明恵上人よりやや時代の下った僧で、当時の人々から「生人の釈迦」とさえ称えられ崇められていた叡尊は、これも明恵上人や慈雲尊者の言葉と同様の主旨でありますが、以下のように弟子たちに訓戒しています。
一、学問可レ得レ韻事
或時ノ御教訓云、学問スルハ心ヲナヲサム為ナリ。当世ノ人ハ物ヲヨク読付ムトノミシテ心ヲナヲサムト思ヘルハナシ。学問ト申ハ、先其ノ義ノ趣ヲ心得テ常ニ我心ヲ聖教ノ如クナリヤ否ト知ナリ。我心ヲ聖教ノ鏡ニアテ見ルニ、教ニ背クトコロヲバ止メ、自ラアタルヲバ弥ハゲマシ、道ニスヽムヲ学問トハ申ナリ。只暫ク文字ヲバイツモ読付ラレヨ。先イソギ各心ヲ直サルベシ。心ヲ直サヌ学問シテ何ノ詮カアル。イカニ聖教ヲ習トイヘドモ、菩提心ナキ人ハ冥加ナキ也。只ヨロヅヲ差置テ菩提心ヲ発テ、其上ニ修行スベシ。足手ヲ不レ安修行スルヲバ所依ト名ク。心ヲ直スヲモテ修行ノ源トスベシト云々。
一、学問は韻を得べき事
ある時のご教訓で(叡尊和上は)仰せになった。
「(仏教において)学問するのは、心を直すためである。最近の人は、ものをよく読みつけて知ろうとするばかりで、心を直そうと思う者が無い。そもそも(仏教において)学問するということは、まずその教えの意図を理解し心得て、それから常に自分の心が聖教に説かれる教えの通りであるか否かを確認していくものである。自分の心を聖教という鏡に映しだし、教えに背くところがあれば止め、教えに沿っているところはますます励まして道を進んでいくこと〈いわゆる四正勤〉、それを(仏教における)学問と云うのである」
「ただ少しの時間であっても、仏典を常日頃から読むようになさい。そうして先ずは、急ぎそれぞれ己が心を直さなければならない。心を直さぬ学問などして、どのような意味があるというのか。どれだけ多くの聖教を習い憶えたとしても、菩提心の無い人には功徳などない。ただ万事を差し置いて菩提心を発し、その上で修行しなければならない。手足を休めず(怠ること無く)修行することを所依と言う。心を直すことをもって、修行の核心とすべきである」
『和上御教誡等打聞撰集(興正菩薩御教誡聴聞集)』
まさに至言。
実際、そのようなものであると理解し、無闇矢鱈に唱える人が多いことは今も昔も変わりないことでありましょうが、経典とは決して、それを読誦するだけで何事か意味のある、あやしげな呪文のごときものではありません。また、読誦自体は決して「他人のため」・「亡者のため」・「先祖のため」のものではありません。その内容を記憶し理解し、我が心身に薫習して、あくまで「現実の己が行動」に反映させるために読誦するのです。
人というものは「一度聞いたならば、直ちに、十全にそれを行うことが出来る」などというものでは全く無い。故に繰り返し繰り返し、一つ一つ学び、理解し、日々行わなければならない。
これはすべての勉学についても、スポーツなどについても全く同様に言えることで、別段宗教的云々に限ったことではありません。繰り返し習い行い、自らをその理想とする状態へと近づけていく。弛まぬ努力を続け、それまで知らなかった物事を知り、理解していく。そう、修行とはそういうものです。
修行とは、冬にエイエイ気合を入れながらザバザバ冷たい水を浴びたり、雪降る中でモゴモゴ読経しながら滝に打たれたり川に入ったり、断食や極度の粗食をしたり、まるで意味の分かっておらぬ真言陀羅尼を何万遍も唱え続けたりすることでも、ドンドコドコドコ太鼓を鳴り響かせながらワーワー経文を唱えたりすることでも、白装束で野山を長距離歩き回ったりすることでも、護摩など延々と行ってその炎をヤセ我慢したりすることなどでも決してない。
それら世間で「キビシーシュギョー」と思われている振る舞いは、その見た目も聞こえも派手で、素人目には「いかにも何かやっている」・「やんごとない」などと感じられることではあるのでしょう。見た目にその迫力があることから、圧倒されてそのように感じられるのです。けれども、それらの行為自体に価値ある中身などまるでありはしません。もしそれを人にわざわざ公開してやっている者があったとすれば、それは畢竟、信仰(金)集めのための純然たる演技でしかない。
明恵上人は、仏道修行の本質についてこのような事を言われていたといいます。
