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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』

訓読

天寚十二載、ほし癸巳きしに次る。十月十五日壬午じんご、日本國の使、大使特進藤原朝臣ふじわらのあそん淸河きよかわ、副使銀靑ぎんせい光禄こうろく大夫たいふ光禄卿こうろくきょう大伴宿禰おおとものすくね胡麻呂こまろ、副使銀靑光禄大夫秘書監ひしょかん吉備朝臣きびのあそん眞備まきび衞尉えいい安倍朝臣あべのあそん朝衡ちょうこう等、延光寺えんこうじに來至して大和尚に白して云く、弟子等、早く大和尚の五び海を渡て日本國に向ひ、將におしへを傳んと欲するを知る。故に今したし顔色がんしきを奉じて頂禮、歡喜す。弟子等、先づ大和尚の尊號、あはせて持律じりつの弟子五僧ごそうを錄して巳に主上しゅじょう奏聞そうもんす、日本に向て戒を傳へんと。主上、道士どうしひきひて去らしめんとようす。日本の君王、先きに道士の法をあがめず。𠊳すなはち奏して春桃原しゅん とうげん等の四人、住て道士の法を學ばしむ。此が爲に大和尚の名も亦奏す。退まかり願くは大和尚、みづから方𠊳ほうべんを作せ。弟子等、自ら國の信物を載る船四舶在て、行装具足す。去も亦、かたきこと無し。時に大和尚、許諾きょだく巳に竟れり。時に揚州の道俗、皆な云ふ、大和尚、日本國に向んと欲すと。是に由て龍興寺、防護甚だ固して進發するに由し無し。時に仁幹にんかん禪師有り。務州むしゅうより來て密に大和尚の出んと欲を知て、船舫せんぼうを江頭に備具して大和尚を相待つ。

天寚十二載十月廿九日戌時じゅつじに於て龍興寺より出ず。江頭に至り、船に乗て下る時に廿四にじゅうし沙彌しゃみ有り。悲泣して走り來て大和尚にもうして言く、大和尚、今海東に向ひ玉はば重て觀るにし無し。我れ今は最後に結緣けちえんに預んことを請ふ。乃ち江邊に於て廿四にじゅうし沙彌しゃみの爲めに戒を授け、をはて船に乗て下て、蘇州そしゅう黄洫浦こうこくほに至る。相隨ふ弟子、揚州白塔寺の僧法進ほうしん、泉州超功寺の僧曇靜どんじょう、台州開元寺の僧思託したく、揚州興雲寺の僧義靜ぎじょう衢州くしゅう靈耀寺の僧法載ほうさい竇州とうしゅう開元寺の僧法成ほうじょう等一十四人。藤州通善寺つうぜんじの尼智首ちしゅ等の三人。揚州優婆塞うばそく潘仙童はんせんとう胡國ここくの人寚最ほうさい如寚にょほう崑崙こんろん國の人軍法力ぐんほうりき膽波たんぱ國の人善聽ぜんちょうすべて廿四人。つ所の如來にょらい肉舎利にくしゃり三千粒、功德繍普集の変一鋪、阿彌陀如來像一鋪、彫白栴檀千手の像一軀、繍千手の像一鋪、救世觀世音の像一鋪、藥師・彌陀・彌勒菩薩の瑞像各々一軀、同き障子。金字の大方廣佛蕐嚴經八十巻、大佛名經十六巻、金字の大品經一部、金字の大集經一部、南本涅槃經一部四十巻、四分律しぶんりつ一部六十巻、法勵ほうれい師の四分しぶんしょ五本各々十巻、光統こうとう律師の四分の疏百廿紙、鏡中記二本、智首ちしゅ師の菩薩戒ぼさつかいしょ五巻、靈渓りょうけい釋子しゃくし菩薩戒ぼさつかいしょ二巻、天台てんだい止觀しかん法門ほうもん玄義げんぎ文句もんぐ各々十巻・四教儀しきょうぎ十二巻・行法蕐懺法ぎょうほっけせんぽう一巻・小止觀しょうしかん一巻・六妙門ろくみょうもん一巻、明了論みょうりょうろん一巻、定賔じょうひん律師の飾宗義記しきしゅうぎき九巻、補釋餝宗記ほしゃくしきしゅうき一巻、戒疏かいしょ二本各々一巻、觀音寺りょう律師の義記ぎき二本十巻、南山なんざんせん律師の含注戒本がんちゅうかいほん一巻及びしょ行事鈔ぎょうじしょう五本、羯磨疏こんましょ等二本、懷素かいそ律師の戒本疏かいほんしょ四巻、大覺だいかく律師の批記ひき十四巻、音訓おんくん二本、比丘尼傳びくにでん二本四巻、玄奘げんじょう法師の西域記さいいきき一本十二巻、終南山宣律師の關中創開戒壇圖經かんちゅうそうかいかいだんずきょう一巻、合四十八部。及び玉環ぎょくかん水精すいしょう手幡しゅばん四口、○○金珠○○○○○○○○菩提子三斗、靑蓮蕐しょうれんげ廿莖、玳瑁たいまい疊子じょうし八面、天竺の革履かくり二緉、王右軍おうゆうぐんか眞蹟行書一帖、王獻之おうけんしか眞蹟行書三帖、天竺てんじく朱和しゅわ等の雜體書五十帖、○○○○○○○○○○○水精手幡巳下じげ、皆な内裏にたてまつる。又、阿育王の塔様の金銅塔一區。

