眞人元開撰
大和上、諱は鑑眞、揚州江陽縣の人なり。族姓は淳干、齊の辯士、髠が後なり。其の父、先に揚州の大雲寺智滿禪師に就て戒を受け禪門を學す。大和尚、年十四、父に隨て寺に入り、佛像を見上て心を感動す。因て父に請て出家を求む。父、其の志を奇なりとして許す。是の時、大周則天、長安元年、詔り有て天下の諸州に於て僧を度す。𠊳ち智滿禪師に就て出家して沙彌と爲り、大雲寺に配住す。後改て龍興寺とす。唐の中宗、孝和皇帝神龍元年、道岸律師に從て菩薩戒を受く。景龍元年、錫を東都に杖て、因て長安に入る。其の二年三月廿八日、西京の實際寺に於て登壇して具足戒を受く。荊州南泉寺の弘景律師を和尚と爲す。二京に巡遊して三藏を究學す。後ち淮南に歸て戒律を教授す。江淮の閒、獨り化主爲り。是に於て佛事を興建して、群生を濟化す。其の事、繁多にして具に載すべからず。
日本天平五年、歳癸酉に次る。沙門榮叡・普照等、遣唐大使丹墀眞人廣成に隨て唐國に至て留學す。是の年、唐の開元廿一年なり。唐國諸寺の三藏・大德、皆な戒律を以て入道の正門と爲す。若し戒を持たざる者の有れば僧中に齒ず。是に於て方に本國傳戒の人無ことを知る。仍て東都大福光寺の沙門、道璿律師を請して、副使中臣の朝臣名代が舶に附して、先つ本國に向ひ去て、傳戒の者と爲んと擬す。榮叡・普照、唐國に留學して、巳に十載を經、使を待たずと雖とも、早く歸んと欲す。是に於て、西京安國寺の僧道航・澄觀、東都の僧德淸、高麗僧如海を請し、又、宰相李林甫が兄、林宗が書を請ひ得て、揚州の倉曹、李湊に與て大舟を造り、粮を備て送遣せしむ。又、日本國同學の僧、玄朗・玄法の二人と倶に下て揚州に至る。是の歳、唐の天寚元載冬十月 日本天平十四年歳次壬午也。
時に大和尚、揚州大明寺に在して衆の爲めに律を講ず。榮叡・普照、大明寺に至て、大和尚の足下を頂禮して、具さに本意を述て曰く、佛法東流して日本國に至る。其の法有りと雖とも傳法の人無し。日本國に昔し聖德太子 と云人有り。曰く二百年の後、聖教日本に興んと。今、此の運に鍾る。願くは大和尚、東遊して化を興玉へ。大和尚答て曰く、昔し聞く、南岳の思禪師遷化の後、生を倭國の王子に託して佛法を興隆し、衆生を濟度すと。又聞く、日本國の長屋王、佛法を崇敬して千の袈裟を造て、此の國の大德・衆僧に棄施す。其の袈裟の緣の上に四句を繍著して曰く、山川異域、風月同天。諸の佛子に寄せて共に來緣を結すと。此を以て思量するに、誠に是れ佛法興隆有緣の國なり。今我か同法の衆中、誰か此の遠請に應して、日本國に向て法を傳る者の有んや。時に衆、默然として一りも對ふる者の無し。良久して僧、祥彥と云もの有り。進て曰く、彼の國、太た遠して生命存し難し。滄海淼漫として、百に一りも至ること無し。人身得難く、中國生し難し。進修、未た備はらず。道果、未た剋せず。是の故に衆僧、緘默して對こと無きのみ。大和尚の曰く、是れ法事の爲なり。何そ身命を惜ん。諸人去らずんは、我れ卽ち去んのみ。祥彥の曰く、大和尚若し去らば、彥も亦隨て去ん。爰に僧 道興 、 道航 、 神崇 、 忍靈 、 明烈 、 道默 、 道因 、 法藏 、 法載 、 曇靜 、 道翼 、 幽巖 、 如海 、 澄觀 、 德淸 、 思託 等の廿一人有り。心を同して大和尚に隨ひ、去んことを願ふ。
真人元開撰
