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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝』

原文

其年四月初於盧遮那殿前立戒壇天皇初登壇受菩薩戒次皇后皇太子亦登壇受戒尋爲沙彌證修等四百四十餘人授戒又舊大僧靈祐賢璟志忠善頂道綠平德忍其善謝行潜行忍等八十餘人僧捨舊戒受大和尚所授之戒後於大佛殿西別作戒壇院卽移天皇受戒壇土築作之大和尚從天寚二載始爲傳戒五度 装束渡海艱辛雖被漂廻本願不退至第六度過日本三十六人總無常去退心道俗二百餘人唯有大和尚學問僧普照天臺僧思託始終六度經逾十二年遂果本願來傳聖戒方知濟物慈悲宿因深厚不惜身命所度極多時有四方來學戒律者緣無供養多有退還此事漏聞于天聽仍以寚字元年丁酉十一月廿三日勑施備前國水田一百町大和尚以此田欲立伽藍時有勑旨施大和尚園地一區是故一品新田部親王之舊宅普照思託請大和尚以此地爲伽藍長傳四分律藏法勵四分律疏鎭道場餝宗義記宣律師鈔以持戒之力保護國家大和尚言大好卽寚字三年八月一日私立唐律招提名後請官額依此爲定還以此日請善俊師講件疏記等所立者今唐招提寺是也初大和尚受中納言從三位氷上眞人之延請就宅窺甞其土知可立寺仍語弟子僧法智此福地也可立伽藍今遂成寺可謂明鑒之先見也大和尚誕生象季親爲佛使經云如來處處度人汝等亦斅如來廣行度人大和尚旣承遺風度人逾於四萬如上略件及講遍數

唐道璿律師請大和尚門人思託曰承學有基緒璿弟子閑漢語者令學勵疏并鎭國記幸見開導僧思託𠊳受於大安唐院爲忍基等四五年中研磨數遍

寚字三年僧忍基於東大唐院講疏記僧善俊於唐寺講件疏記僧忠慧於近江講件疏記僧惠新於大安塔院講件疏記僧常巍於大安寺講件疏記僧眞法於興福寺講件疏記從此以來日本律儀漸漸嚴整師資相傳遍於寰宇如佛所言我諸弟子展轉行之卽爲如來常在不滅亦如一燈燃百千燈瞑者皆明明不絶

寚字七年癸卯春弟子僧忍基夢見講堂棟梁摧折窹而驚懼欲大和尚遷化之相也仍率諸弟子摸大和尚之影是歳五月六日結跏趺坐面西化春秋七十六化後三日頂上猶煖由是久不殯殮至於闍維香氣滿山平生嘗謂僧思託言我若終巳願坐𣦸汝可爲我於戒壇院別立影堂舊住坊與僧住千臂經云臨終端坐如入禪定當知此人巳入初地以茲驗之聖凡難測