或る時云はく。末世の衆生 、仏法の本意を忘れて、只、法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀をたつなり、衣を着ざるなり、又学生也、真言師也とのみ好みて、更に宗と貴むべき仏心を極め悟る事を弁へざる也。上代大国、猶此の恨みあり。況んや末世辺州、何ぞ始めて驚くべきやと。上人常に語り給ひしは、光る物貴くは、蛍・玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天小野皇などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智の姿なりとも、是をぞ梵天・帝釈天も拝し給ふべき。
あるとき(明恵上人が)仰せられた。
「末世の人々は、仏教の本意を忘れて、ただ法師が尊いのは(不思議な)光を放つからだ、(神通力があって)空中を飛ぶからだ、断食するからだ、(寒い中でも)衣を着ないからだ、あるいは博識だからだ、真言密教で祈祷をするからだ、といった事ばかり取り沙汰し、決してその核心として貴ぶべき仏の悟りを極め悟ろうとすることがない。とは言え、仏ご在世のインドにおいても、やはりこの様なことが無かったわけではない。ましてや今のような末世の辺境国たる日本では、今更驚くべき事でもなかろう」
そして上人は常日頃、このようにも語られていた。
「光る物が貴いというのであれば、蛍や玉虫を貴べばよい。飛ぶ物が貴いと言うのであれば、鳶や烏も貴いことになるだろう。断食や衣を着ないのが貴いと言うのであれば、蛇が冬眠で穴に籠もっているのや、尾長虫の裸で地面を這っているのを貴んだらいい。博識な者が貴いというならば、頌詩を作るのに通じ、古典を多く暗誦していたという白楽天や小野篁をこそ貴んだらよかろう。しかしながら、詩賦の才能によって閻魔の(老・病・死という)棒を避けることなど出来はしない。それゆえに博識な僧など虚しいものあって、殊更に貴ぶ必要などない。ただ仏陀がこの世に現れて成し遂げられ、教え残されたことを悟らんとすることにこそ励むべきである。たとえ文盲・無知であっても、悟りを求めて努め励む者をこそ、梵天や帝釈天は礼拝するだ」
『栂尾明恵上人伝記』巻上
実は、このような明恵上人と同様の思考、やたらと不可思議な事象を取り沙汰してアリガタイと思ったり、寒行・断食などすることこそトウトイ修行であると考えたり、博識で弁説巧みな者をアリガタイと見なしたりすることの批判は、仏陀ご在世の昔において、しかも優れた尼僧によって、すでになされていたことです。
それは、寒さの中で川に入ることで「自己を清められる」・「悪業を消し去れる」などと考え実践していたバラモンへの、 Puṇṇāという長老尼からの批判と教示とを伝える、以下の偈において見ることが出来ます。
udahārī ahaṃ sīte, sadā udakamotariṃ.
ayyānaṃ daṇḍabhayabhītā, vācādosabhayaṭṭitā.
“kassa brāhmaṇa tvaṃ bhīto, sadā udakamotari.
vedhamānehi gattehi, sītaṃ vedayase bhusaṃ”.
jānantī vata maṃ bhoti, puṇṇike paripucchasi.
karontaṃ kusalaṃ kammaṃ, rundhantaṃ katapāpakaṃ.
yo ca vuḍḍho daharo vā, pāpakammaṃ pakubbati.
dakābhisecanā sopi, pāpakammā pamuccati.
ko nu te idamakkhāsi, ajānantassa ajānako.
dakābhisecanā nāma, pāpakammā pamuccati.
saggaṃ nūna gamissanti, sabbe maṇḍūkakacchapā.
nāgā ca susumārā ca, ye caññe udake carā.
orabbhikā sūkarikā, macchikā migabandhakā.
corā ca vajjhaghātā ca, ye caññe pāpakammino.
dakābhisecanā tepi, pāpakammā pamuccare.
sace imā nadiyo te, pāpaṃ pubbe kataṃ vahuṃ.
puññampimā vaheyyuṃ te, tena tvaṃ paribāhiro.
