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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝』

原文

天寚三載歳次甲申越州龍興寺衆僧請大和尚講律受戒事畢㪅有坑州湖州宣州並來請大和尚講律大和尚依次巡遊開講受戒還至鄮山育王寺時越州僧等知大和尚欲徃日本國告州官曰日本國僧榮叡誘大和尚欲徃日本國時山陰縣尉遣人於王蒸宅捜得榮叡師著枷遞送京遂至杭州榮叡師臥病請暇療治經多時云病𣦸乃得放出榮叡普照等爲求法故前後被災艱辛不可言盡然其堅固之志曾無退悔大和尚悦其如是欲遂其願乃遣僧法進及二近事將輕貨徃福州買船具辨粮用大和尚率諸門徒祥彥榮叡普照思託等三十餘人辭禮育王塔巡禮佛跡供養聖井護塔魚菩薩尋山直出州太守廬同宰及僧徒父老迎送設供養差人備粮送至白社村寺修理壞塔勸諸鄕人造一佛殿至臺州寧海縣白泉寺宿明日齋後踰山嶺峻途遠日暮夜暗澗水沒膝飛雪迷眼諸人泣涙同受寒苦明日度嶺入唐興縣日暮至國淸寺松篁蓊欝奇樹璀璨寚塔玉殿玲瓏赫奕莊嚴蕐飾不可言盡孫綽天臺山賦不能盡其萬一大和尚巡禮聖跡出始豊縣入臨海縣導於白峯尋江遂至黄巖縣𠊳取永嘉郡路至禪林寺宿明朝早食發欲向温州忽有採訪使牒來追其意者在揚州大和尚弟子僧靈祐及諸寺三綱衆僧同議曰我大師和尚發願向日本國登山渉海數年艱苦滄溟萬里𣦸生莫測可共告官遮令留住仍共以牒告於州縣於是江東道採訪使下牒諸州先追所經諸寺三綱於獄留身推問尋蹤至禪林寺捉得大和尚差使押送防護十重圍繞送至採訪使所大和尚所至州 縣官人參迎禮拜歡喜卽放出所禁三綱等採訪使處分依舊令住本寺約束三綱防護曰勿令㪅向他國諸州道俗聞大和尚還至各辨四事供養競來慶賀遞相把手慰勞獨大和尚憂愁呵責靈祐不賜開顔其靈祐日日懺謝乞歡喜每夜一㪅立至五㪅謝罪遂終六十日又諸寺三綱大德共來禮謝乞歡喜大和尚乃開顔耳

天寚七載春榮叡普照師從同安郡至揚州崇福寺大和尚住所大和尚㪅與二師作方𠊳造舟買香藥備辨百一物如天寚二載所備同行人僧祥彥神倉光演頓悟道祖如高德淸日悟榮叡普照思託等道俗一十四人及化得水手一十八人又餘樂相隨者合有三十五人六月二十七日發自崇福寺至揚州新河乗舟至常州界狼山風急浪高旋轉三山明日得風至越州界三塔山停住一月得好風發至署風山停住一月

