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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説盂蘭盆経』 ―自恣の僧供とその功徳

盂蘭盆の語義とその意義

「盂蘭盆」についての伝統的理解

盂蘭盆うらぼんとは何か。結論から先に言えば、この語についての伝統的理解は一定しておらず、これがきっと正解である、という答えは必ずしも出されていません。そこでここでは、どのように一定していないかを述べ、最後に伝統的にもそれが穏当であろうとするとりあえずの答えを示します。

まず指摘しておかなければならないのは、前項において示したように、五世紀末から六世紀初頭頃に編纂されたと思われる現在伝わるものとしては最古の経録『出三蔵記集しゅつさんぞうきしゅう』では、『盂蘭盆経』でなく『盂蘭経うらぼん』と「盆」の一字を欠いて記されていることです。そして、その同時期に編纂された『経律異相きょうりついそう』においても同様に『盂蘭経』とあります。

そこで注意すべきこととして、『経律異相』にて出典として『盂蘭経』と記載されているのは、今『盂蘭盆経』として伝わる経でなく、『報恩奉盆経ほうおんぶぼんきょう』であることです。『報恩奉盆経』、その題目が示す通り、それは「恩に報いるためにぼんほうじる」ことを主題とする経で、後代、『盂蘭盆経』とは同本異訳あるいは広略の関係にあるものとされています。

そしてまた、六世紀中頃に編纂されたと思われる『荊楚歳時記けいそさいじき』にでは、長江中流域にて人々が七月十五日に「僧尼道俗悉營盆(僧尼道俗、悉く盆を営む)」と、盂蘭盆会を行っていたことが記されています。

以上のことから、六世紀の支那における諸典籍では、盂蘭盆とは一繋ひとつなぎのことばでなく、盂蘭と盆との別々の語、あるいはその二つからなる複合語であると理解されていたことが知られます。もっとも、盂蘭という語の意味、由来について触れるものは無かったようです。

しかしながら、唐初の七世紀中頃〈649〉玄奘げんじょうの訳経に字学じがく大徳〈音韻学に通じた学僧〉として参加した玄応げんのうが、玄宗げんそう皇帝の勅命によって『一切経音義いっさいきょうおんぎ』を編纂した際、そこで事情が変わっています。まず『一切経音義』とは、それまで支那にもたらされていた大小乗の典籍における難解な字句を抜粋、そのサンスクリット原語を充てて注解を加えた書で、一般に『衆経音義しゅきょうおんぎ』・『玄応音義げんのうおんぎ』と称されます(以下、『玄応音義』)。

玄応はそこでそれ以前の理解を否定し、新たな解釈を加えているのです。

盂蘭盆 此言訛也正言烏藍婆拏此譯云倒懸案西國法至於衆僧自恣之日盛設佛具奉施佛僧以救先亡倒懸之苦以彼外書云先亡有罪家復絕嗣無人祭神請救則於鬼處受倒懸之苦佛雖順俗亦設祭儀乃敎於三寳田中深起功德舊云盂盆是貯食之器此言誤也
盂蘭盆うらぼん 
この言はなまりである。正しくは烏藍婆拏うらんばな〈原語未詳〉と言い、これを訳せば倒懸とうけんと云う。西国の法〈何を参照してそういったか不明〉を案じたならば、衆僧しゅそう〈僧伽〉自恣じしの日〈七月十五日〉に至り、仏具を設けて盛り入れ、仏僧に奉施することによって「先亡せんもう〈故人〉倒懸とうけんの苦」を救うことである。彼〈インド〉外書げしょ〈仏教以外の典籍.ここでは特にMahābhārataには「先亡に罪あって、その家もまた嗣ぐもの〈子孫〉が絶え、神〈死者の霊〉を祭って救いを請う人が無くなれば、則ち鬼処きしょに於いて倒懸の苦を受ける」という。仏であっても俗に順じてまた祭儀さいぎもうけ、すなわち教えて三宝という田〈福田〉の中に深く功徳を起こすのだ。ふるくは「盂盆うぼんとは貯食ちょじきうつわである」と云うが、その言はあやまりである。

玄応『一切経音義』巻十四

玄応は、盂蘭盆うらぼんと一続きのものとしてこの語を解し、それは梵語の烏藍婆拏うらんばな訛誤けごであってそれは「倒懸とうけん」の意であるとしています。盂蘭盆という語をサンスクリットに還元し、その意を解明しようとする試みは玄応を初とするものです。しかし、先に述べたように、従来は「盂蘭+盆」と解されており、その意味は示されていないものの、もし梵語あるいは胡語の音訳とするならば「盂蘭」だけであって、「盆」は食をたくわえるうつわを意味する漢語でした。

