他勝処法とはpārājayika-sthānīya-dharmaの漢訳で、本来的には律における比丘・比丘尼の最重罪を指す語であってpārājikaに同じであり、漢訳仏典では一般に波羅夷と音写され通用しています。実際、『菩薩地持経』では「波羅夷処法」としています。
pārājikaという語の構造は、para(他の)+√aj(動かす・投げる)とpara+√ji(勝つ)などと一応解釈出来ますが、玄奘は後者の意であるとしてそう訳したのでしょう。『瑜伽論記』において遁倫は、なぜこれを他勝処と言うかについて「若犯此戒者他所勝(もしこの戒を犯したならば他に勝たれる)」と説明しています。故に、他とはすなわち煩悩・魔のことであって、それに負かされて為される行為であるから他勝処という、とされます。
pārājikaの漢訳には他に、特に律蔵において不応悔罪や断頭罪といった語がありますが、それを犯すことが比丘としてどれほど重い罪となるかをよく表したものとなっています。もし波羅夷罪を比丘もしくは比丘尼が犯した場合、その者はただちに僧伽から追放され、今生において二度と比丘・比丘尼となることは出来ません。そのように、懺悔しても許されない罪であるから不応悔罪であり、また比丘・比丘尼としての死罪を意味するから断頭罪とされるのです。
しかしながら、これは『瑜伽師地論』自体にてそう説明されていることですが、瑜伽戒において説かれる他勝処すなわち波羅夷は、律のような不応悔罪や断頭罪とはされません。菩薩がそれらの一条でも犯したならば、彼は「相似菩薩」すなわち偽菩薩であると断ぜられはしますが、破戒を悔いて懺悔したならば再び受戒出来るものとされます。これは一応、瑜伽戒が出家・在家に通じて説かれたものである、ということもあるのでしょう。
とは言え、総体としてみたならば、そもそも『瑜伽師地論』自体は多く出家者を対象として説かれたものであって、その所説の戒はいきおい主に出家者を対象としたものとなっています。よって、瑜伽戒自体もその対象はあくまで出家者に比重が置かれたものであることを理解しておく必要があります。
非諸菩薩。暫一現行他勝處法。便捨菩薩淨戒律儀。如諸苾芻犯他勝法即便棄捨別解脱戒。若諸菩薩由此毀犯。棄捨菩薩淨戒律儀。於現法中堪任更受非不堪任。如苾芻住別解脱戒犯他勝法。於現法中不任更受
略由二縁捨諸菩薩淨戒律儀。一者棄捨無上正等菩提大願。二者現行上品纒犯他勝處法。
菩薩らが、もし一たび他勝処法〈pārājayika-sthānīya-dharma〉を犯して菩薩の浄戒律儀を捨したとしても、それは比丘らが他勝法を犯したならば別解脱戒〈prātimokṣasaṃvara〉の棄捨となるのとは異なる。もし菩薩らがこれを犯して菩薩の浄戒律儀〈saṃvara〉を捨したとしても、現世において再度受けることが出来る。比丘が別解脱戒を受けていながら他勝法を犯したならば、現世において二度と受け(比丘とな)ることが出来なくなるのとは異なる。
略して言えば、菩薩が浄戒律儀を捨すことになるのには二つの場合がある。一つには無上正等菩提の大願を捨てた場合、二つには上品纏〈adhimātra paryavasthāna〉の他勝処法の違反を行った場合である。
『瑜伽師地論』巻四十(T30, p.515c)
菩薩とは菩提薩埵(Bodhisattva)の略であり、「それは菩提を求める衆生」の意である、と一般にいわれます。
この『瑜伽師地論』の一節では、無上正等菩提の大願を捨てたならば菩薩戒の捨となるといわれ、すなわちその者はもはや菩薩ではないとされます。菩薩の本質とは、やはり無上正等菩提を得んとの大願を有していることであって、一般の菩薩についての認識は正しいことがここに確かめられるでしょう。上品纏の違反とは、他勝処法を犯しておきながらそれを自他に対してまったく恥じず〈無慚愧〉、かえってさらに愛楽〈愛好して願い求める心〉して「これぞ功徳である」などと思い、あるいは言った場合です。
瑜伽戒における四他勝処とはいかなる内容のものか。それを原文に併せて現代語にて要約を示したならば以下の通り。
戒相 | 体 | ||
---|---|---|---|
貪求利敬讃毀戒 第一 |