廿三日庚寅こういん、大使、大和尚巳下を處分して副使巳下の舟に分ち乗せしめ、畢て後ち大使巳下じげ共に議して曰く、まさに今、廣陵郡こうりょうぐん、又大和尚、日本國に向ことを覺知せば、將に舟をさぐらんと欲す。若しさぐり得られば、使、爲に妨げ有り。又、風に漂はられて還て唐界に著かば、罪悪を免かれず。是に由て僧、總て舟を下て留る。

十一月十日丁未ていびの夜、大伴おおとも副使、ひそかに大和尚及び衆僧を招て已が舟に納れて、總て知らしめず。十三日、普照師、越の餘姚郡よようぐんより來て、吉備きび副使が舟に乗る。十五日壬子じんし、四舟同く發す。一のきじ有り。第一の舟の前に飛ぶ。仍ちいかりを下して留り、十六日發す。廿一日戊午ぼご、第一第二の両舟、同く阿兒奈波嶋あこなはじまに到て、多禰たねしまの西南に在り。第三の舟は昨夜巳に同處に泊る。十二月六日、南風起て、第一の舟、石不動に著く。第二の舟、發して多禰に向ひ去る。七日、益救嶋やくしまに至る。十八日、益救より發す。十九日、風雨大に發して四方を知らず。午時ごじ、浪の上に山頂を見る。廿日乙酉いつゆう午時、第二の舟、薩磨さつまの國阿多あたの郡秋妻屋あきめやの浦に著く。廿六日辛卯しんぼう延慶えんきょう師、大和尚を引て、太宰府に入る。天平勝寚六年甲午こうご正月十三日丁未ていび、副使從四位上大伴宿禰胡麻呂、大和尚、築志ちくし太宰府だざいふに到ことを奏す。二月一日、難波に到る。唐の僧崇道すどう等、迎ひ慰て供養す。三日、河内の國に至る。大納言正二位藤原朝臣ふじわらのあそん仲麻呂なかまろ、使を遣して迎慰す。復、道璿どうせん律師有り。弟子僧善談ぜんだん等を遣して迎勞す。復、高行こうぎょうの僧、志忠しちゅう賢璟けんきょう靈福りょうふく曉貴ぎょうき等の三十餘人有り。迎へ來て禮謁す。四日、京に入る。勑して正四位の下安宿王あすかべおうを遣して羅城門の外に於て迎慰、拜勞し、引て東大寺に入れて安置す。五日、唐の道璿律師、婆羅門ばらもん菩提ぼだい僧正來て慰問す。宰相右大臣大納言巳下の官人百餘人來て禮拜、問訊す。後ち勑使正四位下吉備朝臣眞備來て口づからみことのりして曰く、大德和尚、遠く滄波をわたり、此の國にいたる。誠にちんこころかなふ。喜慰きいたとふること無し。ちん、此の東大寺を造て十餘年を經。戒壇を立て戒律を傳受せんと欲す。此の心有るにより日夜忘れず。今、諸の大德、遠く來て戒を傳ふることはるかちんが心にかなへり。今まより以後、受戒傳律、ひとへに大和尚に任すと。又、僧都そうず良辨ろうべんに勑して、諸の臨壇の大德の名を錄して、禁内に進めしむ。日を經ずして、勑して傳燈でんとう大法師だいほうしを授く。