十月十六日晨朝大和尚云昨夜夢見三官人一著緋二著綠於岸上拜別知是國神相別也疑是度必得渡海少時風起指頂岸山發東南見山至日中其山滅知是蜃氣也去岸漸遠風急波峻水黑如墨沸浪一透如上高山怒濤再至似入深谷人皆荒酔但唱觀音舟人告曰舟今欲沒有何所惜卽牽棧香籠欲抛空中有聲言莫抛莫抛卽止中夜時舟人言莫怖有四神王著甲把杖二在舟頭二在檣舳邊衆人聞之心裏稍安三日過虵海其虵長者一丈餘小者五尺餘色皆斑斑滿泛海上三日過飛魚海白色飛魚翳滿空中長一尺許五日經飛鳥海鳥大如人飛集舟上舟重欲沒人以手推鳥卽銜手其後二日無物唯有急風高浪衆僧惱臥但普照師每日食時行生米少許與衆僧以充中食舟上無水嚼米喉乾咽不入吐不出飲鹹水腹卽張一生辛苦何劇於此海中忽四隻金魚長各一丈許走繞舟四邊明旦風息見山人總渴水臨欲𣦸榮叡師面色忽然怡悦卽説云夢見官人請我受懺悔叡曰貧道甚渴欲得水彼官人取水與叡水色如乳汁取飲甚美心旣淸凉叡語彼官人曰舟上三十餘人多日不飲水大飲渴請檀越早取水來時彼官人喚雨令老人處分云汝等大了事人急送水來夢相如是水今應至諸人急須把碗待衆人聞此總歡喜明日未時西南空中雲起覆舟上注雨人人把碗承飮第二日亦雨至人皆飽足明旦近岸有四白魚來引舟直至泊舟浦舟人把碗競上岸頭覓水過一小崗𠊳遇池水淸凉甘美衆人爭飮各得飽滿後日㪅向池欲汲水昨日池處但有陸地而不見池衆共悲喜知是神靈化出池也是時冬十一月蕐蘂開 敷樹實竹筍不辨於夏凡在海中經十四日方得著 岸遣人求浦乃有四經紀人𠊳引道去四人口云大和尚大果報過於弟子不然合𣦸此閒人物喫人火急去來𠊳引舟去入浦晩見一人被髪帶刀諸人大怖與食𠊳去

訓読

天寚三載、ほし甲申こうしんやどる。越州龍興寺の衆僧、大和尚を請じて講律受戒。事畢て㪅に坑州こうしゅう湖州こしゅう宣州せんしゅうならびに來て、大和尚を請して律を講せしむる有り。大和尚、次に依て巡遊し開講受戒す。還て鄮山の育王寺に至る。時に越州の僧等、大和尚、日本國に徃んと欲ことを知て、州官に告て曰く、日本國の僧榮叡、大和尚を誘て日本國に徃んと欲すと。時に山陰縣さんいんけん、人を王蒸おうじょうが宅に遣して榮叡師を捜り得て、かせを著て京に逓送ていそうして遂に杭州に至る。榮叡師、病に臥していとまを請て療治す。多時を經て病𣦸びょうしと云て、乃ち放出ほうしゅつことを得たり。榮叡・普照等、求法ぐほうの爲の故に前後災を被り、艱辛かんしんすること言を以て盡すべからず。然れども、其の堅固の志し、曽て退悔たいげすること無し。大和尚、其の是の如なることをよろこびて、其の願を遂んと欲す。