しかし、玄応は「舊云盂盆是貯食之器此言誤也(旧に盂盆うぼんは是れ貯食の器と云う。この言、誤りなり)」とそのような見方の誤りであることを強調しています。ここで一応留意すべきは、玄応が旧説とするのが「盆」でなく「盂盆」を「貯食の器」としている点です。当時、盂蘭盆を「盂蘭+盆」でもなく「盂盆」として理解する説があったかのようです。

いずれにせよ、玄応としてはその正しい理解として、「盂蘭盆=烏藍婆拏うらんばな」であって、その意は「倒懸とうけん」であると提示したのでした。そしてその倒懸とは故人の後生における苦しみであり、それを印度以来行われる自恣じしの日における僧伽そうぎゃへの供養によって救い出すことまでを、その意に含めています。

なお、ここで玄応が勘案した「西国の法」とは何であったか。それはただ『盂蘭盆経』の所説のみによったものであったか、あるいはその他の典籍、もしくは支那に来たっていた印度僧や胡僧から聞いた話であったか何ら示されていないため不明です。そしてまた「外書げしょ」、すなわち仏教以外の思想・宗教に属する典籍にも言及していますが、これは古代インドの大叙事詩、Mahābhārataマハーバーラタであったことが、近代、彼の書を訳した池田澄達により解明されています。

玄応が実際に『マハーバーラタ』を読んでそう言ったのかどうかはわかりません。しかし、確かに「彼の外書」、しかもその中でも一等著名な書にそのような記述があったのでした。

そこでその理解が真に正しいかどうかは別問題として、ではまず玄応が提示した「烏藍婆拏」というサンスクリットは一体何であったか。玄応はあくまで音写(音訳)で記述しているのであって、これはほとんど全ての漢訳仏典でいえることですが悉曇しったんなど彼の地の文字で記述したのでないことから、正確なところはわかりません。いや、玄応が『マハーバーラタ』を梵語で読んでそういったかどうかも不明である以上、そもそも烏藍婆拏という玄応が持ち出した語が本当に梵語であったかも不確かで、実は胡語こご〈中央アジアの諸言語〉であったかも知れない。

けれどもそれは、近代の文献学者(萩原雲来)により、『マハーバーラタ』にある「上に吊らす」を意味するavalambate(ava+√lamb)という動詞から、正しくは avalambanaアヴァランバナであるが、その俗語形がullambanaウッランバナであると理解されたのでした。それは確かに「烏藍婆拏うらんばな」という音訳に合致するものです。ところが、サンスクリットとしてullambanaという語を見た時、その用例が仏典はもとよりその他印度教いんどきょうの典籍においてもありません。それは結局、学者が勝手にこしらえ、烏藍婆拏の音に恣意的に合致させたものでした。

いや、ullambanaという語が全くデタラメというのでなく、それはavalambanaでなく「ud(上に)+√lamb(吊るす・縛る・付ける)→ullamb」からも予想されるものではあって、それも同じく漢語で「倒懸」と訳し得るものではあります。けれども、いかんせん正規のサンスクリットとしてはその用例が無く、正しいとは言い難いものです。これは、玄応の「盂蘭盆=烏藍婆拏」とする理解を正しいする前提の元、学者がその説に擦り寄せた結果です。

もしその結果が思わしくないのであれば、そもそも最初の仮定・前提を疑わなければなりません。すなわち、玄応の説をまず疑わなければならない。

なお、漢語としての「倒懸」は、漢訳仏典に頻出するばかりでなく、『孟子』など漢籍にもしばしば見られるものです。例えば、『孟子もうし』では以下のように須いられています。

孔子曰、徳之流行、速於置郵而傳命。當今之時、萬乘之國、行仁政、民之悦之、猶解倒懸也。故事半古之人、功必倍之、惟此時爲然。
孔子は「徳(による治世)が流行するのは、置郵ちゆう〈早馬など伝令を飛ばすこと〉して命令を伝えるよりすみやかである」といわれている。(優れた為政者が無く、徳治が行われていない)今の時代において、万乗の国〈兄弟な軍事力を擁する国〉が仁政を行なったならば、民がそれを悦ぶこと、あたかも倒懸〈逆さ吊り〉からかれるようなものとなろう。したがって、この(仁政を布く)事は、古の人の半ば(の数)であっても、その功績は必ずその倍となるであろう。ただこの時〈今〉こそ、(仁政を布くに)絶好なものである。

