次に吉州に至る。僧祥彥、舟上に於て端坐して思託師に問て云く、大和尚、睡り覺るや否や。思託、答て曰く、睡て未だ起きず。彥の曰く、今𣦸別せんと欲す。思託、大和尚に諮す。大和尚、香を焼て、曲几を將て來て、彥をして几に憑で西方に向て阿弥陀佛を念ぜしむ。彥、卽ち一聲、佛を唱て端坐し、寂然として言こと無し。大和尚、乃ち彥、彥と喚て、悲慟すること數無し。
時に諸州の道俗、大和尚、嶺北より歸り下ふを聞て、四方より奔り集ること日に當に三百以上。人物、駢闐たり。供具を煒燁す。此れより江州に向て、廬山の東林寺に至る。是れ晉の代、慧遠法師の所居なり。遠師、是に於て壇を立て、戒を授く。天、甘露を降す。因て甘露壇と號す。今尚を存せり。近ろ天寚九載、志恩律師有て、此の壇上に於て受戒を與ふ。又、天、甘露を雨ことを感ず。道俗、見聞して、晉遠に同ことを歡ず。大和尚、此の地に留連すること、巳に三日を經、卽ち潯陽の龍泉寺に向ふ。昔し遠法師、是に於て寺を立つ。水無し。發願して曰く、若し此の地に於て棲止に堪へば、當に泉を抽てしむべしと、錫杖を以て地を扣く。二の靑龍有り。錫杖を尋て上り、水卽ち飛涌す。今ま尚を其の水、地上に涌出すること三尺なり。因て龍泉寺と名く。此れより陸行して江州の城に至る。太守、追て州内の僧尼・道士・女官を集む。州縣の官人、百姓、香蕐・音樂して來り迎ひ、請し停めて三日供養す。太守、親く潯陽縣より九江驛に至る。大和尚、舟に乗り、太守と別れ去る。此れ從り七日、潤州江寧縣に至り、瓦官寺に入て寚閣に登る。閣の高さ二十丈。是れ梁の武帝の建る所なり。今に至て三百餘歳。微く傾損すること有り。昔し一夜、暴風急に吹く。明旦、人看れば、閣の下の四隅に四神の跡有り。長さ三尺、地に入こと三寸。今ま四神王の像を造て、閣の四角を扶持す。其の神跡、今尚を存す。昔し梁の武帝、佛法を崇信して伽藍を興建す。今、江寧寺・彌勒寺・長慶寺・延祚寺等有り。其の數甚だ多し。莊嚴・彫刻、巳に工巧を盡せり。大和尚の弟子の僧靈祐、大和尚の來ことを承て、遠く栖霞寺より迎へ來て大和尚に見へ、五體投地し、進て大和尚の足を接して、展轉悲泣して歡じて曰く、我が大和尚、遠く海東に向ふ。自謂へらく、一生再觀することを獲ず。今日、親く禮す。誠に盲龜の目を開て日を見るが如し。戒燈重て明に、昏衢再び朗なり。卽ち引て栖霞寺に還り、住ること三日。却て攝山を下り、楊府に歸る。江を過て、新河の岸に至り、卽ち揚子亭の旣濟寺に入る。江都の道俗、奔て道路に塡つ。江中、舟を迎て軸艫、連接す。遂に城に入て本の龍興寺に住す。
大和尚、南振州より來て陽府に至る。經る所の州縣、壇を立て戒を授く。空く過ぐる者の無し。今亦、龍興・崇福・大明・延光等の寺に於て律を講じ、戒を授く。暫くも停斷すること無し。昔し光州道岸律師は、命世の挻生、天下四百餘州、以て受戒の主と爲。岸律師遷化の後、其の弟子杭州の義威律師、響き四遠に振ひ、德、八紘に流ふ。諸州、亦以て受戒の師と爲す。義威律師、無常の後、開元廿一年。時に大和尚、年四十六に滿つ。准南・江左、淨持戒の 者、唯だ大和尚獨り秀でて倫無し。道俗、心を歸して仰て受戒の大師と爲す。凡そ前後、大律并び疏を講ずること四十遍。律抄を講ずること七十遍。輕重儀を講ずること十遍。羯磨疏を講ずること十遍。具に三學を修し、博く五乗に達す。外には威儀を秉し、内には奧理を求む。講授の閒、寺舎を造立し、十方の衆僧を供養す。佛菩薩の像を造ること、其の數無量。納の袈裟千領、布の袈裟二千餘領を縫て、五臺山の僧に送り、無遮の大會を設け、悲田を開て貧病を救濟し、敬田を啓て三寚を供養す。