若諸菩薩為欲貪求利養恭敬自讃毀他是名第一他勝処法 | 自身の利益や名声を得ることを目的に、自らを称揚して他者を誹謗中傷すること。 | 貪 |
性慳財法不施戒 第二 |
若諸菩薩現有資財性慳財故有苦有貪無依無怙正求財者来現在前不起哀憐而修恵捨正求法者来現在前性慳法故雖現有法而不給施是名第二他勝処法 | 自身に資産の余裕があるにも関わらず、その財を慳貪して、苦しみの中にある貧しく頼る者も無い者が恵みを乞いに来たっても、憐れむことなく施しをしないこと。また正しく法を求める者が来たっても、法を(他人に説くことを)惜しんで、法を説いて教えないこと。 | 慳 |
長養忿纏不捨戒 第三 |
若諸菩薩長養如是種類忿纏由是因縁不唯発起麁言便息由忿蔽故加以手足塊石刀杖捶打傷害損悩有情内懐猛利忿恨意楽有所違犯他来諌謝不受不忍不捨怨結是名第三他勝処法 | 様々な怒りを増長させ、粗暴な言葉を発して自ら制すること無いこと。手足や石・刀・杖など(様々な手段)で、生けるものを打ちつけ、傷つけ、悩ますこと。猛烈な怒りを心に懐いて、(自らに対して為された)過ちについて他者が謝罪しに来ても許さず、我慢すること無く、怨みを捨てないこと。 《怒りを自ら制すること無く、身口意の三業によって、他者を害すること》 |
瞋 |
愛楽像似正法戒 第四 |
若諸菩薩謗菩薩蔵愛楽宣説開示建立像似正法於像似法或自信解或隨他転是名第四他勝処法 | 菩薩蔵〈大乗〉を謗って、像似正法〈似非仏教〉を悦び、説き、示し、作り上げること。あるいは自ら(像似の正法を)信仰し、あるいは他者に従って信仰すること。 | 痴慢 |
阿羅漢果を至上のものとせず、自らを無上菩提を求める菩薩であると認める者は、上記の四他勝処法を違犯しないよう、特段に意識しなければなりません。
なお、『瑜伽論記』において遁倫は、瑜伽戒の四他勝処法とは『梵網経』所説の十重禁の第一から第六までの前六戒を省略したものであると理解しています。しかし、これはあくまで遙か後代の支那および朝鮮における理解であって、それを日本の諸宗も引き継いでいるのですが、そもそも印度以来のものではありません。
瑜伽戒における四他勝処以外の余戒について、ここでは『瑜伽師地論』の所説に従って四十三箇条、いわゆる四十三軽戒としてその戒相を示します。
その前にまず、四十三軽戒が示される『瑜伽師地論』菩薩地の瑜伽戒品第十之二の冒頭には、以下のように説かれていることを知る必要があります。
如是菩薩安住菩薩淨戒律儀。於有違犯及無違犯是染非染軟中上品。應當了知。
このように菩薩は、菩薩浄戒律儀に確固として依り、その違犯〈āpatti〉・無違犯〈anāpatti〉、染汚〈kliṣṭa〉・非染汚〈akliṣṭa〉、そして軟品〈mṛdu〉・中品〈madhya〉・上品〈adhimātra〉と(のそれぞれ違いやその詳細を)を理解しなければならない。
『瑜伽師地論』巻四十一(T30, p.516a)
この一節によって、いわゆる四十三軽戒にて制される行為を行ったとして、これを違犯あるいは違越〈sātisāra〉というのですが、場合によりその罪の程度に違いがあることが示されています。無違犯とは、戒に抵触しないことであるのは勿論として、たとえ該当する行為をしたとしても罪とならない場合のことです。先ずそれは精神錯乱・心神喪失状態にあった者がなした場合、大なる苦しみに逼迫した者が意図せずなした場合、特定の状況・条件下にてなされた場合です。その者の責任能力の有無が問われるためです。
そして、これは言うまでもないことかもしれませんが、いまだ瑜伽戒を受けたことが無い者が制される行為を為した場合や、受戒以前に為していた場合も無違犯となります。いわゆる法の不遡及ですが、このあたりの規定はもはや戒ではなく、律におけるそれと全く同一です。
およそ二千六百年前、釈迦牟尼に依って制定された律の規定は、近現代の法律の概念と相似したものです。よって、仏教における戒や律全般について、ユダヤ教やイスラム教などのそれと同じき「いわゆる宗教的戒律だ」などと考えるのみで、そのような法律的見方を以てしないとまるで見誤ることとなるでしょう。
