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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』

原文

夜發經三日乃到振州江口泊舟其經紀人徃報郡其別駕馮崇債遣兵四百餘人來迎引至州城別駕來迎乃云弟子早知大和尚來昨夜夢有僧姓豊田當是債舅此閒若有姓豐田者否衆僧皆云無也債曰此閒雖無姓豐田人而今大和尚卽將當弟子之舅卽迎入宅内設齋供養又於太守廳内設會授戒仍入州大雲寺安置其寺佛殿壞廃衆僧各捨衣物造佛殿住一年造了別駕馮崇債自備甲兵八百餘人送經四十餘日至萬安州州大首領馮若芳請住其家三日供養若芳每年常却取波斯舶三二艘取物爲巳貨掠人爲奴婢其奴婢居處南北三日行東西五日行村村相次總是若芳奴婢之住處也若芳會客常用乳頭香爲燈燭一焼一百餘斤其宅後蘇芳木露積如山其餘財物亦稱此焉行到岸州界無賊別駕乃廻去榮叡普照師從海路經四十餘日到岸州州遊弈大使張雲出迎拜謁引入令住開元寺官寮參省設齋施物盈滿一屋彼處珍異口味乃有益知子檳椰子茘支子龍眼甘蕉拘莚樓頭大如鉢盂甘甜於蜜花如七寚色膽唐香樹聚生成林風至香聞五里之外又有波羅奈樹菓大如冬瓜樹似榠楂畢鉢草子同今見葉如水蔥其根味似乾柿十月作田正月収粟養蠺八度収稻再度男著木笠女著布絮人皆彫蹄鑿齒繍面鼻飲是其異也大使巳下至於典正作番供養衆僧大使自手行食將優曇鉢樹葉以充生菜復將優曇鉢子供養衆僧乃云大和尚知否此是優曇鉢樹子此樹有子蕐弟子得遇大和尚如優曇鉢蕐甚難値遇其葉赤色圓一尺餘子色紫丹氣味甜美彼州遭火寺共被焼大和尚受大使請造寺振州別駕聞大和尚造寺卽遺諸奴各令進一椂三日内一時將來卽構佛殿講堂塼塔椂木餘又造釋迦文丈六佛像登壇受戒講律度人巳畢卽別大使去仍差澄邁縣令看送上船三日三夜𠊳達雷州羅州辨州象州白州傭州藤州梧州桂州等官人僧道父老迎送禮拜供養承事其事無量不可言記

始安都督上黨公馮古璞等歩出城外五體投地接足而禮引入開元寺初開佛殿香氣滿城城中僧徒擎幢焼香唱梵雲集寺中州縣官人百姓塡滿街衢禮拜讃歡日夜不絶焉都督來自手行食供養衆僧請大和尚受菩薩戒其所都督七十四州官人選擧試學人併集此州隨都督受菩薩戒人其數無量大和尚留住一年時南海郡大都督五府經略採訪大使攝御史中丞廣州太守廬煥牒下諸州迎大和尚向廣府時馮都督求親送大和尚自扶上船口云古璞與大和尚終至彌勒天宮相見而悲泣別去下桂江七日至梧州

次至端州龍興寺榮叡師奄然遷化大和尚哀慟悲切送䘮而去端州太守迎引送至廣州廬都督率諸道俗出迎城外恭敬承事其事無量引入大雲寺四事供養登壇受戒此寺有呵梨勒樹二株子如大棗又開元寺有胡人造白檀蕐嚴經九會率工匠六十人三十年造畢用物三十萬貫錢欲徃天竺採訪使劉臣鄰奏状勑留開元寺供養七寚莊嚴不可思議又有婆羅門寺三所並梵僧居住池有靑蓮蕐蕐葉根茎並芬馥奇異江中有婆羅門波斯崑崙等舶不知其數並載香藥珍寚積載如山其舶深六七丈獅子國大石國骨唐國白蠻赤蠻等徃來居住種類極多州城三重都督執六纛一纛一軍威嚴不異天子紫緋滿城邑居逼側大和尚住此一春發向韶州傾城送遠乗江七百餘里至韶州禪居寺留住三日韶州官人又送引入法泉寺乃是則天爲慧能禪師造寺也禪師影像今現在