大和上の諱は鑑真、揚州江陽県の人である。族姓は淳干、斉の弁士、髠の後裔である。その父は、以前から揚州の大雲寺智満禅師に就いて戒を受け、禅門を学んでいた。大和尚が十四歳の時、父に連れられて寺に参り、仏像を見たてまつって心に感動した。そこで父に請いて出家することを求めた。父はその志が奇特であるとして許した。この時、大周則天〈武則天〉の長安元年〈701〉、詔りがあって天下の諸州において(脱俗の志ある者を)僧として出家させていた。そこで智満禅師に就いて出家し、沙弥となって大雲寺に配住された。(大雲寺は)後に改め龍興寺となる。唐の中宗、孝和皇帝神龍元年〈705〉、道岸律師に従って菩薩戒を受けた。景龍元年〈707〉、錫を東都〈洛陽〉に杖て後、長安に入った。その二年〈708〉三月二十八日、西京〈長安〉の実際寺において登壇して具足戒を受けた。荊州南泉寺の弘景律師が和尚であった。(その後は)二京〈長安と洛陽〉を巡遊して三蔵を究学した。後、淮南〈淮河の南〉に帰って戒律を教授している。江淮〈長江と淮河〉の間において、独り化主であった。ここにおいて仏事を興建し、群生を済化した。その事については繁多となるため、具に記すことは出来ない。
日本天平五年〈733〉、その歳は癸酉にあたる。沙門栄叡と普照など、遣唐大使丹墀真人広成に随って唐国に至り留学した。この年、唐の開元廿一年〈733〉。唐国諸寺の三蔵や大徳などは皆、戒律を以て入道の正門としている。もし戒を持たない者があれば、僧中〈僧伽の成員〉に歯ることはない。ここにおいて、本国に伝戒の人の無いことを知った。そこで東都大福光寺の沙門、道璿律師に請いて、副使中臣の朝臣名代の舶に附し、先ず本国に向かい去らせて伝戒の者としようと見立てた。(その後、)栄叡と普照は唐国に留学してすでに十年を経たため、(次の)遣唐使を待たずに、早く帰ろうと思っていた。そこで、西京安国寺の僧道航・澄観、東都の僧徳清、高麗僧如海に請い、また宰相李林甫の兄、林宗の書状を請い得て、揚州の倉曹〈官庫を管理する官吏〉であった李湊に与えて大舟を造り、食料を備えて送遣させた。また、日本国の同学の僧、玄朗・玄法の二人と共に、下って揚州に至った。この歳、唐の天宝元載〈742〉冬十月 日本天平十四年歳次壬午 である。
時に大和尚は、揚州大明寺に在って衆の為に律を講じていた。栄叡と普照は大明寺に至り、大和尚の足下を頂礼して、具さにその本意を述べた。
「仏法は(印度・支那から)東流して日本国に至りました。その法はありはしますが伝法の人がありません。日本国には昔、聖徳太子 という人があり、その方は『二百年の後、聖教が日本に興るであろう』と云われておりました。今こそ、その運に鍾ります。願くは大和尚、東遊して教化をお与えください」
これに大和尚は答えて言った。
「昔聞いたことがある。南岳の慧思禅師が遷化の後、生を倭国の王子に託して仏法を興隆し、衆生を済度されたと。またこうも聞いた。日本国の長屋王が、仏法を崇敬して千の袈裟を造り、この国の大徳や衆僧に棄施したと。その袈裟の縁の上には、『山川異域、風月同天、諸の仏子に寄せて共に来縁を結す』との四句が縫い付けられていた。これらのことを以て思量してみれば、誠に仏法興隆するに有縁の国である。今、我が同法の衆中に、誰かこの遠請に応えて日本国に向って法を伝える者はないか」
その時、衆は默然として一人として対える者が無かった。やや久くしてから僧、祥彦と云う者があり、進みでて言った、
「彼の国は太だ遠く、生命の危険があります。滄海は淼漫として、百に一つも辿り着けはしません。人身は得難く、中国〈文明国〉には生じ難いものです。(我々は)修行途上であって、道果もいまだ証しておりません。そのようなことから衆僧は押し黙って対ることが無いのです」
すると大和尚は、
「これは法事の為である。どうして身命を惜しむことがあろうか。諸人が行かないならば、私が行くまでのことである」
と言われた。そこで祥彦は云う、
「大和尚がもし行かれるならば、彦もまた従って行きましょう」
ついに僧
道興
、
道航
、
神崇
、
忍霊
、
明烈
、
道默
、
道因
、
法蔵
、
法載
、
曇静
、
道翼
、
幽巌
、
如海
、
澄観
、
徳清
、
思託
等の二十一人となった。心を同じくして大和尚に随い、(日本へ)行くことを願った。