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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』

訓読

天寚三載、そのほし甲申こうしんやどる。越州龍興寺の衆僧、大和尚を請じて講律受戒。事畢てさら坑州こうしゅう湖州こしゅう宣州せんしゅうならびに來て、大和尚を請して律を講せしむる有り。大和尚、次に依て巡遊し開講受戒す。還て鄮山の育王寺に至る。時に越州の僧等、大和尚、日本國にゆかんと欲ことを知て、州官に告て曰く、日本國の僧榮叡、大和尚を誘て日本國に徃んと欲すと。時に山陰縣さんいんけん、人を王蒸おうじょうか宅に遣して榮叡師を捜り得て、かせを著て京に逓送ていそうして遂に杭州に至る。榮叡師、病に臥していとまを請て療治す。多時を經て病𣦸びょうしと云て、乃ち放出ほうしゅつことを得たり。榮叡・普照等、求法ぐほうの爲の故に前後災を被り、艱辛かんしんすること言を以て盡すべからず。然れとも、其の堅固の志し、曽て退悔たいげすること無し。大和尚、其の是の如なることをよろこびて、其の願を遂んと欲す。乃ち僧法進ほうしん、及ひ二りの近事ごんじを遣して輕貨きょうか福州ふくしゅうに徃て船を買はしめ、粮用を具え辨す。大和尚、諸の門徒、祥彥・榮叡・普照・思託等の三十餘人を率ひて、辭して育王の塔を禮し、佛跡を巡禮して、聖井しょうせい、護塔の魚菩薩を供養す。山を尋て直に州を出つ。太守廬同宰及ひ僧徒、父老ふろう、迎送して供養を設け、人をしゃして粮を備へ、送て白社村寺に至しめて、壞塔を修理せしむ。諸の鄕人をすすめて一の佛殿を造る。台州の寧海縣ねいかいけん白泉寺びゃくせんじに至て宿す。明日、さい後、山を踰ふ。嶺峻ふして途ち遠く、日暮れて夜暗し。澗水、膝を沒し、飛雪、眼を迷はす。諸人泣涙して、同く寒苦を受く。明日、嶺をわたって、唐興縣とうこうけんに入り、日暮、國淸寺に至る。松篁しょうこう蓊欝おううつとして奇樹璀璨さいさんたり。寚塔・玉殿、玲瓏れいろう赫奕かくやくたり。莊嚴しょうごん蕐飾すること、言を以て盡すべからず。孫綽そんしゃくか天台山の、其の萬一を盡すこと能わず。大和尚、聖跡を巡禮し、始豊縣しほうけんを出て、臨海縣りんかいけんに入る。白峯に導て、江を尋て遂に黄巖縣こうがんけんに至る。𠊳すなは永嘉郡えいかぐんの路を取り、禪林寺ぜんりんじに至て宿す。明朝、早に食して、發して温州に向んと欲す。忽ち採訪使の牒有て、來り追ふ。其の意は、揚州に在る大和尚の弟子の僧、靈祐りょうゆう及び諸寺の三綱さんごう、衆僧、同く議して曰く、我が大師和尚、願を發し、日本國に向んとして山に登り海をわたって、數年艱苦かんくす。滄溟そうめい萬里ばんり𣦸生ししょう測ること莫し。共に官に告て、さえぎっ留住るじゅうせしむべし。仍て共に牒を以て州・縣に告く。是に於て江東道こうとうどうの採訪使、牒を諸州に下して、先つ經る所の諸寺の三綱を追て、獄に於て身を留めて推問す。あとを尋て禪林寺に至て大和尚を捉り得て、使を差して押送おうそう、防護し十重囲繞いにょうして、送て採訪使の所に至る。大和尚、至る所の州縣の官人、參迎、禮拜、歡喜して、卽ち禁する所の三綱等を放出す。採訪使、処理してもとに依て本寺に住せしめ、三綱に約束し防護して曰く、さらに他國に向はしむること勿れ。諸州の道俗、大和尚の還り至ることを聞て、各々四事しじの供養を辨して競ひ來て慶賀し、逓相たがひに手を把て慰勞す。獨り大和尚、憂愁す。靈祐を呵責して開顔かいげんを賜はず。其の靈裕、日日懺謝して歡喜かんぎを乞ふ。每夜一㪅いっこうより立て五㪅ごこうに至て罪を謝す。遂に六十日を終ふ。又、諸寺の三綱、大德、共に來て禮謝らいしゃして歡喜を乞う。大和尚、乃ち顔を開くのみ。

