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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』

訓読

夜發して三日を經て、乃ち振州しんしゅうの江口に到て、舟をとどむ。其の經紀けいきの人、徃て郡に報す。其の別駕べつが馮崇債ふう しゅうさい、兵四百餘人をつかはして、來り迎へて引て州城に至る。別駕、來り迎て乃ち云く、弟子、早く大和尚の來を知る。昨夜、夢に僧、姓は豐田と云もの有り。當に是れさいしゅうとなるべし。此の閒に若し姓、豐田と云者の有りや否や。衆僧、皆な云ふ、無しと。債の曰く、此の閒に姓、豊田なる人無と雖とも、今大和尚卽ち將に弟子の舅なるべし。卽ち迎て宅内に入れて齋を設て供養す。又、太守の廳内に於て會を設け、戒を授く。仍て州の大雲寺に入れて安置す。其の寺の佛殿、壞廃えはいす。衆僧、各々衣物を捨てて佛殿を造る。とどまること一年にして造り了ぬ。別駕馮崇債、自ら甲兵八百餘人を備へて送て、四十餘日を經て、萬安州ばんあんしゅうに至る。州の大首領、馮若芳ふう じゃくほう、請じて其の家にとどめ三日供養す。若芳、年每に常に波斯はしの舶三二艘をかすめ取り、物を取て已が貨とし、人をかすめ奴婢ぬひとす。其の奴婢の居處、南北三日に行き、東西五日に行く。村村相次で、總て是れ若芳が奴婢の住處なり。若芳、客を會するに、常に乳頭香にゅうとうこうを用て燈燭とうしょくと爲して、一焼に一百餘いっぴゃくよきん。其の宅後に、蘇芳木すおうぎ露積して山の如し。其の餘の財物、亦此かなふ。行て岸州界に到て賊無し。別駕、乃ち廻り去る。榮叡ようえい普照ふしょう師、海路より四十餘日をて、岸州に到る。州の遊弈ゆえき大使張雲ちょううん、出迎へて拜謁し、引入して開元寺に住せしむ。官寮參省、齋を設け、物を施すこと一屋に盈滿えいまんす。彼の處の珍異口味、乃ち益知子やくちし檳椰子びんろうし茘支子れいしし龍眼りゅうがん甘蕉かんしょう拘莚樓頭くえんるとう有り。大さ鉢盂の如し。甘こと蜜よりも甜し。花は七寚色の如し。膽唐香樹、聚り生ひて林を成す。風至れば香、五里の外に聞ふ。又、波羅奈樹はらなじゅ有り。菓の大さ冬瓜とうがんの如し。樹は榠楂かりん畢鉢草子ひっぱそうしに似たり。同く今ま葉を見るに水蔥すいそうの如し。其の根の味ひ、乾柿ほしがきに似たり。十月、田を作り、正月、あわを収む。かいこを養こと八度び、稻を収ること再度び。男は木笠を著け、女は布絮ふじょを著く。人皆なひずめを彫り、齒をり、面に繍し、鼻に飮む。是れ其の異なり。大使巳下、典正てんしょうに至て、番を作て衆僧を供養す。大使自らてづから食を行く。優曇鉢樹うどんはじゅの葉を將て、以て生菜に充つ。復た優曇鉢うどんぱたねて、衆僧に供養す。乃ち云く、大和尚知や否や、此は是れ優曇鉢樹の子なり。此の樹、子蕐しけ有り。弟子、大和尚に遇上ることを得るは、優曇鉢蕐の甚だ値遇難きが如し。其の葉は赤色、圓なること一尺餘。子の色、紫丹にして、氣味、甜美なり。彼の州、火に遭て寺共に焼らる。大和尚、大使の請を受て寺を造る。振州の別駕、大和尚、寺を造り下へるを聞て、卽ち諸奴を遣して各々一椂いちろくたてまってしむ。三日の内、一時にきたって、卽ち佛殿・講堂・㙛塔せんとうを構ふ。椂木ろくもくの餘、又、釋迦文しゃかもん丈六じょうろくの佛像を造る。登壇受戒、律を講じて人を度すること巳に畢て、卽ち大使に別れ去る。仍て澄邁ちょうまいを差す。縣の令、看送して船に上らしむ。三日三夜にして𠊳ち雷州らいしゅうに達す。羅州らしゅう辨州べんしゅう象州ぞうしゅう白州はくしゅう傭州ようしゅう藤州とうしゅう梧州ごしゅう桂州けいしゅう等の官人・僧・道・父老、迎送、禮拜、供養、承事す。其の事、はかること無し。言、記すべからず。

