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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『法句譬喩経』塵垢品第二十六

仏教の祈り

誓願と四無量心

そもそも仏教とは祈らない宗教ですが、あえて仏教における祈りというならば、それは誓願すること。あるいは、心に慈・悲・喜・捨という徳性を備え、より強めていくための修法の一つ、四無量心観のことです。

誓願(praṇidhānaプラニダーナ / samādānaサマーダーナ)とは、自分がその行動を規定し、その規定に沿うよう励むいわば達成目標を立てることです。また四無量心とは、自他が安楽であれと願い(慈 / [S].maitrī / [P].metta)、また苦しみ無くあれと想い(悲 / karuṇā)、他の喜びをまた自らも喜び(喜 / muditā)、自心の怒りや害心、嫉妬を陶冶し、さらには自他に対する愛着を離れて平静であること(捨 / [S].upekṣā / [P].upekkhā)を目的とするものです。まず自らの心を陶冶したその結果として、他を具体的に利することにつなげよう、としたものです。

例えば、古来、上座部において重視され、また現代では仏教における最古の経典の一つと云われるMetta suttaには、特に慈観、仏教における祈りがいかなるものかを端的に説かれたものとなっています。

yeイェー keciケーチ pāṇabhūtatthiパーナブータッティ, tasāタサー ヴァー thāvarāターヴァラー vanavasesāヴァナヴァセーサー. dīghāディーガー ヴァー yeイェー vaヴァ mahantāマハンター, majjhimāマッジマー rassakāラサッカー aṇukathūlāアヌカトゥーラー.
diṭṭhāディッター ヴァー yeイェー vaヴァ adiṭṭhāアディッター, yeイェー vaヴァ dūreドゥレー vasantiヴァサンティ avidūreアヴィドゥーレー. bhūtāブーター vaヴァ sambhavesīサンバヴェーシー vaヴァ, sabbasattāサッバサッター bhavantuバヴァントゥ sukhitattāスキタッター.
na paroパロー paraṃパラン nikubbethaニクッベータ, nātimaññethaナーティマンニェータ katthaciカッタチ na kañciカンチ. byārosanāビャーローサナー paṭighasaññāパティガサンニャー, nāññamaññassaナーンニャマンニャッサ dukkhamiccheyyaドッカミッチェッヤ. mātāマーター yathāヤター niyaṃニヤン puttamāyusāプッタマーユサー ekaputtamanurakkheエーカプッタマヌラッケー. evampiエーヴァンピ sabbabhūtesuサッバブーテース, mānasaṃマーナサン bhāvayeバーヴァイェー aparimāṇaṃアパリマーナン. mettañcaメッタンチャ sabbalokasmiサッバローカスミ, mānasaṃマーナサン bhāvayeバーヴァイェー aparimāṇaṃアパリマーナン. uddhaṃウッダン adhoアドー caチャ tiriyañcaティリヤンチャ, asambādhaṃアサンバーダン averamasapattaṃアヴェーラマサッパッタン.
生きとし生けるものはいかなるものでも、怯えて震えるもの、屈強なもの、長いものも、大きいものも、中くらいのものも、短いものも、太いものも、
(目に)見えるものでも、見えないものでも、遠くに生きるものでも、近くに生きるものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、すべての生きとし生けるものは安楽であれ。
誰であれ他者をあざむいてはならない。何処いずこにあろうとも他者を軽んじてはならない。敵意や怒りの想いをもって、互いに他人を苦しませようと望んではならない。
母がおのが一人子を命をしても護るように、そのようにすべての生けるものに対してもまた、はかりしれぬ(慈しみの)心を修めよ。
すべての世界に対し、上に、下に、また横に、妨げなく、憎しみなく敵意なき、はかりしれない慈しみの心を修めよ。

KN. Suttanipāta, Metta sutta

これは神であるとか仏に対し、いわゆる祈るものではありません。自らの心のうちにおいて直接、他のあらゆる生けるものに対し、苦しみ無く、安楽であることを願うものです。

そこで仏教で「自他」と言ったときの他とは、「一切衆生」すなわち「生きとし生けるもの」が意味されるのですが、「憎っくき彼奴を除いた、その他の人」や「特に私の愛する某に限る」・「特にあなただけ」などと限定されたものではありません。たとえば、明恵上人にまつわる話として、以下のようなものが伝わっています。