後移開元寺普照從此辭大和尚向嶺北去明州阿育王寺是歳天寚九載也時大和尚執普照師手悲泣而曰爲傳戒律發願過海遂不至日本國本願不遂於是分手感念無喩時大和尚頻經炎熱眼光暗昧爰有胡人言能治目加療治眼遂失明後巡遊靈鷲寺廣果寺登壇受戒至貞昌縣過大庾嶺至處州開元寺僕射鍾紹京左隣在此請大和尚至宅立壇受戒

訓読

夜發して三日を經て、乃ち振州しんしゅうの江口に到て、舟をとどむ。其の經紀けいきの人、徃て郡に報す。其の別駕べつが馮崇債ふう しゅうさい、兵四百餘人をつかはして、來り迎へて引て州城に至る。別駕、來り迎て乃ち云く、弟子、早く大和尚の來を知る。昨夜、夢に僧、姓は豐田ほうてんと云もの有り。當に是れさいしゅうとなるべし。此の閒に若し姓、豐田と云者の有りや否や。衆僧、皆な云ふ、無しと。債の曰く、此の閒に姓、豊田なる人無と雖とも、今大和尚卽ち將に弟子の舅なるべし。卽ち迎て宅内に入れて齋を設て供養す。又、太守の廳内に於て會を設け、戒を授く。仍て州の大雲寺に入れて安置す。其の寺の佛殿、壞廃えはいす。衆僧、各々衣物を捨てて佛殿を造る。とどまること一年にして造り了ぬ。別駕馮崇債、自ら甲兵八百餘人を備へて送て、四十餘日を經て、萬安州ばんあんしゅうに至る。州の大首領、馮若芳ふう じゃくほう、請じて其の家にとどめ三日供養す。若芳、年每に常に波斯はしの舶三二艘をかすめ取り、物を取て已が貨とし、人をかすめ奴婢ぬひとす。其の奴婢の居處、南北三日に行き、東西五日に行く。村村相次で、總て是れ若芳が奴婢の住處なり。若芳、客を會するに、常に乳頭香にゅうとうこうを用て燈燭とうしょくと爲して、一焼に一百餘いっぴゃくよきん。其の宅後に、蘇芳木すおうぎ露積して山の如し。其の餘の財物、亦此かなふ。行て岸州がんしゅう界に到て賊無し。別駕、乃ち廻り去る。榮叡ようえい普照ふしょう師、海路より四十餘日をて、岸州に到る。州の遊弈ゆえき大使張雲ちょううん、出迎へて拜謁し、引入して開元寺に住せしむ。官寮參省、齋を設け、物を施すこと一屋に盈滿えいまんす。彼の處の珍異口味、乃ち益知子やくちし檳椰子びんろうし茘支子れいしし龍眼りゅうがん甘蕉かんしょう拘莚樓頭くえんるとう有り。大さ鉢盂の如し。甘こと蜜よりも甜し。花は七寚色の如し。膽唐香樹、聚り生ひて林を成す。風至れば香、五里の外に聞ふ。又、波羅奈樹ぱらなじゅ有り。菓の大さ冬瓜とうがんの如し。樹は榠楂かりん畢鉢草子ひっぱそうしに似たり。同く今ま葉を見るに水蔥すいそうの如し。其の根の味ひ、乾柿ほしがきに似たり。十月、田を作り、正月、あわを収む。かいこを養こと八度び、稻を収ること再度び。男は木笠を著け、女は布絮ふじょを著く。人皆な ひずめを彫り、齒をり、面に繍し、鼻に飮む。是れ其の異なり。大使巳下、典正てんしょうに至て、番を作て衆僧を供養す。大使自らてづから食を行く。優曇鉢樹うどんぱじゅの葉を將て、以て生菜に充つ。復た優曇鉢うどんぱたねて、衆僧に供養す。乃ち云く、大和尚知や否や、此は是れ優曇鉢樹の子なり。此の樹、子蕐しけ有り。弟子、大和尚に遇上ることを得るは、優曇鉢蕐の甚だ値遇難きが如し。其の葉は赤色、圓なること一尺餘。子の色、紫丹にして、氣味、甜美なり。彼の州、火に遭て寺共に焼らる。大和尚、大使の請を受て寺を造る。振州の別駕、大和尚、寺を造り下へるを聞て、卽ち諸奴を遣して各々一椂いちろくたてまってしむ。三日の内、一時にきたって、卽ち佛殿・講堂・㙛塔せんとうを構ふ。椂木ろくもくの餘、又、釋迦文しゃかもん丈六じょうろくの佛像を造る。登壇受戒、律を講じて人を度すること巳に畢て、卽ち大使に別れ去る。仍て澄邁ちょうまいを差す。縣の令、看送して船に上らしむ。三日三夜にして𠊳ち雷州らいしゅうに達す。羅州らしゅう辨州べんしゅう象州ぞうしゅう白州はくしゅう傭州ようしゅう藤州とうしゅう梧州ごしゅう桂州けいしゅう等の官人・僧・道・父老、迎送、禮拜、供養、承事す。其の事、はかること無し。言、記すべからず。