現代語訳

天宝十二載〈753〉ほし癸巳きしにあたる。十月十五日壬午じんご、日本国の使〈第十二次遣唐使〉として、大使特進藤原朝臣ふじわらのあそん清河きよかわ、副使銀青ぎんせい光禄こうろく大夫たいふ光禄卿こうろくきょう大伴宿禰おおとものすくね胡麻呂こまろ、福使銀青光禄大夫秘書監ひしょかん吉備朝臣きびのあそん眞備まきび衞尉卿えいいけい安倍朝臣あべのあそん朝衡ちょうこう〈阿倍仲麻呂の唐名〉等が延光寺えんこうじに来至し、大和尚に申し上げた。
「弟子等は、すでに大和尚が五たびも海を渡って日本国に向かい、まさにおしえを伝えようとされたのを知りました。その故に今、したしく(大和尚に)お目にかかって頂礼出来ることを大変嬉しく思います。弟子等、先ず大和尚の尊号ならびに持律じりつの弟子五僧ごそう(の名)を記載し、すでに主上しゅじょう〈玄宗皇帝〉奏聞そうもんしております、『日本に向かって戒を伝える』と。すると主上は、『道士どうし〈道教の出家者〉も率いて去るのが良い』とお求めになりました。(しかしながら、)日本の君王は、先から道士の法〈道教〉あがめておりません。そこで上奏し、(日本人留学生の)春桃原しゅん とうげん等の四人を(長安に)留め、住まわせて道士の法を学ばせることになりました。このため(すでに奏上した)大和尚(および五僧)の名をまた奏して取り下げました。そこで、どうか願わくは大和尚よ、親しく方便ほうべん〈出奔・密出国の手段〉を巡らせたまえ。弟子等には自ら国の信物を載せる船四舶があって、出港する準備は整っております。(唐にそれで来たったように、)去るのもまた難しいことはありません」
そこで大和尚は(その申し出を)許諾きょだくされた。すると揚州の道俗は皆、
「大和尚が(再び)日本国に向かわれようとなさっている」
と口々に云った。それにより(大和尚が外に出られぬよう)龍興寺の防護が甚だ固くなって、出発することが出来なかった。その時、仁幹にんかん禅師という人があり、務州むしゅうより来たって、密かに大和尚が出立しようとしていることを知り、船を運河の岸に配置して大和尚を待った。

