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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』

原文

天寚十二載歳次癸巳十月十五日壬午日本國使大使特進藤原朝臣淸河副使銀靑光祿大夫光祿卿大伴宿禰胡麻呂福使銀靑光祿大夫秘書監吉備朝臣眞備衞尉鄕安倍朝臣朝衡等來至延光寺白大和尚云弟子等早知大和尚五回渡海向日本國將欲傳教故今親奉顔色頂禮歡喜弟子等先錄大和尚尊號并持律弟子五僧巳奏聞主上向日本傳戒主上要令將道士去日本君王先不崇道士法𠊳奏留春桃原等四人令住學道士法爲此大和尚名亦奏退願大和尚自作方𠊳弟子等自在載國信物船四舶行装具足去亦無難時大和尚許諾巳竟時揚州道俗皆云大和尚欲向日本國由是龍興寺防護甚固無由進發時有仁幹禪師從務州來密知大和尚欲出備具船舫於江頭相待大和尚

於天寚十二載十月廿九日戌時從龍興寺出至江頭乗船下時有廿四沙彌悲泣走來白大和尚言大和尚今向海東重觀無由我今者最後請預結緣乃於江邊爲廿四沙彌授戒訖乗船下至蘇州黄洫浦相隨弟子揚州白塔寺僧法進泉州超功寺僧曇靜臺州開元寺僧思託揚州興雲寺僧義靜衢州靈耀寺僧法載竇州開元寺僧法成等一十四人藤州通善寺尼智首等三人揚州優婆塞潘仙童胡國人寚最如寚崑崙國人軍法力膽波國人善聽都廿四人所將如來肉舎利三千粒功德繍普集變一鋪阿彌陀如來像一鋪彫白栴檀千手像一軀繍千手像一鋪救世觀世音像一鋪藥師彌陀彌勒菩薩瑞像各一軀同障子金字大方佛廣蕐嚴經八十巻大佛名經十六巻金字大品經一部金字大集經一部南本涅槃經一部四十巻四分律一部六十巻法勵師四分疏五本各十巻光統律師四分疏百廿紙鏡中記二本智首師菩薩戒疏五巻靈渓釋子菩薩戒疏二巻天台止觀法門玄義文句各十巻四教儀十二巻行法蕐懺法一巻小止觀一巻六妙門一巻明了論一巻定賔律師飾宗義記九巻補釋餝宗記一巻戒疏二本各一巻觀音寺亮律師義記二本十巻南山宣律師含注戒本一巻及疏行事鈔五本羯磨疏等二本懷素律師戒本疏四巻大覺律師批記十四巻音訓二本比丘尼傳二本四巻玄奘法師西域記一本十二巻終南山宣律師關中創開戒壇圖經一巻合四十八部及玉環水精手幡四口○○金珠○○○ ○○○○○菩提子三斗靑蓮蕐廿莖玳瑁疊子八面天竺革履二緉王右軍眞蹟行書一帖王獻之眞蹟行書三帖天竺朱和等雜體書五十帖○○○○○○○○○○○水精手幡巳下皆進内裏又阿育王塔様金銅塔一區

廿三日庚寅大使處分大和尚巳下分乗副使巳下舟畢後大使巳下共議曰方今廣陵郡又覺知大和尚向日本國將欲搜舟若被搜得爲使有妨又風被漂還著唐界不免罪惡由是衆僧總下舟留

十一月十日丁未夜大伴副使竊招大和尚及衆僧納巳舟總不令知十三日普照師從越餘姚郡來乗吉備副使舟十五日壬子四舟同發有一雉飛第一舟前仍下矴留十六日發廿一日戊午第一第二兩舟同到阿兒奈波嶋在多禰嶋西南第三舟昨夜巳泊同處十二月六日南風起第一舟著石不動第二舟發向多禰去七日至益救嶋十八日自益救發十九日風雨大發不知四方午時浪上見山頂廿日乙酉午時第二舟著薩磨國阿多郡秋妻 屋浦廿六日辛卯延慶師引大和尚入太宰府天平勝寚六年甲午正月十三日丁未副使從四位上大伴宿禰胡麻呂奏大和尚到築志太宰府二月一日到難波唐僧崇道等迎慰供養三日至河内國大納言正二位藤原朝臣仲麻呂遣使迎慰復有道璿律師遺弟子僧善談等迎勞復有高行僧志忠賢璟靈福曉貴等三十餘人迎來禮謁四日入京勑遣正四位下安宿王於羅城門外迎慰拜勞引入東大寺安 置五日唐道璿律師婆羅門菩提僧正來慰問宰相右大臣大納言巳下官人百餘人來禮拜問訊後勑使正四位下吉備朝臣眞備來口詔曰大德和尚遠渉滄波投此國誠副朕意喜慰無喩朕造此東大寺經十餘年欲立戒壇傳受戒律自有此心日夜不忘今諸大德遠來傳戒冥契朕心自今以後受戒傳律一任大和尚又勑僧都良辨令錄諸臨壇大德名進 禁内不經於日勑授傳燈大法師位

訓読

天寚十二載、ほし癸巳きしに次る。十月十五日壬午じんご、日本國の使、大使特進藤原朝臣ふじわらのあそん淸河きよかわ、副使銀靑ぎんせい光禄こうろく大夫たいふ光禄卿こうろくきょう大伴宿禰おおとものすくね胡麻呂こまろ、副使銀靑光禄大夫秘書監ひしょかん吉備朝臣きびのあそん眞備まきび衞尉えいい安倍朝臣あべのあそん朝衡ちょうこう等、延光寺えんこうじに來至して大和尚に白して云く、弟子等、早く大和尚の五び海を渡て日本國に向ひ、將におしへを傳んと欲するを知る。故に今したし顔色がんしきを奉じて頂禮、歡喜す。弟子等、先づ大和尚の尊號、あはせて持律じりつの弟子五僧ごそうを錄して巳に主上しゅじょう奏聞そうもんす、日本に向て戒を傳へんと。主上、道士どうしひきひて去らしめんとよう。日本の君王、先きに道士の法をあがめず。𠊳すなはち奏して春桃原しゅん とうげん等の四人、住て道士の法を學ばしむ。此が爲に大和尚の名も亦奏す。退まかりて願くは大和尚、みづから方𠊳ほうべんを作せ。弟子等、自ら國の信物を載る船四舶在て、行装具足す。去も亦、かたきこと無し。時に大和尚、許諾きょだく巳に竟れり。時に揚州の道俗、皆な云ふ、大和尚、日本國に向んと欲すと。是に由て龍興寺、防護甚だ固して進發するに由し無し。時に仁幹にんかん禪師有り。務州むしゅうより來て密に大和尚の出んと欲を知て、船舫せんぼうを江頭に備具して大和尚を相待つ。