同八年甲辰日本國使遣唐揚州諸寺皆承大和尚之凶聞總著䘮服向東擧哀三日都會龍興寺設大齋會其龍興寺先是失火皆被焼大和尚昔住院坊獨不焼損是亦戒德之餘慶也

法務贈大僧正唐鑑眞大和上傳記一巻寚龜十年歳次己未二月八日己卯撰

訓読

其の年四月、初て盧遮那殿るしゃなでんの前に於て戒壇を立て、天皇てんのう初て壇に登て、菩薩の戒を受け玉ふ。次に皇后こうごう皇太子こうたいし、亦壇に登り戒を受け、尋いで沙彌しゃみ證修しょうしゅ等の四百四十餘人の爲に戒を授く。又、との大僧、 靈祐 りょうゆう 賢璟 けんきょう 志忠 しちゅう 善頂 ぜんちょう 道緣 どうえん 平德 ひょうとく 忍其 にんき 善謝 ぜんしゃ 行潜 ぎょうせん 行忍 ぎょうにん 等の八十餘人の僧、舊戒きゅうかいを捨てて大和尚だいわじょう授くる所の戒を受く。後、大佛殿の西に於て別に戒壇院かいだんいんを作る。卽ち天皇受戒の壇の土を移して、築て之を作る。大和尚、天寚二載より始て、傳戒の爲めに五度に装束し、渡海艱辛かんしんして漂廻ひょうえせらると雖ども、本願退かず。第六度に至て日本にわたる。三十六人、すべて無常し去る。退心の道俗二百餘人、ただ大和尚、學問の僧普照ふしょう、天台の僧思託したくのみ、始終六度と十二年を經逾きょうゆして遂に本願を果し、來て聖戒しょうかいを傳ふ。方に知んぬ、物をすくふの慈悲、宿因しゅくいん深厚しんこうにして身命しんみょうを惜まず。度する所は極て多し。時に四方より來て戒律を學ふ者の有れとも、供養くよう無きにて多く退還たいげんすること有り。此の事、天聽てんちょうに漏れ聞ふ。すなはち寚字元年丁酉ていゆう十一月廿三日を以て、勑して備前びぜんの國水田すいでん一百町を施す。大和尚、此の田を以て伽藍がらんを立んと欲す。時に勑旨ちょくし有て大和尚に園地一區をほどこし玉ふ。是れとの一品いちぼん新田部にいたべ親王の舊宅なり。普照・思託、大和尚、此の地を以て伽藍とし、長く四分律藏、法勵ほうれい四分律疏しぶんりつしょ鎮道場ちんどうじょう餝宗義記しきしゅうぎきせん律師のしょうを傳へて、持戒の力を以て國家を保護せんと請ふ。大和尚の言く、おほひし。卽ち寚字三年八月一日、わたくし唐律とうりつ招提しょうだいの名を立て、後に官額かんがくを請ふ。此に依て定と爲す。 た此の日を以て善俊ぜんしゅんを請じて、くだん疏記しょき等を講ぜしむ。立つる所はものは、今の唐招提寺とうしょうだいじ是なり。初め大和尚、中納言從三位氷上ひがみ眞人まひと延請えんしょうを受け、宅に就てひそかに其の土をめて寺を立つべきことを知る。仍ち弟子の僧法智ほうちに語らく、此れ福地なり。伽藍を立つべしと。今遂に寺と成る。謂つべし、明鑒みょうかんの先見なり。大和尚、象季ぞうきに誕生してしたしく佛使と爲る。きょういは、如來處處しょしょに人を度す。汝等、亦如來にならふて廣く度人を行せよ。大和尚、旣に遺風ゆいふううけて人を度すること四萬にふ。上の略件、及び講の遍數の如し。

唐の道璿どうせん律師、大和尚の門人思託を請て曰く、承學しょうがく基緒きしょ有り。璿が弟子、漢語をならふ者は れいしょ、并鎭國記ちんこくきを學ばしむ。さいはいに開導せれよ。僧思託、𠊳すなは大安だいあん唐院とういんを受て、忍基にんき等の爲に四、五年の中、研磨すること數遍なり。

寚字三年、僧忍基にんき東大とうだい唐院とういんに於て疏記を講じ、僧善俊ぜんしゅん、唐寺に於て件の疏記を講ず。僧忠慧ちゅうえ、近江に於て件の疏記を講じ、僧惠新えしん、大安の塔院に於て件の疏記を講ず。僧常巍じょうぎ、大安寺に於て件の疏記を講じ、僧眞法しんぽう、興福寺に於て件の疏記を講ず。此れより以來、日本の律儀、漸漸ぜんぜん嚴整ごんせいにして師資相ひ傳て、寰宇かんうに遍し。佛の玉ふ所の如く、我が諸の弟子、展轉てんでんして之を行ぜば卽ち如來の常在不滅とと。亦、一燈いっとう百千燈ひゃくせんとうともすが如し。くらのは皆な明明みょうみょうとして絶へず