また、すでに浄意楽地〈śuddhāśaya-bhūmi〉に至った菩薩がなした場合も無違犯とされます。浄意楽地に至った菩薩とは、『瑜伽師地論』にて説かれる菩薩の十種の階梯における第四番目の已浄意楽の菩薩のことで、『十地経』で説かれる所の初地歓喜地以上の菩薩のことです。
なぜ高位の境地に至った菩薩は同じ行為をしたとしても無違反とされるのか。私見ながらそれはおそらく、道を已に得た者にはいわゆる道共戒[どうぐうかい]が備わって、もはや自ずから悪を為すことは無くなるという前提あってのことでしょう。大乗において道共戒が備わるとされるのは、まさに十地の初めである歓喜地に至った者です。なお、積極的に十善業道を行うのは第二離垢地に至ってからとされます。
そもそも戒にしろ律にしろ、それらは本来、あくまで身体と言語による行為を制するものです。が、十善を戒としたならば、そこには慳貪・瞋恚・邪見という三種の心についての戒が含まれており、通常の意味での戒とは異なったものとなります。已に浄意楽地に至った菩薩は十善が自然に備わり、愚かさや悪しき動機に基づいて何らか行為を行うものでは決して無いという大乗の見方、信仰というものがここに表れているのでしょう。
次に、染汚〈kliṣṭa〉とはなんから戒に違反した際、その動機が特定の煩悩に基づいていた場合です。対して非染汚は、行為としては違犯となっていても、その動機・理由が怠惰や不注意などに由った場合です。これをそれぞれ染汚違犯・不染汚違犯と言います。そして、軟品〈下品〉・中品・上品とは、五つの観点から、戒に抵触した際の罪を三種に分類したものです。その五つの観点とは自性・毀犯・意楽・事・積集ですが、これらをここで詳細にすることは煩雑と過ぎたものとなろうため略します。
(その詳細を知りたい者は、『瑜伽師地論』巻九十九「摂事分調伏事総択摂」を参照のこと。)
では四十三軽戒として離れるべきとされる行為について、それを要略して示せば以下のようなものとなります。
なお、それぞれ戒の名目は凝念がその著『梵網戒本疏日珠鈔』にて用いたものを記しています。また表右端には遁倫〈道倫〉『瑜伽論記』の解釈に依り、それぞれの行為が大乗の修道・行において具体的に何の障害となるかを、六波羅蜜と四摂法に約して示したものを記しています。遁倫〈道倫〉は、瑜伽戒の四十三軽戒とは、六波羅蜜〈六度〉と四摂法を正しく行じるため、その障害となる行為を排除するものであると理解しています。
名目 | 戒相 | 約六度四摂法 | |||
---|---|---|---|---|---|
不共礼讃三宝戒 第一 |
仏菩薩を祀る制多〈caitya. 祀堂〉(仏宝)・大乗の経蔵や論蔵(法宝)・僧伽にある十地以上の菩薩僧(僧宝)の三宝に対し、身・口・意業による供養を小分たりともしないこと。 | 障財施 | 障施 | 障六度 | |
利養恭敬生著戒 第二 |
貪欲で足ることを知らず、種々の利益や名声に対して執着を起し、その執着を捨てないこと。 | ||||
不敬耆長有徳戒 第三 |
耆長〈上座僧・尊宿〉や敬すべき有徳の同法者が来訪したのに、憍慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、立って出迎えず上席に案内しないこと。会話・論談・慶弔のために他者が来訪したのに、憍慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、道理に叶った発言や応対をしないこと。 | ||||
憍慢不受請施戒 第四 |
他者からその居家や他寺において飲食や種々の生活用品を(自身に対して)供養するための招待を受けたのにも関わらず、憍慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、その場所に行かず、供養を受けないこと。 | ||||
嫌恨不受重宝戒 第五 |
他者から種々の金・銀・真珠・摩尼・瑠璃など財宝の布施をされたにも関わらず、憍慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、それらの布施を受けないこと。 | ||||
嫌恨不施其法戒 第六 |
他者が法〈Dharma. 教え〉を求めて来訪したにも関わらず、嫌恨・瞋恚・嫉妬の心を起して、法を施さないこと。 | 障法施 | |||
