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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝』

原文

要約巳畢始抵東河造船揚州倉曹李湊依林宗書亦同檢校造船備粮大和尚榮叡普照等同在旣濟寺備辨乾粮但云將供具徃天台山國淸寺供養衆僧是歳天寚二載癸未當時海賊大動繁多台州温州明州海邊并被其害海路塞公私斷行僧道航云今向他國爲傳戒法人皆高德行業粛淸如如海等少學可停却矣時如海大瞋褁頭入州上採訪廳告白大使知否有僧道航造船入海與海賊連都有若干人辨乾粮在旣濟開元大明寺復有五百海賊入城來時淮南採訪使班景倩聞大駭𠊳令人將如海於獄推問又差官人於諸寺収捉賊徒遂於旣濟寺捜得乾粮大明寺捉得日本僧普照開元寺得玄朗玄法其榮叡走入池水中仰卧不良久見水動入水得榮叡並送縣推問僧道航隱俗人家亦被捉得並禁獄中問曰徒有幾人與海賊連道航答曰不與賊連航是宰相李林甫之兄林宗家僧也今令送功德徃天台國淸寺陸行過嶺辛苦造船從海路去耳今有林宗書二通在倉曹所採訪使問倉曹對曰實也仍索其書看乃云阿師無事今海賊大動不須過海去其所造船沒官其雜物還僧其誣告僧如海與之坐還俗決杖六十遞送本貫其日本僧四人揚州上奏至京鴻臚儉案向本配寺寺家報曰其僧隨駕去㪅不見來鴻臚依寺報而奏𠊳勑下揚州曰其僧榮叡等旣是番僧入朝學問每年賜絹廿五匹四季給時服兼預隨駕非是僞濫今欲還國隨意放還宜依揚州例送遣時榮叡普照等四月被禁八月方始得出其玄朗玄法從此還國別去時榮叡普照同議曰我等本願爲傳戒法請諸高德將還本國今揚州奉勑唯送我四人不得請諸師而空還無益豈如不受官送依舊請僧將還本國流傳戒法乎於是巡避官所倶至大和尚所計量大和尚曰不須愁宜求方𠊳必遂本願仍出八十貫錢買得嶺南道採訪使劉臣隣之軍舟一隻雇得舟人十八口備辨海粮苓脂紅綠米一百石甜豉三千石牛蘓一百八十斤麵五十石乾胡餅二車乾蒸餅一車乾薄餅一萬番拾頭一半車漆合子盤三十具兼將畫五頂像一鋪寚像一鋪金泥像一軀六扇佛菩薩障子一具金字蕐嚴經一部金字大品經一部金字大集經一部金字大涅槃經一部雜經論章疏都一百部月令障子一具行天障子一具道場幢一百二十口珠幢十四條玉環手幢八口 螺鈿經函五十口銅瓶廿口𦻏氈廿四領袈裟一千領褊衫一千對坐具一千床大銅蓋四口竹葉蓋四十口大銅盤廿面中銅盤廿面小銅盤四十四面一尺面銅疊八十面少銅疊二百面白藤簞十六領五色藤簞六領麝香廿臍沉香甲香甘松香龍腦香膽唐香安息香棧香零陵香靑木香薫陸香都有六百餘斤又有畢鉢呵梨勒胡椒阿魏石蜜蔗糖等五百餘斤蜂蜜十斛甘蔗八十束靑錢十千貫正爐錢十千貫紫邊錢五千貫羅襆頭二千枚麻靴三十量廗胃三十箇僧祥彥道興德淸榮叡普照思託等一十七人玉作人畫師雕檀刻鏤鑄冩繍師修文鐫碑等工手都百八十五人同駕一隻舟