始安しあん都督ととく、上黨公馮古璞ふう こはく等、歩より城外に出て、五體ごたいを地に投げ、足を接してらい。引て開元寺に入れて、初めて佛殿を開く。香氣、城に滿つ。城中の僧徒、幢をささけ香を焼き、梵を唱て、雲の如くに寺中に集る。州縣官人、百姓ひゃくせい街衢がいくち滿て、禮拜讃歡すること日夜に絶へず。都督來て、自らてづから食を行き衆僧を供養し、大和尚を請じて菩薩戒を受く。其の所の都督、七十四州官人、選擧せんきょ試學しがくの人しかしながら此の州に集り、都督に隨て菩薩戒を受る。人、其の數無量なり。大和尚、留住すること一年。時に南海郡なんかいぐんの大都督、五府經略採訪大使、攝御史中丞、廣州こうしゅう太守廬煥ろかん、牒を諸州に下して大和尚を迎て、廣府こうふに向はしむ。時にふう都督、親く送んことを求む。大和尚を自らたすけて、船に上て口つから云く、古璞こはく、大和尚と終に彌勒の天宮に至て相見んと。悲泣して別れ去る。

桂江を下ること七日、梧州に到る。次、端州たんしゅうの龍興寺に至る。榮叡ようえい師、奄然えんねんとして遷化せんげ。大和尚、哀慟悲切なり。䘮を送て去る。端州の太守、迎へ引て送て、廣州こうしゅうに至る。都督、諸の道俗を率て出でて城外に迎へ、恭敬、承事す。其の事、無量。引て大雲寺に入れて、四事供養し、登壇受戒す。此の寺に呵梨勒樹かりろくじゅ二株有り。子、大棗たいそうの如し。又、開元寺に胡人こじん有り。白檀を以、蕐嚴經けごんきょう九會くえを造る。工匠六十人を率て三十年にして造り畢ぬ。物を用ること、三十萬貫錢なり。天竺てんじくゆかんとほっ。採訪使劉臣鄰りゅう しんりん、奏状す。勑して開元寺に留めて供養す。七寚莊嚴、思議すべからず。又、婆羅門ばらもんの寺三所有り。並に梵僧居住す。池に靑蓮蕐有り。蕐・葉・根・茎、並に芬馥ふんぷく奇異なり。江中に婆羅門・波斯・崑崙こんろん等の舶有り。其の數を知らず。並に香藥・珍寚を載て、つみのすこと山の如し。其の舶、深さ六、七丈、獅子國ししこく大石國だいしゃくこく骨唐國こっとうこく白蠻びゃくばん赤蠻しゃくばん、徃來居住、種類極て多し。州城三重、都督、六纛ろくとうを執り、一纛いっとう一軍、威嚴天子に異ならず。紫緋しひ、城に滿ち、邑居ゆうきょ逼側ひっそくす。大和尚、此に住すること一春。發して韶州しょうしゅうに向ふ。城を傾て遠に送る。江に乗すること七百餘里。韶州禪居寺ぜんごじに至り、留住るじゅうすること三日。韶州の官人、又送て引て法泉寺ほうせんじに入る。乃ち是れ則天、慧能えのう禪師の爲に造れる寺なり。禪師の影像、今ま現在す。