『孟子』公孫丑章句上

以上のように、「倒懸」とはただ「逆転」とか「逆さ吊り」といった意味のもので、宗教的・仏教的な語ではありません。

いずれにしても、玄応による「盂蘭盆=烏藍婆拏(=ullambana)=倒懸」という理解は、その後も踏襲されています。というのも、実は玄応は『玄応音義』を完成することなく逝去しており、二十五巻の未完で終わっているのですが、後代それを完成すべく著された別の『一切経音義』において、おおよそ引き継がれているからです。

それは、玄応が没してから約百五十年後、慧琳えりんという疏勒そろく〈現カシュガル〉出身の訳経僧が『玄応録』における仕事を引き継ぎ取り込んで、さらにそれ以降新たに訳されていた仏典における難解な語を抽出し注解を施した、新たな『一切経音義』です。それは建中けんちゅう四年〈783〉から元和げんな二年〈807〉までの二十四年間を費やして為された大仕事で、全百巻となっています。これを『玄応音義』に対して、『慧琳音義えりんおんぎ』あるいは『大蔵音義だいぞうおんぎ』と称します(以下、『慧琳音義』)。

盂蘭盆 此言訛也正言烏藍婆拏此譯云倒懸案西國法至於衆僧自恣之日云先亡有罪家復絶嗣亦無人饗祭則於鬼趣之中受倒懸之苦佛令於三寶田中倶具奉施佛僧祐資彼先亡以救先云〈異本:亡〉倒懸飢餓之苦舊云盂蘭盆是貯食之器者此言誤也
盂蘭盆うらぼん 
この言はなまりである。正しくは烏藍婆拏うらんばな〈原語未詳〉と言う。この訳は倒懸とうけんと云う。西国の法〈習慣・規定〉を案じたならば、衆僧自恣じしの日〈七月十五日〉に至り、先亡せんもうに罪あれば、その家もまた嗣ぐもの〈子孫〉が絶え、また人で饗祭こうさい〈食を捧げる祭儀〉する者が無ければ、則ち鬼趣きしゅの中に倒懸の苦を受けると云う。そこで仏は三宝の田〈福田〉の中に倶に(食を)具えて仏僧に奉施し、彼の先亡〈故人〉祐資ゆうし〈助けること〉し、以って先亡の倒懸とうけん飢餓きがの苦を救う。ふるくは「盂蘭盆とは貯食ちょじきうつわである」と云うが、この言はあやまりである。

慧琳『一切経音義』巻三十四(T54, p.535b)

以上のように、慧琳は『玄応音義』を踏まえてはいますが正確に写してはおらず、所々文言ばかりか内容をすら変えています。

そこで『玄応音義』と『慧琳音義』とにおける盂蘭盆に関する記述を比較して見たならば、「盂蘭盆=烏藍婆拏」とする点は同様です。しかし、その相違に留意すべき点があります。というのも、『玄応音義』では「西国の法」と「外書」の説とを明瞭に分けて説明していたのを、『慧琳音義』では「西国の法」と「外書」とを一緒くたにして述べてしまっているためです。これはいけません。慧琳は玄応の言った典拠が何であったかもはやわからず、ために同じように見なしてしまったのかもしれない。

『玄応音義』で引用された印度の「外書」における説は、まさしく支那における儒教の「孝」と「礼」に依拠した家(血統)の存続と祖霊祭祀、そして祖霊の苦楽を結びつけるものに類したものです。しかし、それはあくまで印度の「外書」での話。

それがしかし、『慧琳音義』においては仏教と混同され、その対策として盂蘭盆が言われています。これは中唐の、しかも慧琳が拠点としていた 西明寺さいみょうじのある長安において、もはや自恣における僧伽の供養がむしろ支那における祖霊信仰と分かちがたく密接に結びつき、そのような意味での「盂蘭盆会」として定着して久しいことの反映であったのかもしれません。

従来説の摂取と否定

では、そのような理解が支那で以降もずっと支配的であったかと言えば、そうではない。南宋なんそう初頭の紹興しょうこう十三年〈1143〉法雲ほううんにより撰述された梵漢辞典、『翻訳名義集ほんやくみょうぎしゅう』では『玄応録』ならびに『慧琳録』の説が否定されているのです。