天寚七載春、榮叡・普照師、同安郡どうあんぐんより揚州崇福寺しゅうふくじ、大和尚の住所に至る。大和尚、さらに二師と方𠊳を作して舟を造り、香藥を買ひ、百一物ひゃくいちもつを備辨すること、天寚二載に備ふる所の如し。同行の人、僧祥彥しょうげん神倉じんそう光演こうえん頓悟とんご道祖どうそ如高にょこう德淸とくしょう日悟にちご・榮叡・普照・思託等、道俗一十四人、及び水手一十八人を化し得、又、餘の相ひ隨んとねがふ者の合して三十五人有り。六月二十七日、崇福寺より發して揚州の新河に至り、舟に乗して常州じょうしゅうの界、狼山ろうざんに至る。風急に浪高して三山を旋轉せてんす。明日、風を得て越州の界、三塔山さんとうざんに至り、停住すること一月。好風を得て發して署風山しょふうざんに至て、停住すること一月なり。

十月十六日の晨朝じんちょう、大和尚の云く、昨夜、夢に三官人を見る。一りはを著け、二りはろくを著く。岸上に於て拜別す。知ぬ、是れ國神の相別なることを。疑らくは是のび必ず海を渡ことを得んと。少く時あて風起れり。頂岸山 を指して發す。東南の方に山を見る。日中に至て、其の山滅す。知ぬ、是れ蜃氣しんきなることを。岸を去ことようやく遠して、風急に波たかし。水くろきこと墨の如し。沸浪の一たびとおって、高山に上るが如し。怒濤どとう再び至て深谷に入るに似たり。人皆な荒酔して但々觀音を唱ふ。舟人しゅうじん告て曰く、舟今ましずまんと欲す。何の惜む所か有ん。卽ち桟香籠をひいなげんと欲す。空中に聲有て言く、なげふつこと莫れ、抛こと莫れと。卽ち止む。中夜の時、舟人の言く、怖るること莫れ。四神王ししんのうよろいを著け、杖を把る有り。二りは舟頭にありし。二りは檣舳しょじくの邊に在す。衆人之を聞て、心裏やや安し。三日、虵海じゃかいを過く。其のへび、長き者は一丈餘、小なる者は五尺餘なり。色皆斑斑として海上に滿ち泛。三日、飛魚海ひぎょかいを過く。白色の飛魚ひぎょえいとして空中に滿つ。長一尺許り。五日、飛鳥海を經。鳥のおほいさ、人のごとし。飛て舟上に集る。舟重して沒せんと欲す。人手を以てへは、鳥卽ち手をくつばむ。其の後二日、物無し。唯々急風、高浪のみ有り。衆僧、悩臥す。但々普照師、每日食時に生米きごめ少し許りを行いて、衆僧に與へて以て中食ちゅうじきに充つ。舟上、水無し。米をめは喉乾てのどに入ず。吐とも出てず。鹹水かんすいを飲めは腹すなはち張る。一生の辛苦、何そ此れ於りはなはだしき。海中に忽ち四隻の金魚あり。け各々一丈許り。走て舟の四邊をめぐる。明旦、風やんて山を見る。人總て水に渴して、𣦸なんと欲するに臨む。榮叡師、面色忽然こつねんとして、怡悦いえつして卽ち説て云く、夢に官人を見る。我に懺悔を受んことを請ふ。叡の曰く、貧道ひんどう、甚た渴す。水を得んと欲す。彼の官人、水を取りて叡に與ふ。水の色、乳汁の如し。取て飲に甚た美なり。心旣に淸凉しょうりょうたり。