(プンナー長老尼曰く、)
「私は(出家する以前、)水運び女として、貴婦人たちに罰せられることを恐れつつ、また怒りの言葉を浴びせられるのを恐れつつ、寒く感じるときでも常に水の中に入っていました。バラモンよ、あなたは誰を恐れて常に水の中に入るのですか?あなたはひどい寒さを感じて、体を震わせているではないですか」
(水浴するバラモン曰く、)
「おおプンナーよ、あなたは実に私が(水浴という)善い行いをなし、悪しき行いを断っていることを知っていながら、(そのような)質問をしているのだな。老いた者でも若き者でも誰であれ、たとい悪しき行いをなしたとしても、彼は水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来るのだ」
(プンナー長老尼曰く、)
「いったい誰が、無知でありながら(あなたのような)無知なる者に、『水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来る』などということを語ったのでしょうか?」
「(もしそれが真実であるとすれば、)蛙や亀や蛇や鰐など、その水の中にうごめくもの全ては(何もせずとも、死後には)必ず天界に赴くこととなるでしょう」
「(そして、もしそれが真実であるとすれば、)羊の屠殺人・豚の屠殺人・漁師・鹿の狩人・盗賊・死刑執行人など、悪しき行いを為す者らもまた、水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来ることになるでしょう」
「そしてもし、これらの水が、汝が以前に為した悪を流し去ってしまうのであれば、これら水は(汝が為した)功徳をも流し去ってしまうでしょう。であれば、それによってあなたは、(善でもなく悪でもない)何者でもない者〈外道〉となってしまうでしょうに。バラモンよ、あなたが(宗教的・盲目的な)恐れによって常に水の中に入るようなことなどされぬようにしなさい。バラモンよ、寒さであなたの皮膚を害わぬようにしなさい」
KN. Therīgāthā, soḷasanipāto, Puṇṇātherīgāthā (9.65)
明恵上人がこの偈を読んでいた、などということはおよそありえないことです。しかし、以上の比丘尼が持っていたのとほとんど同様の合理的思考により、世間の人が「アリガタイシュギョー」・「キビシーシュギョー」と見るような類の行為を批判されています。水に入って清めることが出来るのは、あくまで文字通り物理的な身体の、しかもその表面に付着した汚れや垢だけです。水だけではなく、火によっても、また他の諸々の儀礼・儀式などによっても、人はその行為・業を清めることなど出来はしません。
ここでプンナーが指摘しているように、もし仮に水などによって業(罪)を洗い清めることができるなら、その水はまた業(功徳)をも流し去ってしまうでしょう。あたかも水が身体の汚れや菌を取り除くと同時に、その身に着けた塗香や香水をも流し去ってしまうように。そもそも、仏教における修行とはそのような外的なことではありません。
これらは、仏教の目指すべき所、そしてそのための修行の本質が見事に描き出されたものです。
繰り返しますが、日本には現代においてもなおこのようなことをさも「アリガタイ、キビシー修行」だとして仰々しく行っている僧職の人や拝み屋風情が多くあります。が、そんなことをしても何の意味はない。いや、「それっぽく人に思われる」ということはあるでしょう。それによって信者が増え、己の懐が暖かくなる、ということはあり、それがむしろ目的でそうしている場合もある。
いずれにせよ、悟りを求めて勤め励むものの亀鑑、それが経典であり、それを自らのあり方、生き方に反映させるために繰り返し読み、我が身を照らし直すために行うことの一つが読経です。
そうしてそれが「現実の己が行動」に反映された時こそ、そこに功徳なるものがある。では、そもそも功徳とは何か?功徳とは、端的に言えば「利益」のことです。利益と言ってもそれは、努力した結果として自らの心身に備わる「良い性質」です。
唱えるだけで意味がある、願いが叶う、悟るなどというのであれば、それをテープであろうがCDであろうがMP3であろうが何かに吹き込んだのをずっとかけ続けていれば良い。しかし、その理屈で言えば、それを掛けている機械こそが仏陀になる、ということになるでしょうか。もちろん、そんなことはありえない。
また、「心が大事なのだ!」「要は気持ちの問題なのでしょう?」などという主張については、仏教が心や人の気持というものをいかに理解しているかを知れば、ただちに破綻するものです。