後ち開元寺に移す。普照ふしょうこれより大和尚を辭して嶺北れいほくに向ひ、明州の阿育王寺に去る。是の歳、天寚九載なり。時に大和尚、普照師の手を執て悲泣ひきゅうして曰く、戒律を傳んが爲、願を發して海を過ぐ。遂に日本國に至らず。本願遂げず。是に於て手を分て感念、たとへること無し。 時に大和尚、しきりに炎熱を經て、眼光暗昧なり。爰に胡人有り。能く目を治すと言つて療治を加ふれとも、眼、遂に明を失す。後ち靈鷲寺りょうじゅじ廣果寺こうかじに巡遊して、登壇受戒し、貞昌縣ていしょうけんに至り、大庾嶺たいゆれいを過、處州しょしゅうの開元寺に至る。僕射ぼくや鍾紹京しょう しょうけい左隣 此に在りて大和尚を請じて宅に至らしめ、壇を立てて戒を受く。

脚註

  1. 振州しんしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は延徳郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また振州の名に復している。現在の海南省三亜市一帯。

  2. 別駕べつが

    古代支那における官。刺史(地方長官)の巡察に随行する次官、太守の副官で、仕える長官や太守とは「別の駕籠」が用意され移動するほどの高官であることからの呼称。
    当時、刺史が実際に赴任することは常で無かったらしく、別駕が実質的長官であった。

  3. 豐田ほうてん

    ここでは仮に漢音で「ほうてん」と訓じたが、和訓では「とよた」。支那に無い日本の姓。そのような日本の姓を(知る筈もないであろう)馮崇債が何故ここで口にしたか実に不思議である。しかし、ここでその話に発展もなくその後特に言及もないことから、むしろ事実として彼はそう夢に見たのであろう。
    これを現代、なんとか合理的な説明をつけようと、なんらそれを示唆する史料の断片も形跡も無いのに附会してアレコレいう学者が過去あった。しかし、わからないことはわからないと置くべきことであった。

  4. しゅうと

    母の兄弟。あるいは夫もしくは妻の父。

  5. 萬安州ばんあんしゅう

    唐代、崖州万安県を分離させ設置された州。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は万安郡と改称され、さらに至徳二年〈757〉に万全郡と改められたが、乾元元年〈758〉また万安州の名に復している。振州の別駕がこの地を通過して崖州に至るまで多くの兵を率いて護衛していたことからすると、中央政府はもとより支那南部を支配していた馮氏一族の統治すらも及ばない土着の海賊・盗賊が跋扈する土地であったのであろう。現在の海南省南東部一帯。

  6. 馮若芳ふう じゃくほう

    万安州を支配していたらしい首領。本書の記述からすると海賊に変わりない蛮行をなしていたようである。詳細未詳。

  7. 波斯はし

    Persiaの音写。ササン朝ペルシアの支那における称。ここ万安州における本書の記述から、当時この地はインドから中東に至る広い地域と盛んに海路で交易がなされており、極めて国際色豊かな地であったことが知られる。この地を旅した日本僧普照は言うまでもなく、鑑真一行ですらも驚きをもってその中にあったことであろう。