天寚十二載十月廿九にじゅうく戌時じゅつじに於て龍興寺より出ず。江頭に至り、船に乗て下る時に廿四にじゅうし沙彌しゃみ有り。悲泣して走り來て大和尚にもうして言く、大和尚、今海東に向ひ玉はば重て觀るにし無し。我れ今は最後に結緣けちえんに預んことを請ふ。乃ち江邊に於て廿四にじゅうし沙彌しゃみの爲めに戒を授けをはて船に乗て下て、蘇州そしゅう黄洫浦こうこくほに至る。相隨ふ弟子、揚州白塔寺の僧法進ほうしん、泉州超功寺の僧曇靜どんじょう、台州開元寺の僧思託したく、揚州興雲寺の僧義靜ぎじょう衢州くしゅう靈耀寺の僧法載ほうさい竇州とうしゅう開元寺の僧法成ほうじょう等一十四人。藤州通善寺つうぜんじの尼智首ちしゅ等の三人。揚州優婆塞うばそく潘仙童んせんとう胡國ここくの人寚最ほうさい如寚にょほう崑崙こんろん國の人軍法力ぐんほうりき膽波たんぱ國の人善聽ぜんちょうすべて廿四人。つ所の如來にょらい肉舎利にくしゃり三千粒、功德繍普集の変一鋪、阿彌陀如來像一鋪、彫白栴檀千手の像一軀、繍千手の像一鋪、救世觀世音の像一鋪、藥師・彌陀・彌勒菩薩の瑞像各々一軀、同き障子。金字の大方廣佛蕐嚴經八十巻、大佛名經十六巻、金字の大品經一部、金字の大集經一部、南本涅槃經一部四十巻、四分律しぶんりつ一部六十巻、法勵ほうれい四分しぶんしょ五本各々十巻、光統こうとう律師の四分の疏百廿紙、鏡中記二本、智首ちしゅ菩薩戒ぼさつかいしょ五巻、靈渓りょうけい釋子しゃくし菩薩戒ぼさつかいしょ二巻、天台てんだい止觀しかん法門ほうもん玄義げんぎ文句もんぐ各々十巻・四教儀しきょうぎ十二巻・行法蕐懺法ぎょうほっけせんぽう一巻・小止觀しょうしかん一巻・六妙門ろくみょうもん一巻、明了論みょうりょうろん一巻、定賔じょうひん律師飾宗義記しきしゅうぎき九巻、補釋餝宗記ほしゃくしきしゅうき一巻、戒疏かいしょ二本各々一巻、觀音寺りょう律師義記ぎき二本十巻、南山なんざんせん律師含注戒本がんちゅうかいほん一巻及びしょ行事鈔ぎょうじしょう五本、羯磨疏こんましょ等二本、懷素かいそ律師戒本疏かいほんしょ四巻、大覺だいかく律師批記ひき十四巻、音訓おんくん二本、比丘尼傳びくにでん二本四巻、玄奘げんじょう法師西域記さいいきき一本十二巻、終南山宣律師の關中創開戒壇圖經かんちゅうそうかいかいだんずきょう一巻、合四十八部。及び玉環ぎょくかん水精すいしょう手幡しゅばん四口、○○金珠○○○○○○○○菩提子三斗、靑蓮蕐しょうれんげ廿莖、玳瑁たいまい疊子じょうし八面、天竺の革履かくり二緉、王右軍おうゆうぐんが眞蹟行書一帖、王獻之おうけんしが眞蹟行書三帖、天竺てんじく朱和しゅわ等の雜體書五十帖、○○○○○○○○○○○水精手幡巳下じげ、皆な内裏にたてまつる。又、阿育王の塔様の金銅塔一區。

廿三日庚寅こういん、大使、大和尚巳下を處分して副使巳下の舟に分ち乗せしめ、畢て後ち大使巳下じげ共に議して曰く、まさに今、廣陵郡こうりょうぐん、又大和尚、日本國に向ことを覺知せば、將に舟をさぐらんと欲す。若しさぐり得られば、使、爲に妨げ有り。又、風に漂はられて還て唐界に著かば、罪悪を免かれず。是に由て僧、總て舟を下て留る。

十一月十日丁未の夜、大伴おおとも副使、ひそかに大和尚及び衆僧を招て已が舟に納れて、總て知らしめず。十三日、普照師、越の餘姚郡よようぐんより來て、吉備きび副使が舟に乗る。十五日壬子じんし、四舟同く發す。一のきじ有り。第一の舟の前に飛ぶ。仍ちいかりを下して留り、十六日發す。廿一日戊午ぼご、第一第二の両舟、同く阿兒奈波嶋あこなはじまに到て、多禰たねしまの西南に在り。第三の舟は昨夜巳に同處に泊る。十二月六日、南風起て、第一の舟、石不動に著く。第二の舟、發して多禰に向ひ去る。七日、益救嶋やくしまに至る。十八日、益救より發す。十九日、風雨大に發して四方を知らず。午時ごじ、浪の上に山頂を見る。廿日乙酉いつゆう午時、第二の舟、薩磨さつまの國阿多あたの郡秋妻屋あきめやの浦に著く。廿六日辛卯しんぼう延慶えんきょう、大和尚を引て、太宰府に入る。天平勝寚六年甲午こうご正月十三日丁未ていび、副使從四位上大伴宿禰胡麻呂、大和尚、築志ちくし太宰府だざいふに到ことを奏す。二月一日、難波に到る。唐の僧崇道すどう等、迎ひ慰て供養す。三日、河内の國に至る。大納言正二位藤原朝臣ふじわらのあそん仲麻呂なかまろ、使を遣して迎慰す。復、道璿どうせん律師有り。弟子僧善談ぜんだん等を遣して迎勞す。復、高行こうぎょうの僧志忠しちゅう賢璟けんきょう靈福りょうふく曉貴ぎょうき等の三十餘人有り。迎へ來て禮謁す。四日、京に入る。勑して正四位の下安宿王あすかべおうを遣して羅城門の外に於て迎慰、拜勞し、引て東大寺に入れて安置す。五日、唐の道璿律師、婆羅門ばらもん菩提ぼだい僧正來て慰問す。宰相右大臣大納言巳下の官人百餘人來て禮拜、問訊す。後ち勑使正四位下吉備朝臣眞備來て口づからみことのりして曰く、大德和尚、遠く滄波をわたり、此の國にいたる。誠にちんこころかなふ。喜慰きいたとふること無し。ちん、此の東大寺を造て十餘年を經。戒壇を立て戒律を傳受せんと欲す。此の心有るにより日夜忘れず。今、諸の大德、遠く來て戒を傳ふることはるかちんが心にかなへり。今まより以後、受戒傳律、ひとへに大和尚に任すと。又、僧都そうず良辨ろうべんに勑して、諸の臨壇の大德の名を錄して、禁内きんだいに進めしむ。日を經ずして、勑して傳燈でんとう大法師だいほうしを授く。

