はまた懴罪や悔過などといい、その方法を懺法といいます。そして懺悔して罪ある状態から脱することを、出罪あるいは還浄といいます。
すでに述べたように、瑜伽戒の四他勝処法すなわち四波羅夷法は、律におけるそれとは全く異なって基本的に懺悔出罪が可能です。故に菩薩戒を受持した者が四他勝処法を犯したとしても、これは本来の用語からすれば非常におかしな話となりますが、悪作とされるのです。
すなわち、瑜伽戒は四重四十三軽戒などと称されるものの、実際その内容の重要性はどれも等しく同じであってほとんど変わりないものです。律ではその罪の軽重について五篇七聚[ごひんしちじゅ]を立てますが、瑜伽戒では波羅夷などといいながらその実、悪作(突吉羅)のみのいわば一篇一聚であるためです。支那・日本にて瑜伽戒に並んで重用された梵網戒の場合は波羅夷と悪作の二篇とされ、瑜伽戒とは異なっています(もっとも、伝統的には瑜伽戒も一応二篇と見なされています)。
このような点について詳しく知るには律の知識が不可欠となります。『瑜伽師地論』でも散説されてはいますが、やはり律蔵自体を理解するのに如くものではありません。
ところで、発露懺悔するべき対象について、これには意外に思う者があるかもしれませんが、声聞乗と大乗いずれの人でも可であるとされます。その要は、出家在家を問わず仏教徒であって、自らの懺悔の言葉を理解できる人であることのみです。このような規定からは、『瑜伽師地論』が著された当時の印度における大乗の徒らのあり方がいかなるものであったかの一端を伺うことも出来るでしょう。
ただし、その例外として、もし人が四他勝処法のいずれかを犯して、しかしそれを恥じることもなく逆に誇って「功徳である」などと言った際は、上品纏の違犯であって懺悔出罪不可です。よってその者は違犯と同時に菩薩戒を失うこととなります。けれども、本人にその意志さえあれば、再受戒が可能とされます。そこで、もし人がなんらか菩薩戒の違犯をして懺悔すべき時は、これは律のそれに倣って、どのように懺悔すべきかが規定されています。
まず何らか違犯をした者は、中品纏による違犯であれば三人以上の人に対し、また小品纏による違犯であれば一人の人に対して、具体的にいずれの戒を犯したかを発露しなければなりません。そうした後、さらに正しく以下のように言うべきとされます。
長老專志或言大徳。我如是名。違越菩薩毘奈耶法。如所稱事犯惡作罪。餘如苾芻發露悔滅惡作罪法。
静聴したまえ、長老あるいは大徳よ、私《懺悔者の名前》は、菩薩毘奈耶法〈bodhisattva-vinaya〉に違越しました。すでに告白したように悪作の罪に違犯しました。
『瑜伽師地論』巻四十一(T30, p.521a)
こうして発露し終わったならば、その罪を懺悔しなければなりません。しかし、その方法について、『瑜伽師地論』は「比丘が発露して悪作の罪を悔滅する法の如く」せよというだけで詳らかにしません。
ではそこで、律における比丘の悪作の罪を懺悔する法とはどのようなものか。その一例を示せば以下のようなものです。
向一比丘懺悔文應至一清淨比丘所偏露右肩。若上座禮足右膝著地合掌説罪名。説罪種。作如是言
長老一心念。我某甲比丘。犯某甲罪。今從長老懺悔。不敢覆藏。懺悔則安樂。不懺悔不安樂。憶念犯發露。知而不覆藏。長老憶我清淨。戒身具是清淨布薩第二第三亦如是説。彼受懺者應語言 自責汝心生厭離即答言爾
一人の比丘に対しての懺悔文 一人の清淨比丘の元にて偏露右肩し、もし上座ならば礼足して、右膝を地に著け合掌し、先ず(自ら犯した)罪名を述べてその罪種を言い、以下のように言え。
「長老よ一心に聴きたまえ、私《名前》比丘は。《罪名》の罪を犯しました。今ここに長老に従って懺悔し、敢えて覆蔵〈隠し立て〉いたしません。懺悔すれば安楽となり、懺悔せざれば不安楽です。(我が罪を)憶念して違犯を發露し、知って覆蔵いたしません。長老よ、我が清淨の戒身具是と清淨布薩とを憶したまえ。」第二・第三と同様に言え。そこで懺悔を受けている者はこのように言わなければならない。
「自ら汝の心を責め、(罪業に対して)厭離の思い起こせ。」懺悔者はこれに応えて「はい」と言うこと。
曇諦訳『羯磨』出曇無徳律(T22, p.1056a)
ここでは法蔵部の律蔵に基づく出罪の方法を示しました。無着菩薩がもと弥沙塞部すなわち化地部の人であったという当時の事情を鑑みたならば、その律蔵の漢訳である『五分律』のそれを出すべきであったかもしれません。しかし、律の懺悔法などいずれの律蔵でも大同小異でほぼ同じであるため、ここでは敢えて支那および日本でもっとも依行された『四分律』系統のものとしています。
これは軽微な違犯の場合で、ただ一人の比丘に対して懺悔する方法ですが、基本的に三人に対しても言うべき言葉や所作は同じです。対首懺[たいしゅさん]などと言われる懺悔法です。これらを懴悔可能な違犯についての懴悔法をまた出罪羯磨とも言います。
比丘であれば、これは特に軽微な悪作等の違犯についてのものであるが故に、むしろ日常的に行われる懺悔法であって特別なものでありません。今でも南方の分別説部の比丘らは日常的に対首懺を行じています。よって『瑜伽師地論』でもそのような常識的な懺悔法についてわざわざ詳細に言うことを省いたのでありましょう。
