要約巳に畢て、始て東河に抵り、船を造る。揚州の倉曹李湊、林宗が書に依て、亦同く檢校して船を造り粮を備ふ。大和尚・榮叡・普照等、同く旣濟寺に在して乾粮を備辨す。但し云ふ、供具を將て天台山國淸寺に徃て、衆僧を供養せんと。是の歳、天寚二載癸未、当時海賊大いに動て繁多なり。台州・温州・明州、海邊并其の害を被り、海路塞かり、公私行を斷つ。僧道航の云く、今ま他國に向ふは戒法を傳んか爲なり。人皆な高德、行業粛淸なるへし。如海等の如き少學、停却すべし。時に如海、大に瞋て、裹頭して州に入り、採訪の廳に上て告て白く、大使知や否や、僧道航と云もの有り。船を造て海に入り、海賊と連る。都て若干人有。乾粮を辨じて、旣濟・開元・大明の寺に在り。復た五百の海賊有、城に入り來らん。時に准南の採訪使、班景倩、聞て大いに駭き、𠊳ち人をして如海を獄に將いて推問せしむ。又、官人を諸寺に差して、賊徒を収め捉ふ。遂に旣濟寺に於て乾粮を捜り得、大明寺に日本の僧普照を捉り得、開元寺にして玄朗・玄法を得たり。其の榮叡は走て池水の中に入て仰臥す。良久ならずして水の動を見て、水に入て榮叡を得。並に縣に送て推問す。僧道航は俗人の家に隱る。亦捉へ得られて、並に獄中に禁せらる。問て曰く、徒、幾はく人有てか海賊と連る。道航答て曰く、賊と連ならず。航は是れ宰相李林甫が兄、林宗が家の僧なり。今、功德を送て、天台の國淸寺に徃かしむ。陸行して嶺を過れは辛苦なり。船を造て海路より去るのみ。今、林宗か書二通有。倉曹の所に在り。採訪使、倉曹に問ふ。對て曰く、實なり。仍て其の書を索めて看て乃ち云く、阿師、事無し。今、海賊大ひ動く。須く海を過て去るべくはあらず。其の造る所の船は官に沒し、其の雜物は僧に還す。其の誣告の僧、如海は之か與めに坐れて俗に還し、杖を決すること六十、本貫に逓走す。其の日本の僧四人は揚州に上奏し、京に至る。鴻臚、檢案して本の配寺に向ふ。寺家報して曰く、其の僧、駕に隨て去て㪅に見へず。鴻臚に來て寺に依て報して奏す。𠊳ち勑して揚州に下る。曰く、其の僧、榮叡等は旣に是れ番僧。朝に入て學問す。年每に絹廿五匹を賜ふ。四季に時服を給ひ、兼て隨駕に預る。是れ僞濫に非。今、國に還んと欲す。意に隨て放ち還し、宜く揚州の例に依て送遣すへしと。時に榮叡・普照等、四月禁せられて、八月方に始て出ことを得たり。其の玄朗・玄法、此れより國に還て別れ去る。時に榮叡・普照同く議して曰く、我等本願、戒法を傳んが爲に諸の高德を請して、將に本國に還んとす。今、揚州、勑を奉て唯我四人を送る。諸師を請うことを得ずして、空く還らば益無し。豈に如んや、官の送を受けざらんには。舊に依て僧を請して、將に本國に還て戒法を流傳せんとす。是に於て官所を巡避して、倶に大和尚の所に至て計量す。大和尚の曰く、愁ことを須ひざれ。宜く方𠊳を求て必ず本願を遂ぐべし。