脚註

  1. 藤原朝臣ふじわらのあそん淸河きよかわ

    藤原清河。奈良時代の公家。藤原北家房前の第四子。天平勝宝二年〈750〉、第十一次遣唐大使に任命され、同四年〈752〉に入唐して玄宗皇帝に拝謁した。帰船が難破して現在の北ベトナムにまで漂流し、命からがら唐に戻り、官位を得て唐に仕えた。後、安禄山の乱など騒乱が生じたことによりついに帰国は叶わず、唐の高官として没した。生没年不明。
    朝臣(あそん・あそみ)は、天武天皇により布かれた八種の姓(かばね)における真人(まひと)に継ぐ第二位。真人は元皇族で臣籍降下した者にのみ与えられた姓。

  2. 銀靑ぎんせい光禄こうろく大夫たいふ

    宮中の顧問の唐名。従三位の別称。入唐時、大伴胡麻呂(古麻呂)は従四位上であったから、ただ宮廷の顧問の意であろう。

  3. 光禄卿こうろくきょう

    宮内卿(くないきょう)の唐名。宮内省長官。正四位下の別称。大伴胡麻呂は入唐時、従四位上であって正四位下となるのは帰国後であるから、ここに記される官位は本書執筆時におけるものであって入唐時のものでない。

  4. 大伴宿禰おおとものすくね胡麻呂こまろ

    大伴古麻呂。奈良時代の公家。天平勝宝二年〈750〉、第十一次遣唐副使に任命され、同四年〈752〉に入唐して玄宗皇帝に拝謁した。翌年正月、朝儀の席で日本の席次が新羅より低かったことから、新羅は長年日本に朝貢する国であると抗議し席次を新羅と交換させ、その上席に就いている(『続日本紀』天平勝宝六年正月三十日条)。帰国後、副使としての功績から正四位に昇進。聖武上皇没後、孝謙天皇代に橘奈良麻呂の乱に関与して捕らえられ、拷問の末に死んだ。
    宿禰(すくね)は、八種の姓における真人・朝臣に次ぐ第三位。

  5. 秘書監ひしょかん

    図書頭(ずしょのかみ)の唐名。

  6. 吉備朝臣きびのあそん眞備まきび

    奈良時代の吉備の豪族、下道圀勝の子。霊亀二年〈716〉、多治比縣守(たじひのあがたもり)を大使とする第八次遣唐使に随伴する留学生(るがくしょう)に任じられ、阿倍仲麻呂・玄昉などと共に翌年入唐。唐にて学ぶこと十八年。唐においてその学才の高さで知られた。第九次遣唐使の帰路に同伴し、玄昉らと共に天平七年〈735〉に帰朝(阿倍仲麻呂は唐に留まったまま)。帰朝後数年の間に、留学生としての貢献とその学徳の高さが評価され、従八位下から従四位下まで異例の速さでの昇進を遂げた。天平十八年、下道氏を改め吉備氏となる。天平勝宝三年〈751〉、すでに決まっていた第十一次遣唐副使として、大伴古麻呂に加えて任命され入唐。帰国後、太宰府の長官、大宰帥(だざいのそち)に任じられ国防を担った。その後、中央政権に復帰して最終的には右大臣正二位にまで昇った。菅原道真と同じく学才ひときわ高く、出自が比較的低いものでありながら驚異の昇進を遂げた稀有の人。

  7. 衞尉えいい

    底本に「衞尉」とあってここではそのままとしたが「衞尉(えいいけい)」の写誤。宮門警護の長官。支那における九卿(九寺)の一。

  8. 安倍朝臣あべのあそん朝衡ちょうこう

    阿倍朝臣仲麻呂。奈良時代の公家。朝衡は仲麻呂の唐名。阿倍仲麻呂は吉備真備と共に第九次遣唐使に随伴した留学生として渡って以降、第十二次遣唐使が来るまでの36年間、唐にて過ごしついにその高官(衛尉少卿)にまで昇進して仕えていた。しかし、ついに帰国の機会を得たと第十二次遣唐大使、藤原清河の第一船に乗じて帰ろうとしたが、沖縄で座礁した後、さらに難破して北ベトナムに漂着。清河と共に命からがら長安に戻り、ついに帰国できずに唐にて没した。

  9. 延光寺えんこうじ

    この時、大使らは鑑真が住まう龍興寺ではなく、延光寺にて鑑真と会見を行っているがそれは何故か。それはその会見の内容であった鑑真の招聘を、龍興寺に表立って知らせたくないなど、政治的配慮からのことであったと考えられる。