乃ち僧法進ほうしん、及び二りの近事ごんじを遣して輕貨きょうか福州ふくしゅうに徃て船を買はしめ、粮用を具え辨ず。大和尚、諸の門徒、祥彥・榮叡・普照・思託等の三十餘人を率ひて、辭して育王の塔を禮し、佛跡を巡禮して、聖井しょうせい、護塔の魚菩薩を供養す。山を尋て直に州を出づ。太守廬同宰及ひ僧徒、父老ふろう、迎送して供養を設け、人をしゃして粮を備へ、送て白社村寺に至しめて、壞塔を修理せしむ。諸の鄕人をすすめて一の佛殿を造る。台州の寧海縣ねいかいけん白泉寺びゃくせんじに至て宿す。明日、さい後、山を踰ふ。嶺峻ふして途ち遠く、日暮れて夜暗し。澗水、膝を沒し、飛雪、眼を迷はす。諸人泣涙して、同く寒苦を受く。明日、嶺をわたって、唐興縣とうこうけんに入り、日暮、國淸寺に至る。松篁しょうこう蓊欝おううつとして奇樹璀璨さいさんたり。寚塔・玉殿、玲瓏れいろう赫奕かくやくたり。莊嚴しょうごん蕐飾すること、言を以て盡すべからず。孫綽そんしゃくか天台山の、其の萬一を盡すこと能わず。大和尚、聖跡を巡禮し、始豊縣しほうけんを出て、臨海縣りんかいけんに入る。白峯に導て、江を尋て遂に黄巖縣こうがんけんに至る。𠊳すなは永嘉郡えいかぐんの路を取り、禪林寺ぜんりんじに至て宿す。明朝、早に食して、發して温州に向んと欲す。忽ち採訪使の牒有て、來り追ふ。其の意は、揚州に在る大和尚の弟子の僧、靈祐りょうゆう及び諸寺の三綱さんごう、衆僧、同く議して曰く、我が大師和尚、願を發し、日本國に向んとして山に登り海をわたって、數年艱苦かんくす。滄溟そうめい萬里ばんり𣦸生ししょう測ること莫し。共に官に告て、さえぎっ留住るじゅうせしむべし。仍て共に牒を以て州・縣に告ぐ。是に於て江東道こうとうどうの採訪使、牒を諸州に下して、先つ經る所の諸寺の三綱を追て、獄に於て身を留めて推問す。あとを尋て禪林寺に至て大和尚を捉り得て、使を差して押送おうそう、防護し十重囲繞いにょうして、送て採訪使の所に至る。大和尚、至る所の州縣の官人、參迎、禮拜、歡喜して、卽ち禁ずる所の三綱等を放出す。採訪使、處分してもとに依て本寺に住せしめ、三綱に約束し防護して曰く、さらに他國に向はしむること勿れ。諸州の道俗、大和尚の還り至ることを聞て、各々四事しじの供養を辨じて競ひ來て慶賀し、逓相たがひに手を把て慰勞す。獨り大和尚、憂愁す。靈祐を呵責して開顔かいげんを賜はず。其の靈裕、日日懺謝して歡喜かんぎを乞ふ。每夜一㪅いっこうより立て五㪅ごこうに至て罪を謝す。遂に六十日を終ふ。又、諸寺の三綱、大德、共に來て禮謝らいしゃして歡喜を乞う。大和尚、乃ち顔を開くのみ。