叡、彼の官人に語て曰く、舟上の三十餘人、多日、水を飲まずして、大に飲渴す。請ふ擅越だんおち、早く水を取り來れと。時に彼の官人、雨令うりょうの老人をよんで處分して云く、汝等、大了事だいりょうじの人、急に水を送り來れと。夢相むそう是の如し。水今ま至るべし。諸人、急に須く碗を把て待つべし。衆人、此を聞てすべて歡喜す。明日、未の時、西南の空中より雲起り、舟上を覆て雨をそそぐ。人人碗をとっうけて飮む。第二日、亦雨至る。人皆飽足す。明旦、岸に近く四つの白魚びゃくぎょ有り。來て舟を引て、直ちに泊舟浦に至る。舟人、碗を把て競て岸頭に上り、水をもとむ。一の小崗しょうこうを過て、𠊳すなは池水ちすいに遇ふ。淸凉甘美なり。衆人爭ひ飮み、各々飽滿することを得たり。後日、さらに池に向て、水を汲と欲す。昨日の池の處、但々陸地のみ有て池を見ず。衆、共に悲喜す。知ぬ、是れ神靈しんりょう化出けしゅつせるの池なることを。是の時、冬十一月、蕐蘂けすい開敷し、樹實、竹筍、夏を辨ぜず。凡そ海中に在こと十四日を經て、まさに岸に著くを得たり。人をしてうらを求めつかはしむ。乃ち四經紀けいきの人有り。𠊳すなはち道を引て去る。四人口づから云く、大和尚は大果報にして弟子にひ下ふ。然らずんば𣦸す合し。此の人物にんもつ、人をふ。火急に去來こらいせよと。𠊳ち舟に引て去て浦に入る。晩に一人の髪を被り、刀を帶ふるを見る。諸人、大に怖る。食をあたふれば𠊳すなはち去る。

現代語訳

天宝三載〈744〉ほし甲申こうしんにあたる。越州龍興寺の衆僧が、大和尚に請うて講律を開いてもらい受戒した。その事が終わると更に坑州こうしゅう湖州こしゅう宣州せんしゅう(の龍興寺の僧が?)いずれも来たって、大和尚に律を講じることを請うた。そこで大和尚は、順次に(それらの州を)巡遊して開講し受戒した。(それを終えると)還って(また)鄮山の阿育王寺に至った。ある時、越州の僧等が、大和尚は日本国に往こうとされていることを知り、州官に告げて言った。
「日本国の僧、栄叡が大和尚を誘い(法に背いて密かに)日本国に往こうとしています」
そこで山陰県さんいんけん〈軍官〉は、人を王蒸おうじょうの宅に遣わして栄叡師を探して捕らえ、かせを著けて京〈洛陽〉逓送ていそうし、遂に杭州に至った。栄叡師はそこで病に臥し、いとまを請うて療治していた。それから多くの時を経ると、病死びょうししたと云って、ようやく放出ほうしゅつされることが出来た。栄叡と普照等は、求法ぐほうの為にそれまで様々な災いを被り、艱辛かんしん〈艱難辛苦〉してきたことは言葉で言い尽くせない程である。しかしながら、その堅固なる志を、かつて退悔たいげすることは無かった。大和尚は、その(二人の)様子を悦び、その願いを遂げようと思われた。そこで僧法進ほうしんおよび二人の近事ごんじ〈優婆塞.男性在家信者〉を遣わし、幾ばくかの金銭を以って福州ふくしゅうに往って船を買わさせ、粮用を具備した。大和尚は、諸々の門徒、祥彥・栄叡・普照・思託等の三十余人を率いて、(阿育王寺を)辞して阿育王塔に礼拝し、仏(足)跡を巡礼して、聖井しょうせいにある護塔の魚菩薩を供養された。そして山を越え、直に州を出た。太守廬同宰および僧徒や父老らは、(大和尚一行を)迎送して供養を設け、人を遣わして粮を備え、送って白杜村はくとそん寺に至らせ壊れた塔を修理させた。