始安しあん都督ととく、上黨の公馮古璞ふう こはく等、歩より城外に出て、五體ごたいを地に投げ、足を接してらいす。引て開元寺に入れて、初めて佛殿を開く。香氣、城に滿つ。城中の僧徒、幢をささけ香を焼き、梵を唱て、雲の如くに寺中に集る。州縣官人、百姓ひゃくせい街衢がいくち滿て、禮拜讃歡すること日夜に絶へず。都督來て、自らてづから食を行き衆僧を供養し、大和尚を請じて菩薩戒を受く。其の所の都督、七十四州官人、選擧せんきょ試學しがくの人、しかしながら此の州に集り、都督に隨て菩薩戒を受る。人、其の數無量なり。大和尚、留住すること一年。時に南海郡なんかいぐんの大都督、五府經略採訪大使、攝御史中丞、廣州太守廬煥ろかん、牒を諸州に下して大和尚を迎て、廣府こうふに向はしむ。時にふう都督、親く送んことを求む。大和尚を自らたすけて、船に上て口つから云く、古璞こはく、大和尚と終に彌勒の天宮に至て相見んと。悲泣して別れ去る。

桂江を下ること七日、梧州に到る。次、端州たんしゅうの龍興寺に至る。榮叡ようえい師、奄然えんねんとして遷化せんげす。大和尚、哀慟悲切なり。䘮を送て去る。端州の太守、迎へ引て送て、廣州こうしゅうに至る。都督、諸の道俗を率て出でて城外に迎へ、恭敬、承事す。其の事、無量。引て大雲寺に入れて、四事供養し、登壇受戒す。此の寺に呵梨勒樹かりろくじゅ二株有り。子、大棗たいそうの如し。又、開元寺に胡人こじん有り。白檀を以、蕐嚴經けごんきょう九會くえを造る。工匠六十人を率て三十年にして造り畢ぬ。物を用ること、三十萬貫錢なり。天竺てんじくゆかんとほっす。採訪使劉臣鄰りゅう しんりん、奏状す。勑して開元寺に留めて供養す。七寚莊嚴、思議すべからず。又、婆羅門ばらもんの寺三所有り。並に梵僧居住す。池に靑蓮蕐有り。蕐・葉・根・茎、並に芬馥ふんぷく奇異なり。江中に婆羅門・波斯・崑崙こんろん等の舶有り。其の數を知らず。並に香藥・珍寚を載て、つみのすこと山の如し。其の舶、深さ六、七丈、獅子國ししこく大石國だいしゃくこく骨唐國こっとうこく白蠻びゃくばん赤蠻しゃくばん等、徃來居住、種類極て多し。州城三重、都督、六纛ろくとうを執り、一纛いっとう一軍、威嚴天子に異ならず。紫緋しひ、城に滿ち、邑居ゆうきょ逼側ひっそくす。大和尚、此に住すること一春。發して韶州しょうしゅうに向ふ。城を傾て遠に送る。江に乗すること七百餘里。韶州禪居寺ぜんごじに至り、留住るじゅうすること三日。韶州の官人、又送て引て法泉寺ほうせんじに入る。乃ち是れ則天、慧能えのう禪師の爲に造れる寺なり。禪師の影像、今ま現在す。