天寚二載十二月擧帆東下到狼溝浦被惡風漂浪波撃舩破人總上岸潮來水至人腰大和尚在烏蓲草上餘人並在水中冬寒風急甚太辛苦㪅修理舟下至大坂山泊舟不得卽至下嶼山住一月待好風發欲到桒名山風急浪高舟無著岸無計可量纔離嶮岸還落石上舟破人並舟上岸水米倶盡飢渴三日風停浪靜泉郎將水米來相救又經五日有還海官來問消息申請明州太守處分安置鄮縣山阿育王寺寺有阿育王塔明州者舊是越州一縣也開元廿一年越州鄮縣令王叔達奏割越州一縣特置明州㪅開三縣令成一州四縣今稱餘姚郡其育王塔者是佛滅度後一百年時有鐵輪王名阿育王役使鬼神建八萬四千塔之一也其塔非金非玉非石非土非銅非鐵紫烏色刻鏤非常一面薩埵王子變一面捨眼變一面出腦變一面救鴿變上無露盤中有縣鐘埋沒地中無能知者唯有方基高數仭草棘蒙茸罕有尋窺至晉秦始元年并州西河離右人劉薩訶者𣦸到閻羅王界閻羅王教令掘出自晉宋齋梁至於唐代時時造塔造堂其事甚多其鄮山東南嶺石上有佛右跡東北小巖上復有佛左跡並長一尺四寸前濶五寸八分後濶四寸半深三寸千輻輪相其印文分明顯示世傳曰迦葉佛之跡也東方二里路側有聖井深三尺計淸凉甘美極雨不溢極旱不涸中有一鱗魚長一尺九寸世傳云護塔菩薩有人以香蕐供養有福者卽見無福者經年求不見有人就井上造屋至以七寚作材瓦卽從井中水漲流却