  10. 持律じりつの弟子五僧ごそう

    ここで持律の弟子とは比丘の意。本来、具足戒の授戒には最低十人の比丘があることを要するが、辺地においては最低五人の比丘で良いと律蔵にて特例とされているのを念頭にした言であったろう。しかしながら、日本が国家として仏教の正統な授戒制度を樹立させるのに、その特例である五人以上十人未満の授戒を以てしようとするのは、極めて不適当である。それは日本が国として「辺地である」ことを自ら認めるようなものであり、国家としての体裁としても外交的にも決してしてはならないことであった。また、仏教の正統という本来の目的からしても、その後の展望を考えた時、五人受戒をその初めとすることは妥当でなかった。仏教の僧宝、僧伽が成立するのは四人以上の比丘があれば良いが、しかし正しくその機能を全うして運営し得る最低人数は十人どころか二十人である。それは受具を全うし得る比丘十人でもまるで足りないのであって、五人の比丘を招聘するので済まして良いものではなかった。
    ここで遣唐使らは公卿・公家であって僧ではなく、そこまでのことは当初考えが及ばなかったのか。いや、鑑真の元に来る前に必ずや普照との交通があって種々に議論し計画してのことであったに違いない。そもそも「弟子五僧」を具体的に名を挙げて録すことが出来たのは、普照以外にありえない。多人数の唐僧を伴っての帰国が危ぶまれる雰囲気、何よりもそれを身にしみて知る普照の経験から五人とし、あえて過小にその人数を申告したものであったと思われる。鑑真等が置かれていた前後の状況から、すべて密かにことを運ばねばならなかったと考えて間違いない。この時、すでに十年以上、五度に渡る失敗がいかなる経緯のものであったかを普照から聞いていた大使達も危機感をある程度は持っていたと思われる。

  11. 主上しゅじょう

    帝。ここでは唐の玄宗皇帝。

  12. 道士どうしひきひて去らしめんとよう

    この時、玄宗(李隆基)は日本に道教を伝えることを求めていた。なんとなれば玄宗は道教の熱烈な信奉者であり、道教を極めて重視し仏教にほとんど関心を持っておらず、むしろ外国僧を帰国させようとしていたからである。そしてそれは、唐の高祖(李淵)や太宗(李世民)が、老子(李耳)をその祖としていたためでもあった。
    『宋高僧伝』巻一 金剛智伝「于時帝留心玄牝。未重空門。所司希旨奏。外國蕃僧遣令歸國(時に帝は心を玄牝に留め、未だ空門を重んぜず。所司、旨を希て奏す。外國蕃僧を遣て國に歸らしめよと)」(T50, p.711c)

  13. 底本に訓点を欠いていることからこのママとした。底本では「留春・桃原等の四人」と読んでいたのであろうが、本来は「留春桃原等四人」で「春桃原等四人を留め」であったろう。

  14. 春桃原しゅん とうげん等の四人

    玄宗は仏教よりむしろ道教を日本に伝えることを求めていた。しかし、日本は道教など求めておらず、これを伝え広める気はさらさら無かった。けれども、そのような帝からの要望を無碍に拒絶することは出来ないため、四人の日本人を長安に残して道教を学ばすこととした。ただし、ここに挙げられる春桃原なる人のその後について他の史料に伝えるものがないことから、それはただ名目上・外交上なされたことであって、日本は以降も全く道教自体に興味など持たなかったことが知られる。
    もっとも、では日本が道教についてまったく無知であったかといえばそうでもなく、平安時代初頭の空海が『聾瞽指帰』および『三教指帰』に、いわば三大宗教として「三教」と言及する程度には認識され、特に老荘は必ず学ばれてはいた。結局、日本で道教が宗教として奉じ定着することは全く無かったが、道教の淵源である老荘思想は極めて多大なる影響を日本に及ぼし、今に至っている。それは特に日本の美意識、文学・芸術の核となったといっても過言でない。

  15. 奏す。退まかりて願くは

    底本は「奏退クハ」とあり、ここでもそれに従っている。しかしながら、これはおそらく「奏して退く。願くは」と読むべきであったろう。すなわち先に鑑真および五僧の招聘願いの奏聞を取り下げたのである。もしここで玄宗皇帝に奏上して許可されていたのであれば、この後に大使一行は堂々と鑑真を龍興寺から連れ出し、帰国船に乗せることも出来たであろうがそう出来なかった。交渉失敗したのである。それは道士を連れ帰るのを条件とした玄宗皇帝の要求を飲むことが出来なかったためであった。大使一行が官寺であり鑑真が居留していた龍興寺でなく延光寺で鑑真と面会していたのも、その背景在ってのことと考えられる。

  16. 仁幹にんかん禪師

    ここでは、ただ鑑真が龍興寺から脱出する手助けをしたとのみ記され、その後の一節にて日本に渡来した僧の中に名が挙げられていない。しかし、仁幹もまた鑑真と共に日本に来訪しており、聖武上皇から褒賞が下賜されていたことが知られる(『東大寺要録』巻四)。ただし、ここで「禅師」と称されているように、当初は伝律の要員とは見なされていなかったようであり、聖武帝から「和上位」が与えられなかった。

  17. 務州むしゅう

    唐代に設置された江南西道に属する州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は寧夷郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)に思州の名に改められている。現在の貴州省北東部および重慶市南東部にまたがる一帯。

  18. 十月廿九にじゅうく

    鑑真が龍興寺を出奔したとする日付、十月廿九日はおそらく誤写で廿は十の誤写であり、実際は十月十九日であったと考えられる。それは大使らと会見した四日後である。すなわち、鑑真らは大使と会見して渡海の決意を再度固めた後、密かながらもきわめて慌ただしく、迅速にその準備に取り掛かっていたことが知られる。以前に渡海を試みた時に揃えていた文物を鑑真等が終始持ち続けていたとは思われない。
    したがって、鑑真らがもたらした文物の多く、特に仏像や荘厳具の類は鑑真が用意したものでなく、別の地にあって大使らと連絡をつけていた普照などによって準備されていたものである可能性がある。ただし、経巻や律学の転籍についてはそれほどかさばるものでないため、鑑真がその多くを選びもたらしたものと考えて良いであろう。

  19. 廿四にじゅうし沙彌しゃみの爲めに戒を授け

    鑑真等は日の暮れた闇に紛れて密かに龍興寺を脱出した筈であるが、二十四人もの沙弥が走り追って来て授戒を乞うたことは、その脱出計画は鑑真の周囲では公然の秘密であったのかもしれない。あるいはただ単に、僧の世話周りをする沙弥であったからこそ鑑真が出奔したことに最も早く気づき得、駆けつけただけであったかもしれないが二十四人という数からするとそれも少々考えにくい。いずれにせよ、ここで授戒するに「壇を立て」などと言わないのは、それが慌ただしくなされたものであって、具足戒では決してなくいずれか菩薩戒の授戒であったことを意味する。