  8. 乳頭香にゅうとうこう

    乳香。インドおよびペルシアなどに自生する樹の樹脂。その乳頭状のもの。

  9. 一百餘いっぴゃくよきん

    斤は古代支那における度量衡のうち質量を表す単位。一斤=十六両=一百六十匁(銭)で、約600g。一百余斤ならば60,000g=60kg超。

  10. 蘇芳木すおうぎ

    インドおよびマレー半島原産のマメ科の落葉小高木。その芯材を染料として用いる。

  11. 岸州がんしゅう

    岸は崖の写誤。崖州(がいしゅう)。唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は珠崖郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また崖州の名に復している。現在の海南島南部(万安州)を除いた海南省一帯。

  12. 榮叡ようえい普照ふしょう師、海路より...

    どのような事情からか全く記されていないが、何故か栄叡と普照は、おそらくは海南島東岸沿いの航路でしかも四十日余りもかけ、陸路をとった鑑真等とは別途に海路で崖州に至っていたらしい。

  13. 遊弈ゆえき大使

    地方を巡察する軍官。

  14. 益知子やくちし

    未詳。

  15. 檳椰子びんろうし

    ヤシ科の植物の実。噛みタバコ、漢方、酒など種々の原料として用いられる。ビンロウ。
    今でも台湾や支那南部、そして東南アジアでこれを石灰などと併せて噛みタバコとして愛用する者は特に年配者に多く見られる。しかし、それは赤色に変化するツバを常に吐き出さなければならないため不潔極まりなく、また見栄えも非常に悪い悪習であり、(台湾や上海では)近年その排除が進められている。

  16. 茘支子れいしし

    茘支は、支那南部原産のムクロジ科の常緑高木。その実は赤い皮に覆われ、果肉は白く透明で甘い。ライチー。

  17. 龍眼りゅうがん

    支那南部原産のムクロジ科の常緑高木。その実は黄土色の皮に覆われ、果肉は乳白色の半透明で甘い。ロンガン。

  18. 甘蕉かんしょう

    バナナ。

  19. 拘莚樓頭くえんるとう

    未詳。密よりも甘く、鉢のような大きさと言えばドリアンが想起されるが不明。

  20. 波羅奈樹ぱらなじゅ

    未詳。冬瓜に似た大きさの果実といえば、ポメロ、パパイアあるいはジャックフルーツが想起されるが、その他の記述も不明瞭で確定しがたい。しかしパパイアは木では無く、またポメロは榠楂の木に似たものでないのでジェックフルーツの可能性が高いであろうか。その葉は柿の葉にやや似る。その根が可食であって干し柿に似ているというのが要点であろうが、ジャックフルーツの根を食べるという習慣を寡聞にして知らない。

  21. 榠楂かりん

    支那南部原産のバラ科カリン属の落葉高木。

  22. 畢鉢草子ひっぱそうし

    未詳。畢鉢羅樹(菩提樹)か?

  23. 水蔥すいそう

    未詳。蔥はネギ。あるいはフトイの意か?しかし、そうするとジャックフルーツの葉とは似ても似つかない。

  24. 布絮ふじょ

    綿布。絮は綿一般(真綿・木綿)を意味する語。こうして特記していることからすると蚕の繭から作った真綿でなく、木綿であろうか。

  25. 典正てんしょう

    宮廷に仕える女官であるが、ここでは単に刺史(大使・地方長官)に仕える女官の意であろう。

  26. 優曇鉢樹うどんぱじゅ

    優曇鉢は[S].uḍumbaraの音写。インドおよびセイロン島に見られるクワ科の常緑高木。優曇華。(事実と異なるが)3000年に一度華をつけると伝説され、極めて遇い難い事物の喩えとして多用される。

  27. 優曇鉢うどんぱたね

    菩提樹の種子。実はイチジクに似て食用であり、今も東南アジアの人々は好んで食べる。ここではその葉も生食することを伝えるが、日光をよく浴びて固くなったものでなく、その若葉は可食。