訓読

要約ようやくすでおわって、始て東河とうがいたり、船を造る。揚州の倉曹李湊りそう林宗りんしゅうが書に依て、亦同く檢校けんぎょうして船を造りろうを備ふ。大和尚・榮叡・普照等、同く旣濟寺けさいじに在して乾粮かんろう備辨びべんす。但し云ふ、供具を將て天台山國淸寺こくせいじに徃て、衆僧を供養くようせんと。是の歳、天寚てんぽう二載癸未きび、当時海賊大いに動て繁多なり。台州たいしゅう温州おんしゅう明州めいしゅう、海邊ならびに其の害をこうむり、海路ふさかり、公私行を斷つ。僧道航どうごうの云く、今ま他國に向ふは戒法を傳んか爲なり。人皆な高德、行業ぎょうごう粛淸なるへし。如海にょかい等の如き少學、停却じょうきゃくすべし。時に如海、おおひに瞋て、裹頭かとうして州に入り、採訪さいほうちょうに上て告て白く、大使しるいなや、僧道航と云もの有り。船を造て海に入り、海賊とつらなる。すべて若干人有。乾粮かんろうべんじて、旣濟けさい開元かいげん大明だいみょうの寺に在り。た五百の海賊有、城に入り來らん。時に准南わいなん採訪使さいほうし班景倩はん けいせん、聞て大いにおどろき、𠊳ち人をして如海を獄にひきいて推問せしむ。又、官人を諸寺に差して、賊徒を収め捉ふ。遂に旣濟寺に於て乾粮をさぐり得、大明寺に日本の僧普照を捉り得、開元寺かいげんじにして玄朗・玄法を得たり。其の榮叡は走て池水の中に入て仰臥す。 ややひさしくならずして水の動を見て、水に入て榮叡を得。並に縣に送て推問す。僧道航は俗人の家に隱る。亦捉へ得られて、並に獄中に禁せらる。問て曰く、徒、いくばく人有てか海賊と連る。道航答て曰く、賊と連ならず。航は是れ宰相李林甫り りんぽが兄、林宗りんしゅうが家の僧なり。今、功德を送て、天台の國淸寺にかしむ。陸行してみねを過れは辛苦なり。船を造て海路より去るのみ。今、林宗が書二通有。倉曹の所に在り。採訪使、倉曹に問ふ。對て曰く、實なり。仍て其の書をもとめて看てすなはち云く、阿師あし、事無し。今、海賊大ひ動く。須く海を過て去るべくはあらず。其の造る所の船は官に沒し、其の雜物ぞうもつは僧に還す。其の誣告ぶこくの僧、如海は之かめにつみせられて俗に還し、杖を決すること六十、本貫ほんがん逓走ていそうす。其の日本の僧四人は揚州に上奏し、京に至る。鴻臚こうろ、檢案して本の配寺に向ふ。寺家じけ報して曰く、其の僧、駕に隨て去てさらに見へず。鴻臚に來て寺に依て報して奏す。𠊳すなはち勑して揚州に下る。曰く、其の僧、榮叡等は旣に是れ番僧ばんそう。朝に入て學問す。年每に絹廿五匹を賜ふ。四季に時服じふくを給ひ、兼て隨駕ずいがに預る。是れ僞濫ぎらんあらず。今、國に還んと欲す。意に隨て放ち還し、宜く揚州の例に依て送遣すへしと。時に榮叡・普照等、四月禁せられて、八月まさに始て出ことを得たり。其の玄朗・玄法、此れより國に還て別れ去る。時に榮叡・普照同く議して曰く、我等本願、戒法かいほうつたへんが爲にもろもろの高德をしょうじて、將に本國に還んとす。今、揚州、勑を奉て唯我四人を送る。諸師を請うことを得ずして、むなしく還らば益無し。豈に如んや、官の送を受けざらんには。舊に依て僧を請して、將に本國に還て戒法を流傳るでんせんとす。是に於て官所を巡避じゅんひして、倶に大和尚の所に至て計量す。大和尚の曰く、うれひることをもちひざれ。よろし方𠊳ほうべんを求て必す本願を遂ぐべし。仍て八十貫の錢を出して、 嶺南道れいなんどうの採訪使劉臣隣りゅう しんりんか軍舟一隻を買ひ得、舟人十八口を雇ひ得て、海粮かいろう備辨びべんし、苓脂れいし・紅綠米一百石、甜豉てんし三千石、牛蘓ぐそ一百八十斤、めん五十石、乾胡餅二車、乾蒸餅一車、乾薄餅一萬、番拾頭一半車、漆合子盤三十具、兼將畫五頂の像一鋪、寚像一鋪、金泥像一軀、六扇佛菩薩障子一具、金字こんじ蕐嚴經けごんきょう一部、金字大品經だいぼんきょう一部、金字大集經だいじっきょう一部、金字大涅槃經だいねはんきょう一部、雜經論章疏都て一百部、月令障子一具、行天の障子一具、道場幢一百二十口、珠幢十四條、玉環の手幢八口、螺鈿の經函五十口、銅瓶廿口、𦻏氈廿四領、袈裟けさ一千領、褊衫へんざん一千對、坐具ざぐ一千床、大銅蓋四口、竹葉蓋四十口、大銅盤廿面中、銅盤廿面、小銅盤四十四面、一尺面の銅疊八十面、少銅疊二百面、白藤簟十六領、五色の藤簟六領、麝香じゃこう廿臍、 沉香 じんこう 甲香 かいこう 甘松香 かんしょうこう 龍腦香 りゅうのうこう 膽唐香 たんとうこう 安息香 あんそくこう 棧香 さんこう 零陵香 れいりょうこう 靑木香 しょうもくこう 薫陸香 くんろくこう 、都て六百餘斤有り。又、畢鉢ひっぱ呵梨勒かりろく胡椒こしょう阿魏あぎ石蜜しゃくみつ蔗糖しょとう等、五百餘斤。蜂蜜十斛、甘蔗かんしょ八十束、靑錢しょうせん十千貫、正爐錢しょうろせん十千貫、紫邊錢しへんせん五千貫、羅襆頭らぼくず二千枚、麻靴三十量、廗胃たいい三十箇有り。僧祥彥・道興・德淸・榮叡・普照・思託等一十七人、玉作人・畫師・雕檀・刻鏤・鋳・寫・繍師・修文・鐫碑等の工手都て百八十五人、同く一隻舟に駕す。