天宝十二載〈753〉十月廿九日〈十九日の誤写〉戌時じゅつじ〈19:00-21:00〉、(密かに)龍興寺より出た。運河の岸に至り、船に乗って下ろうとする時、二十四人の沙弥があり、悲泣しつつ走り来たって大和尚に申し上げた。
「大和尚よ、今こうして海東に向かわれたならば後に再びお会いすることは出来なくなります。我々は今、最後にせめて(後生の為の)結縁けちえんに預ることをお願いいたします」
そこで運河の岸辺にて二十四人の沙弥の為に戒を授け、終わってすぐ船に乗り(運河から長江に入って)下り、蘇州そしゅう黄泗浦こうしほに至った。(大和尚に)随行する弟子は、揚州白塔寺の僧法進ほうしん、泉州超功寺の僧曇靜どんじょう、台州開元寺の僧思託したく、揚州興雲寺の僧義静ぎじょう衢州くしゅう霊耀寺の僧法載ほうさい竇州とうしゅう開元寺の僧法成ほうじょう等一十四人。藤州通善寺つうぜんじの尼智首ちしゅ等の三人。揚州優婆塞うばそく潘仙童はんせんとう胡国ここく〈中央アジア〉の人宝最ほうさい如宝にょほう崑崙こんろん〈東南アジア〉の人軍法力ぐんほうりき瞻波せんぱ〈Champā. 現在の南ベトナム〉の人善聴ぜんちょうの総勢二十四人。所持した品は、如来にょらい肉舎利にくしゃり〈仏舎利〉三千粒、功徳繍普集の変一鋪、阿弥陀如来像一鋪、彫白栴檀千手の像一躯、繍千手の像一鋪、救世観世音の像一鋪、薬師・彌陀・弥勒菩薩の瑞像各々一躯、同じくその障子。金字の『大方広仏華厳経』八十巻、『大仏名経』十六巻、金字の『大品経』一部、金字の『大集経』一部、南本『涅槃経』一部四十巻、『四分律しぶんりつ』一部六十巻、法励ほうれい師の『四分しぶんしょ〈『法砺中疏』〉五本各々十巻、光統こうとう律師の『四分の疏』百廿紙、『鏡中記』二本、智首ちしゅ師の『菩薩戒ぼさつかいしょ』五巻、霊渓りょうけい釈子しゃくしの『菩薩戒ぼさつかいしょ〈『梵網文記』〉二巻、天台てんだいの『止観しかん法門ほうもん〈智顗『摩訶止観』〉・『玄義げんぎ〈智顗『妙法蓮華経玄義』〉・『文句もんぐ〈智顗『妙法蓮華経文句』〉各々十巻・『四教儀しきょうぎ』十二巻・『行法華懺法ぎょうほっけせんぽう〈智顗『法華三昧懺儀』〉一巻・『小止観しょうしかん〈智顗『修習止観坐禅法要』〉一巻・『六妙門ろくみょうもん〈智顗『六妙法門』〉一巻、『明了論みょうりょうろん〈弗陀多羅多『律二十二明了論』〉一巻、定賓じょうひん律師の『飾宗義記しきしゅうぎき〈定賓『四分律疏飾宗義記』〉九巻、『補釈餝宗記ほしゃくしきしゅうき』一巻〈霊祐による『四分律疏飾宗義記』の注釈書〉、『戒疏かいしょ〈定賓『四分比丘戒本疏』〉二本各々一巻、観音寺大亮だいりょう律師の『義記ぎき』二本十巻、南山なんざん道宣どうせん律師の『含注戒本がんちゅうかいほん〈道宣『四分律比丘含注戒本』〉一巻、及び『しょ〈道宣『四分律含注戒本疏』〉、『行事鈔ぎょうじしょう〈道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』〉五本、『羯磨疏こんましょ〈道宣『四分律刪補随機羯磨疏』〉等二本、懐素かいそ律師の『戒本疏かいほんしょ』四巻、大覚だいかく律師の『批記ひき〈『四分律行事鈔批』〉十四巻、『音訓おんくん〈崇義『鈔音訓』?〉二本、『比丘尼伝びくにでん』二本四巻、玄奘げんじょう法師の『西域記さいいきき〈玄奘『大唐西域記』〉一本十二巻、終南山道宣律師の『關中創開戒壇図経かんちゅうそうかいかいだんずきょう〈道宣『關中創立戒壇図経』〉一巻、合せて四十八部。及び玉環ぎょくかん水精すいしょう手幡しゅばん四口、○○金珠○○○○○○○○菩提子三斗、青蓮華しょうれんげ廿莖、玳瑁たいまい疊子じょうし八面、天竺の革履かくり二緉、王右軍おうゆうぐん〈王羲之〉の真蹟行書一帖、王獻之おうけんし〈王羲之の第七子〉か真蹟行書三帖、天竺てんじく朱和しゅわ等の雑体書五十帖、○○○○○○○○○○○水精手幡以下、すべて(日本の)内裏に進奉した。また、(日本にもたらした物の中には)阿育王の塔様の金銅塔一区があった。