棄捨犯戒有情戒 第七 |
凶悪な犯戒の者に対し、嫌恨・瞋恚の心を起して、その凶悪な犯戒者であることを理由に見捨て、彼を利益しないこと。 | 障無畏施 | |||
遮罪共不共戒 第八 * |
菩薩は、声聞と共通する波羅堤目叉〈戒本.律儀〉を護り、未だ信無き者に信を起こさせ、すでに信有る者らの信を深めさせるべきである。また利他を重きとするが故に、声聞には制限されて共通しない、種々の衣鉢・坐臥具・絹衣の布施を無制限に受けて蓄えるべきである。にも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、利他を忘れ、利他の活動も方策もしないこと。 | 障戒 | |||
性罪一向不共戒 第九 * |
菩薩は、利他の為であって慈心をもって深く思惟した結果としてならば、(戒や律で禁じられる)殺生・偸盗・邪淫〈出家者は不婬〉・妄語・両舌・綺語・悪口など諸々の性罪〈それ自体が悪しき行為〉を犯したとしても、それはむしろ多くの功徳となるのに、それらを行わないこと。 | ||||
求利味邪命法戒 第十 |
ただ自らの利益の為であるのに偽り欺いて、そうでは無いかのように振る舞って利益を求め、邪に生活して恥じること無く、その生活を固持して捨てることが無いこと。 | ||||
掉動心不寂静戒 第十一 |
心に落ち着き無く寂静を願わず、声高に騒いで飛び跳ね、他者を笑わせようとすること。 | ||||
不欣涅槃厭煩悩戒 第十二 |
菩薩は涅槃を願うべきでなくむしろ厭うべきであり、また煩悩・随煩悩を畏れてその断滅や遠離を願うべきでなく、三無数劫の長きを生死流転して大菩薩を求めるべきであると説くこと。 | ||||
悪称誉不護雪戒 第十三 |
他者からの不名誉な誹謗中傷を被っているにも関わらず、それを晴らさないこと。もしそれが事実であるならば、その批判される行為を止めないこと。 | ||||
応行辛楚不行戒 第十四 |
他者に対し、辛楚〈痛み苦しむこと〉や猛利〈甚だしいこと〉なる行為をすることが、むしろその者自身の利益となることがわかっているにも関わらず、その者がその過程に受けるであろう憂い悩みを思って、行わないこと。 | ||||
罵瞋等報罵等戒 第十五 |
他者から罵られて罵り返したり、怒りを受けて怒りを返したり、打たれて打ち返したりすること。 | 障忍 | |||
侵犯若疑不謝戒 第十六 |
自らが他者(の権利など)を何らか侵害し、あるいはその事実は無くとも侵害したと疑われたにも関わらず、嫌恨・軽慢の心を起して、如法に謝罪しないこと。 | ||||
他侵来謝不受戒 第十七 |
他者から自ら(の権利など)が侵害され、その者から如法に謝罪を受けたにも関わらず、嫌恨して害意を懐き、その謝罪を受け入れないこと。 | ||||
懐忿堅持不捨戒 第十八 |
他者に怒りを懐いても、自らその怒りを継続させて捨てないこと。 | ||||
貪供事御徒衆戒 第十九 |
(自身に対する)奉仕を貪って、衆〈gaṇa〉を率い養うこと。 | 障精進 | |||
懈怠耽睡臥倚戒 第二十 |
自らの懶惰・懈怠によって、不適切な時期と時間に、睡眠・横臥・倚坐の楽を貪ること。 | ||||
談説世事度時戒 第二十一 |
染汚の心によって、世事について論談し、虚しく時日を送ること。 | ||||
憍慢不求禅法戒 第二十二 |
心を治めるために定を修めようとするも、嫌恨・驕慢の心を起して、師のもとに詣でてその教えを請わないこと。 | 障禅 | |||
忍受五蓋不捨戒 第二十三 |
貪欲、瞋恚、惛沈・睡眠、悼挙・悪作、疑(の五蓋)を起してこれを堅持し、捨てないこと。 | ||||
貪味静慮為徳戒 第二十四 |
静慮〈禅那〉(の境地)を貪り味わって、それを功徳であるとすること。 | ||||
不許学小乗教戒 第二十五 |
「菩薩たる者は声聞乗の法教を聴聞・受持・精勤・修学してはならない」などと論じて説くこと。 | 約法 | 障慧 | ||
棄菩薩蔵学小戒 第二十六 |
菩薩蔵〈大乗経典〉を詳しく研究せぬまま、声聞蔵〈三蔵〉を専らにして修学すること。 | ||||
仏教未精学異道戒 第二十七 |