後ち開元寺に移す。普照ふしょうこれより大和尚を辭して嶺北れいほくに向ひ、明州の阿育王寺に去る。是の歳、天寚九載なり。時に大和尚、普照師の手を執て悲泣ひきゅうして曰く、戒律を傳んが爲、願を發して海を過ぐ。遂に日本國に至らず。本願遂げず。是に於て手を分て感念、たとへること無し。時に大和尚、しきりに炎熱を經て、眼光暗昧なり。爰に胡人有り。能く目を治すと言つて療治を加ふれとも、眼、遂に明を失す。後ち靈鷲寺りょうじゅじ廣果寺こうかじに巡遊して、登壇受戒し、貞昌縣ていしょうけんに至り、大庾嶺たいゆれいを過、處州しょしゅうの開元寺に至る。僕射ぼくや鍾紹京しょう しょうけい、左隣此に在りて大和尚を請じて宅に至らしめ、壇を立てて戒を受く。

現代語訳

(漁村を)夜発って三日を経ると、振州しんしゅうの入り江に到り舟を停泊。その地の商人が郡官に報告した。その別駕べつが〈副長官.次官〉馮崇債ふう しゅうさいが兵士四百余人をつかわして迎へに来たため、その導きで州城に入った。別駕が来たり迎えて云った。
「弟子〈私.馮崇債〉はすでに大和尚の来られるのを知っておりました。というのも昨夜、夢に僧で姓が豊田という者が出てきたのです。まさにそれはさいしゅうと〈母の兄弟. または夫もしくは妻の父〉であるに違いありません。皆さんの中にもしや姓が豊田と云う者がありませんか」
しかし衆僧は皆、
「ありません」
という。そこで債は、
「ここに姓が豊田という人が無いとしても、今の大和尚はまさに弟子の舅であります」
と言い、迎えて宅内に入れ斎を設けて供養した。また太守の庁内にて法会を設け、(大和尚は)戒を授けた。そこで振州の大雲寺に招き入れて安置された。その寺の仏殿は荒廃していたため、衆僧はそれぞれ(私有する)衣物を売却して仏殿を造ることとなり、留まること一年にして造り終わる。別駕馮崇債は、(鑑真一行が振州を後にするに際し)自ら武装した兵八百余人と共に送り出し、四十余日を経て、万安州ばんあんしゅうに至った。万安州の大首領である馮若芳ふう じゃくほうは、(鑑真一行を)請じてその家に留め、三日間供養した。若芳は、年每に常に波斯はし〈Persia〉の交易船三、二艘をかすめ取り、物を略奪して自らの貨とするばかりでなく、人をもかすめ奴婢ぬひとしていた。その奴婢の居処は、南北に三日行き東西に五日に歩いて行く(広大な)範囲にある。(そこには)村村が散在しており、すべてそれらは若芳の奴婢の住処であった。若芳は客をもてなすのに、常に乳頭香にゅうとうこうを用いて灯燭とうしょくとし、一度これを焼くのに一百余斤〈60kg超〉も使っていた。その邸宅の後ろには、蘇芳木すおうぎ〈高級木材〉が露地に積まれて山のようにあった。その他の財物もまた、それと同じようなものであった。(万安州を)発って崖州の領域に到ると、もはや(万安州のように)賊(が跋扈すること)は無かった。(振州の)別駕(馮崇債)はここで還り去っていった。栄叡と普照師は(鑑真らとは別行動にて)海路で四十余日を経て崖州に到った。州の遊弈ゆえき大使張雲ちょううんはこれを出迎えて拝謁し、引き入れて開元寺に住まわせた。その官寮や参省は斎会を設け、供物を施すこと一部屋に溢れるほどであった。その場所における(食べ物は)珍しく口にしたことがないものばかりである。すなわち、益知子やくちし〈未詳〉檳椰子びんろうし〈ビンロウ〉茘支子れいしし〈ライチー〉龍眼りゅうがん〈ロンガン〉甘蕉かんしょう〈バナナ〉拘莚樓頭くえんるとう〈ドリアン?〉など。その大きさは鉢ほどもあり、その甘さは蜜よりも甜い。花は七宝色のようである。膽唐香樹は群生して林を形成している。風が吹けばその香りは五里の外にまで聞こえる。また、波羅奈樹はらなじゅ〈ジャックフルーツ?〉がある。その実の大きさは冬瓜とうがんのようである。樹は榠楂かりん畢鉢草子ひっぱそうし〈未詳〉に似ている。同じく今その葉を見ると水蔥すいそう〈未詳〉のようである。その根の味わいは乾柿ほしがきに似ている。十月に田を作り、正月にあわを収穫する。かいこを養うこと(年)八度、稲を収穫すること二度である。男は木笠を著け、女は布絮ふじょ〈綿布〉を著ける。人は皆、ひずめを彫り、歯をり、顔に入れ墨して鼻で飮む。これらがその(土民の)特異な点である。大使以下、典正てんしょう〈女官〉に至るまで、番を作って衆僧を供養した。大使自らてづから食を勧めもてなした。優曇鉢樹うどんはじゅ〈uḍumbara〉の葉を用いて生菜に充て、また優曇鉢の種子を衆僧に供養した。(大使が)そうしながら云った。
「大和尚、ご存知でしょうか。これは優曇鉢樹の種子であります。この樹には実をつける華があります。弟子がこうして大和尚にお会い出来るのは、(三千年に一度咲くという)優曇鉢が華を咲かせるのを見るのが甚だ難しいようなものです」
その葉は赤色で丸く一尺余り〈23cm強〉。種の色は紫丹であって、その味は甜美である。この(崖)州では、火災があって寺も共に焼けていた。そこで大和尚は大使の請いを受けて寺を造った。振州の別駕(馮崇債)は、大和尚が寺を造られるのを聞いて、すぐに奴婢達を派遣し、各々一椂〈樹名。材木一本〉を奉献させた。三日のうち、一時に持ち来たって、たちまち仏殿・講堂・㙛塔せんとうを構築した。椂木ろくもくの余りをもって、また釈迦文しゃかもん〈Śākya-muni. 釈尊〉丈六じょうろくの仏像を造った。(大和尚は、ここに崖州に滞在中、人々に)登壇授戒し、律を講じて人を度した後、大使に別れを告げて去った。そこで澄邁ちょうまいに進んだ。(澄邁の)県令は(鑑真一行を)看送して船に上らせ、三日三晩をかけて雷州らいしゅうに到達した。羅州らしゅう弁州べんしゅう象州ぞうしゅう白州はくしゅう傭州ようしゅう藤州とうしゅう梧州ごしゅう桂州けいしゅう等の官人や僧徒、道人・父老などが迎送、礼拝、供養、承事すること、はかり知れないほどであって、ここに詳しく記すことは出来ない。

