そもそも、何を目的に読経するか以前の問題として、「祈る」とはなんでしょうか。
祈りと一口にいっても種々様々です。しかし、今ここでは一応、「祈りとは、何らか超常的存在に対し、己が願望を叶えてほしいとすがりつくこと」、あるいは「それへの信仰を、それに対して吐露する行為」としておきましょう。
日本人にとっての信仰とは、その対象が特定の神やホトケなどではないためにそう言われるのでしょうが、「日本人のほとんどは無宗教である」などと一般に言われます。けれども、日本人はことあるごとに、そしてまったく自然に、あちこちで祈りまわっています。そして、「宗教に金がかかるのはおかしい」などと言う者が多いのにもかかわらず、それがたとえ少額であろうとも、その対象が何かも良くわからなかったとしても、むしろ喜んで賽銭を投げまわる者も多くあります。
けれども、身体健全を祈って健康になるなら医者・病院はいらない。学問成就を祈願して学を為し得る、受験に合格するのならば、勉学する必要など無い。世界平和を祈念して世界平和になるのならば、有史以前から世界は平和でありましょう。したがって、その意味では祈りなど何の意味もない。それは経験的に充分承認されることでしょう。しかし、それに対してこういうことを主張する人もある。
「いや、私はホトケサマにお百度参りをして祈り続けた結果、ガンが治った。これはホトケサマにお参りした功徳に違いない」
「俺はこれまで真言宗の寺の息子と生まれたのにもかかわらず、まともにオダイシサマを信じもせず、ひたすら酒・女・賭博に趣味と、放蕩生活を続けてきた。そんな中、あのバイクの事故…。恐ろしい大怪我を負い、意識を失って数日間もの間、生死をさまよった。その間、夢か現かオダイシサマが私の前に現れたのだ。そう、まさにオダイシサマのお陰で私は助かり、私は初めて信仰に目覚めたのだ。ほれ、これがその時の傷だ。オダイシサマは必ず助けてくださるのだから、オマエも懸命に拝まなあかんゾ」
「私がやってきた事業に失敗して多額の借金を抱え、絶望の淵にあって自殺まで考えていた時、それは実に不思議なことであったが、それまで信仰などまるでしていたなかった観音様のお導きとしか思えぬことがあり、お陰で窮地を脱することが出来た」
無論、例えば『日本霊異記』を始めとして、そのようなことを主題とした奇譚・霊験譚は日本に古来あり、それらには話として大変面白く、文学として非常に優れたものが多くあります。
これはその祈りの対象が万能の神であろうが、八百万の神であろうが、仏菩薩であろうが誰か高僧であろうが、精霊であろうが先祖であろうが、全く変わらず言えることですが、そのような祈りなどせずともガンが治った、病気が治った、あるいは必死の事故から生き延びた、などという人も五万とあることです。それと同時に、それとはまったく逆に必死に祈り続け、ひたすら信じ続けたのにも関わらず、何の報いも無く、虚しく失意のうちに終わった、などということも世の中にはそれこそ数知れないでしょう。
そのようなことから「祈りの功徳」・「何か尊いもののお計らい」で何事か奇跡が起こる、などということは決して言えません。このようなことを言った途端、往々にして狂信的新興宗教団体あるいは密教系の拝み屋によって、このような主張がなされます。
「愚かにして哀れなる汝らは真の信仰というもの、真に信ずべきものを知らない。しかし、私のように本当に信仰すべきものを知り、それに対して至心に祈ったならば、それは決して虚しくはならない。必ず正しき祈りは叶うのだ!」
「必死に拝んだ、懸命にお題目を唱えたのに一向に物事が良い方向に行く気配がない?それはあんたがまだまだ真の信仰を確立せず、また本当の意味でお題目を唱えていないからだ!すぐにそんなことを言いだす性根がその証拠じゃないか。ほれ、あのひとなんかあんたよりもっと悪い状況だったのに、今じゃああのとおり。あんたももっと自身を持って信心し、仲間と一緒に懸命に題目すればきっと・・・」