天寚二載十二月、帆を擧て東に下て狼溝浦ろうこうふに到り、惡風漂浪し、波船を撃て破らるる。人は總て岸に上る。潮來て水、人の腰に至る。大和尚は烏蓲草うおうそうの上にましき。餘人は並に水中に在り。冬寒、風急にして甚太はなはだ辛苦す。さらに舟を修理し、下て大坂山に至り、舟を泊めて卽ち至ことを得ず。嶼山じょざんに下て住まること一月。好風を待て發して桒名山そうみょうざんに到らんと欲す。風急に浪高して、舟、岸に著こと無く、計ことの量るべき無し。わずかに嶮岸を離て、還て石上に落つ。舟破れ人並に舟、岸に上る。水・米、倶に盡て飢渴すること三日、風とまり浪しずかにして、泉郎せんろう、水・米をて來て相ひ救ふ。又、五日を經て、海に還る官有り。來て消息を問ひ、明州の太守、處分を申請して、鄮縣山ぼうけんざん阿育王寺あいくおうじに安置す。寺に阿育王あいくおうの塔有り。明州は、と是れ越州えつしゅうの一縣なり。開元廿一年、越州鄮縣ぼうけんの令、王叔達おう じゅくたつ、奏して越州の一縣を割て特に明州を置き、さら三縣さんけんを開て、一州いっしゅう四縣よんけんと成さしむ。今、餘姚郡よようぐんと稱す。其の育王の塔は是れ佛滅度の後一百年の時に鐵輪王てちりんのう有り。阿育王と名く。鬼神を役使して、八萬四千の塔を建つるの一なり。其の塔、金に非、玉に非、石に非、土に非、銅に非、鐵に非、紫烏色しうしきにして、刻鏤こくろう、常に非す。一面は薩埵王子の變、一面は捨眼の變、一面は出腦の變、一面は救鴿の變、上に露盤ろはん無し。中に縣鐘けんしょう有り。地中に埋沒して、能く知る者の無し。唯方基ほうきのみ有り。高さ數仭草棘そうこく蒙茸もうじょうして、尋窺じんきすること有ことれなり。晉の秦始たいし元年に至て、并州へいしゅう西河せいが離右の人、劉薩訶りゅう さっかと云者、𣦸して閻羅王えんらおう界に到る。閻羅王、教へて掘り出さしむ。晉・宋・濟・梁より唐代に至て、時時塔を造り、堂を造る。其の事、甚だ多し。其の鄮山、東南の嶺の石上に佛の右跡有り。東北の小巖の上に復佛の左跡有り。並にけ一尺四寸、前のひろさ五寸八分、後ろの濶さ四寸半、深こと三寸、千輻輪の相あり。其の印文、分明に顯示す。世に傳て曰ふ、迦葉佛かしょうぶつの跡なりと。東方二里、路の側に聖井しょうせい有り。深さ三尺計り。淸凉しょうりょう甘美にして、極雨ごくうにも溢れず、極旱ごくかんにも涸れず。中に一の鱗魚りんぎょ有り。長け一尺九寸なり。世に傳て護塔菩薩と云ふ。人有り、香蕐こうけを以て供養す。福有る者のは卽ち見、福無き者のは年を經て求れとも見へず。人有り、井の上りに就て屋を造り、七寚しっぽうを以て材瓦と作すに至る。卽ち井中より水あふれて流却るきゃくす。

脚註

  1. 要約ようやく

    約束、または約束を結ぶこと。ここでは日本行きの意志を確認して同意すること。

  2. 東河とうが

    山陽瀆(さんようとく)。隋代に建設された淮水と長江を結ぶ大運河。
    現在、支那の揚州市文峰寺のすぐ脇の運河辺に、鑑真等が船を造って乗船したという場所であるとして「古運河」なる石碑が建てられている。しかしながら、その石碑の場所は、一昔前に鑑真関連で訪中する日本人が多くあったため、現代の人が観光目的で手前勝手に都合の良い場所に新しく造った、なんらの典拠も歴史的裏付けも無いものであるように思われる。