始安しあん都督ととく、上党公馮古璞ふう こはくなど、徒歩で城外に出て、(和尚に)五体ごたいを地に投げ、足を接してらいした。そして先導して開元寺に入れ、初めて仏殿を開いた。するとその香気が城に満ち溢れた。城中の僧徒は幢をささげて香を焼き、梵唄を唱えつつ雲のように寺中に集ってきた。州や県の官人など百姓ひゃくせい〈万民〉が、街衢がいくち満ち、礼拝讃嘆して日夜に絶えることがなかった。都督が来て自らてづから食を勧めて衆僧を供養し、大和尚に請うて菩薩戒を受けた。その地の都督ばかりか七十四州の官人、選擧せんきょ試學しがくの人〈科挙による官吏〉も連なってこの(桂)州に集まり、都督に続いて菩薩戒を受けた。その人の数は無量であった。大和尚は(ここに)留住すること一年。時に南海郡なんかいぐんの大都督、五府経略採訪大使、摂御史中丞、広州太守廬煥ろかんは牒を諸州に下して大和尚を迎え、広府こうふに向かわせた。そこで(桂州の)ふう都督は、親しく(広州まで)送ることを求めた。大和尚を自らたすけて船に上がり、口ずから
古璞こはく〈私〉は、大和尚と終〈来世〉には弥勒の天宮に至り、(そこでまた再び)お会いしたいと存じます」
と言い、(今生では二度と会えないことを知って)悲泣しつつ別れ去った。