仍て八十貫の錢を出して、嶺南道の採訪使劉臣隣か軍舟一隻を買ひ得、舟人十八口を雇ひ得て、海粮を備辨し、苓脂・紅綠米一百石、甜豉三千石、牛蘓一百八十斤、麵五十石、乾胡餅二車、乾蒸餅一車、乾薄餅一萬、番拾頭一半車、漆合子盤三十具、兼將畫五頂の像一鋪、寚像一鋪、金泥像一軀、六扇佛菩薩障子一具、金字蕐嚴經一部、金字大品經一部、金字大集經一部、金字大涅槃經一部、雜經論章疏都て一百部、月令障子一具、行天の障子一具、道場幢一百二十口、珠幢十四條、玉環の手幢八口、螺鈿の經函五十口、銅瓶廿口、𦻏氈廿四領、袈裟一千領、褊衫一千對、坐具一千床、大銅蓋四口、竹葉蓋四十口、大銅盤廿面中、銅盤廿面、小銅盤四十四面、一尺面の銅疊八十面、少銅疊二百面、白藤簟十六領、五色の藤簟六領、麝香廿臍、 沉香 ・ 甲香 ・ 甘松香 ・ 龍腦香 ・ 膽唐香 ・ 安息香 ・ 棧香 ・ 零陵香 ・ 靑木香 ・ 薫陸香 、都て六百餘斤有り。又、 畢鉢・呵梨勒・胡椒・阿魏・石蜜・蔗糖等、五百餘斤。蜂蜜十斛、甘蔗八十束、靑錢十千貫、正爐錢十千貫、紫邊錢五千貫、羅襆頭二千枚、麻靴三十量、廗胃三十箇有り。僧祥彥・道興・德淸・榮叡・普照・思託等一十七人、玉作人・畫師・雕檀・刻鏤・鋳・寫・繍師・修文・鐫碑等の工手都て百八十五人、同く一隻舟に駕す。
天寚二載十二月、帆を擧て東に下て狼溝浦に到り、惡風漂浪し、波船を撃て破らるる。人は總て岸に上る。潮來て水、人の腰に至る。大和尚は烏蓲草の上に在ましき。餘人は並に水中に在り。冬寒、風急にして甚太た辛苦す。㪅に舟を修理し、下て大坂山に至り、舟を泊めて卽ち至ことを得ず。嶼山に下て住まること一月。好風を待て發して桒名山に到らんと欲す。風急に浪高して、舟、岸に著こと無く、計ことの量るべき無し。纔に嶮岸を離て、還て石上に落つ。舟破れ人並に舟、岸に上る。水・米、倶に盡て飢渴すること三日、風停り浪靜にして、泉郎、水・米を將て來て相ひ救ふ。又、五日を經て、海に還る官有り。來て消息を問ひ、明州の太守、處分を申請して、鄮縣山の阿育王寺に安置す。寺に阿育王の塔有り。明州は、舊と是れ越州の一縣なり。開元廿一年、越州鄮縣の令、王叔達、奏して越州の一縣を割て特に明州を置き、㪅に三縣を開て、一州四縣と成さしむ。今、餘姚郡と稱す。其の育王の塔は是れ佛滅度の後一百年の時に鐵輪王有り。阿育王と名く。鬼神を役使して、八萬四千の塔を建つるの一なり。其の塔、金に非、玉に非、石に非、土に非、銅に非、鐵に非、紫烏色にして、刻鏤、常に非す。一面は薩埵王子の變、一面は捨眼の變、一面は出腦の變、一面は救鴿の變、上に露盤無し。中に縣鐘有り。地中に埋沒して、能く知る者の無し。唯方基のみ有り。高さ數仭、草棘蒙茸して、尋窺すること有こと罕れなり。晉の秦始元年に至て、并州西河離右の人、劉薩訶と云者、𣦸して閻羅王界に到る。閻羅王、教へて掘り出さしむ。晉・宋・濟・梁より唐代に至て、時時塔を造り、堂を造る。其の事、甚だ多し。其の鄮山、東南の嶺の石上に佛の右跡有り。東北の小巖の上に復佛の左跡有り。並に長け一尺四寸、前の濶さ五寸八分、後ろの濶さ四寸半、深こと三寸、千輻輪の相あり。其の印文、分明に顯示す。世に傳て曰ふ、迦葉佛の跡なりと。東方二里、路の側に聖井有り。深さ三尺計り。淸凉甘美にして、極雨にも溢れず、極旱にも涸れず。中に一の鱗魚有り。長け一尺九寸なり。世に傳て護塔菩薩と云ふ。人有り、香蕐を以て供養す。福有る者のは卽ち見、福無き者のは年を經て求れとも見へず。人有り、井の上りに就て屋を造り、七寚を以て材瓦と作すに至る。卽ち井中より水漲れて流却す。