  3. 檢校けんぎょう

    事物を調査し正すこと。

  4. 天台山國淸寺こくせいじ

    天台宗祖智顗が入山して天台宗を興し、天台山寺としてその基を築いた寺院。その没後、弟子の灌頂らと煬帝の後援により整備され、国清寺と改称され天台宗の本拠となった。
    ここで鑑真が国清寺の衆僧を供養しようとしていたのは、鑑真が智顗を崇敬して天台教学を学んでいても、それまで天台山に足を運んだことはなく、そこで渡海して国を離れる前に参詣して彼の著名な国清寺をその目で見ておきたいとの意志からのことであったろう。それは栄叡と普照も同じで、支那を離れる最期に天台山に参詣しておこうとの心づもりであったと思われる。実際、新たに船を造り、諸々の文物を集めるには相当の日数を要するため、それを待つ間に天台山へ陸路で往復することは可能であったろう。

  5. 供養くよう

    [S/P].pūjāの漢訳。名誉・尊敬・崇拝・畏敬の意。動詞としては[S].pūjayati, pūjatiの訳で、敬う・尊重する・もてなす・崇拝するの意。
    現代、供養とは仏・菩薩、あるいは祖霊などに対してただ何らか宗教的儀礼を行うことの意だと誤認するものが多いが、供養とは対象が何であれ「尊敬をもって篤くもてなす」の意であり、本書でもその意で用いられる。供養という語を、ただ香華を供えてモジャモジャやることだと誤解してはならない。

  6. 台州たいしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は臨海郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また台州の名に復している。現在の浙江州台州市周辺。

  7. 温州おんしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は永嘉郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また温州の名に復している。現在の浙江省温州市周辺。

  8. 明州めいしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は余姚郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また明州の名に復している。現在の浙江省寧波市周辺。

  9. 如海にょかい

    既出。本書にて高麗僧とされているが新羅僧あるいは渤海僧。ここで「小学」と批判されたことに激怒して誣告するまでに到った事実は、まさに批判された通りの人であったろう。

  10. 裹頭かとう

    誰と知られぬよう、頭(顔)を覆い隠すこと。

  11. 採訪さいほう

    採訪使。唐における州毎に設置された官名。州や県・郡の官人・役人を査察する役職。

  12. 准南わいなん

    えなん。淮河以南、揚子江以北一帯の地名。

  13. 開元寺かいげんじ

    武則天の大雲寺および中宗の龍興寺に倣い、開元二十六年〈738〉、玄宗が国の祝典を行うことを目的に全州に各一寺設置した官寺。従来あった寺を改称するなどして転用したものが多かったという。

  14. 阿師あし

    阿は親愛を込めて呼ぶ際にもちいる接頭語。この場合は「お坊様」といった意。

  15. 誣告ぶこく

    意図的に他を陥れるため虚偽の罪で告発すること。

  16. 本貫ほんがん

    本籍地。

  17. 逓走ていそう

    宿(あるいは駅)から宿へと順に送致すること。

  18. 鴻臚こうろ

    外国からの賓客を扱った外交関係の役職。鴻臚寺はその役所、外交の専門機関。
    日本もこれを模倣し鴻臚館を置き、玄蕃寮が管轄した。

  19. 番僧ばんそう

    蕃僧、外国僧。

  20. 時服じふく

    春秋など帝から下賜(給与)される季節に応じた衣服。
    当時、栄叡および普照など日本の留学僧が、唐でどのような待遇であったかを知り得る数少ない貴重な記述。

  21. 隨駕ずいが

    天子や高官の移動の際、その御車や駕籠などの列に加わって随行すること。

  22. 僞濫ぎらん

    偽濫僧。税など課役逃れを目的として出家し度牒を得た僧、あるいは度牒を偽造して僧を自称した者。釈尊ご在世当時から修行目的でなく、衣・食・住・薬を目当てに出家するものがあった。仏教ではこれを賊心入道という。
    支那にても律令制の下、課役免除などある程度の特権があった僧団に生活のためや脱税目的で入り込む輩がままあり、それは日本でも同様であった。

  23. 戒法かいほうつたへんが爲にもろもろの高德を...