天寚七載春、榮叡・普照師、同安郡どうあんぐんより揚州崇福寺しゅうふくじ、大和尚の住所に至る。大和尚、さらに二師と方𠊳を作して舟を造り、香藥を買ひ、百一物ひゃくいちもつを備辨すること、天寚二載に備ふる所の如し。同行の人、僧祥彥しょうげん神倉じんそう光演こうえん頓悟とんご道祖どうそ如高にょこう德淸とくしょう日悟にちご・榮叡・普照・思託等、道俗一十四人、及び水手一十八人を化し得、又、餘の相ひ隨んとねがふ者の合して三十五人有り。六月二十七日、崇福寺より發して揚州の新河に至り、舟に乗じて常州じょうしゅうの界、狼山ろうざんに至る。風急に浪高して三山を旋轉せてんす。明日、風を得て越州の界、三塔山さんとうざんに至り、停住すること一月。好風を得て發して署風山じょふうざんに至て、停住すること一月なり。

十月十六日の晨朝じんちょう、大和尚の云く、昨夜、夢に三官人を見る。一りはを著け、二りはろくを著く。岸上に於て拜別す。知ぬ、是れ國神の相別なることを。疑らくは是のび必ず海を渡ことを得んと。少く時あて風起れり。頂岸山ちょうがんさんを指して發す。東南の方に山を見る。日中に至て、其の山滅す。知ぬ、是れ蜃氣しんきなることを。岸を去ことようやく遠して、風急に波たかし。水くろきこと墨の如し。沸浪の一たびとおって、高山に上るが如し。怒濤どとう再ひ至て深谷に入るに似たり。人皆な荒酔して但々觀音を唱ふ。舟人しゅうじん告て曰く、舟今ましずまんと欲す。何の惜む所か有ん。卽ち桟香籠をひいなげんと欲す。空中に聲有て言く、なげふつこと莫れ、抛こと莫れと。卽ち止む。中夜の時、舟人の言く、怖るること莫れ。四神王ししんのうよろいを著け、杖を把る有り。二りは舟頭にありし。二りは檣舳しょじくの邊に在す。衆人之を聞て、心裏やや安し。三日、虵海じゃかいを過く。其のへび、長き者は一丈餘、小なる者は五尺餘なり。色皆斑斑として海上に滿ち泛。三日、飛魚海ひぎょかいを過く。白色の飛魚ひぎょえいとして空中に滿つ。長一尺許り。五日、飛鳥海を經。鳥のおほいさ、人のごと。飛て舟上に集る。舟重して沒せんと欲す。人手を以てへば、鳥卽ち手をくつばむ。其の後二日、物無し。唯々急風、高浪のみ有り。衆僧、悩臥す。但々普照師、每日食時に生米きごめ少し許りを行いて、衆僧に與へて以て中食ちゅうじきに充つ。舟上、水無し。米をめは喉乾てのどに入ず。吐とも出でず。鹹水かんすいを飲めは腹すなはち張る。一生の辛苦、何ぞ此れ於りはなはだしき。海中に忽ち四隻の金魚あり。け各々一丈許り。走て舟の四邊をめぐる。明旦、風やんで山を見る。人總て水に渴して、𣦸なんと欲するに臨む。榮叡師、面色忽然こつねんとして、怡悦いえつして卽ち説て云く、夢に官人を見る。我に懺悔を受んことを請ふ。叡の曰く、貧道ひんどう、甚た渴す。水を得んと欲す。彼の官人、水を取りて叡に與ふ。水の色、乳汁の如し。取て飲に甚だ美なり。心旣に淸凉しょうりょうたり。叡、彼の官人に語て曰く、舟上の三十餘人、多日、水を飲まずして、大に飲渴す。請ふ檀越だんおち、早く水を取り來れと。時に彼の官人、雨令うりょうの老人をよんで處分して云く、汝等、大了事だいりょうじの人、急に水を送り來れと。夢相むそう是の如し。水今ま至るべし。諸人、急に須く碗を把て待つべし。衆人、此を聞てすべて歡喜す。明日、未の時、西南の空中より雲起り、舟上を覆て雨をそそぐ。人人碗をとっうけて飮む。第二日、亦雨至る。人皆飽足す。明旦、岸に近く四つの白魚びゃくぎょ有り。來て舟を引て、直ちに泊舟浦に至る。舟人、碗を把て競て岸頭に上り、水をもとむ。一の小崗しょうこうを過て、𠊳ち池水ちすいに遇ふ。淸凉甘美なり。衆人爭ひ飮み、各々飽滿することを得たり。後日、㪅に池に向て、水を汲と欲す。昨日の池の處、但々陸地のみ有て池を見ず。衆、共に悲喜す。知ぬ、是れ神靈しんりょう化出けしゅつせるの池なることを。是の時、冬十一月、蕐蘂けすい開敷し、樹實、竹筍、夏を辨せず。凡そ海中に在こと十四日を經て、まさに岸に著くを得たり。人をしてうらを求めつかはしむ。乃ち四經紀けいきの人有り。𠊳すなはち道を引て去る。四人口づから云く、大和尚は大果報にして弟子にひ下ふ。然らずんば𣦸す合し。此の人物にんもつ、人を。火急に去來こらいせよと。𠊳ち舟に引て去て浦に入る。晩に一人の髪を被り、刀を帶ふるを見る。諸人、大に怖る。食をあたふれば𠊳ち去る。

脚註

  1. 坑州こうしゅう

    隋代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は余杭郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また坑州の名に復されている。現在の浙江省杭州市。

  2. 湖州こしゅう

    隋代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は呉興郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また湖州の名に復されている。現在の浙江省湖州市。

  3. 宣州せんしゅう

    隋代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は宣城郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また宣州の名に復されている。現在の安徽省南部。

  4. 山陰縣さんいんけん

    榮叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)、会稽郡(越州)が管轄した七県の一。現在の浙江省紹興市。

  5. 郡および県に設置された軍事および警察を担当した官。日本における尉(じょう)。

  6. 法進ほうしん

    709-778. 律だけでなく天台教学にも通じた揚州白塔寺の僧。途中(三回目の渡海試行?)から鑑真と行動を共にして日本に到来。鑑真が唐招提寺に移って以降は任されて東大寺戒壇院第一世となり、また唐禅院を継いだ。下野および筑紫の戒壇院造立は法進の采配によるもの。東大寺戒壇院における受戒法軌を定め、後進を育成するため著述もいくつか残して律学の興隆に大きく貢献した。僧綱にも任じられてその重責を果たした。「ほっしん」または「はっしん」とも。