いやいや、これは別段、有象無象の新興宗教や拝み屋などいかがわしい者らに限らず、真言宗や天台宗などの有名寺院・大寺院で、密教系の修法をソッチ方面でしか理解出来ない愚かな中高年の住職らも、実に似たようなことを言うのです。
「私も若い頃は毎日の法務に忙殺されてマトモに拝むこともなかったが、最近ホトケさんを真面目に拝みだしてから、ちょっと法力がついてきたように思う。除霊や祈祷が出来るようになってきたんだ。やっぱりボーさんは拝まなきゃダメだぞ?」
「毎日拝んでいるとな、段々とわかってくるんや。理屈やないんや。え?無常?無自性空?なんやそれ?ところで最近、ワシも霊が見えだしてな…」
「弁天さん拝むと、信者がようけい金持ってくるんやゾ?実際な、このまえ弁天さん拝んで三週間目に、信者が突然、現金で三千万持ってきよったんや。やっぱり弁天さん拝むと金が入るっチューのはホンマやな。キミも弁天さん拝んだほうがえぇで?」
「あの家は礎石に墓石使っとったから、アイツの家族全員ろくな死に方せんかったんや。でもまぁ、それがわかってからワシが毎日毎日オダイシサマのゴビョーにお参りしだしたから、アイツだけはまぁなんとかなっとるんじゃ」
現実として、失笑せずにはいられないこの手のことを常日頃、至極真面目な顔をして言う、実にアレな僧職の人々は極めて多くあります。そして、むしろそのような彼らこそ、積極的に「仏教では~」・「密教では~」とのまったく仏教も密教も関しない漫談を人々の前で展開し、さらに人々にそれらに対する誤解を強くさせています。
密教系の彼らが盛んに口にする「拝む」というのは、本来は密教における三密瑜伽の行法を修すことのはずです。けれどもしかし、そんな彼らは、形ばかり密教の云云をしてはいるのですけれども、その内実は文字通り「ホトケサマを拝んでしまっている」のが現状であって、密教などまるで関係なく、木や銅などで出来たにすぎない仏像を「ナムナム~」と崇拝しているに過ぎません。実に未開な振る舞いです。
もちろん日本では信教の自由が保証され、人はなんでも自分の信じたいものを信じる権利があって、自由になんでも信じたら良い。けれども、「祈りは叶う」などという信仰は要するに本人の思い込み、妄想の類に過ぎません。
信じなければわからない真理など、真理ではない。なんであれ、祈ろうが祈るまいが同じ結果となるのであれば、祈ることはその結果の必要条件ではない。
現代には「念ずれば花開く」などという言葉を残した人もあり、それをまた好んでオウムのように繰り返している人々もあります。そもそも「念ずれば花開く」との言葉を残したのは坂村真民ですが、彼は必ずしもそのような意味で言ったのではない。けれども、この言葉を愛好する人々には、「真に祈り願え続ければ必ず叶う」という意味で使う人々が実に多いようです。そのような意味で言う人々は、花が咲くのに必要なのは「念ずる」ことではなく、適切な温度と栄養、そして光などであることを知らないのでしょう。しかし、念じなくとも開く花は開きます。
もっとも、これは現代的考えの一つとして、そのような「祈り自体に意味などない」ことは百も承知の上で、「本人がそう思い込むことで多少なりとも積極的な状態を保つことが出来るなら結構なことだ」という、道具主義的な見地からの意見もあるでしょう。そしてそのような「祈りという行為がもたらす精神・身体への好影響」なるものは、科学的に証明されたもの、もしくは科学的に証明し得るものとして、特定の信仰の宣伝材料・布教材料とする人々もあります。
実際、信じている人にとっては「何事かに祈る」という行為は、何事か精神的危機にある人の精神を崩壊させず保ち得る、恐れや迷いに混乱する精神をなんとか統一し得るという効果が認められる場合もある。それは確かなことのようです。よって、「私は祈ったほうが心が落ち着く」であるとか「祈ると怒りや憎しみの心が治まる」というのであれば一先ずそうしたら良いと思います。しかし、そもそもそのようなことは「その祈りの目的」でなかった筈です。
すると、あるいはまた、このような主張をする人も世間に多くある。