人の、祈祷して給ふべき由所望申しければ、上人云はく、「我は朝夕一切衆生の為に祈念を致し候へば、定めて御事も其の数の中にてましまし候らん。去れば、別して祈り申すべきに非ず。叶ふべき事にて候はば、叶ひ候はんずらん。又叶ふ間敷事にて候はば、仏の御力も及ぶまじき事にて候らん。其の上、平等の心に背きて御事計り祈り候はん事、親疎有るに似たり。左様に親疎あらん物の申さん事をば、仏神もよも御聞き入れ候はじ。仏神の御内証恥かしく候。又仏は、方々の御事をば、一子の如く思食し候に、叶へても進せられ候はぬは、何にも様こそ候らめ。譬へば、をさなき者毒を知らで食したがり候を、親の奪ひ取り候をば、甚だ恨みて泣き候が如し。一旦は本意なき様に候へども、終にはよかるべきはからひ也。されば仏をも神をも御恨み有るまじく候。又不信放逸の心ある人をば千仏も救ひ給はぬ事也。去れば、我が身の拙き事を顧みて、身をこそ恨み給ふべく侍れ。祈り叶はざらん時も、仏の御計らひ、様ぞ有らんと思い給ふべし。加様に申し候へば、先聖の掟を背きて、人の祈りせじと申す物狂ひありと云ふ沙汰に及びぬと覚え候。先聖は皆方便在りて述べ置き給へる子細あるを、然るに我等様の無智の者、左右無くそれを学ばば大きに誤りあるべし」とて、聞き入れ給はざりけり。
 ある人が明恵上人に祈祷して欲しいと所望したところ、上人はこう答えられた。
「私は朝夕に生きとし生けるもの全ての為に祈念をしていますから、間違いなくあなたもその数の中に入っております。それゆえ、あなたの為だけに祈る必要などありません。(あなたの願いが)叶うべき事であれば、叶うでしょう。また叶うべきでない事であれば、仏のお力も及ばぬ(無理な願い)事なのでしょう」
「その上、平等の心に背いて私があなたばかりの為に祈ることなど、一方を依怙贔屓するようなもの。そのように親疎分け隔てして一方を贔屓するような者の言うことなど、仏も神々もまさかお聞き入れられはしないでしょう。仏や神々の御内証に対して恥ずかしいことです。また仏陀は、あなたがた一人一人をこそ一人子のように思われているのに、願いを叶えて下さらないのはまったく理由のあることに違いないこと。例えば、幼子がそれに毒のあることを知らずに食べたがるのを、親が奪いとったならば、たいそう恨んで泣くようなもの。その場は不満を感じるかもしれないけれども、結果的には良い計らいなのです。それゆえに仏をも神々をも恨まれることの決して無いように。また不信心にして勝手気ままで乱暴なる人など千の仏であっても救い得ないことです。よって、我が身の拙いことを顧みて、自身の不徳をこそ恨まれるように。祈りが叶わなくとも、仏のお計らいのこと。きっと叶わぬに十分な訳があってのことだろうと思われたらよい」
「しかし、私がこの様なことを申し上げれば、釈尊や過去の偉大な仏弟子の教えにそむいて、(あの明恵は)人から頼まれたにも関わらず祈らないなど変人であるといった噂が立つことでしょう。過去の仏や偉大な仏弟子達は皆(人々を導く為の)方便として(祈祷などについての)教えや事跡を残されたという事情があるのを、我々のような智慧の無い者どもが、上下左右をわきまえぬが如くに無闇にそれらを学び実行すれば大きな誤りとなります」
このように明恵上人は仰り、(祈祷の依頼を)聞き入れられなかった。

『栂尾明恵上人伝記』

ここで明恵は、仏陀をあたかも「願いを叶えてくれる存在」かのように捉えていますが、それは当時の人々のいわば仏陀観に基づいたものであったのでしょう。

たとえば、上人が非常に激しく批判した浄土教の導師であった法然による、その信徒との質疑応答集『百四十五箇条問答』には、当時のまさにそのような仏陀観が表れています。

一。申候事のかなひ候はぬに。佛をうらみ候。いかが候
答。うらむべからず。縁により信のありなしによりて。利生はあり。この世のちの世。佛をたのむにはしかず
《中略》
一。仏をうらむる事は。あるまじき事にて候な
答。いかさまにも。佛をうらむる事なかれ。信ある物は大罪すら滅す。信なき物は小罪だにも滅せず。わが信のなき事をはづべし
問:(仏に)願い申し上げたことが叶わなかったため、仏を恨みました。どう思われますか?
答:恨んではならない。(人それぞれの)縁〈行い。それまでの行業〉により、また信心の有無によって利益(と不利益)がある。この世と後の世について、仏にすがる以上のことはない。
《中略》
問:仏を恨む事はあってはならないことでしょう?
答:その通りである。仏を恨む事なかれ。信心がある者ならば(その信によって)大罪すら滅せられる。信心のない者は小罪すら滅されることはない。(仏を恨む前に)我が信心の無い事を恥じるべきである。