(日本へ渡る)要約〈約束〉をなし終え、始めて東河〈山陽瀆.淮河と長江を結ぶ大運河〉に至り船を造った。揚州の倉曹李湊は、林宗の書状に依って、また同じく検校〈調査〉して船を造り、食料を準備した。大和尚・栄叡・普照等もまた、同じく既済寺に居して(渡海の為の)乾粮を用意した。そこでしかし、供具をもって天台山国清寺に行って衆僧を供養しよう、という話になった。この歳、天宝二載癸未〈743〉、当時は海賊が大いに活動して非常に多くあった。台州・温州・明州の海岸地帯はいずれもその被害を被っており、海路は塞がれ官も民も交通が断たれていた。(そんな時、)僧道航が、
「今、他国に向かうのは戒法を伝える為であります。その人は皆、高徳で行業粛清であるべきです。如海などのような少学〈学も行も不十分な者〉は排除すべきです」
と言った。すると如海は大いに瞋り、裹頭〈覆面.素性を知られないようにすること〉して州に入り、採訪の庁〈役所〉に上がって告発した。
「大使、ご存知でしょうか。僧道航という者が船を造って海に入り、海賊と結託しています。(その徒党は)すべて若干人あって乾粮を準備し、既済寺・開元寺・大明寺に在ります。また五百の海賊があって、城に(攻め)入って来るでしょう」
そこで准南の採訪使
、班景倩はこれを聞いて大いに駭き、ただちに人に命じて如海を獄に連行して尋問させた。また、官人を諸寺に遣わして、(如海のいう)賊徒を収監した。果たして既済寺において乾粮を捜り得、大明寺にて日本の僧普照を捕縛し、開元寺では玄朗・玄法を捕らえた。その栄叡は走って池の水の中に入って仰臥し(隠れ)た。(しかし、)やや久しくもせぬうちに水が動くのを見て、(官人は)水に入って栄叡を捕らえた。いずれも県(の役所)に送って尋問した。僧道航は俗人の家に隠れていたが、また捉えられて、同じく獄中に監禁された。(採訪使が)尋問して云う。
「お前たちには幾人あって海賊と結託しているのか」
道航はこれに答え、
「賊と結託などしていません。(私)道航は宰相李林甫の兄である林宗の家人の僧です。今、功徳を送るため天台の国清寺に行こうとしていました。陸行して嶺を越えるのは辛苦です。そこで船を造って海路にて行こうとしていただけです。今、林宗の書状二通があります。それは倉曹の所にあります」
と言った。そこで採訪使は倉曹に問い合わせたところ、その答えは事実とのことであった。そこでその書状を実際に確かめて看て言った。
「お坊様、(如海の告発は)事実ではありませんでした。しかし今、海賊が盛んに活動しております。もちろん海を通って行くべきではありません」
(結局)その造っていた船は官に没収され、その他の物は僧に返還されることとなった。そして誣告した僧、如海はそのために坐れ、還俗させられた上に杖で打たれること六十度。(その後、)本貫〈本籍地〉に逓走された。日本の僧四人(の処遇について)は揚州に上奏して、京〈洛陽〉に伺いを立てた。鴻臚〈外交官・外務機関〉が調査を(その四人がそれぞれ居していた長安あるいは洛陽の)本の配寺に向けた。すると寺家の報えは「その僧は、(帝の)駕に付き従って去ってから姿を見ていない」とのことであった。鴻臚に来たった寺(の報告)に依る報せをまた上奏した。そこで(朝廷は)勅を揚州に下した。