寚字七年癸卯の春、弟子の僧忍基、夢に講堂の棟梁とうりょう、摧折すと見る。さめ驚懼きょうくす、大和尚遷化せんげせんと欲するの相なりと。仍て諸の弟子をひきひ大和尚だいわじょうかげを摸す。是の歳五月六日、結跏趺坐けっかふざし、西に面して化す。春秋しゅんじゅう七十六。化して後ち三日、頂上あたたかなり。是に由て久く殯殮ひんれんせず。闍維じゃゆいに至て香氣、山に滿つ。平生、かつて僧の思託に謂つて言はく、我れ若し終巳しゅうきせば、願くは坐して𣦸せん。汝ち我か爲めに戒壇院に於て別に影堂えいどうを立つべし。舊住の坊は僧にあたへて住せしめよと。千臂經せんぴきょうに云く、終りにのぞんで端坐し禪定に入か如し。當に知るべし、此の人、巳に初地に入る。ここを以て之をる。聖凡しょうぼん、測し難し。

同八年甲辰こうしん、日本國の使を唐の揚州の諸寺につかはす。皆な大和尚の凶聞きょうもんを承け、總て䘮服を著け、東に向て哀を挙こと三日。都て龍興寺に會して大齋會だいさいえまうく。其の龍興寺、是より先き失火して皆な焼らる。大和尚昔住の院坊、獨り焼損せず。是れ亦、戒德の餘慶よきょうなり。

法務贈大僧正唐鑑眞大和上傳記一巻 
寚龜十年歳次己未きび二月八日己卯きぼう

脚註

  1. 盧遮那殿るしゃなでん

    東大寺大仏殿。毘盧遮那仏を祀ることから盧遮那殿と称す。

  2. 天皇てんのう

    すめらみこと。当時、聖武帝は禅譲して上皇となっており、天皇は孝謙天皇であったが、ここでは聖武天皇を指す。

  3. 皇后こうごう

    おおきさき。中台天平応真仁正皇太后、または光明皇后。藤原不比等の娘、藤原光明子。

  4. 皇太子こうたいし

    ひつぎのみこ。当時はすでに孝謙天皇が帝位についていたが、本書では皇太子として描かれているようである。

  5. 沙彌しゃみ證修しょうしゅ等の四百四十餘人...

    東大寺大仏殿前に戒壇が築かれ、天皇・皇后・皇太子に次いで行われた沙弥等四百四十人への受戒は、一般に具足戒であったと単純に見なされ言われている。しかし、それはまずおそらく菩薩戒であったと思われる。ただし、その菩薩戒とは何を内容としたものであったか伝えられていない。そもそも、具足戒の受戒とは、そのような大人数を対象として一挙に行い得るものではない。なんとなれば具足戒の授受は同時に最大三人までしか行えないためである。もし四百四十人に受具させようとするならば、およそ百五十会に渡って行わなければならない。そして具足戒の授受は一会につき一時間やそこらで行い得るものでは決してない。全く現実的ではないが、仮にもし一時間で済ませたとしても、最低百五十時間を要する。そこでまた、これも非現実的であるが、仮に一日四会行うとして三十八日間である。また、鑑真等がそうであったように、当時は具足戒を受ける前に菩薩戒を受けるのが通例であった。以上のことから、当時、まず行われた受戒は、菩薩戒であって具足戒でなかったと考えるのが妥当。その詳細は伝えられていないが、具足戒の授受は相当の日数をかけ、漸く行われていったであろう。
    なお『東大寺要録』巻四には、この時沙弥四百四十人の受戒したことを記し、続いて「後有内道場興行僧。神榮行潜等五十五人重受大小乘戒」としていることから、「内道場興行僧」という立場であったとされることからも、神栄・行潜など五十五人が最初に具足戒を受けた者であったと考えられる。

  6. 靈祐りょうゆう

    祐は福の写誤で、靈福が正しいであろう。

  7. 舊戒きゅうかいを捨てて大和尚だいわじょう授くる...