しかし、この懺悔に関しても、その資格ある戒師が身近に無い場合があるのと同様、懺悔すべき人が身近に無いことがあります。そこでそのような場合、自ら心の中において以下のように念じるべきとされます。
若無隨順補特伽羅可對發露悔除所犯。爾時菩薩以淨意樂起自誓心。我當決定防護當來終不重犯。如是於犯還出還淨。
もし隨順し相対して発露し、違犯した罪を懺悔すべき人が無い時には、(違犯した)菩薩は浄意楽を以て自誓心を起し、
「私は決意して未来を防護し、同じ違犯を再び犯すことは無い。」
と念じなければならない。このようにして(その菩薩は)所犯の罪から出で清浄となる。
『瑜伽師地論』巻四十一(T30, p.521b)
これは律で最軽微な悪作の違犯をした時の懺悔法である「心念」に倣ったものです。
因みに戒や律における清浄であるとか浄であるとかいう語について、往々にして誤解されているのですが、それは物理的に清潔であるとか精神的に清らかであるとかいうことをほとんどの場合意味しません。それは戒もしくは律の規定に違反していないこと、あるいはその状態を意味するものです。
例えば金銭のことを、律において不浄などと言う場合がありますが、これは「金など穢らわしい」という意味でなく、比丘が金銭を直接受蓄することが律の規定に違反するものである為です。ちなみに般若系の経典類において清浄という場合、やはり清潔であるとか精神的に清らかであることを意味せず、それは無自性空であることを意味します。同じ語句でも文脈に依って全く意味が異なるので注意が必要です。
誰でも過ちは意識的・無意識的にも犯してしまうものです。
ましてや初発心の者、いまだ菩薩戒を受けて日が浅く、修道も未だ深まっていない者ならばなおさらです。故にこのような懴悔法、悔過の法は日常的に用いられるものであり、それは単なる通過儀礼であっても複雑怪奇なものであってもなりません。ましてはこれを、なにやら超常的な尋常ならざる儀式にしてもならないものです。そもそも、懺悔において最も肝要な点は、違犯した者がその違犯を同法侶に対しては覆蔵しないこと、つまり包み隠さないことです。
以上、瑜伽戒についてその概略ではありますが、これを知らんとする人には出来るだけ誰でも理解しやすいよう示しました。三聚浄戒と瑜伽戒とは本来不可分のものではありますが、三聚浄戒については別項を設けて詳説しています。支那及び日本における伝統説では、瑜伽戒は梵網戒などと統合して大きく菩薩戒、すなわち三聚浄戒として包括的に理解されてきたのですが、ここでは敢えて瑜伽戒を梵網戒とは切り離して考えられるようしました。
そもそも、律に大きく矛盾する条項や思想をはらむ『梵網経』や『菩薩瓔珞本業経』、そして『占察善悪業報経』などは、瑜伽戒とはまるで異なる系統のものです。その故それらを初めから交えて理解しようとすると、おそらく必ずその矛盾に突き当たってしまうでしょう。支那の祖師といわれる先徳らが打ち立てた伝統説はその矛盾を解消しようと様々に解釈され、いわゆる止揚が試みられたものですがその矛盾が消えることなど無く、歴史上様々な問題を生じさせています。
大乗を知るについても、その歴史上起こった様々な問題の基を知るについても、律については勿論のこととして、まず瑜伽戒を知ることは不可欠のことであろうと思います。
しかしながら、現在の日本仏教では瑜伽戒の存在自体ほとんど忘れられ、まったくその存在すら知られなくなっています。辛うじてその名目をのみ知る人はあっても、その正体を知る人はやはりほとんど皆無であるようです。無論、文献学として仏教を学ぶ徒やその学者らでこれを専門とする者は極少数ながらあり、細々ながらも堅実にその研究に没頭してその成果を出している人もあるでしょう。しかし、それはどこまでも仏教学としてであって、仏教としてこれを講じ得る人など仏教僧だと自称している日本の僧職の人には、それが律宗や法相宗に属する者であっても、すでに絶無といって過言でないようです。
日本における大乗とは、上に挙げた『瑜伽師地論』にて像似正法に他ならないものを家業として「これも仏教である」として宣伝し家人・団体を養うための営利でしかなく、あるいは「昔々のお伽噺」を文献学や考古学の対象として紙片の上で弄するだけのものとなっています。そのような日本の中にあって戒や律についてあれこれ述べたところで、まったく虚しいことであろうことは充分承知しています。しかし、ここではそのような立場からではなく、学術的立場からでもなく、「仏教」としての見方を全く拙きながら正しく様々な典拠を直に挙げることに依って示しています。
声聞乗にせよ大乗にせよ、仏教に信を寄せることによって、得るものこそ多くあれ失うものなどありません。そして、大乗を志向する人はもちろんのこと、声聞の人でも瑜伽戒を学ぶことで失うことも過失となることも無い。
どれほどこの生において五欲を楽しみ謳歌し、栄誉や財をなしたところで、その死はあまりにあっけなく、また惨めに、孤独に訪れます。その時、それまで味わった欲も財も何の助けにもなりません。そして、どれほどその死を他者が傷み、弔ったところで、その人自身が救われることなどありはしません。その人を救いえるのはその人自身のみ。そこでその救いの術を、様々に示したのが仏教です。
ここにその一端である瑜伽戒を明らかとすることによって、いつか近い将来にまた興法の人が現れることを俟つのみ。
相似比丘慧照