仏教を詳しく研究せぬまま、異道〈外道・他宗教〉の論説に従って精勤・修学すること。 | ||||
越正法翫外論戒 第二十八 |
菩薩法〈大乗〉から逸脱し、異道の論説に従って研究し、毒を扱うかのようにでは無く、むしろ深く尊重・愛楽・味着して親近すること。 | ||||
深真実義不信戒 第二十九 * |
菩薩蔵を聴聞して、その甚深義・真実義や諸仏・菩薩の神通力を信じること無く誹謗し、「道理に叶っておらず、真理に関わり無く、如来の所説では無く、有情を利益するものでは無い」などと言うこと。 | ||||
愛恚自讃毀他戒 第三十 |
貪欲・瞋恚の心を起して、自らを称揚して他者を誹謗中傷すること。 | 就人 | |||
説正法不住聴戒 第三十一 |
正法が講説され、あるいは(正法について)議論され決着されるというのに、驕慢・嫌恨・瞋恚の心を起して、その場所に行って聞かないこと。 | ||||
於説法師毀笑戒 第三十二 |
説法師〈dharma-bhāṇaka pudgala〉を軽蔑して尊敬せず、嘲弄して批難し、「ただ文字面を追うのみで核心を突いていない」などと言うこと。 | ||||
所応作不為伴戒 第三十三 |
他者が何事かを為そうとしているにも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、その助力とならないこと。その事とは、道の往来・準備・財の防護・訴訟の和解・祝宴・福祉など。 | 障同事 | 障四摂 | ||
病若苦不供事戒 第三十四 |
有情が重い病に罹っているのを見たにも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、その有情の元に行って見舞わず看護しないこと。 | 障愛語 | |||
行非理不為説戒 第三十五 |
他者が現世・後世の為として、むしろ種々の不道理〈anaya〉な行いをしているのを見たにも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、その者の為に正しい道理を説き示さないこと。 | 障布施 | |||
不知恩不酬法戒 第三十六 |
以前、恩恵〈upakāra〉を受けたことのある有情に対し、その恩を知らず理解せず、嫌恨の心を起して、その恩に応えて報いようとしないこと。 | ||||
失財等愁不開解戒 第三十七 |
他者が財産・親族・地位を喪失するなど困難な状況にあって嘆き悲しんでいるにも関わらず、嫌恨の心を起して、その者のところに行って慰撫しないこと。 | ||||
求飲食等不給戒 第三十八 |
飲食物など(自らの蓄えに)余裕があるにも関わらず、嫌恨・瞋恚の心を起して、(貧困や飢渇の苦しみの中にある有情に対して)飲食物などを分け与えないこと。 | ||||
摂徒衆不教給戒 第三十九 |
弟子〈parṣada〉を率いていながら、嫌恨の心を起して、適時に正しく教授せず、正しく呵責しないこと。また、(弟子が)窮乏していることを知りながら、その者の為に信者である長者・居士・婆羅門などに如法に依頼して、衣服・飲食・坐臥具・医薬や生活必需品を適時に供給させないこと。 | ||||
於他不隨心転戒 第四十 |
嫌恨の心を起して、有情に心を向けないこと。 | 障利行 | |||
他有徳不顕揚戒 第四十一 |
嫌恨の心を起して、他者が実に徳があるにも関わらずそれを世間に広めようとせず、他者が実に栄誉あるにも関わらずそれを賛嘆しようとせず、他者が実に(法を)良く説いているにも関わらず「善い哉!〈sādhu〉」と讃えないこと。 | ||||
可呵責等不作戒 第四十二 |
呵責・治罰・躯擯すべき他者に対し、染汚心を起して、呵責しないこと。あるいは呵責したとしても、治罰して如法に教誡しないこと。あるいは治罰して如法に教誡したとしても躯擯しないこと。 | ||||
応恐怖等不作戒 第四十三 |
種々の神通変現の力を具えたにも関わらず、それによって信施を受けるのを避ける為に、恐怖すべき有情を恐怖させず、また引摂すべき有情を引摂しないこと。 |