「その僧、栄叡等はみな番僧〈蕃僧.外国僧〉である。(唐)朝に入って学問し、年每に絹二十五匹を賜り、四季には時服を給い、兼ねて隨駕〈天子に随行すること.またその許可〉にも預っている。彼らは偽濫〈偽出家.賊心入道〉ではない。今は国に還ることを望んでいる。その意に随って釈放し、よろしく揚州の法例に依って送遣せよ」と。その時、栄叡と普照等は四ヵ月間拘禁させられ、八月となってまさに始めて出ることが出来た。その玄朗と玄法は、これより国に帰るといって別れ去った。そこで栄叡と普照は相談して言った。
「我等の本願は戒法を伝えるため諸々の高徳に請うてから本国に還ろうというものである。今、揚州は(唐朝からの)勅を奉って、ただ我々四人を(本国に)送り返そうとするのみである。(伝戒の)諸師を請うことを得ないで、空しく還ったとしても益など無い。どうして(唐の)官による送還を受け容れて良いことがあろう。元の通り(その資格ある諸々の)僧を請し、まさに本国に還って戒法を流伝しようではないか」
このようなことから、官人のある所を巡避しながら共に大和尚の所に至り、(いまだ渡海の志が有るかを)推し量った。すると大和尚は、
「愁いる必要はない。是非とも(何らかの)方便〈手段〉を巡らせて必す本願を遂げようではないか」
と云われた。そこで八十貫の銭を出し、嶺南道の採訪使劉臣隣の軍舟一隻を買うことが出来、舟人十八口を雇い得て、海粮を準備し、苓脂・紅綠米一百石、甜豉三千石、牛蘓一百八十斤、麵五十石、乾胡餅二車、乾蒸餅一車、乾薄餅一萬、番拾頭一半車、漆合子盤三十具、兼将画五頂の像一鋪、宝像一鋪、金泥像一軀、六扇仏菩薩障子一具、金字『華厳経』一部、金字『大品経〈大品般若経〉』一部、金字『大集経』一部、金字『大涅槃経』一部、雑経論章疏すべて一百部、月令障子一具、行天の障子一具、道場幢一百二十口、珠幢十四条、玉環の手幢八口、螺鈿の経函五十口、銅瓶廿口、華氈廿四領、袈裟一千領、褊衫一千対、坐具一千床、大銅蓋四口、竹葉蓋四十口、大銅盤廿面中、銅盤廿面、小銅盤四十四面、一尺面の銅畳八十面、少銅畳二百面、白藤簟十六領、五色の藤簟六領、麝香廿臍、
沈香
・
甲香
・
甘松香
・
龍腦香
・
膽唐香
・
安息香
・
桟香
・
零陵香
・
青木香
・
薫陸香
、すべて六百余斤あり。また、畢鉢・呵梨勒・胡椒・阿魏・石蜜・蔗糖等、五百余斤、蜂蜜十斛、甘蔗八十束、青銭十千貫、正爐銭十千貫、紫辺銭五千貫、羅襆頭二千枚、麻靴三十量、廗胃三十箇あり。僧祥彦・道興・徳清・栄叡・普照・思託等、一十七人。玉作人・画師・雕檀・刻鏤・鋳・写・繍師・修文・鐫碑等の工手、すべて百八十五人。同じく一隻の舟に駕した。
天宝二載〈743〉十二月、帆を挙げて東に下って狼溝浦〈現在の江蘇省蘇州市太倉市にあった浦〉に到ったが悪風により漂浪し、波が船を撃ってうち壊れた。そこで人はすべて岸に上らざるを得なかったが、潮が来てその水は人の腰にまで至った。大和尚は烏蓲草の上に在なされた。余人はみな水中に在った。冬の寒さの中、風が強く吹いて甚だ辛く苦しい思いをした。(その後)あらためて舟を修理し、下って大坂山〈嵊泗列島にある大盤山に比定〉に至り舟を停泊させたが(島に)上陸することは出来なかった。