  28. 一椂いちろくたてまってしむ。

    底本に「令一椂」と送り仮名されたママとしたが読みとしておかしく、正しくは「進(すす)め令む」もしくは「進(たてまつ)ら令む」と考えられる。椂は本来樹木の名であるが、ここでは単に材木を指したものと思われる。奴婢一人につき柱や梁・桁に用いる材木一本を献納して持たせたということであろう。

  29. 塼塔せんとう

    塼を部材として築いた塔。塼は土を焼いて瓦または煉瓦。

  30. 釋迦文しゃかもん

    [S].Śākya-muniの音写。釈迦牟尼。仏陀釈尊。

  31. 丈六じょうろく

    釈迦文の身長が一丈六尺(周尺で3.7m、唐小尺で4m)あったと伝説されることによる仏像制作時の標準的高さ。ただし、坐像であってその半分の高さであっても丈六というため、丈六というだけで立像が坐像かは判然としない。
    南方の上座部が伝持した律蔵『パーリ律』では、仏陀の規格は常人の三倍であるという伝承を元に、律の規定に係る諸々の大きさを決定する際、その単位を三倍とする。しかし、同じく仏陀は丈六であるとする伝説を共有するその他の律蔵では、仏陀の規格は常人の二倍であったとする点、異なっている。

  32. 澄邁ちょうまい

    崖州が管轄した三県の一、澄邁県。現在の海南島北端の沿岸部、海南省澄邁県。

  33. 雷州らいしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は海康郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また雷州の名に復している。現在の広東省雷州市一帯。

  34. 羅州らしゅう

    南北朝代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は招義郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また羅州の名に復している。現在の広東省湛江市北部。

  35. 辨州べんしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は陵水郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また辨州の名に復している。現在の広東省化州市一帯。

  36. 象州ぞうしゅう

    隋代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は象山郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また象州の名に復している。現在の広西チワン族自治区来賓市一帯。

  37. 白州はくしゅう

    唐代に設置された州の一。旧称は南州。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は南昌郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また白州の名に復している。現在の広西チワン族自治区玉林市南部。

  38. 傭州ようしゅう

  39. 藤州とうしゅう

    南北朝代に設置された州の一。旧称は石州。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は感義郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また藤州の名に復している。現在の広西チワン族自治区梧州市一帯。

  40. 梧州ごしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は蒼梧郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また梧州の名に復している。現在の広西チワン族自治区梧州市一帯。

  41. 桂州けいしゅう

    南北朝代に広州を分割して設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は始安郡と改称され、至徳二年〈757〉には建陵郡とされたが、後(乾元元年〈758〉)また桂州の名に復している。現在の広西チワン族自治区桂林市一帯。

  42. 始安しあん

    始安県。桂州(始安郡)が管轄した十五県の一で、桂州の都督府(総管)が置かれた地。

  43. 都督ととく

    古代支那における官名。本来、軍司令官あるいは軍政長官であるが、ここでは刺史を兼ねた軍政・民政の統括官であろう。当時、桂州には都督府がおかれ、桂州・賀州・象州・融州・梧州・昭州・富州・柳州・環州・古州・龔州・蒙州・芝州・潯州を統括していた。

  44. 五體ごたいを地に投げ、足を接してらい

    印度における礼法で最も丁重な式。五体投地。いわゆる土下座で自身の額を相手の足先に触れること。仏教の伝来と共に支那にも伝わった。特に桂州のような支那南部、印度文明の影響がより強い東南アジアにほど近い地では、一般的に行われていたであろう礼法。

  45. 百姓ひゃくせい

    族姓を有するすべての人。万民。本書では官人に対比して用いてられているから、官位を持たないすべての民間人の意。

  46. 選擧せんきょ試學しがくの人

    必ずしも支那中央(長安・洛陽)の支配が強く及ばなかった嶺南地方の官吏は当初無試験にて任用されていたが、その害が甚だしかったため、高宗の代から現地の者を登用するため科挙に準じた特別な(程度が低い)試験をおこなうようになった。これを南選という。支那において嶺南はあくまで蛮夷の地であり、従ってそのような特殊な制度が許され、また必要とされた。