ここで一応注意しておきますが、以上に示した戒相はあくまで四十三軽戒の概略に過ぎないものであり、先に示した無違反や染汚・不染汚とされる事例は全く挙げていません。よって、よりその詳細を知りたい者は、『瑜伽師地論』あるいは『菩薩戒本』〈『瑜伽戒本』・『菩薩戒経』に同じ〉の該当する一節を熟読する必要があります。
以上のように、瑜伽戒における種々の戒条は、『梵網経』所説の十重四十八軽戒と比したならば、非常に体系的なものであって解りやすく、誠に現実的なものであることが知られるでしょう。これら戒条のほとんどは、日常の生活にどこまでも則したものであって、非現実的で実現不可能に思われる類のものではありません。ただし、第九の性罪一向不共戒は瑜伽戒において最も特異な戒条です。これは所謂「一殺多生」を是認しているもので、律儀戒にて重軽共に戒しめている殺生や窃盗などその行為自体が悪とされる十不善業、すなわち性罪をその動機や目的の如何によっては許したものです。
例えば、ある一人の暴虐なる者があって今まさに多くの人々を殺害・傷害しようとしているとして、しかしその者を殺めたならば多くの人々の生命を救い得ることが確実ならば、それを殺傷しても罪とはならず、むしろ積極的に殺傷せよとしているのです。もっとも、それはあくまで「菩薩戒として」であって、もし出家である菩薩比丘がどのような理由であれ意図的に殺人など犯してしまえば、それは文字通りの波羅夷罪(断頭罪・不可悔罪)となって、彼は比丘僧伽から追放され、もう二度と出家することはできなくなります。
この性罪一向不共戒について、もし狂信的新興宗教団体や過激思想を持つ者などが恣意的に理解したならば、むしろ自身らの暴挙を正当化する根拠として実践されてしまう危うさを孕んでいます。実際、日本の戦前戦後という比較的短い期間においてもこの思想に依拠して重大な事件を引き起こした者が少なくありません。
とは言え、現実の俗世間では、日本では比較的稀ではあるものの世界各国の警察組織や軍事組織において「一殺多生」はごく当たり前に行われていると言っていいものです。死刑を廃止した国であっても極めて危険な犯罪者など「条件次第では」その場で射殺されます。射殺した者は表彰されることはあっても罰せられることなどありません。それは勿論、俗法の体系とその裏付けがあってこそのことです。
あるいは、『礼記』に「苛政は虎より猛なり」などとありますが、暴虐なる為政者によって多くの人民が弾圧され、ついに民衆が放棄してその為政者を殺害したとして、それがもちろん完全に違法行為であっても治安擾乱やテロであると糾弾せず、むしろ革命であるとして讃えることは、洋の東西も古今も問わず俗世にしばしば見られることです。
ところで、先にこの四十三軽戒は典籍や人によって数を異にしていると述べましたが、ここでそれについて少しく詳細にしておきます。先ず四十二軽戒とするのは旧論、すなわち『菩薩地持経』であって、それは新論すなわち『瑜伽師地論』に説かれる第九の性罪不共戒が欠けて無いためです。
次に四十四軽戒とするのは、第八の遮罪共不共戒を共と不共とに分けてのことです。凝然はこれをそれぞれ遮罪堅持共学戒と遮罪有縁不共戒としています。そして四十五軽戒とする場合は、これは遁倫の説によれば第二十九の不信深法戒を不信解と毀謗両舌とに開いてのことです。同じく凝然はこれらを不信深義戒と不強信受深義戒と名づけています。要するに、いずれの説にせよ戒の内容が変わっているわけではなく、ただそれをより詳細にするか否か程度の差に過ぎません。
先に瑜伽戒は僧俗通じたものでは一応あるけれども基本的に出家本位であることを指摘しましたが、これらは比丘として僧院にある者でもその護持する律と衝突・乖離したものとなっていません。この点も梵網戒とは大きく異なっている点です。そのようなことから、瑜伽戒は無着菩薩がこの『瑜伽師地論』を(弥勒菩薩の説示を聴聞して)著したという当時の、大乗の出家菩薩らのあり方が直に反映したものと見ることも出来るでしょう。
もっとも、そのような千数百年前の印度における先徳らのあり方に思いを馳せることは充分意味あることではありますが、今はこの瑜伽戒がいかなる内容のものであるかをまず理解し、現実にそれぞれの人生に持して活かすことこそ肝心。ここではそれをこそ目的として、以上の瑜伽戒の戒相を略示しています。