「祈りが叶うか叶わぬかは一先ず置くとして、世界に宗教は種々様々あるとはいえ、そこに通じて言えることは祈りが尊い、ということだ」
「祈りとは人に独自の行為であって、それは崇高な、尊いものである」
「祈りこそ人類普遍の尊い行いであると、かのダライ・ラマ14世猊下もおっしゃっている。」
…果たしてそうでしょうか。確かに、場合によってはそのように言えることもあるでしょう。まったく異なる教義・思想・世界観をもつ世界中の宗教、いや宗教だけでなく人一般の間から共通項を探り出そうとした時、もちろん思想として「絶対に祈らない」という人もあるでしょうけれども、それはおそらく「祈り」となる。しかし、「祈り」と言葉では同じに表現できたとしても、思想・宗教が異なり、またその世界観などが異なれば、実はまるでその内容や意義・重みが違っているものです。
いや、あるいはそんな難しいことを言わずとも、たといまったく神などに祈ることをしない人であっても、例えば最愛の人などが危篤だ、事故にあって瀕死の状態だ、飛行機事故で行方不明だ、などという知らせを突然聞いた時、「あぁ、頼む。死なないでくれ。どうか、なんとか命だけは…」と、誰に対してでもなく自ずから心中「祈る」ことはあるでしょう。人の生来もつ、精神的な働きとしてそのように「祈る」ことがある。
その故に、その対象や意味内容などを問わず、種々雑多な文化・国々・地域の人々の中にあって、その共生や協調を求めた時、「祈り」というものを特に強調することとなるのはある意味必然でありましょう。「祈りは人類普遍の行為であって、その故に尊い」と。
けれども、では古今東西の歴史を振り返ってみた時にそのようなことが無条件に言えるでしょうか。答えは「否」でありましょう。それは現在においてもなお、特にイスラム教徒によって世界のあちこちで「神の名の下」「祈りのもと」、恐ろしいテロが行われています。しかし、人が祈りつつ、しかしむしろ祈りによってさらに恐ろしい行為を重ねてきたのは、何もユダヤ教をはじめとするキリスト教・イスラム教など絶対唯一神を信仰する宗教に限ったことではありません。
人は、祈りながら祈る人を殺し、また祈りをせぬといってその人を殺してきた。いや、日本史上、西洋や中東であったような血みどろの激しい宗教戦争、といえるほどのものはありませんでした。しかし、「祈り」を背景にして傍若無人のかぎりを尽くした者らが存在していた。
西洋でのそれらと同じように、日本では僧職にあった宗教者らがむしろ宗教(仏教)という権威を利用し傘にきて、己等の土地と利権のために血みどろの争いを展開していたのです。それは比叡山の山法師(僧兵)が、先ずその悪しき代表例です。あるいは「祈り」をかさに貴族らにおもねり、自身らの利養を図ってきた多くの真言や天台の学僧・祈祷師らも、古来多く存在しています。また、近世までの日本社会の下層においても、一概に言うことは不適切ではありますが、「祈り」が利用された浄土一揆や法華一揆が盛んに起こって多くの人命が失われてきました。
さらにいえば、人を殺すということまでいかなくとも、これは僧侶によるものでなくて平民らによってなされたことですが、明治維新に日本全国で吹き荒れた廃仏毀釈による激しい暴力も見逃してはなりません。廃仏毀釈で庶民たちが率先して何をしたのかを知れば、現代しばしば商業主義的あるいは浪漫的に主張される「日本のココロ」・「日本の伝統ブンカ」などという言葉など、まったく傍ら痛い限り。
そして現代においても、寺院の多くは「亡者への祈り」を商売のネタ・生業として存在しており、またいわゆる霊能者などと言われる拝み屋腹は「先祖の祟り」「親族の因縁」など愚かな迷信を吹き込んで人々から金品を巻き上げ、狂信的新興宗教団体は「正しい信仰」「正しい祈り」を標榜して他者に信仰を強制するなどし、中には強大な権力と財力を握って政教分離原則すら公然と破って平然としている者らもあります。
しかし、それらは総じて仏教本来のあり方からして遠くかけ離れたものです。