源空『百四十五箇条問答

ここには当時の一般庶民における、仏陀というものに対する理解がよく表れています。前掲の明恵のそれも、これに類するものであったろうことが確かめられますが、当時の社会通念であったのでしょう。実は現代においてもなお、このように仏陀というものを理解している者は少なからずあります。いや、中世の仏陀観は、今に至るまで変わらず世に根付いていると言ってよい。今も「この世には神も仏もないのか」などと嘆く人がありますが、それはまさに仏陀をして法然の当時と同じ見方をしているからこそ、吐き出される言葉です。

しかしながら、仏陀はそのようなものではない。したがって、「この世には神も仏もないのか」という嘆きの言葉はある意味正しく、そんな仏は最初からこの世のどこにもありはしません。仏とは、人を直接、何事か超常的な力をもって救う存在ではないし、そもそも仏陀自身が他を救うことなど誰も出来ないと断言されていることです。

そしてまた、ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教など絶対唯一の神として信仰されるものであれ、また日本の神道において神とされる存在であれ、人を誰彼構わず救うとかいうものではない。故に、「この世には神も仏もないのか」といわれる意味での神も存在しない。

また、ここでは仏・菩薩と神々とが同列に語られており、現代の人にはそれに違和感を感じる者もあるかもしれません。しかし、鎌倉期当時の日本では、天照大神を始めとする日本の神々は仏菩薩が垂迹したもの、仏・菩薩の影のようなものである、という理解が当然とされていました。本地垂迹説といわれる、日本の神々に対する見方です。日本の神々は仏菩薩の化身であるからより尊い、という理解です。あるいは、たとえば現在の日本でも信仰されている八幡神など、その初めから仏教との関わりが極めて深い、いや、仏教なくしてはありえなかったとすら言える神となっています。

現代の日本仏教における「祈り」への態度

さて、このような明恵上人の態度に比して、現代の僧職にある人は「祈り」というものについてどのような意識をもっているかを示す好例として、とある世間でも比較的高名な、現代の真言宗を代表する一人であった老翁による随筆があるのでここに示します。

続 いのり ―生かせ いのち―
 もう三十年余り前のことですが、インド領で中国のチベット自治区と接するインドのラダック地方に行って学術調査をしたことがあります。
 この地方には由緒正しい古い曼荼羅が数多く現存していて、第二次、第三次の調査隊を派遣して三年がかりで詳しい調査にあたりました。現地に滞在してチベット仏教のお寺に入り込み、毎朝の勤行をはじめ、お寺の色々な行事を拝ませていただいたり、曼荼羅を描いた壁画やタンカ(仏画を描いた画布)を撮影したりしているうちに、お坊さんたちとも親しくなります。
 これらのお寺のご住職さんによく尋ねました。「何のためにお祈りしているのですか。」すると返ってくる返事が、「世の中すべての人々のしあわせを祈っています」と不思議にほとんど同じなのです。
 最初、この言葉を聞いたときに、誰も彼も変わらない答えだ。どうも胡散臭いな、と正直思いました。これらのお寺には、付近に住む病気に苦しんでいる住民たちが来て、お坊さんにお加持をしてもらっているのをしばしばみていたからです。
 チベットの坊さんも本当は病気平癒だとか農作物の豊作とか、身近な問題の祈願をされているのではないか。でも異国人には、建てまえ論で応対している、と疑っていたことも事実です。
 その後、チベットに外国人が入域できるようになって、チベットの僧侶と接触する機会も格段に増えました。ところがどなたに聞いてもほぼ同じような答えが返ってくることに気づいたのです。学識をもち、地位もあるチベット仏教の僧侶にとって、祈りとは人々のしあわせを願うことだ、と素直に信じているに違いないと思うようになりました。
 チベット仏教の最高指導者であるダライラマ猊下にお目にかかり、お話を伺うたびに、自己の損益は二の次にして、世界の苦しむ人々のために、真剣に祈り続けられている高潔な人格に触れ、チベット仏教の僧侶の方々が生きとし生ける者のしあわせを本音で祈ることが、単なる建てまえではないことにますます確信がもてるようになりました。
 本音の祈りが本人の知らないうちに建て前の祈りに変わり、建てまえの中に本音が自然に吸収されてしまうということもありうるように思います。
 先日テレビでおなじみのあるタレントの方が、テレビ番組として放映するために四国八十八ヶ所をめぐり終えて、高野山にお参りにこられた時、対談させていただきました。
 その方は巡礼の最初のうちは、買った馬券がよくあたるようにと祈ったと冗談交じりに言われていました。ところが八十八ヶ所を巡拝しているうちに、自分の気持では、自然に東日本大震災によって亡くなられた方々の御冥福を、お祈りするようになったとも漏らしておられました。
 霊場巡礼という行を続けているうちに、欲の皮のつっぱった祈りが、いつの間にか清らかな祈りの中に自然に解消してしまう。現実に起こりうることです。