廿三日庚寅こういん、大使(藤原清河は)、大和尚以下(の諸僧・諸人)について取り決め、副使(大伴古麻呂と吉備真備)以下の舟に分けて乗せ、それが終わって後に大使以下で共議した。
「まさに今、広陵郡こうりょうぐん〈揚州〉(の官人や僧・俗ら)が、また大和尚の日本国に向かわれることを覚知したならば、必ず舟を捜索するとするであろう。もし捜索の末に(鑑真一行が乗船していることが)発覚したならば、大使の立場として難しいこととなる。また、もし風に漂って、また還り唐の領界に着いたならば、(鑑真等を密出国させた)罪で罰せられるのを免がれない」
と。それに因って(大和尚ら)僧は全て舟を下り(ひとまず港街に)留まることとなった。

十一月十日丁未ていびの夜、大伴おおとも副使がひそかに大和尚および衆僧を招いて自身の(第二)舟に乗せ、他の誰にも知らせなかった。十三日、普照師が越州の余姚郡よようぐん〈余姚県の誤り〉より来て、吉備きび副使の舟に乗った。十五日壬子じんし、四舟は同じく出発した。その時、一羽のきじがあって、第一の舟の前を飛んだ。そこで(これを何かの予兆と捉えたことから、ひとまず)いかりを下ろしてそこに留まり、十六日に発った。廿一日戊午ぼご、第一・第二の両舟は、同じく阿兒奈波嶋あこなはじま〈現在の沖縄本島〉に到って、多禰たねしま〈現在の種子島〉の西南に在った。第三の舟は昨夜、すでに同処に至り停泊していた。十二月六日、南風起こって、第一の舟が座礁した。第二の舟は(阿兒奈波嶋を)発って多禰に向かって去った。七日、益救嶋やくしま〈現在の屋久島〉に至る。十八日、益救を発つ。十九日、風雨が大いに起こって方角を失うほどであった。午時ごじ〈11:00-13:00〉、浪の上に山頂を見る。廿日乙酉いつゆう午時、(大和尚一行を載せる大伴古麻呂の)第二の舟が、薩磨さつまの国阿多あたの郡秋妻屋あきめやの浦に着いた。廿六日辛卯しんぼう延慶えんきょう〈おそらく第二船で帰郷した留学僧〉が大和尚を引率して太宰府に入った。天平勝宝六年甲午こうご〈754〉正月十三日丁未ていび、副使従四位上大伴宿禰おおとものすくね胡麻呂こまろは、大和尚が築志ちくし太宰府だざいふに到ったことを上奏した。二月一日、難波に到る。唐の僧崇道すどう等がこれを迎えて慰慰し、供養した。三日、河内の国に至る。大納言正二位藤原朝臣ふじわらのあそん仲麻呂なかまろが使いを遣わして迎慰した。また、道璿どうせん律師は弟子の僧善談ぜんだん等を遣わして迎労した。また、高行こうぎょうの僧、志忠しちゅう賢璟けんきょう霊福りょうふく曉貴ぎょうき等の三十余人があり、迎え来て礼謁した。四日、京に入る。勅により正四位下安宿王あすかべおうを遣わして羅城門の外において迎慰、拝労し、引率して東大寺に入れ宿泊させた。五日、唐の道璿律師と婆羅門ばらもん菩提ぼだい〈Bodhisena〉僧正が来たって慰問。宰相、右大臣、大納言以下の官人、百余人が来て礼拝、問訊した。その後、勅使として正四位下吉備朝臣きびのあそん真備まきびが来、口づから(聖武上皇の)みことのりを伝えて云った、
「大徳和尚、遠く滄波をわたり、この国にいたる。誠にちんこころかなう。喜慰きいたとうること無し。ちん、この東大寺を造って十余年を経。戒壇を立てて戒律を伝受せんと欲す。この心あるにより日夜忘れず。今、諸々の大徳、遠く来て戒を伝うることはるかちんが心にかなえり。今より以後、受戒伝律、ひとえに大和尚に任す」
と。また、(聖武上皇は)僧都そうず良弁ろうべんに勅し、諸々の臨壇の大徳〈具足戒の授戒に参加する資格ある僧〉の名を記載させ、禁内きんだい〈宮中. ここでは天皇の意〉に報告させた。それから日を経ずして、(それら臨壇の僧に対して)勑により伝灯でんとう大法師だいほうし〈「和上位」の誤認.当時、伝灯大法師位は無い〉を授けた。