  20. 蘇州そしゅう

    唐代に設置された江南東道に属する州の一。もと呉郡。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)はまた呉郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)ふたたび蘇州の名に復している。現在の江蘇省蘇州市一帯。

  21. 黄洫浦こうこくほ

    黄泗浦(こうしほ)の写誤。黄泗津とも。唐・宋代に長江河道南岸にあった河港。遣唐使と鑑真とが支那を離れた港。今は土砂堆積して、現在の長江岸からは20km、長江河口からは130kmも内陸部にその遺構が位置する。
    2018年に黄泗浦遺跡が発掘され、その場所にあった寺院の遺構が唐招提寺の伽藍構成と非常に似通っているとして注目された。

  22. 衢州くしゅう

    唐代に設置された州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は信安郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また衢州の名に復している。現在の浙江省衢州市一帯。

  23. 竇州とうしゅう

    唐代に設置された嶺南道に属する州の一。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)は懐徳郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また竇州の名に復している。現在の広東省信宜市一帯。

  24. 優婆塞うばそく

    [S/P].upāsakaの音写。仏教の在家男性信者。信士、居士の意。

  25. 胡國ここく

    支那からして未開の地とされた北狄・西戎の国々。支那の北方のモンゴルあるいは西北の中央アジア諸国。胡にはただ異国の意としての用法もあるが、いずれにせよその地・国がどこか特定することは出来ない。

  26. 如寚にょほう

    如宝。生年不明。胡国の人。鑑真に伴い日本に来た際は在家の、おそらくは浄人(比丘が戒律上出来ないことを行う世話人・随行)であった。しかし、日本にて鑑真のもと出家し、東大寺戒壇院にて受具。後に下野薬師寺に下向し居住していたとされるが、鑑真滅後は平城京に戻り、また法進の跡をついで東大寺戒壇院戒和上二世となる。その後、鑑真→法載→義静の跡をついで唐招提寺第四世となって引き続きその整備に尽力した。桓武帝大同二年〈807〉、少僧都に補任。弘仁六年〈815〉没。その弟子として豊安が重要。また空海と親交があったことが知られる。

  27. 膽波たんぱ

    底本に「波(たんぱ)」とあるが「波(せんぱ)」の写誤であろう。[S]Champāの音写。南ベトナムに存在したチャム(Cham)族の国。林邑あるいは占城とも。国名は北インドのガンジス川流域に存在した国、Aṅga(アンガ)の首都Champā(瞻波)に由来。
    東南アジアやインドシナ半島にはインドの影響が色濃くあり、その地名もインドの都市名やサンスクリットに因むものが多数あった。

  28. 如來にょらい肉舎利にくしゃり

    仏舎利。舎利は[S].śarīraの音写で身体の意。ここでは遺骨。舎利はまた、基体・(身体の)構成要素を意味する駄都([S].dhātuの音写)とも言う。仏舎利は解脱してもはや有無の存在を越えた仏陀が唯一残した物であることから、その仏滅直後から聖遺物とされた。しばしばインドの伝説的宝、如意宝珠と同一視される。

  29. 四分律しぶんりつ

    部派のうち上座部系の曇無徳部が伝持した律蔵。曇無徳は[S].Dharmaguptakaあるいは[P].Dhammaguttikaの音写で、その部派の主たる人の名。法蔵、法護あるいは法正と漢訳される。
    その内容を四分して伝えられたため支那にて『四分律』と称された。後秦の仏陀耶舎がその全てを記憶して支那に到来。はじめ支那の人は仏陀耶舎がその全てを記憶しているというのを信じなかったが、その記憶力を試したところその非常なることを知って信用し、訳出された。

  30. 法勵ほうれい

    隋・唐代の律僧(569-635)。法砺(法礪)とも。『四分律』を所依とした律宗の一つ、相部宗の開祖。初め相州の霊裕法師の門下に入って得度し、静洪津師に参じて律(『四分律』)を学んだ。その後、恒州の慧光(光統律師)の門人、洪淵について律学を深め、さらに江南に赴いて『十誦律』を学び、やがて「五律の宗師」と称された。相州(現在の河南省安陽市一帯)鄴城の日光寺を拠点として教線を張ったことに因み、その律宗は相部宗という。
    ここで法砺の『四分律疏』を日本にもたらしているように、鑑真は南山律宗ばかりでなく相部宗も受学していたことが知られ、来日後もその講説をなしその弟子も講説していた。したがって、鑑真を今の感覚で「南山律宗という一宗派」の学僧と限定して見ることは正しくない。また思託も相部宗の典籍を南都大安寺にて講説し、それを受学した弟子らが南都諸大寺にそれを伝え広めていることから、日本には南山律宗と相部宗の学統が伝えられ、それが華厳宗や法相宗にも相伝されていたことが知られる。ただし、相部宗の学統はいつの間にか、明らかな形としては消滅している。

  31. 四分しぶんしょ

    法励『四分律疏』十巻。法励による『四分律』の注釈書であることから『法砺中疏』とも称す。現存しない。

  32. 光統こうとう律師

    南北朝代の僧、慧光の別称。地論宗南道派の祖にして四分律宗の祖とされる人。ただし、南山律宗の伝承では、慧光をして『四分律』主の法護(法正)から開祖道宣に至るまでの九祖の第五祖と位置づけられる。
    鄴(ぎょう)において日本の僧綱における僧正職に相当する僧統の国統に任じられていたことから光統律師と称され、また鄴城の大覚寺に住したことから大覚慧光とも言われた。

  33. 智首ちしゅ

    隋・唐代の律僧(567-635)。初め相州の雲門寺智旻(ちびん)の門下に入って得度し、廿二歳で受具。自らの受戒が正当であるかに不安を覚え、古仏の塔前にてその証を祈ったところ、「降佛摩頂」を蒙って「身心安泰」であったと伝説される(この逸話は中世日本における覚盛・叡尊による自誓受戒にやがて連なる)。
    後に道洪(静洪)津師に参じて律(『四分律』)を学んだ。当時、五部の律蔵が伝わって雑多に学ばれていたため、その同異を明らかにするため『五部区分鈔』二十一卷(現存しない)を著して世に示した。同世代の法励に同じく『四分律疏』を著したが、こちらは倍の廿巻であった。ただし、現在その巻九のみ伝わって他は散逸して無い。道宣の師であり、南山律宗で正系とされる重要な人であるが、唐代の僧としては初めて国葬が行われたほど当時よく知られ崇敬された高徳。