『高野山教報』平成26年 (2014) 4月1日

人によってはこれを読んでも何とも思わないかもしれません。「何も問題などないではないか」、「ここに書いてあることの何がおかしいというのか」と。あるいは彼の見識に感心すらしてしまう人もあるかもしれません。「流石はかの大僧正」、「いやはや、センセーのご見識には敬服するばかりです」などと。

画像:建て前、興行としての祈り

この随筆の筆者は実に、それを別段何だとも思わず、あまりにも率直に自身の「祈り」というものに対する本音のところを公然と明かしてしまっています。そして、彼自身が経験したチベットの僧らの思いも、(そもそも自身も信仰しているはずの)仏教の祈り、いや仏教者として常日頃育むべき慈悲というものすらもまるで理解すること無く、最後まで「建て前と本音」という自身の祈りに対する態度を拭うことができず、その傍観者を決め込んでいます。彼にとって「慈悲」は商売上・学問上の言葉でしかないことを、無自覚に開陳してしまっているのが非常に面白いところです。

もちろん、ここに示したのはただ一例にすぎません。しかし、これは現代の「日本のオボーサン」と言われる僧職者のほとんどに該当する態度です。それは、信者や檀家などの人前・著作の中では「生きとし生けるものが~」などと言ってはいるものの、結局はそれは建て前、すなわち「お商売として」でのことでしかありません。

口では「仏陀はシムリョーシンを説かれた。ジヒが大切なのです!」、「空海は「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば我が願いも盡きなむ」という途方もない大誓願を建てられていた。アリガタイ!」などと褒めそやし、「祈りこそ」・「祈りは尊い」といって「全ての人が幸せでありますように」・「世界平和!」などと舌先三寸で繰り返しそれっぽいことを建て前としては言いはする。けれども、上に挙げたような老翁がうっかり(?)吐露してしまっているのが実際というものです。

日本の僧職者の多くが極めて不勉強で不見識であるということもその大きな一因であるでしょう。他にもまた、彼らにとって「祈り」は間接・直接を問わず飯の種であり、また「祈り」が個人の欲望を叶えるものでなければ彼らの収入に繋がらないが故にそのようになってしまう、ということがきっとある。ところが、上に示したように、そもそも仏教における祈りは世間で言われる祈りとは性質を異にしたものであり、また仏陀とは祈ればその願いを叶えてくれる存在などではありません。

画像:祈りは金になる。ただし、祈祷師にとってこそ。

かといって、「祈りなど唾棄すべき未開な行為だ」などと見なして完全に排除する必要はありません。おそらくは人に固有の行動であろう祈りをなしたい人はいくらでも祈ったら良いでしょう。けれども、通仏教的世界観や教義からしても、仏教では世間で言われるような意味での「祈り」など重要なものではありません。場合によっては、そのような「祈り」とは、人の煩悩、妄想に基づく虚しい営為に過ぎないとすら見なされることでしょう。

実際、「仏教は本来、祈らない宗教である」という理解は、むしろ仏教外の人々、たとえばバチカンの神父らによってなされています。彼らにとって祈りとは、あくまで絶対的存在・救い主に対するものであって、そのようなものの存在を認めない仏教においては、祈りなどあり得ないためです。そしてそのようなバチカンの神父らの仏教に対する理解は正しいものです。

(そのようなことから、日本の法然による浄土宗および親鸞を淵源として創始された真宗は「非仏教である」としばしば見なされ、むしろ基督教との親和性が言われます。)