    具足戒の授受には正しくは最低十人の比丘を要するのであり、ただ一人二人の律学に長じた人を招聘するだけではならなかった。この点を栄叡や普照も既に自ら比丘となり、またそのごく基本的なことを知っていたがためにここで「諸の高徳」と言い、すでに道璿を日本に向かわせていたにも関わらず、いまだ伝戒の人を求めて唐にあった。
    この時、鑑真一人だけ日本に招聘しても全く意味が無く、それを栄叡も普照も、当然鑑真らも知っていたことに注意。

  24. 八十貫はちじゅっかんぜに

    一般に唐の時代における一貫は一千文とされ、その場合は八十貫で八万銭(要考証)。その貨幣は開元通宝、あるいは乾封泉宝であったろう。当時の貨幣価値の正確な所は不明であるが、購入した物品一覧を見ると相当な大金であったことは確実。この金銭がどこから出たものか、鑑真など唐の寺院・僧側からであったとは思われないが、栄叡・普照が日本からもたらしていたものであったかも未詳。

  25. 苓脂れいし

    苓は巻耳(苓耳)でミミナグサ。苓脂は、その実から搾り取った油で食用。

  26. 甜豉てんし

    味噌に類したものとされるが未詳。

  27. 牛蘓ぐそ

    牛乳を生成した乳製品の一種。乳を低温で煮詰めて得られる固形物。牛酥。

  28. 袈裟けさ

    仏教僧の装束、衣。袈裟は[S].kāṣāyaの音写で混濁色、特に赤褐色の意。壊色(えじき)と漢訳される。印度以来、仏教僧の衣は主として赤褐色であり、支那に渡来する印度僧の多くが赤褐色の衣であったことが後漢から唐末頃までの諸記録によって知られる。袈裟は本来、色の名であって衣の名ではないが、支那ではその色の称をもって慣用的に仏教僧の装束の名とした。仏教僧の衣は袈裟に染めなければならず、華美な飾りのあるものであってはならない。また衣には三種の別があってそれを三衣という。
    現存する鑑真坐像は赤褐色の内衣の上に糞掃衣を纏ったものとなっているが、一般には袈裟衣も内衣も同色であったろう。

  29. 褊衫へんざん

    袈裟衣の下に着用する衣。特に左肩を覆うことに用いられた上半身用の下着の一種である僧祇支が、仏教が支那に伝わった後、素肌を顕すことを嫌う習俗から改変されて造られた内衣。その成立の経緯から、背中側が襟から下で左右に断ち分かれている特徴的な形状をもつことから、不連脊衣とも称される。褊衫は裙(下半身用の下着)という腰衣と上下対で用いなければならないが、ここで「一千對」とあることから褊衫だけでなく裙と対であったことが知らえる。実は、当時の褊衫の形状は、現在伝わるそれとまったく同様であったと思われない節がある。その根拠は、奈良時代天平の時代から平安時代初期にかけて造られた図像が、今の褊衫と異なったもののように思われるためであり、なにより唐招提寺に伝わる鑑真坐像の着衣が明らかに異なっているためである。鑑真坐像に写されたその着衣が、一体どのようなものであったか今も全く不明。
    なお、唐末に僧の威儀が乱れだした時、褊衫の上下をつなげた直綴(じきとつ)という衣が造られ流行したが当時から非法であるとして問題視された。しかし、禅宗などで流行しなし崩しに用いられ、それが鎌倉期の日本に伝えられて今に至る。

  30. 坐具ざぐ

    比丘がどこであれ坐す際に用いるべき敷具。移動時は縦に四折あるいは六折にして右肩に載せる。比丘の六物の一つ。[S].niṣīdanaの音写、尼師壇とも称す。
    玄奘など支那では尻の下に布くものを肩の上に載せることを不適と考える者があったが、律宗で印度に倣い肩の上に安じることを正儀とした。しかし、特に僧儀・律儀の乱れた唐末の支那では、左下腕の上、袈裟衣の下に置くようになった。今の日本の律宗や禅宗などがその倣いを続けているが、唐末あるいは宋代以来の非法の習慣。