    ここで言われる「旧戒」とは、『占察経』所説の菩薩戒。彼らはその説に基づいて自誓受戒により自ら比丘となりえると考えていた。ここで名を挙げられている者のうち、特に志忠・霊福・賢璟の三人は、それによって鑑真らから改めて受戒する必要は無いと考え反論している。しかし、それが全く不当で非正統なものであることを普照によって『瑜伽師地論』の所説を突きつけられ、やむなく改めて受戒している。この経緯については正史および本書にも一切語られていないが、思託『延暦僧録』の普照伝に伝えられている。
    「自至聖朝合國僧不伏。無戒不知傅戒來由。僧數不足。先於維摩堂已具叙竟。從此已後伏受戒。其中志忠靈福賢璟引占察經許自誓受戒。便將瑜伽論決擇分第五十三巻詰云。諸戒容自誓受。唯聲聞律儀不容自受。若容自者。如是律儀都無規範。志忠賢璟等杜口無對。備以衣鉢受戒」(宋性『日本高僧伝要文抄』第三)。

  8. 戒壇院かいだんいん

    現存しないが当時の戒壇院は、現存する戒壇堂を中心として三方に僧坊をめぐらし、講堂など諸堂を備えたものであった。ここで夏安居前に具足戒を受けた者はそのまま滞在して安居を過ごし、律の基本を学び、比丘としての根本的行儀などその素養を学ぶことが義務として課せられた。

  9. 三十六人、すべて無常し去る

    本書には栄叡と祥彦のみ言及されているが、その二人以外の三十四名が途上で命を落としていたことが知られる。あるいは病死し、官人または土人に殺害された者もあったことであろう。ここに言及されている三十六人という数は、本書で描かれていない多くの困難、危険があったことの証である。鑑真と思託・普照らの乗り越えた旅は本書に伝えられた以上に想像を絶する過酷なものであった。

  10. 供養くよう無きにて多く退還たいげんする...

    鑑真らにより日本でようやく正規の具足戒がもたらされ、国がこれを制度化したといっても、そこには多くの問題が存していた。その最大の問題が経済である。畿内外から受具のため都に来、さらに律学を研鑽しようにもそのための滞在場所が無く、また経済的支援がなされておらず、故にここに記されるように挫折し帰らざるを得ないものが続出していた。その理由は、当時の寺院が強固な縁故主義を取っており、その寺院と地縁・血縁の無いものを受け入れることが無かったためであった。そしてそれが鑑真をして新たに唐招提寺という私寺を建立しようとの意志を生じさせることとなった。唐招提寺は当時の諸大寺のあり方に対する、いわばアンチテーゼによって建立されたのである(『鑑真和上三異事』)。

  11. 備前びぜんの國水田すいでん一百町を施す

    本書では、天皇が備前国の田一百町を鑑真個人に対して施与したように記しているが、これは鑑真の居所として東大寺内に建立されていた唐禅院に対し、律学のため参集した新比丘らの滞在費に充てがうものであった。
    「壬寅。勑以備前国墾田一百町。永施東大寺唐禪院十方衆僧供養料。伏願。先帝陛下薰此芳因。恒蔭禪林之定影。翼茲妙福。速乘智海之慧舟。終生蓮華之寶刹。自契等覺之眞如」(『続日本紀』巻廿 天平宝字元年十一月条)。
    もっとも、本書でそう言われたように、この所領の使用は鑑真の裁量に全く任されたようで、唐招提寺の建立の原資にも充てられたようである。

  12. 一品いちぼん新田部にいたべ親王

    天武天皇の第七皇子〈?-735〉。藤原不比等の没後は日本の軍事一切を管掌し、神亀元年に一品に昇進。塩焼王、道祖王の父。
    現在の様相からはまったく想像できないであろうが、その旧宅は朱雀大路西側、四条の南に面した第一等地であった。