そして諸々の鄕人にすすめて一つの仏殿を造った。(その後、)台州の寧海県ねいかいけん白泉寺びゃくせんじに至って宿泊した。明日、さい〈僧食.中食〉の後、山を踰えた。その嶺は峻険であって道は遠く、日も暮れて夜の闇に包まれた。谷川の水に膝まで浸かり、飛雪は眼を迷わせる。諸人は泣涙して、同じく寒苦に打ち震えた。明日、ようやく嶺をわたって、唐興県とうこうけんに入り、日暮れに(天台山)国清寺に至った。松と竹が生い茂り、奇異なる姿の樹が美しく鮮やかである。その宝塔や玉殿は、明るく光り輝いて雄大である。その荘厳しょうごんが華やかに飾られている様は、言葉を以って言い尽くすことなど出来ない。孫綽そんしゃくの『遊天台山賦ゆうてんだいさんふ』でさえ、その万に一つを言い尽くしたものではない。大和尚は聖跡を巡礼し、始豊県しほうけんを出て、臨海県りんかいけんに入った。それから冠雪した白い峰々を見ながら江を尋ね、遂に黄巌県こうがんけんに至った。そして永嘉郡えいかぐんの路を取り、禅林寺ぜんりんじに至って宿した。明朝、早々に食をすませて発ち、温州に向おうとしていた。すると採訪使からの牒〈公の命令書〉があって、後から追って通知しに来たのだった。その意は、揚州にある大和尚の弟子の僧、霊祐りょうゆうおよび諸寺の三綱さんごう〈上座・寺主・維那〉と衆僧が協議して云うに、
「我が大師たる和尚が誓願を発し、日本国に向かおうとして山に登り、海をわたること数年も艱苦かんくされている。滄溟そうめい〈青く深い海〉万里ばんり(を越えて往くこと)は、死生ししょうを賭けたものである。そこで、共に官憲に告げ、(大和尚の渡海を)さえぎって(支那の地に)留住るじゅうさせるべきであろう」
というものであった。そして共に牒〈上申書〉を以って(鑑真一行の渡海を停止させるよう)州・県に告げたのである。そこで江東道こうとうどうの採訪使は牒〈公の命令書〉を諸州に下し、先ず(鑑真一行が)通った所の諸寺の三綱を追捕し、獄に繋ぎ身を留めさせて尋問した。(そのように)あとを追って禅林寺に至り、ようやく大和尚を捉えることが出来たのである。そこで(鑑真一行のもとに)使者を遣わし押送おうそうさせ、これを防護し十重に囲繞いにょうしつつ送って、採訪使の所に至った。大和尚が至った所の州県の官人らはこれを参迎、礼拝、歓喜し、すぐに拘禁していた三綱等を釈放した。採訪使は、(捉えた栄叡・普照など他の僧を)処分して元の通り本寺に住わせ、(諸寺の)三綱に約束し防護して、
「これより以降、(大和尚を)他国に向わせてはならない」
と言い渡した。諸州の道俗は、大和尚が(渡海を断念させられ)還ってくることを聞き、各々四事しじ〈衣・食・住・医薬〉の供養を用意して競い来たって慶賀し、互いに手を把って慰労した。(そのように支那の道俗の人々が喜びに湧く中、)独り大和尚は憂愁されていた。そして霊祐を厳しくしかって責めたて、決して笑顔を見せられなかった。その霊裕は(鑑真の志を官を用いて遮ったことを)日日懺謝して歓喜かんぎ〈許し〉を乞うばかりであった。每夜、一更いっこう〈午後九時頃〉から眠らず五更ごこう〈午前五時頃〉に至るまでその罪を謝し続け、遂に六十日を越えるまでとなった。また、諸寺の三綱や大徳も共に来たって(大和尚の渡海を官憲の力を借りて止めさせたことを)礼謝らいしゃし歓喜を乞た。(そのようにして数ヶ月を経て、)大和尚もようやく笑顔を見せられるようになった。