  34. 菩薩戒ぼさつかいしょ

    智首による菩薩戒の疏があったということであろうが伝わっておらず、詳細不明。

  35. 靈渓りょうけい釋子しゃくし

    未詳。靈はあるいは雲の写誤。平安末期の興福寺僧、永超が編纂した『東域伝灯目録』には「菩薩戒疏二卷雲溪天子」とある。霊渓にせよ雲渓にせよ具体的に誰か未詳。

  36. 菩薩戒ぼさつかいしょ

    栄穏『律宗章疏』に「梵網文記二卷靈溪太子菩薩戒疏者是也」(T55, p.1145b)とあることから、その題目は『梵網文記』であって『梵網経』に基づく梵網戒の注釈書であったらしい。しかし現存せず、詳細不明。ただし、ここで鑑真が梵網戒の注釈をもたらしていたことが明らかな点には注目すべき。

  37. 天台てんだい

    隋代の僧、智顗(538-598)。天台大師。鑑真は天台教学にも通じていたようで、その主たる著作の数々を初めた日本にもたらした。
    後代、平安最初期に最澄が智顗の書に触れたのは東大寺戒壇院で受戒した後、同院にて雨安居の三ヶ月間を過ごす中でのことであったと思われる。

  38. 止觀しかん法門ほうもん

    智顗説・章安灌頂筆録『摩訶止観』上下廿巻。

  39. 玄義げんぎ

    智顗説・章安灌頂筆録『妙法蓮華経玄義』上下廿巻。一般に『法華玄義』と通称。

  40. 文句もんぐ

    智顗説・章安灌頂筆録『妙法蓮華経文句』上下廿巻。一般に『法華文句』と通称。

  41. 四教儀しきょうぎ

    智顗『四教義』十二巻。『天台四教義』とも。

  42. 行法蕐懺法ぎょうほっけせんぽう

    智顗『法華三昧懺儀』一巻。

  43. 小止觀しょうしかん

    智顗『修習止観坐禅法要』一巻。「一曰童蒙止観」、また『小止観』とも称した。

  44. 六妙門ろくみょうもん

    智顗『六妙法門』一巻。

  45. 明了論みょうりょうろん

    弗陀多羅多造・真諦訳『律二十二明了論』。正量部の律の注釈とされる典籍。

  46. 定賔じょうひん律師

    定賓。唐代の僧(生没年不明)。相部宗の学僧。遣唐使に従い洛陽に入った栄叡と普照に対し、勅命に依り洛陽の大福先寺にて具足戒を授けた十比丘の一人で、その和尚となった人。栄叡と普照らが日本に招聘した道璿は大福先寺の人で定賓から律を受学している。
    嵩岳寺(崇山)に住して自ら「嵩嶽鎮国道場沙門」と称したことから、定賓をして鎮国道場と言う(鎮国道場とはいわば護国寺であって、国家安泰を祈るものとして国に指定される寺で複数あった)。

  47. 飾宗義記しきしゅうぎき

    定賓『四分律疏飾宗義記』九巻。法励『四分律疏』の複註書で、特に懐素『四分律開宗記』に反駁した書。

  48. 補釋餝宗記ほしゃくしきしゅうき

    霊祐(既出)による定賓『四分律疏飾宗義記』の注釈書。

  49. 戒疏かいしょ

    定賓『四分比丘戒本疏』二巻。

  50. りょう律師

    唐代の僧。大亮律師(生没年不明)。法励から律を受学した満意の弟子で、鑑真が相部宗を受学した人。大亮はその学系を越州の曇一に伝え、曇一はそれを華厳宗の香象大師法蔵や清涼大師澄観および天台宗の妙楽大師湛然に授けた。

  51. 義記ぎき

    大亮による相部宗における律学の著作であろうが現存せず、詳細不明。

  52. 南山なんざんせん律師

    唐代の僧、道宣(596-667)。呉興の人。智首に律学を受け、諸律を学び考究して倦むことが無かった。玄奘が帰朝するとその翻訳事業に参加。長安に西明寺が建立されると、その上座となった。その後、道宣が終南山に居して講筵を開いたことからその四分律宗の一派は南山律宗と云われ、南山大師と称される。その活動は律学に留まらず『続高僧伝』・『広弘明集』等々の僧伝や護法書など幅広く著作活動を展開した。

  53. 含注戒本がんちゅうかいほん

    道宣『四分律比丘含注戒本』上中下巻。

  54. しょ

    道宣『四分律含注戒本疏』八卷。

  55. 行事鈔ぎょうじしょう

    道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』(『行事鈔』)三巻。いわゆる律三大部の一。
    道宣は『四分律』の注釈書を異なる側面からいくつか著しているがその一つ。僧としての儀式・行儀すなわち行事について事細かに、『四分律』だけでなく他の律蔵の説も併せて解説した書。『行事鈔』は鑑真らにより初めて日本にもたらされたのでなく、すでに天武天皇代(678)、おそらく律学を主目的に派遣された日本の入唐留学僧、道光によってもたらされ、その後に道融により研究・講義もされていた。しかし、律が未伝の日本で研究・講義されてもその実は無く、こうして鑑真らにより講述されてこそ意味のあるものであったろう。

  56. 羯磨疏こんましょ

    道宣『四分律刪補随機羯磨疏』。既出(本稿5項30註)。

  57. 懷素かいそ律師

    唐代の僧(624-697)。京兆の人。四分律宗の一派、東塔宗の開祖。印度から帰朝した玄奘に師事して出家受具。その後、法励から律を受学し、さらにその徒弟の道成、および道宣の説を学んだ。しかし、それら所説に満足せず、特に法励の説に欠点のあることを批判して『四分律開宗記』(『開四分律記』・『新章疏』)十巻を著し、四分律宗の他派に対抗して東塔宗を建てた。懐素は律学に留まらず阿毘達磨にも詳しく『倶舍論疏』十五巻などを著している。また、『四分律』を依行するに必須となる戒本や羯磨文などの編纂はほとんど懐素の手による。

  58. 戒本疏かいほんしょ

    現在伝わる『四分律』の戒本『四分律比丘戒本』は、懐素が『四分律』から抜き出し編纂したものでありその序が付されている。そこで懐素はその疏(注釈書)を著していたのであろうが現存しない。