  13. 法勵ほうれい四分律疏しぶんりつしょ

    既出(本稿6項22註)。法励『四分律疏』十巻。四分律宗のうち相部宗の開祖による注釈書。

  14. 鎮道場ちんどうじょう餝宗義記しきしゅうぎき

    既出(本稿6項36註)。鎭道場は定賓の称。定賓『四分律疏飾宗義記』九巻。相部宗に属する典籍。

  15. せん律師のしょう

    道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』三巻。既出(本稿6項46註)。

  16. わたくし唐律とうりつ招提しょうだいの名を立て

    ここで私とは官寺としてでなく私寺の意。招提は[S].caturdiśaの音写「招闘提奢」の略で四方の意。奈良の諸大寺における閉鎖的・縁故主義的ありかたをいわば否定し、本来の寺のあり方である四方に開かれた僧苑として、官に縛られない新たな精舎を建立せんとした鑑真の志をよく顕した名。そもそも招提寺なる名の寺は唐に複数の先例あるものであったが、その頭に「唐律」あるいは「唐」と付したのも、日本においてそれが誤ったものであるにも関わらず陋習にすがって旧態依然とした諸大寺にある意味対抗するものであったとも考えられる。
    道宣『続高僧伝』巻二「云招提者亦訛略也。世依字解。招謂招引。提謂提携。並浪語也。此乃西言耳。正音云招鬪提奢。此云四方。謂處所爲四方衆僧之所依住也」(T50, p.435a)

  17. 官額かんがく

    朝廷から与えられる寺号を記した額。唐招提寺の官額は孝謙天皇の直筆によるもので現存している。

  18. 善俊ぜんしゅん

    出自・生没年未詳。唐から招聘され大安寺西唐院に住した道璿の門弟。

  19. くだん疏記しょき

    法励『四分律疏』十巻および定賓『四分律疏飾宗義記』九巻。ここで淡海三船が、「件の疏記」といって相部宗の典籍の講義が方方で行われていたことを繰り返し特記していることに注意。当初、南山律宗ばかりでなく相部宗の律学が非常に重要視され、学ばれていた。なお、後に大安寺にてこれを講じることを要請したのは、大福光寺にあって定賓から直接受学していた道璿であったことにも留意すべきであろう。その後、大安寺に留まらず、東大寺および興福寺などで「件の疏記」が講説されたことが知られるが、これが南都七大寺およびいわゆる南都六宗が各々律宗を相伝する基となったと思われる。

  20. 氷上ひがみ眞人まひと

    元皇族の塩焼王。臣籍降下して氷上塩焼〈?-764〉と称した。天武天皇の孫で新田部親王の子。

  21. 法智ほうち

    出自・生没年未詳。新田部親王の旧宅が施与される以前、その子であった当時塩焼王(氷上塩焼)から旧宅に招かれた時、随行して傍にあったことがこの一節から知られるから、まだ当時相当若い人であったと思われる。当時、鑑真は東大寺唐禅院に居住していたから、共にあったであろう。ただし、その後の一切不明で特に業績を残した形跡はない。

  22. 明鑒みょうかん

    明鑑。曇りのない鏡。物を明らかに映し出すもの。転じて優れた見識。

  23. 象季ぞうき

    像季。仏滅後千年を過ぎ、すでに時代が像法、すなわち仏教は伝わっていてもその証果を挙げる者が無い、あるいははなはだ困難とされる時代。
    正法・像法の時代観は、仏陀在世の比丘尼僧伽成立時から存しており、そのため上座部など部派においても見られる。平安中後期に日本で生じた末法思想はそれを極端に突き詰めたもの。

  24. きょういは

    『摩訶僧祇律』巻廿三「如來處處度人。比丘比丘尼優婆塞優婆夷。汝等亦當効如來廣行度人」(T22, p.412c)。

  25. 承學しょうがく

    学問を相承すること。知識を代々受け継ぐこと。

  26. 基緒きしょ

    基盤。源となる事物、元の行為。

  27. れいしょ

    既出(本稿6項22註)および(本稿7項12註)。法励『四分律疏』十巻。

  28. 鎭國記ちんこくき

    定賓『四分律疏飾宗義記』九巻。既出(本稿6項36註)および(本稿7項13註)