桂江を下ること七日、梧州に到った。それから端州たんしゅうの龍興寺に至った。(するとここで)栄叡師が奄然えんねんとして遷化せんげした。大和尚の哀慟すること悲切であった。しばらくその喪に服してから(龍興寺を)去った。端州の太守は、(大和尚一行を)迎え導き、広州こうしゅうに至った。都督は、諸々の道俗を率いて城外に出て(一行を)迎えて恭敬し、歓待すること無量であった。(一行を)先導して大雲寺に入れて四事供養し、登壇受戒した。この寺に呵梨勒樹かりろくじゅ〈Harītakī〉が二株あった。その果実は大棗おおなつめのようである。また、開元寺には胡人こじん〈中央または西アジアの人〉があった。白檀でもって「華厳経けごんきょう九会くえ〈『華厳経』が七処九会に渡って説かれた様子〉(の彫像)を造っていた。工匠六十人を率いて三十年にして造り終わったものであり、その費用は三十万貫銭であった。ここで(大和尚は)天竺てんじく〈印度〉こうと思われている。そこで採訪使の劉臣鄰りゅう しんりんは、これを(中央に)奏状した。すると勑によって開元寺に留めて(大和尚一行を)供養することとなった。(広州開元寺が)七宝にて荘厳されている様子は(圧倒されるほど見事なもので)思いもよらないものであった。また、(広州には)婆羅門ばらもんの寺が三ヶ所あり、いずれも梵僧が居住していた。その池には青蓮華があり、華・葉・根・茎のいずれもが香気たかく奇異であった。その入り江には婆羅門〈インド〉・波斯〈ペルシア〉崑崙こんろん〈東南アジア〉等の舶があって、その数は計り知れないほどである。いずれも香薬・珍宝を載せて、積載すること山のようである。その舶の深さは六、七丈〈約14-16m〉獅子国ししこく〈セイロン〉大石国だいしゃくこく〈中東の国〉骨唐国こっとうこく〈中東の国〉白蛮びゃくばん〈白人〉赤蛮しゃくばん〈メラネシア人?〉等、ここに往来しまた居住する人の種類は極めて多い。州城は三重の壁に囲まれており、都督は六纛ろくとう〈六つの旗鉾〉を執り、一纛いっとうが一軍(の統帥権を象徴したもので)、その威厳は天子〈皇帝〉に異ならない。紫衣や緋衣(を着用した貴族・高官)は城内に満ち、その住まいがひしめき合っていた。大和尚はこの地に留まること一春〈三ヵ月〉。発って韶州しょうしゅうに向かったが、(その別れを惜しむ広州の)宮城の人々皆が遠くまで見送った。近海を(船に)乗って進むこと七百余里〈約400km弱〉。韶州の禅居寺ぜんごじに至って留住るじゅうすること三日。韶州の官人はそこから送り先導して法泉寺ほうせんじに入った。そこは武則天が慧能えのう禅師〈南宗禅の祖.六祖慧能〉の為に造った寺である。禅師の影像〈頂相.肖像画〉が今も現存している。

その後、(韶州の)開元寺に移った。普照ふしょうはここから大和尚の元を辞し、嶺北れいほくに向かって明州の阿育王寺に去っていった。この歳、天宝九載〈750〉。その時、大和尚は普照師の手を執って悲泣ひきゅうして言われた。
「戒律を伝える為、誓願を発して海を過ぎるも、ついに日本国に至れなかった。本願を遂げることが出来なかった」
そのようにして(互いに)手を離れて別れる(悲しく悔しい)思いは、喩えようもなかった。ある時、大和尚はしきりに高熱を発せられ、視力が衰えていった。すると一人の胡人があり、よく目を治すと言って療治を加えたけれども、眼は遂に光を失った。その後、霊鷲寺りょうじゅじ広果寺こうかじを巡遊して登壇受戒し、貞昌県ていしょうけんに至って大庾嶺たいゆれいを過ぎ、処州しょしゅうの開元寺に至った。僕射ぼくや鍾紹京しょう しょうけいは(当時、)左降〈左遷〉されてここに在り、大和尚に請うて宅に招き入れ、壇を立てて戒を受けた。