一切經を寫すこと三部。各々一萬一千巻前後。人を度し戒を授こと、略々計るに四萬有餘に過たり。其の弟子の中、超群抜萃、世の師範と爲る者は、卽ち揚州崇福寺の僧祥彥、潤州天響寺の僧道金、西京安國寺の僧璿光、潤州栖霞寺の僧希瑜、揚州白塔寺の僧法進、潤州栖霞寺の僧乾印、沛州相國寺僧神邕、潤州三昧寺の僧法藏、江州大林寺の僧志恩、洛州福光寺の僧靈祐、揚州旣濟寺の僧明烈、西京安國寺の僧明債、越州道樹寺の僧璿眞、揚州興雲寺の僧惠琮、天台山國淸寺の僧法雲等三十五人、并に翹楚爲り。各々一方に在て、法を弘め世に群生を導化す。
次に吉州に至った。僧祥彦が舟上において端坐していたが、思託師に問いかけて云った。
「大和尚はお睡りから覚めておられるでしょうか」
思託が、
「睡っていまだ起きられていません」
と答えると、祥彦は、
「今、(私は大和尚に)死の別れを告げたく思います」
と言う。(驚いた)思託は、大和尚にただちに(それを)申し上げた。大和尚は、香を焼き、曲几を持って来、祥彦にそれで(身体を)支えさせ、西方に向かって阿弥陀仏を念じさせた。祥彦はただ一声、仏の名を唱えると、端坐したまま寂然としてもはや言葉を発することは無かった。大和尚は、「彦、彦」と喚んで悲慟して絶えること無かった。
当時、諸州の道俗は、大和尚が嶺北から帰って来たことを聞きつけ、四方から奔って集ること一日に三百人以上。人で溢れかえり、(大和尚への)供具は輝き華やかであった。それから江州に向かって、廬山の東林寺に至った。ここは晋の時代、慧遠法師が居た所である。慧遠師がこの地に壇を立て戒を授けると、天は甘露を降らせた。それに因んで甘露壇と称されている。今なお(その戒壇が)存している。近年、天宝九載〈750〉、(大和尚の弟子の一人に)志恩律師があってこの壇上において受戒を与えた。すると、また天は甘露を雨らせて応じた。道俗は(その様子を)見聞して、晋代の慧遠と同じであると感嘆した。大和尚は、この地に留まること三日を経てから、潯陽の龍泉寺に向かった。昔、慧遠法師はここに寺を立てたが、水が無かった。そこで発願して、
「もしこの地が(仏僧の)棲み止るに相応しい場所であるならば、まさに泉を湧かせよ」
と云い、錫杖でもって地を扣いた。すると二匹のの青龍が(その地中に)あって、錫杖(が地を扣く音を何事かと)を尋ね上がってくると、水がたちまち飛ぶように湧いたのである。今なおその水は地上に涌出すること三尺。それに因んで龍泉寺と名づけられている。ここから陸行して江州の城に至った。太守はすぐさま州内の僧尼・道士・女官を集めた。州・県の官人や百姓らは香華と音楽を持ち来たって迎え、(大和尚一行に)請い停めて三日間供養した。(江州を去るにあたり)太守は自ら潯陽県から九江駅まで送り届けた。大和尚は(長江を下って揚州に向かうため)舟に乗り、太守と別れ去った。それから七日、潤州江寧県に至り、瓦官寺に入って宝閣に登った。その閣の高さは二十丈、梁の武帝が建てたものである。今に至るまで三百余年、微くか傾いている。昔ある夜、暴風が急に吹いたことがあった。その明旦、人が見ると、閣の下の四隅に四神〈四天王〉の跡があった。その長さは三尺、地に入ること三寸。今は四神王の像を造って、閣の四角を支える姿で据え付けられている。その神の跡は今もなお存している。昔、梁の武帝は仏法を崇信して伽藍を興建した。今、江寧寺・弥勒寺・長慶寺・延祚寺等があって、その数は甚だ多い。その荘厳や彫刻はまことに工巧を尽くしたものである。大和尚の弟子の僧、霊祐は、大和尚が来たことを知らされ、遠く栖霞寺から迎えに来て大和尚に見へ、五体投地し大和尚の足を(自らの額で)接し、展轉悲泣しつつ、また歓びながら、