  29. 大安だいあん唐院とういん

    大安寺西唐院。思託は大安寺から吉野に去る道璿の跡を受けて西唐院に居し、特に相部宗の律学の講説を行っていたことがここから知られる。

  30. 忍基にんき

    出自・生没年未詳。先の一節にて「旧との僧(旧僧)」の一人として名を連ねていた人。旧僧とは、『占察経』に基づく自誓受により比丘となったと称していた僧。この一節から、旧僧のすべてが鑑真あるいは唐僧に反感を抱いていたわけでは決して無いことが知られよう。忍基は鑑真渡来以前に一定の地位を得ていた旧僧で、しかし鑑真に心服し学を深めた僧であったようである。

  31. 東大とうだい唐院とういん

    東大寺唐禅院。鑑真の渡来によって急遽その居所として建立され、律学の拠点ともされていた寺院。

  32. 忠慧ちゅうえ

    出自・生没年未詳。良弁の弟子の東大寺僧。宝亀五年に東大寺別当に補任。

  33. 惠新えしん

    未詳。

  34. 常巍じょうぎ

    未詳。

  35. 眞法しんぽう

    未詳。

  36. 寰宇かんう

    天下、世界。

  37. 我が諸の弟子、展轉てんでんして之を...

    『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』「我諸弟子展轉行之。則是如來法身常在而不滅也」(T12, p.1112b)。

  38. 一燈いっとう百千燈ひゃくせんとうともすが如し...

    『仏説維摩詰経(維摩経)』「維摩詰言。諸姊。有天名曰無盡常開法門。當從彼受。何謂無盡開法門者。譬如一燈燃百千燈。冥者皆明。明終不盡」(T14, p.524c)。

  39. 大和尚だいわじょうかげを摸す

    現在国宝指定されている「鑑真和上坐像」はその生前に作成されたものであったことがここから知られる。弟子たちの鑑真への敬意、その尊敬の念が塗り込まれたかのように写実的に築かれた脱活乾漆造で、唐から随行してきた揚州興雲寺僧、義静による作と伝承される。日本最古の肖像像。古代支那の僧の装束を知る上でも非常に重要で、実は未だに鑑真の内衣がいかなるものであったか解明されていない。

  40. 殯殮ひんれん

    仮殯(かりもがり)。遺体をしばらく安置すること。

  41. 闍維じゃゆい

    [S].jhāpitaの音写。火葬。荼毘に同じ。

  42. 千臂經せんぴきょうに云く

    智通訳『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』巻上「若看菩薩面誦此陀羅尼呪者。即得見觀世音菩薩微笑相。見已即得離垢地。能照耀世間。即於此生當得見佛慈念攝授。臨命終之時如入禪定。生生之處得宿命智。所有罪障皆悉消滅」(T20, p.85a)。ただし、この経では「千眼千臂観世音菩薩大身呪」を菩薩(像)の顔を見ながら読誦したもので、その顔が微笑する奇瑞を見たものは「離垢地」を得、また臨終時に「如入禪定」であるというから初地ではなく二地であろう。
    後代、本書におけるこの誤りを正したものであろうが、『今昔物語』にて鑑真伝を記す中に「鑑真和上は第二地の菩薩に在ましけり」としたのであろう。

  43. 贈大僧正ぞうだいそうじょう

    ここで「贈大僧正」とは大僧正が贈位であったことを示す。贈位とは、その死後に生前の功績をたたえて付される位階。それは淡路廃帝代の天平宝字七年〈763〉に贈られた。鑑真は生前、僧綱の大僧都の任に就かされてあったが、天平宝字二年〈758〉、老齢を理由にようやく解任され、そのかわりに「大和上」を称号として授けられている。このあたりの点について、『続日本紀』の鑑真卒伝においてすら時系列が混乱して不正確な記述となっている。

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