  59. 大覺だいかく律師

    唐代の僧。杭州華厳寺の人。周律師門下。生没年など未詳。

  60. 批記ひき

    大覚『四分律行事鈔批』十四巻。

  61. 音訓おんくん

    越州崇義『鈔音訓』か。『行事鈔』にある語の梵漢を対照した字引きの類であろうが現存せず、判然としない。

  62. 比丘尼傳びくにでん

    宝唱『比丘尼伝』四巻。
    ここで鑑真が『比丘尼伝』をもたらしていたのは注目すべき点。鑑真は三人の尼僧も帯同させていたとされるが、それはおそらく日本に七衆を完備させたいとの意図もあってのことであったろう。もっとも、比丘尼僧伽を成立させるには比丘のように五比丘の例外はないため、最低十人の比丘尼を要するから、最初からそれは無理な話であった。そもそも鑑真自身らも渡航できるかどうかの瀬戸際であったから、比丘尼僧伽を結することまでは手がまわらなかったと考えられる。結局、日本で正しく比丘尼僧伽が結せられたことはなかった。
    ただし、中世戒律復興において覚盛および叡尊が比丘尼僧伽を結成したとされるが、その方法および経緯は突拍子もないものであって、正統とは到底みなし難いものであった。

  63. 玄奘げんじょう法師

    唐代の僧。七世紀前半〈629〉から陸路印度に向かい、およそ十四年の滞在を経て貞観十九年〈645〉に帰還。膨大な仏典を支那にもたらし、自ら翻訳事業に携わって従来の訳語や体裁を一新した。また特に有部の阿毘達磨および法相唯識の典籍の研究を深くし、法相宗祖とされる(実際の開祖はその弟子、基)。東塔宗懐素の出家の師であり、また南山律宗の道宣がその訳経事業に関わるなど律宗ともゆかりが深い。

  64. 西域記さいいきき

    玄奘『大唐西域記』十二巻。
    玄奘『西域記』や法顕『仏国記』など印度の見聞録は律僧達にとって重要で、実際に律が印度においてどのように行われ、僧や寺のあり方はいかなるものかを知る極めて貴重な手がかりであった。鑑真がここで『西域記』をもたらしていたのは、自身が日本渡海を諦めた時、一度は印度行きを志したことにも依るのであろう。
    特に義浄の『南海寄帰内法伝』は、特にそこに焦点を当てた記述に満ちたものであって、今なお当時の印度の僧院生活を知るまたとない史料となっている。ただし、義浄は支那の律宗における理解や実際を厳しく批判しているため、南山律宗から非常に嫌われほとんど顧みられなかった。

  65. 關中創開戒壇圖經かんちゅうそうかいかいだんずきょう

    道宣『關中創立戒壇図経』一巻。比丘戒および比丘尼戒を授受するのに不可欠の戒壇に関し、その始原から名称の由来、規模や様相、儀式の次第など細かに記した書。ただし、道宣は印度に云ったことはなく実際の印度のそれを反映したものではないが、当時はそれこそ印度以来の正統なものと考えられ、東大寺戒壇院など本書に基づいて築かれた。

  66. 玳瑁たいまい疊子じょうし

    玳瑁(たいまい)は体長約1m強の海亀の一種。疊子は皿で、ここでは甲羅の意。半透明で黄褐色の斑模様が美しい。いわゆるべっ甲の材料。

  67. 王右軍おうゆうぐん

    王羲之。東晋(四世紀)の政治家で能筆家。唐代の支那でもっとも評価された書家の一人。その遺作『蘭亭序』・『十七帖』など、今も書家の手本として珍重される。官人として最終的に右軍将軍・会稽内史の位に就いていたことから、王右軍あるいは王会稽と称された。

  68. 王獻之おうけんし

    東晋(四世紀)の政治家で能筆家。王羲之の第七子。父の王羲之と共に、書における「二王」、王羲之が大王であり、王獻之が小王と並び称された。
    鑑真がこの時、王羲之親子の書を日本にもたらして以降、日本においてもその書風が非常にもてはやされ、後に空海の筆を産むこととなる。

  69. 天竺てんじく朱和しゅわ

    未詳。

  70. 廿三日庚寅こういん

    十月二十三日。庚寅と干支が正しいことからすると誤写でなく、この日付は正確なものであったろう。しかし、鑑真等が揚州の龍興寺を出奔したのが記述通り同月廿九日であったとすると日が合わない。したがって、鑑真の龍興寺出奔の日は廿九日でなく、揚州から四日以内に長江を下って蘇州に着くことは充分可能なことからも、十九日の誤写であったと考えられる。

  71. 大使巳下じげ共に議して

    すでに鑑真等を乗船させながら、ここでさらに大使等が共議していたのは、当時の鑑真をとりまく情勢が、想像していたより緊迫していたことによるのであろう。先に延光寺にて会見した際、玄宗皇帝に前もって上奏していたことからも、大使等はそれほどのこととは思っていなかった節がある。しかし、いざ予定通り密かに鑑真らと合流してみたものの、大使等が考えていた以上に鑑真を出国させまいとする淮南の人々の意志が強固にあることを、普照からすでに聞いていた筈のことではあるが、身を以って知ったのであろう。実際、遣唐大使は戒師招聘のみの役を与えられたのでなく、その他多くの責務を課せられた者である。藤原清河が「もしもの事態」を非常に畏れたのも無理はない。この時の共議した結果、鑑真一行は乗船させず、連れ帰らないと結論していたことが知られる。

  72. 廣陵郡こうりょうぐん

    揚州に同じ。栄叡・普照が唐にあった当時(天宝元年〈742〉)、揚州は広陵郡と改称されていたが、後(乾元元年〈758〉)また揚州の名に復している。現在の江蘇省淮安市および揚州市一帯。