「我が大和尚が、(揚州でお会いしたのを最後に)遠く海東に向かわれた時、私は思ったものです、この一生で再びお会いすることは出来ないだろうと。しかし今日、こうして親しく礼すことが出来ました。これはまさに盲亀が目を開いて太陽を見るようなものです〈「盲亀浮木の喩え」の転用〉。戒という灯火がより一層輝き、暗い世間が再び明るくなりました」
と言った。そして先導して栖霞寺に還り、ここに留まること三日。それから摂山〈栖霞寺のある山〉を下り、楊府〈揚州〉に帰った。長江を過ぎて新河の岸に至り、揚子亭の既済寺に入った。江都の道俗は、奔り集まって道路に塡ち溢れ、その河は(大和尚を出迎えようと)舟がせめぎ合うようにして連なった。そして遂に(大和尚らは揚州の)都城に入って、元いた龍興寺に還住したのである。
大和尚は南は振州から来たって陽府に至った。経た所の州・県(すべて)で壇を立て戒を授け、空く通り過ぎたことは無かった。今はまた、(故郷揚州の)龍興寺・崇福寺・大明寺・延光寺などの寺において律を講じ、戒を授けた。暫くであっても(伝戒・講律の日々を)止めて休むことはなかった。昔、光州の道岸律師は、(大和尚より一世代前の)時代にもっとも優れ抜きん出ていた人で、天下四百余州における受戒の主であった。道岸律師が遷化した後、その弟子で杭州の義威 律師は、(その名声を)響かせ四遠〈四方の遠く〉にまでに振るい、その徳(の高いこと)が八紘〈全国〉に伝えられて、諸州はまた受戒の師とした。義威律師が無常〈逝去〉した後、開元廿一年〈733〉、時に大和尚の齢四十六、准南・江左における淨持戒の者としてただ大和尚独り秀でて倫無かった。(この地の)道俗は心から帰依し仰いで受戒の大師とした。凡そこの前後、大律〈律蔵.特に『四分律』〉ならびにその疏〈注釈書〉を講じること四十遍。『律抄』〈道宣『四分律抄』〉を講じること七十遍。『軽重儀』〈道宣『四分律軽重儀』〉を講ずること十遍。『羯磨疏』〈道宣『四分律刪補随機羯磨疏』〉を講じること十遍。具に三学〈戒・定・慧の修道階梯〉を修め、博く五乗〈人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗〉に通達していた。外には威儀を秉し〈厳しく修め実行すること〉、内には奧理を求めた。授講の合間に寺院・精舎を造立し、十方の衆僧を供養した。仏・菩薩の像を造った数は無量である。納の袈裟〈納衣.ボロ布を繋ぎ合わせて仕立てた衣〉千領、布の袈裟〈割截衣.小布を縫い合わせて仕立てた衣〉二千余領を縫って、五台山の僧に送り、無遮の大会〈対象を限定せず来たった全てに食を施す法会〉を設け、悲田〈社会的弱者の救済施設〉を開いて貧病を救濟し、敬田〈僧のための福祉施設〉を啓いて三宝を供養した。一切経を書写させること三部、各々一万一千巻前後。人を度して戒を授けること、略々数えて四万有余人にのぼる。その弟子の中、群を抜いて特別秀でて世の師範たる者は、揚州崇福寺の僧祥彦、潤州天響寺の僧道金、西京安国寺の僧璿光、潤州栖霞寺の僧希瑜、揚州白塔寺の僧法進、潤州栖霞寺の僧乾印、沛州相国寺僧神邕、潤州三昧寺の僧法蔵、江州大林寺の僧志恩、洛州福光寺の僧霊祐、揚州既済寺の僧明烈、西京安国寺の僧明債、越州道樹寺の僧璿眞、揚州興雲寺の僧惠琮、天台山国清寺の僧法雲など三十五人、いずれも翹楚〈他に抜きん出た人〉である。それぞれが一方に在って法を弘め、世間の群生〈生ける者ども.人々、衆生〉を導化した。