  7. 近事ごんじ

    在家仏教信者。近くで事(つか)える者。upāsaka(優婆塞)・upāsikā(優婆夷)の意訳。

  8. 福州ふくしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は長楽郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また福州の名に復されている。現在の福建省福州市一帯。

  9. 父老ふろう

    老翁。地方村落の長老で、その指導者的役割を担う人。

  10. 寧海縣ねいかいけん

    台州(臨海郡)が管轄した六県の一。現在の浙江省寧波市の一部。

  11. さい

    僧の食事。僧はその日の日の出から正午迄に食事を済ませなければならず、朝は一般に粥を取りこれを小食といい、正午前の食を正食(中食)をいう。

  12. 唐興縣とうこうけん

    台州が管轄した六県の一。栄叡・普照が唐にあった当時は始豊県と改称(武徳四年〈621〉)されていたが、後(上元二年〈761〉)に唐興県の名に復されている。現在の浙江省台州市天台県。

  13. 松篁しょうこう

    松と竹。あるいは松と竹が生い茂った林。

  14. 璀璨さいさん

    玉から光が出ているさま。あるいは、ものが明るく清らかである様子。

  15. 玲瓏れいろう

    玉などが透き通っているさま。あるいは、ものが明るく光り輝く様子。

  16. 赫奕かくやく

    光り輝いているさま。あるいは、ものが雄大で盛んな様子。

  17. 孫綽そんしゃくか天台山の

    孫綽は東晋代(四世紀)の文学者で当代屈指の名文家。『天台山賦』はその代表作。孫綽はまた仏教・儒教・道教の三教一致を唱えた。

  18. 始豊縣しほうけん

    前述の唐興県に同じ。当時、唐興県は始豊県と称されていた。

  19. 臨海縣りんかいけん

    台州(臨海郡)の管轄した六県の一。現在の浙江省臨海市の一部。

  20. 黄巖縣こうがんけん

    台州(臨海郡)が管轄した六県の一。現在の浙江省台州市黄岩区一帯。

  21. 永嘉郡えいかぐん

    温州に同じ。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)、温州は永嘉郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また温州の名に復されている。現在の浙江省南部。

  22. 靈祐りょうゆう

    出自等未詳。霊祐は、鑑真を思ってのことであろうが、その命を賭しての一大決心を官憲の力を借りて無理やり停めた。それは霊祐がそれまでの一行の経緯をただ言葉として知らされただけでその実際を知らぬが故の、そして自身にはまったく外国に伝法しようなどという意志がないことによる、軽はずみなことであった。それは鑑真の勘気にひどく触れ、温厚であった鑑真も彼を二ヶ月以上許していないが、それも当然というべきことであったろう。彼のこの行動により、鑑真一行は三年から四年の月日を無為に費やすこととなった。

  23. 三綱さんごう

    一寺院を統率・運営する三職。上座・寺主・維那(都維那)。上座はその現前僧伽における最長老で寺院の代表、寺主は寺務など実務を担当し運営する長。維那はその僧伽に起居する僧徒の威儀作法など教導を担ったという。インド以来の制であり支那・日本でも踏襲された。

  24. 滄溟そうめい

    青海原。底知れぬ深く青い海。

  25. 江東道こうとうどう

    河東道。唐代、全州をさらに大きく十に配して設置された行政区、十道の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)はさらに再編、細分化され十五道とされていたが、その際、河東道(江東道)の称は無い。江南道を分割し、新設された江南東道のことであろう。
    江南東道は、潤州・常州・蘇州・湖州・杭州・睦州・明州・衢州・処州・温州・婺州・越州・台州・建州・福州・泉州・漳州・潮州・汀州の十九州を管轄した。