  73. 餘姚郡よようぐん

    ここで「余姚郡」とされるが、郡ではなく、越州(会稽郡)に属した県の「余姚県」であろう。現在の浙江省寧波市一帯。

  74. 阿兒奈波嶋あこなはじま

    沖縄本島の古名。「うちなはじま」とも。

  75. 多禰たねしま

    種子島およびその付近の島嶼を併せた古名。

  76. 益救嶋やくしま

    屋久島の古名。

  77. 薩磨さつまの國

    現在の鹿児島県の西半部にあった国(現在の鹿児島東半部は大隅国)。

  78. 阿多あたの郡秋妻屋あきめやの浦

    阿多郡は薩摩国の南部にあった郡。鑑真一行を載せた第二船は、ここに漂着して遂に日本に到来した。

  79. 延慶えんきょう

    奈良時代後期の僧。薩摩国に着いた鑑真ら唐僧一行の通訳として太宰府まで随行し、さらに奈良の都まで帯同して良弁などとの会話でも通訳を勤めた。思託や普照に和上位が贈られた際、延慶もまた和上位を贈られていることから、ほぼ間違いなく、彼は留学僧として長年唐にあった人で、第二船に同乗して帰国したのであろう。和上とは比丘となって十年以上を経、さらに経律に通じた人でなければ成り得ない。
    その後、『続日本紀』天平宝字二年八月二日条に延慶が従五位下にあって、それを僧であることを理由に辞したことに言及する一節がある。藤原仲麻呂の父、藤原武智麻呂の伝記『武智麻呂伝』を著していることから、藤原南家と近い関係にあった人であることが知られる。

  80. 崇道すどう

    ここから当時の日本には、正史に記されない外国僧が幾人かあったことが知られるが、どのような立場でどこにあったかなど未詳。

  81. 藤原朝臣ふじわらのあそん仲麻呂なかまろ

    藤原仲麻呂。奈良時代の公卿。当時、大納言にして紫微令(紫微中台の長官)。天平勝宝九年〈757〉、道祖王(ふなどおう)の立太子が廃されたことを機に勃発した橘奈良麻呂の乱を未然に防いだことにより、恵美押勝(えみのおしかつ)と称して正一位太政大臣となる。しかし、後に孝謙上皇と淳仁天皇とが対立した際、淳仁天皇の側にあった仲麻呂は、天平宝字八年〈764〉に反乱を起こし(藤原清河の乱)、近江で敗死した。

  82. 高行こうぎょうの僧

    ここで本書の著者、淡海三船(真人元開)は「志忠・賢璟・霊福・曉貴等の三十余人」をして「高行の僧」と形容しているのはひどく不自然に感じられる。これは鑑真の渡来後、その一行から改めて受戒すべきとされた旧僧らの中に、すでに自身たちは比丘であって改めて受戒する必要など無いと対立していたことによる、彼らへの配慮であったのであろう。そのような配慮は思託の『大和上伝』にあるものを継いでのものであった。結局、彼らは興福寺において普照によってその根拠を明示しての説得により「旧戒を捨て」改めて鑑真らから受戒したが、その説得には一年ほどの時間を要したようである。その後も、それがここで云われる高行の僧が関係したものかどうかは不明であるが、鑑真が唐招提寺を建立して移ろうとしていたときにもなお、日本の僧界には鑑真ら唐僧に対する不満や敵愾心が渦巻いていたであろうことが知られる。

  83. 賢璟けんきょう

    尾張荒田井氏出身の法相宗僧。宝亀五年〈774〉に律師に補任され、同十年〈779〉に少僧都、延暦三年〈784〉に大僧都となり同十二年〈793〉に没。

  84. 安宿王あすかべおう

    奈良時代の皇族。長屋王と藤原不比等の娘の子。未然に防がれた橘奈良麻呂の乱に関わっていたため、佐渡に流された。後に許され、臣籍降下して高階真人を賜った。

  85. 婆羅門ばらもん菩提ぼだい僧正

    [S].Bodhisena. 音写で菩提僊那という。第九次遣唐使の多治比広成および留学僧理鏡の要請により、道璿および林邑僧仏哲と共に日本に帰化した印度僧。南印度の婆羅門階級出身であったされ、また僧綱の僧正に任じられたことから婆羅門僧正と称された。
    菩提僊那は印度にて支那の五台山が文殊菩薩の霊地であることを聞いて入唐したといい、揚州では崇福寺において鑑真の講律の席に並び受講していた人であって、鑑真とは久しぶりの再会であった。日本では道宣に同じく大安寺に入って住した。特に『華厳経』を信受していたらしく常日頃読誦していたという。東大寺大毘盧遮那仏開眼ではその導師を勤めた。

  86. 僧都そうず

    支那における僧統の制に倣って造られた僧尼を統制するための国家機関、僧綱(そうごう)の一で、支那でいう沙門都に当たる職位(古代後期から現在のような空虚な称号となるが、当時は実務を伴った官職)。僧綱には僧正・僧都・律師の階位があり、当時は行基の為に新設された大僧正・僧正・大僧都・少僧都・律師の別があって、それぞれ一、二名の定員とされた。

  87. 良辨ろうべん

    奈良時代の華厳宗および法相宗の学僧。東大寺開山。鑑真渡来時の職位は少僧都。聖武上皇が崩御した際は、その生前よく仕えた功績をもって大僧都に昇進した。その後、天平宝字四年〈760〉、僧の規律を正すためといい、貴族の位階に倣って僧の位階として「四位十三階」を設けることを淡路廃帝代に進言し、容れられた。しかし、むしろこれによって僧の貴族化が一層進んだ。

  88. 傳燈でんとう大法師だいほうし

    ここで淡海三船は鑑真等が「伝灯大法師」を勅授されたとしているが、これは不正確と思われる。「伝灯大法師位」が設けられたのは良弁の進言により天平宝字四年〈760〉に「四位十三階」が設けられて以降であろう。『東大寺要録』でば鑑真と唐僧五人および日本僧二人が勅により特贈されたのは「和上位」であるとされており、「法師位」が授けられたとはされていない。したがって、淡海三船は後代成立した位階である「伝灯大法師位」と「和上位」とを混同して取り違え、ここに記したものと考えられる。
    また、ここで誤解してならないのは、当時、和上とは単なる称号でも位階でも無かった点である。そもそも和上とは律蔵の(規定を満たした本来の)師僧の意である。それを良弁は勅命により半月をかけ事細かに調べたようであるが、それは律蔵の規定通り、律を他に享受し得る立場、人の師僧(和上)たりえる条件を満たした者にのみ与えられていたものであったからこそ、来たった唐僧全てに与えられず、また栄叡や延慶など唐で比丘となって久しい日本僧にも与えられたものであったと考えるべきである。

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