そこで嶼山〈未詳〉に下って留まること一月。好風を待って出発し、桑石山〈嵊泗列島の黄沢山〉を目指した。しかし、風は強く浪は高くして舟を岸に著けられず、どうにも仕様がなくなってしまった。辛うじて剣呑な岩礁からは離れることが出来たが、結局は座礁。舟には穴があき、人と舟もろとも岸に打ち上げられた。水も米も共に尽きて飢渴すること三日。風が停り、浪は静となって、泉郎〈漁夫〉が水と米とを持って来て救いを得た。また、それから五日を経て、海を巡回していた官人に出逢ってその事情を問われたため、明州の太守に処分〈行政上の処置〉を申請し、鄮県山の阿育王寺に留め置かれた。寺には阿育王〈Aśoka. 古代インドをほぼ統一し、仏教を厚く庇護した大王〉の(全国に数多く建てた仏舎利を祀る)塔がある。明州は、旧とは越州の一県であった。開元廿一年〈733〉、越州鄮県の令〈地方長官〉、王叔達が上奏して越州の一県を割いて特に明州を置き、更に三県を開いて、一州四県としたものである。今は余姚郡と称している。その阿育王の塔とは仏滅度の後一百年の時に鉄輪王があって阿育王といった。(王は)鬼神を使役して八万四千の塔を建てたが、その一つである。その塔は金ではなく、玉でもなく、石でもなく、土でもなく、銅でもなく、鉄でもなく、紫烏色であって、その彫刻は通常のものとは異なっていた。(四面に仏陀の前生譚が描かれており)一面は「薩埵王子の変」、一面は「捨眼の変」、一面は「出腦の変」、一面は「救鴿の変」、その上に露盤は無い。中には懸鐘〈釣り鐘〉がある。(その昔は)地中に埋没し、(それがこの山に存在することを)よく知る者は無かった。ただ方基のみが有った。その高さは数仭〈4-5m〉、草や棘が多い茂りかぶさって、(塔がその地中に有るのを)うかがい知ることなど出来なかった。晋の秦始元年〈265〉に至て、并州西河離右の人、劉薩訶という者が、死んで閻羅王〈Yamarāja. 閻魔王〉の界〈死者の国〉に到った。すると閻羅王は(塔が埋没していることを)教え、(そこで息を吹き返した劉薩訶に、その塔を)掘り出させたのである。(その後、この地では)晋・宋・済・梁より唐代に至るまでその時代ごとに塔を造り、堂を造った。その事例は甚だ多い。その(阿育王塔がある)鄮山には、東南の嶺の石上には仏の右(足)跡がある。東北の小巌の上にはまた仏の左(足)跡がある。いずれも長さ一尺四寸〈約32.2cm〉、先の幅は五寸八分〈約13.3cm〉、後ろの幅は四寸半〈約10.4cm〉、その深さは三寸〈約7cm〉、千輻輪の相がある。その印文がはっきりと顕れている。世に伝えて云うには、 迦葉仏の(足)跡とのことである。東方の二里、路の側には聖井がある。深さ三尺ばかり。(その水の味は)清凉甘美であって、大雨でも溢れず干魃にも涸れることはない。その中には一匹の鱗魚がある。長さ一尺九寸である。世に伝えるところでは護塔菩薩であるという。人あって香華を以って供養するが、福ある者は(菩薩の姿を)見るが、福ない者は年を経て求めても見られない。ある人が、その井の上に屋根を造り、七宝を以ってその瓦とした。するとたちまち井の中から水が漲れて(その上に掛けた屋根と柱を)流し壊してしまった。