  26. 押送おうそう

    拘束した被疑者・受刑者を監視しつつ他所に送ること。

  27. 四事しじ

    衣服・飲食・臥具・湯薬。

  28. 一㪅いっこう

    夜を一刻(二時間)毎に五分割した時間区分(五更)の最初。初更とも。午後八時から十時。

  29. 五㪅ごこう

    夜を一刻(二時間)毎に五分割した時間区分(五更)の最後。午前四時から六時。

  30. 同安郡どうあんぐん

    舒州。南朝梁により設置された晋州を前身とし、その後、豫州(東魏)・江州(北斉)・晋州(南朝陳)と分割再編、改称を繰り返し、隋代に熙州(きしゅう)となるが州が廃止され同安郡となった。またその後、唐代に州が復活して舒州とされ淮南道の管轄下となったが、栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は同安郡と改称されていた。さらに至徳二年〈757〉には盛唐郡と改称し、乾元元年〈758〉にまた舒州の名に復されている。現在の安徽省安慶市一帯。

  31. 百一物ひゃくいちもつ

    比丘六物を初めとする生活用品の総称。

  32. 常州じょうしゅう

    隋代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は晋陵郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また常州の名に復されている。現在の江蘇省常州市。

  33. 狼山ろうざん

    未詳。

  34. 三塔山さんとうざん

    未詳。

  35. 署風山じょふうざん

    未詳。

  36. 頂岸山ちょうがんさん

    未詳。

  37. 四神王ししんのう

    四天王。持国天・増長天・広目天・多聞天。インド神話において世界を護る神とされ、仏教において世界だけでなく特に仏法守護の神として祀られた。

  38. 檣舳しょじく

    檣は帆柱。舳は船首あるいは船尾。当時の唐船は前後二本の帆柱があったようであるが、その後部の帆柱付近ということであろう。

  39. 虵海じゃかい

    虵は蛇(くちなわ)。長細くうねうねとした生物。ここで鑑真等が見た「虵」とは、幻や想像上の動物でなく、また巨大なウミヘビでもなく、おそらくトビウオ亜目のダツであろう。ダツは船上からその姿を明瞭に確認できるほど、熱帯から亜熱帯の海の表層部を群れで泳ぎ、時に飛び跳ねる。その姿はいかにも恐ろしいするどい牙をもつ。続いて「色皆班斑」とまだら模様があると記していることからもやはりダツであろうと考えられる。
    ただし、ダツはせいぜい1mほどの長さであり、ここで一丈余り(阿育王塔を表現するのに用いていた周尺では2.5m程)とされている半分ほどでしか無い。あるいは初めて見る奇妙な魚を畏れ、蛇の怪異であると考えて大きく見えたか、あるいはカジキも同時に見ており、ダツの同種と認識していたかもしれない。

  40. 滿ち泛

    底本に「滿」と送り仮名されているため、ここも一応そのママとしたが「泛ら」は読めない。泛は、仰向けの死体の形象で、水死者の漂流する様子を表す字で、うかぶ、ただよう、ひさしい、あまねくの意。ウカブ、アガル、ヤブル、コボル等々と訓じられる。「泛」ではどうにも読みようがないが、「泛」であれば「うかぶ」と読むことが出来、意味も通じる。

  41. 飛魚海ひぎょかい

    飛魚は文字通りトビウオ。ここで「白色飛魚」とあるがトビウオは青魚。しかし、海上では日光にその鱗が反射してキラキラと白く見える。ここで言われる「翳として」とは眩しいの意であろう。思託にように支那の内陸で生まれ育ち、せいぜい湾岸部ばかりしか見たことのない者からすれば、文字通り海上を大変な速度で、しかも想像を越える長距離を飛ぶ魚など怪異以外の何者でも無かったであろう。(菲才ですら、青年の時にトビウオの凄まじい大群を初めて見た時には大きな衝撃と感動を覚えたことを今なお覚えている)。
    ここに描かれる大海原の様子は、それをそれとして知った者からすれば直ちに見当の附くものばかりであろう。しかし、生物学・博物学など無い当時、しかも外海に出るのが初めてのような人が、常に命の危険を感じながらの未知の旅を続けることは、真に脅威の連続であって、ここで描かれたように奇瑞あるいは怪異と捉えたても不思議ではない。したがって、ここに記された海上の数々の描写を、その旅の困難であることをことさら強調し虚飾した文学上のものと単純に見るべきではない。