天宝七載〈748〉春、栄叡と普照師は、同安郡どうあんぐんから揚州崇福寺しゅうふくじの大和尚が住まわれている場所を訪れてきた。大和尚は、再び(栄叡と普照の)二師と方便を巡らせて舟を造り、香薬を買い、百一物ひゃくいちもつ〈僧の生活必需品〉を準備すること、天宝二載〈743〉に備えたのと同様であった。その同行の人は、僧祥彦しょうげん神倉じんそう光演こうえん頓悟とんご道祖どうそ如高にょこう徳清とくしょう日悟にちご・栄叡・普照・思託等、道俗一十四人、および水手〈船員.舟人〉一十八人を集めることが出来、また、他の随行しようとねがう者を合わせて三十五人となった。六月二十七日、崇福寺を発って揚州の新河に至り、舟に乗って常州じょうしゅうの界、狼山ろうざんに至った。風が強く浪は高くして三つの山〈島〉の間をただ廻るばかりであった。翌日、順風を得て越州の界、三塔山さんとうざん〈小洋山〉に至り、停住すること一月。好風を得て発ち、署風山しょふうざん〈未詳〉に至て、また停住すること一月であった。

十月十六日の晨朝じんちょう、大和尚が、
「昨夜、夢に三人の官人を見た。一人は(の衣)を著け、二人はろく(の衣)を著ているのが岸の上にあって(こちらを)拝別していたのである。それは国神が別れを惜しむ姿であったのだ。おそらく、このたびは必ず海を渡ることが出来るであろう」
と言われた。それからしばらく時あって(待っていた)風が起ったため、須岸山しゅがんさん〈朱家尖島〉を指して発った。東南の方角に山を見た。日も中頃となってその山は消えてしまった。それは蜃気楼しんきろうであったのだ。岸を離れてから漸く遠くとなって、風が強く、波もたかくなってきた。その海水のくろいこと、あたかも墨のようである。その荒ぶる波を一つ乗り越えるのに、まるで高山に昇るようであった。また怒濤どとう〈激しい大波〉が再びくると、次は深い谷間に入っていくのに似たものである。人は皆、ひどく酔ってただただ「観音」(の名号)を唱えるばかりである。舟人しゅうじんは、
「舟は今まさに沈もうとしています。何を惜むことがあるでしょうか」
と言うや、桟香籠を持ち上げ(捨てて舟を軽くしようと、海中に)なげうとうとした。すると空中に声が響いた。
「抛ってはならない。抛ってはならない」
と。そのため(積荷を捨てるのを)止めた。その日の中夜、舟人が、
「怖れることはありません。四神王ししんのうの甲冑を著け、杖を把る者が(この舟を守護して)おられます。二人は舟の舳先の方におられ、もう二人は帆柱と船尾の辺りにおられます」
という。衆人はそれを聞き、心中やや穏やかとなった。三日間、虵海じゃかいを通過。そのへび〈ダツ?〉は長いもので一丈余り〈周尺で約2.5m〉、小さいもので五尺余り〈周尺で約1.25m〉。その色は皆、斑斑としており、海水面に満ちて浮かんでいた。(その後の)三日間、飛魚海ひぎょかいを通過。白色の飛魚ひぎょ〈トビウオ〉が、キラキラと眩しく光りながら空中に満ちていた。長さは一尺〈周尺で約23cm〉ほどである。五日、飛鳥海を経た。鳥〈アルバトロス〉の大きさは人ほどもある。飛んで舟上に集まってきた。(そのため)舟が重くなって沈もうかとしていた。人が手を以って追い払おうとしても、その鳥は(逃げるどころか、人の)手をくちばんできた。