  31. 麝香じゃこう

    麝香鹿の麝香嚢(臭腺)から取れる香料。

  32. 沉香じんこう

    沈香。熱帯産ジンチョウゲ科の樹木の樹脂。樹脂が土中に埋もれて長期間を経たもの。比重が重く水に沈むことから沈香と称された。
    沈香の最上品を伽羅といい、一般に樹脂の色がより濃く、黒い(サンスクリットなど印度語で黒はkāla)ことから伽羅という。樹脂系の香料では最上のものとして珍重されてきた高貴の香。

  33. 甲香かいこう

    貝香。赤螺(あかにし)という巻き貝の蓋をすりつぶして香料としたもの。

  34. 甘松香かんしょうこう

    オミナエシ科の多年草の根・茎を乾燥させ香料としたもの。

  35. 龍腦香りゅうのうこう

    フタバガキ科の常緑大高木、竜脳樹を蒸留して作る香料。楠から作る樟脳とよく似たザラメ状で乳白色。

  36. 膽唐香たんとうこう

    未詳。膽は異本(観智院本)では「瞻」とあり、当時もその正体が何か理解されていなかったようである。

  37. 安息香あんそくこう

    インドシナ半島の高原に広く分布するエゴノキ科の植物の樹幹に傷をつけて採取する樹脂。

  38. 棧香さんこう

    沈香を採取できる熱帯産ジンチョウゲ科の樹木の幹を香料としたもの。
    世界最古の植物志、古代支那(西晉)の嵆含(けいがん)により著された『南方草木状』では「蜜香・沉香・雞骨香・黃熟香・棧香・青桂香・馬蹄香・雞舌香。案此八物、同出於一樹也。《中略》木心與節堅黑、沉水者為沉香。與水面平者為雞骨香。其根為黃熟香。其幹為棧香・細枝緊實未爛者、為青桂香。其根節輕而大者為馬蹄香。其花不香、成實乃香、為雞舌香。珍異之木也」とし、八種の香は同一の樹木から取れるものであるとしている。ただし、異説あり。

  39. 零陵香れいりょうこう

    マメ科の一年草を丸ごと乾燥させて香料としたもの。欧州原産。

  40. 靑木香しょうもくこう

    青桂香に同じ。沈香を採取できる熱帯産ジンチョウゲ科の樹木から取れる実の未熟で青いのを香料としたもの。

  41. 薫陸香くんろくこう

    印度から中東にかけ分布するカンラン科の樹木の樹脂が石のように固まったのを香料としたもの。

  42. 畢鉢ひっぱ

    畢鉢羅の略。[S].pippalaの音写。菩提樹。

  43. 呵梨勒かりろく

    [S].harītakīの音写。支那およびインドシナやマレー半島に広く分布するミロバナン樹。その実は万能薬として用いられ、特に通便に良いとされる。

  44. 阿魏あぎ

    セリ科の多年草。これを蒸留して得た精油は薬および香料として珍重された。薬としては特に去痰に効能があるという。

  45. 石蜜しゃくみつ

    氷砂糖。

  46. 蔗糖しょとう

    サトウキビなどから抽出された糖。

  47. 甘蔗かんしょ

    サトウキビ。

  48. 狼溝浦ろうこうふ

    揚子江河口付近にあった港。

  49. 烏蓲草うおうそう

    葦。

  50. 泉郎せんろう

    漁夫。

  51. 阿育王寺あいくおうじ

    明州(現在の浙江省寧波一帯)の東(鄭県)にある阿育王山上の仏教寺院。東晋安帝の義煕元年〈405〉開基。

  52. 阿育王あいくおう

    阿育は[S].Aśoka / [P].Asokaの音写。漢訳で無憂王とも。仏滅後116年あるいは218年後に即位したとされる印度全土をほぼ統一した王。統一戦争(特に印度北東部のカリンガ国制定)での殺戮を深く悔恨し、やがて法治・徳治を志した。
    特に仏教に深く帰依し、領内に八万四千の仏塔を建立したとされる。伝説では塔が立てられたのは印度亜大陸に留まらず支那に於いてもなされたされるが、阿育王山の仏塔はその一つ。