  42. 鳥のおほいさ、人のごと

    ここに言う「鳥」とはアルバトロス、いわゆるアホウドリと考えて間違いない。現在生息する鳥類の中で世界最大(翼開長3m超)の鳥。幾世代にまたがる人の殺戮・大量捕獲によってその生息域は極少なく、今まさに絶滅が危惧されているが、その数少ない地が沖縄の尖閣諸島である。当時、鑑真ら一行の航路は本来東北に進むべき所を尖閣諸島西側を南下しており、まさにアホウドリの生息域にかかっていた。
    人の大きさを優に超える鳥、しかも生まれて初めて目にする巨大な海鳥が、幾羽も舟の甲板や帆先などに集まり止まってきたならば、(それだけで舟が沈むことはないであろうが)「舟が沈む」と無闇に恐怖するのも無理はない。実際、アホウドリはほとんど人に対して警戒心を持たず、しかも好奇心が強いため、ここで記されるように舟を見つけて好奇心で集まった可能性は充分に考えられる。ここに手で追い払おうとしても逃げずに、その手を口で挟んで遊ぶような素振りを見せていたようであるが、それはまさにアホウドリの習性に合致したものである。

  43. 鹹水かんすいを飲めは腹すなはち張る

    海水など高塩分の食事や飲料を飲んだならば、それは排尿を促進させて体内の水分をさらに減らさせ、心臓・腎臓など諸々の内蔵に過剰で危険な負担となり、また腸の働きを弱めて排泄しずらくなりガスが溜まって腹が張れる。

  44. 貧道ひんどう

    仏道を充分に修めていないこと。あるいは貧しくみすぼらしい道者。仏教僧が自らをへりくだって言う一人称。貧衲に同じ。

  45. 檀越だんおち

    [S/P].dānapatiの音写。施す者、施主の意。特に仏教を信仰して僧伽を支え、寺院の経済的後援をする篤信者。「だんのつ」とも。

  46. 雨令うりょう

    両个の誤写。个はもと庇の象形であるが、個・箇などと同じ数詞として通用する。したがってここでは「両人」、すなわち二人の意。
    異本によって相当なる異動があり、本稿が底本とした「戒壇院本」および「観智院甲本」では「雨令」であるが、「観智院乙本」では「雨个」、「高貴寺本」は「両人」、「大東急記念文庫本」は「両令」、「史料編纂所本」は「雨今」。これを蔵中進は『唐大和上唐征伝』において「両个」の誤写であると相当なる根拠をもって断じている(同書, pp.245-246)。

  47. 大了事だいりょうじの人

    了事は物事を成し終えること。「大了事の人」とは、悟った者の意で仏・菩薩を言うが、ここでは大神力ある者、護法の神霊の意であろう。

  48. 白魚びゃくぎょ

    沿岸部で舟を引く、船を先導するように泳ぐものといえば、魚ではないがイルカを想起する。その大きさを何故かここでは言及していないため、確定的には言えないが、しかし現実に考えるとイルカ以外には考えれないであろう。
    当時の鑑真一行の状況で、岸を見たならば当然岸に向かって船を進ませるであろうが、その先にイルカが船に興味を持って遊ぶように先を泳いだならば、当時の人は「船を引て」いると考えても不思議ではない。

  49. うら

    入り江、湾。あるいは漁村、海辺の村里。ここでは後者の意であろう。

  50. 經紀けいきの人

    旅商の人。あるいは通りすがりの人。

  51. ひ下ふ

    底本に「過ヒ下フ」とあるが読めない。「過」が何らかの写誤か。現代語訳では仮に「過(こ)ひ下ふ」と読んで解した。

  52. 此の人物にんもつ、人を

    鑑真ら一行がようやく嵐を乗り越え漂着した地は海南島であった。当時、この近辺の原住民は、平時にも食人の習慣があったらしいことがこの記述から知られる。

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