冒頭述べたように、ここで紹介する『法句譬喩経』にて取り上げられている、漢訳の『法句経』にはその回答・根拠の一つとなる以下のような一節が伝えられています。
不誦爲言垢 不勤爲家垢
不嚴爲色垢 放逸爲事垢
慳爲惠施垢 不善爲行垢
今世亦後世 惡法爲常垢
垢中之垢 莫甚於癡
學當捨惡 比丘無垢
誦さぬことは言葉の垢、勤めぬことは家の垢であり、
厳粛ならざることは身なりの垢、放逸は修道の垢である。
物惜しみは恵施の垢であり、不善は行の垢であって、
現世にもまた後世にも、悪法は常に垢である。
垢の中の垢には、癡より甚しきものは無い。
道を学ぶ者はまさに垢を捨てよ。比丘達よ、無垢たれ。
『法句経』巻下(T4, p.568b)
またその理解をより確かにするために、パーリ三蔵におけるDhammapadaでの該当する偈文も以下に示します。
asajjhāyamalā mantā, anuṭṭhānamalā gharā.
malaṃ vaṇṇassa kosajjaṃ, pamādo rakkhato malaṃ.
malitthiyā duccaritaṃ, maccheraṃ dadato malaṃ.
malā ve pāpakā dhammā, asmiṃ loke paramhi ca.
tato malā malataraṃ, avijjā paramaṃ malaṃ.
etaṃ malaṃ pahantvāna, nimmalā hotha bhikkhavo.
読誦しないのは経典の汚れであり、手入れしないのは家屋の汚れである。
怠惰であることは身なりの汚れであり、不注意であることは真理を護る者の汚れである。
不倫は女の汚れであり、物惜しみは施す者の汚れである。
悪法はこの世においても来世においても汚れである。
これらの汚れよりも甚だしい汚れ、それは無明であり、汚れの最たるものである。
比丘たちよ、この汚れを捨て去り、汚れ無き者となれ。
KN. Dhammapada, Malavagga 241-243 (2.18)
この偈文は決して「仏教徒は読経せよ」などということを言うために説かれたものではありません。その主旨は「無明こそが汚れの最たるものである」ということ、そして「修道者らはその汚れを拭い去って汚れなくあれ」ということです。しかし、この冒頭は、まさしく「なぜ読経するのか」の根拠の一つとなっています。
ただし、この一節はあまりに短すぎ、具体性に欠けます。その根拠となりえるものではありますが、「なぜ?」ということに対する回答としては弱いものです。そこで『法句譬喩経』の所説はそれを補完するものとなります。
ここでは紹介しませんが、それは南方の分別説部の大成者とも言うべき大徳BuddhaghosaによるDhammapadaの注釈書、Dhammapada-aṭṭhakathāにおいても同様で、仏教徒がその当初からなぜ読経してきたかの意義・理由を示したものとなっています。
ただ『法句経』だけを示したのみであれば、あるいは精髄反射的に「それは初期の仏教徒や、南方の仏教徒についてのみ言えたことであって、大乗をこそ信仰してきた日本では関わりの無い話であろう」などといった、浅薄な反論を試みる者も現れるかもしれない。しかし、ここで示した仏教における根本的とも言うべき読経というものにたいする態度・位置づけは、近世の日本における大徳においても、まったく同様に取られていました。
経巻は元より処に隨て読誦し思惟して、佛の教勅を忘却せぬ為じゃ。そう心得て護持せられよ。
経典とは元来、適切な時と場所で読誦し、その意義を思惟して、仏陀の教えを忘れないようにするためのものである。そう心得て経典を護持しなさい。
『慈雲尊者法語集』
このような態度・理解は、なにも人の合理的・批判的精神が広く開花した近世において初めて取られだしたものではありません。それはさらに遡って中世鎌倉期の大徳においても同様でした。
人は我祈の為とて、経陀羅尼の一巻をも読まず、焼香礼拝の一度をもせずとも、心身正くして、有べき様にだに振舞はば、一切の諸天善神も是を護り給へり。願も自ら叶ひ、望もたやすく遂るなり。六借く、こせめがんよりも、何もせずして、只正くしてぞ在べき。心づかひは、物に触て、誑惑がましく、欲深く、身の振舞は、いつとなく、物荒く、不当に放逸にては、証果の羅漢僧に誂て、百萬の経巻を読しめ、千億の仏像を造て祈る共、口穢て経読者の罰あたるが如し。心穢て祈する者は、弥よ悪き方には成り行く共、所願の成就する事は、ふつと有まじきなり。其を愚なる者、心をば直さずして、己れが恣ままの欲心計に纏されて、祈らば何にか叶はざらんと、猥りに憑を懸て、愚痴なる欲心深き法師請取て、心神を悩し、骨髄を摧て、祈り叶へぬ物故に、地獄の業を作り出すこそ、げに哀に覚ゆれと云々。
人は「自分の願いを叶えたい」としても、経典や陀羅尼の一巻ですら読誦する必要などなく、焼香や礼拝を一度でもしなくとも、心と身体の行いを正しくして「あるべきよう」に生活していれば、すべての諸天善神もその人を守護してくれるのだ。その願いも自然に叶い、望みも容易に遂げることができるだろう。見苦しく、恨みがましく祈るより、なにもしないでただ(自らを)正してあるべきである。
心根が、モノを見聞きするにつけ、欲に惑わされるほど欲深で、身の振る舞いが常に粗暴で節度なく勝手気ままであっては、悟りにいたって阿羅漢となった聖僧に頼みこみ、百万もの経典を読誦させたり、一千億体の仏像を造立したりしたとしても、普段口汚い者が経典を読めばむしろ罰があたるようなものである。
心が穢れていながら祈る者は、ますます悪い状況になっていくことはあっても、願いが叶うことなどまったくありえない。にもかかわらず愚かな者は、自分の心を正しもせず、己の自分勝手な欲望に踊らされて「祈りはきっと通じるだろう」などと矢鱈に願を掛け、愚かで道理のわからぬ強欲な僧侶に(読経・祈祷などを)請いて、心を悩まし苦心惨憺して、祈りを叶えようとする。が、それはむしろ地獄へ堕ちる業となるに過ぎず、(私にはそのような者らの「祈り」が)真に哀れに思えてならない。
高信『栂尾明恵上人遺訓(阿留辺畿夜宇和)』
ここで明恵上人は、「願いを叶えるために読経する」などということを全く否定しています。