その後の二日間は、これということが無かった。ただ強風と高浪のみがあった。衆僧は(船酔いで)悩臥するばかり。ただ普照師のみは每日、食時に、生米きごめ少しばかりを食べ、衆僧にも与えてそれを中食に充てていた。もはや舟上に水は無かった。(生の)米をんでも喉が乾いてのどを通らなかった。しかし、吐き出そうとしても出せない。鹹水かんすい〈海水.塩水〉を飲めば腹が(ガスを溜めて)たちまち張った。一生の辛苦として、何がこれより激しいものとしてあろう。(そのように皆が苦しんでいる時、)海中に突如、四匹の金魚が現れた。長さそれぞれ一丈ばかり。泳いで舟の四辺をめぐっていた。その翌朝、風がんで山を見た。人はすべて水の渴きに耐えかね、もはや死を待つばかりであったが、栄叡師は、その面色に忽然こつねんとして喜びが満ち溢れ、すなわち説いて云った。
「私は夢に官人を見た。私にその懺悔を受けることを請うてきたのだ。そこで私は言った、『貧道〈私〉は甚だ喉が渴いており、水が欲しいのだ』と。するとその官人は、水を取り私に与えてきた。水の色は乳の汁のようであった。取って飲んでみると甚だしく美味である。たちまち心は 清涼しょうりょうとなった。そこで私はその官人に語って言った、『舟上の三十余人は、この幾日も水を飲めずにあって大いに飲渴している。檀越だんおち〈施主.篤信者〉よ、どうか早く水を持って来たれ』と。するとその官人は二人の老人〈底本は「雨令」として「雨を司る老人」としているが誤り〉を召喚して命令して云った、『汝等、大了事の人〈大神力ある神霊〉よ、ただちに水を送り来たれ』と。私の夢相むそうはそのようなものであった。必ず水を得られるであろう。さあ皆の衆、急いで碗を持って待ちなさい」
と。そこで衆人はこれを聞いて皆喜んだ。その翌日の未の時〈午後2時前後〉、西南の空中から雲が湧き起こり、舟上に雨が降り注いだ。人々は碗をって(雨を)うけて飮んだ。その二日目もまた雨が降った。人は皆、満足することが出来た。明朝、沿岸の近くに四匹の白魚〈イルカ?〉があって舟を先導し、すぐに泊舟浦に至った。舟人は碗を把って競い岸辺に上がり、水をもとめた。一つの小さな岡を越えると、すぐに水をたたえた池を見つけた。(その水は)清涼で甘美である。衆人は争うかのようにして飮み、それぞれ充分に乾きを癒すことが出来た。翌日、再びその池に行って水を汲もうとしたが、昨日の池のところにはただ陸地のみあって池を見出せなかった。そこで衆人は共にこれを(あの水はもう得られないのかと)悲しむ一方で、喜んだのである。そう、あれは神霊しんりょう化出けしゅつした池であったのだ。この時、冬の十一月であったが、(その地には)華が咲き、樹の実が成り、竹筍が出ているなど、あたかも夏のようであった。およそ海中にあること十四日を経て、まさに岸に着くことが出来た。人を漁村を探すため遣わした。すると四人の旅商の人に出逢い、道を案内されて去って行った。その四人が口づから云うには、
「大和尚は大果報の人であって、(その功徳が)弟子にも及んでいるのだ。そうでなければ死んでいたであろう。この辺りの者は、人を(襲い、殺して)食べる。一刻も早く(ここを)去りなさい」
とのこと。そこでただちに舟を巡らして漁村に入った。その晩、一人の髪を被って刀を帯びたものが現れた。諸人は大いに怖れたが、食を与えるとすぐに去った。