  47. 南海郡なんかいぐん

    秦代に設置された郡。武徳四年に広州総管府と改称されたが、栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は南海郡と再び称した。その後(乾元元年〈758〉)また広州の名に復している。現在の広東省広州市一帯。

  48. 廣州こうしゅう

    広州総管府。南海郡に同じ。

  49. 廣府こうふ

    広州総管府。南海郡に同じ。

  50. 端州たんしゅう

    隋代に設置された州の一。一時期、信安郡と称。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は高要郡と改称されたが、後(乾元元年〈758〉)また端州の名に復している。現在の広東省肇慶市一帯。

  51. 榮叡ようえい師、奄然えんねんとして遷化せんげ

    もう十年も艱難なる旅を共にした栄叡が突如として客死したにも関わらず、ここでの記述は実に淡々として簡単なもので、その様子など何も伝えていない。それは本書の元本である思託『大和上伝』がそうであったからこそのことであろう。天宝三年に栄叡が病に臥したことは記されているが、この前後で栄叡が衰弱したとはされていない。場所柄、そして当時の鑑真達が置かれていた状況からあらゆる死因が考えられるが、当時その正確な死因など究明出来るわけもなく、あるいはマラリアやデング熱、コレラなどにより比較的短日で、あるいは脳卒中や心臓発作など突然死した可能性も充分考えられる。いつの世も人の生死などわかるものではない。

  52. 呵梨勒樹かりろくじゅ

    呵梨勒は[S].harītakīの音写で天主将来と漢訳される。インドから南支那にかけて分布するシクンシ科の落葉高木。ここでその実は「大棗(おおなつめ)の如し」とされるように褐色の卵形。薬用に用いられ、また果汁は黄色の染料とされ珍重される。

  53. 胡人こじん

    モンゴルから中央アジア、さらには西アジアなど支那の北方および西方の人々。

  54. 蕐嚴經けごんきょう九會くえ

    『華厳経』が七ヶ所九回(七処九会)に分かって説かれたことを表する語。

  55. 天竺てんじくゆかんとほっ

    この時、長年苦難を共にした栄叡を失った鑑真は、もはや日本渡海を諦めていたことがここから知られる。しかし、もはや故地に戻る気も失っており、そこで印度に自ら向かおうとの志を起こしていた。あるいは開元寺にあった胡人の話を聞き、またここに言われる「華厳経九会」の彫像を見てそう思ったのかも知れない。実際の処、この時鑑真があった地、南海郡(広州)は遠く中東にまで交易していた国際都市であり、一昔前の義浄がそうしたように、国法と経済事情が許すのであれば、海路印度に往復することは充分可能ではあった。

  56. 婆羅門ばらもんの寺

    婆羅門はBrāhmaṇaの音写。印度における氏姓制度で最上位に位置する祭祀者階級で、宗教・学問を司った。当時の支那および日本では印度人をして婆羅門と称すことがあり、ここで婆羅門の寺とは、印度の伝統的宗教としての婆羅門教(印度教)の寺であったのか、ただ仏教の印度僧らの居住した寺であったのか判然としない。後者の場合、彼らは大乗の僧ではなく、支那の大乗寺に住まうことを欲しないいずれか部派の僧であったことになろう。婆羅門教であれ部派の寺であれ、国際的な交易都市であればそれが独立して存在し得るだけの異邦人と経済力は充分にあったことであろう。

  57. 芬馥ふんぷく

    香気の高いさま。匂い立つ様子。

  58. 崑崙こんろん

    往古の支那では黄河の源である支那西方の伝説上の山を指す語であったが、古代は東南アジアの色黒で巻き毛の人々を崑崙人と称した。時には現在の南ベトナムに存したチャム族の国Champa(瞻波・林邑・占城)と同一視されるが、本書では崑崙と瞻波とは別物と考えてられていることから、ここでは漠然と東南アジアを指したものであろう。