  53. 越州えつしゅう

    隋代に設置された州の一で、唐代は江南東道に属した。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は会稽郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また越州の名に復している。現在の浙江省紹興市一帯。

  54. 鄮縣ぼうけん

    越州(旧会稽郡)の管轄した揚子江下流域の一行政区。現在の寧波一帯。

  55. さら三縣さんけんを開て、一州いっしゅう四縣よんけんに...

    明州が置かれた鄮県から慈渓県・翁山県・奉化県が分割されて一州四県とされたこと。

  56. 餘姚郡よようぐん

    天宝元年〈742〉、すなわち栄叡らが在唐時、明州は改称されて余姚郡とされていた。しかし、乾元元年〈758〉に再び明州の称に復されている。

  57. 鐵輪王てちりんのう

    転輪聖王の一。鉄の輪宝を獲得して南閻浮提を統治するという、印度における伝説的帝王。すなわち、阿育王のこと。

  58. 紫烏色しうしき

    黒みを帯びた深く美しい紫色。

  59. 刻鏤こくろう

    彫り刻むこと。彫刻。

  60. 縣鐘けんしょう

    縣は懸の写誤であろう。懸鐘。釣り鐘。

  61. 數仭すうじん

    仭は『説文解字』に「仞伸臂一尋、八尺」とあり、一尋(ひとひろ)および八尺に同じとされる。尺は時代により長短あるが、『説文解字』では周尺(約23cm)。一尋は両腕を左右水平に広げた際の両端からの長さであり、その人の身長に同じ。人の丈をおおよそ160-180cmと仮定し、尺は周尺であるとして八尺ならば23×8=184cmとなり計算が合う。ここでの数仞を周尺に基づくものとして二、三仞(23×16 or 23×24)であると仮定すると368-552cm。したがって塔の高さはおよそ4-5mと想像すれば良いであろう。
    唐代は唐尺が新たに用いられていたが、往々にして従来(秦代)の尺も用いられており、新たなものを大尺(29.5cm)として従来の尺を小尺(24.6cm)とするなど混乱が見られる。ここでは著者淡海三船(が本にした思託の記述)がどの尺を以って基準としたか不明である。したがって、本稿では仮に、寸尺はすべて周尺で考えている。

  62. 并州へいしゅう

    古代支那に存在した九州の一(『周礼』説)。夏王朝以前からあって北宋まで存在した支那北部防衛の要衝。

  63. 西河せいが

    西河郡。かつて并州に属した郡。現在の山西省から内モンゴル自治区にまたがる一帯。乾元元年〈758〉に汾州と改称された。

  64. 劉薩訶りゅう さっか

    西晉の人。太康二年〈281〉、寧波の山中に阿育王塔を発見したとされる人。
    伝説では、劉が仮死状態に陥った時、金人から会稽の阿育王塔を礼拝して懴悔せよと告げられ息を吹き返した。劉は出家して慧達と名乗り、会稽に至って塔を探した。ある夜、山中の地下から音がするため不審に思って待っていたところ、地下から塔が現出した。それこそまさに夢に告げられた阿育王塔であるとして崇敬したとされる。本書では劉に塔のあることを伝えたのは金人でなく閻魔であるとされるが、当時劉について種々の伝承があったのであろう。

  65. 閻羅王えんらおう

    閻羅は[S].Yamarājaの音写、閻魔羅社の略。閻魔は印度神話における人類最初の死者であったため、冥界の支配者にして人類の善悪業の監視者となったとされる。

  66. 迦葉佛かしょうぶつ

    [S].Kāśyapa Buddha. 釈迦如来以前の仏陀。過去七仏のうち第六番目、賢劫千仏のうち第三番目。

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