そのような意味では、心や気持ちなどけっして大事なものではない。世間でよく口にされるそんな言葉は、実に浅薄なものであって、欺瞞でしかない。
佛告沙門愼無信汝意意終不可信愼無與色會與色會即禍生得阿羅漢道乃可信汝意耳
仏陀は沙門に告げたまわれた。
「よく気をつけ、汝の意を信じてはならない。意とは遂に信じられるものではない。よく気をつけ、(意の恣にして)色〈rūpa. 物質〉(など諸々の知覚対象への欲望〈五欲〉)と伴にしてはならない。(意と)色と伴にすれば、たちまち禍が生ずる。阿羅漢道を得て、はじめて汝は(汝自身の)意を信じられるであろう」
迦葉摩騰・竺法蘭訳『四十二章経』(T17, p.723b / 宮内庁宋版)
日本語の「こころ」の語源とは何か所説ありますが、中には「コロコロ変わるからこころという」という説があります。その説の真偽はさておき、現実に「こころ」といわれる我々の精神が常に由来で変わり続けて止むことが無いのは、誰も否定しがたいことであるでしょう。そしてそんな不安定で常に遷ろい変わるものであるならば、それを頼りにし得る筈もなく、したがって心が大事、気持ちの問題などということはできません。
こう言ったところが、あるいはこう主張する人もまたある。
「いや、意味などわからなくても読誦するだけで意味がある。実際、読誦するだけで功徳があると説く大乗経典がある!」
「日本では法然や日蓮など、むしろ唱えることをこそ推奨した者もいるではないか。そしてそんな彼らこそ支持信仰されている現実はなんだ?」
八万四千の法門と形容されるほど様々な教えが説かれる仏教において、そういう経典もあるにはあるでしょう。そしてそのような経典に基づき、様々な我説を展開した輩なども長い歴史の中には確かにある。しかし、その内容をさらに読み、また三国伝来の仏教の伝統というものを鑑みたならば、それが決して「読誦するだけで意味がある」などとされたものでは到底ない、ということを理解せざるを得なくなるでしょう。
例えば「十万遍この真言を唱えれば、アレコレとんでも超常現象が起こって、みんな幸せ」などと説く経典があったとして、その類は実際あるのですけれども、それを現実に行ってみてもそんなことは決して起こりません。言うまでもなく、などと言わず実際にやって確かめてみても、そんなことは決して起こりはしないのです。そもそも、こう安直に言うと語弊がありますが、そういうものではないのだから。
もはやさらに言葉を重ねる必要も無いでしょうが、最後にまた慈雲尊者の言葉を引いて終わりとします。これをもって日々の読経というもの、いや、仏教というものに対する態度を新たにしていただければ幸甚。
誦経と云ふは、佛語を受誦して、此を以て心地を照す。一句半偈ことごとく甘露味にして、無漏大定より等流し来る所じゃ。雪山道士は、羅刹の為に身を棄捨して求る。帝釈天王は、野干の為に坐となって求る。口誦すら業障を消除し、善功徳を得る。心憶念すれば累劫の迷習を解脱し、聖慧を獲得す。三乗の差別あれども、もと一法性の印ずる所じゃ。終に一佛乗に帰して、更に餘帰なしじゃ。肝要は、密教を奉持する者は観誦功を累ぬるに在る。顕説を奉持する者は如説修行に在る。
読経とは、仏陀の教えを受持して読み、それを自分に引き当て、自心を直すことである。(経文の)たとえ一句半偈でも、そのいずれもが不死をもたらす妙味であって、汚れ無き深い修禅の境地から溢れ出たものである。
雪山童子は、(「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」という偈文を聞くため)羅刹に身命を捨てようとまでした。帝釈天は、(仏陀の教えを知っているという)野干〈狐の化物〉を上座に坐らせ、自らは下座に坐ってその教えを求めた。
口で経文を読誦することでも業障を消除し、善功徳を得る。心に憶念すれば幾億もの過去世で積み重ねてきた己が迷習から解き放たれ、聖なる智慧を獲得する。(仏教には声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という)三乗の相違があるけれども、根本は一つの真理である。それらは畢竟、一仏乗に帰結する。肝要は、密教を信奉する者は(真言の意義一つ一つを観察し習得する)「観誦」を積み重ねることにあり、顕教を奉持する者は(経律に仏陀がお説きになっている通りに修行する)「如説修行」にある。
慈雲尊者『十善法語』巻第五
非人沙門覺應 稽首和南