  59. 獅子國ししこく

    [S].Siṃhala / [P].Sīhalaの漢訳。現在のスリランカ(セイロン)。僧伽羅、私訶条とも。

  60. 大石國だいしゃくこく

    中東の国いずれかであろうが未詳。

  61. 骨唐國こっとうこく

    中東の国いずれかであろうが未詳。

  62. 白蠻びゃくばん赤蠻しゃくばん

    白蛮・赤蛮。この記述により、当時の南海郡の交易都市にはいずこからかの白人(ギリシャ等?)、およびインドネシアやニューギニアなどメラネシア人があったことが知られる。

  63. 六纛ろくとう

    纛は、幢または橦で「はたぼこ」。その先に羽や旗など飾りを付した儀礼用の鉾。権力や軍事力の象徴。

  64. 紫緋しひ

    貴族・高官が着る衣の色。ここでは貴族・高官の意。
    本来、緋色が紫色より上位の色でより高貴な者のみ用いることが出来たが、時代に依って逆転している。

  65. 韶州しょうしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は始興郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また韶州の名に復している。現在の広東省韶関市一帯。

  66. 法泉寺ほうせんじ

    南朝梁代(六世紀初頭)、印度僧智薬が建立した寺院。元は宝林寺と称した。ここでは慧能の為に武則天が建立したとされているが、荒廃していたのを儀鳳二年〈677〉、慧能のため中興され中興寺と改称されていた。また武則天の後には中宗から法泉寺の官額を得ている。その後も度々火災などで荒廃するもその都度復興され、南華寺と改称して現存。往時の建築物は全く残っていないが、慧能の遺骸が保存されている。

  67. 慧能えのう禪師

    七世紀から八世紀初頭の唐代、禅宗の第六祖とされる僧。新州の人。第五祖弘忍について禅を学び、同門の神秀が漸悟を主張する北宗禅とされ、慧能は頓悟を主張する南宗禅とされる。現在存在する禅宗はすべて慧能の系統。

  68. 普照ふしょうこれより大和尚を辭して...

    この時、普照は何故、鑑真のもとを去ったのか。この時両者共に日本に向かうことをすでに諦めており、実際鑑真は印度に向かおうとしていた。しかし普照は印度へ道を共にするまでの志は無かった。そこで普照は、自ら課せられた使命を改めて果たすためか、あるいはもはや頓挫して不可能であることを故国に報告するために、阿育王山寺のある明州に向かったのであろう。
    鑑真の日本渡海は、臥薪嘗胆してその好機を始終窺い続けた果てのことではなく、非常なる紆余曲折の結果であった。

  69. 貞昌縣ていしょうけん

    湞昌県。韶州が管轄していた六県の一。現在の広東省韶関市一帯。

  70. 大庾嶺たいゆれい

    支那南東部を走る南嶺山脈東端の山。

  71. 處州しょしゅう

    隋代に設置された州の一。開皇十二年〈592〉以来、栄叡・普照が唐にあった時も括州と改称されていたが、大暦十四年〈779〉に處州の名に復している。現在の浙江省麗水市一帯。

  72. 僕射ぼくや

    古代支那の官名。宰相(執政大臣)。左・右大臣。ただし、鍾紹京が僕射に任じられていたとする記録はないため、この記述は思託あるいは淡海三船による誤認。

  73. 鍾紹京しょう しょうけい

    能筆家としても非常に名高い唐代の政治家。処州の人。歴代皇帝に仕えた。玄宗皇帝の時、太子詹事(たいしせんじ)まで昇進していたのが讒言により果州刺史に左遷され、後にまたさらに温州別駕に降格された。鑑真が処州に到来した当時、不遇な境涯にあった鍾紹京は都から追いやられ、生まれ故郷に戻っていたのであろう。開元十五年にはまた長安に戻り、玄宗に懇願して許され、晩年には少詹事にまでその地位を回復した(『旧唐書』巻九十七)。

  74. 左隣 

    左降(さこう)の誤植。左降とは左遷に同じ。

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