盂蘭盆。盂蘭西域之語轉。此翻倒懸。盆是此方貯食之器。三藏云。盆羅百味。式貢三尊。仰大衆之恩光。救倒懸之窘急。義當救倒懸器 如孟子云。當今之時。萬乘之國行仁政。民之悦之如解倒懸 應法師云。盂蘭言訛。正云烏藍婆拏。此云救倒懸
盂蘭盆うらぼん
盂蘭うらんは西域の語〈梵語または胡語〉転訛てんかであって、ここでは倒懸とうけんと翻訳する。ぼんは、この方〈支那〉における食をたくわえうつわである。三蔵〈義浄を意図したものであるが法雲の誤認.以下の一節は宗密『盂蘭盆経疏』の引用〉は「盆に百味ひゃくみつらねて、って三尊にたてまつり、大衆だいしゅ恩光おんこうあおいで、倒懸とうけん窘急くんきゅう〈貧しさによる困苦〉を救う。その義は『倒懸を救う器』に当たる 孟子もうし』に云われるようなものである。今の時に当たり「万乗の国、仁政じんせいを行ったならば、民がそれをよろこぶことは、倒懸とうけんを解くようなものである。」と云う。 おう法師〈玄応『一切経音義』〉は「盂蘭うらんというのはなまりであって、正しくは烏藍婆拏うらんばなと云う。それは救倒懸ぐとうけんと云う」としている。

法雲『翻訳名義集』巻四(T54, p.1112c)

ここで法雲は『玄応音義』の説を否定し、盂蘭とは梵語あるいは胡語の転訛であり、また盆とは漢語であって「貯食之器」であるとしています。これは結局、玄応以前の「盂蘭+盆」とする当初の説に回帰したものです。ただし、盂蘭盆でなく「盂蘭」が西域の語の転訛であるとしつつ、サンスクリットで正しくどう言うかは示さず、しかしその意味は「倒懸」であるとする点においては玄応の説を踏襲するものとなっています。

この一節の最後に玄応の説を紹介していますが、それは玄応の説を直接否定するものでなく、むしろ自身の説を補足するかのような改変を加えたものとなっています。「盆は貯食の器でない」としていた説に全く触れていないためです。

法雲としては盂蘭うらんの原語が正しく何であったかはわからずとも、盂蘭盆は「盂蘭+盆」とするのが正しいと考えたのでしょう。では法雲がそうした根拠は何であったか。それは法雲が、華厳宗第五祖の宗密しゅうみつにより著された、同じく中唐ながらも『慧琳音義』より少しく遅れて成立したと思われる『盂蘭盆経』の注釈書、『盂蘭盆経疏うらぼんきょう』にそうあり、その説に依ったためです。

佛説盂蘭盆經
此經總有三譯。一晋武帝時。刹法師翻云盂蘭盆經。二惠帝時。法炬法師譯云灌臘經。應此文云。具飯百味五果汲灌盆器香油錠燭等故。三舊本別録。又有一師。翻爲報恩經。約所行之行而立名故。今所釋者。即初譯也。義淨三藏云。頒自我口暢之。彼心以教合機。故稱佛説。盂蘭是西域之語。此云倒懸。盆乃東夏之音。仍爲救器。若隨方俗應曰救倒懸盆。斯繇尊者之親魂沈闇道。載飢且渇命似倒懸。縱聖子之威靈無以 拯其塗炭。佛令盆羅百味式貢三尊。仰大衆之恩光。救倒懸之窘急。即從此義以立經名。
『仏説盂蘭盆経』
この経には総じて三訳がある。一つは晋の武帝ぶてい〈西晋の初代皇帝司馬炎.在位265-290〉の時、せつ法師〈曇摩羅刹.竺法護〉が翻じて『盂蘭盆経』とした。二つには恵帝けいてい〈西晋の第二代皇帝司馬衷.在位290-306〉の時、法炬ほうこ法師が訳して『灌臘経かんろうきょう』とした。この(経の)文に「具飯百味五果汲灌盆器香油錠燭等」と云うのに応じたものである。三には旧本の別録にまた一師あり、翻じて『報恩経ほうおんきょう』としたものであって、所行の行に約して名を立てたものである。今、注釈するところは、即ち初めの訳〈『盂蘭盆経』〉である。義淨ぎじょう三蔵は、「自ら我が口をけて、彼の心をさとす。教を以って機に合うが故に仏説と称す」と云う。「盂蘭」は西域の語であり、ここ〈支那〉には「倒懸」と云う。盆は東夏とうか〈支那〉の音であって「救器ぐき」とする。もし方俗〈地方の風俗〉に隨ったならば、まさに「救倒懸盆ぐとうけんぼん〈倒懸を救う盆〉」というべきである。これは(目連)尊者の親の魂が闇道〈餓鬼道〉に沈むにって、すなわち飢えつ渇いた。その命〈有り様〉は倒懸〈逆さ吊り〉に似たものである。たとい聖子しょうし〈仏陀を意図〉であってもその威霊いりょうも以って、その塗炭とたん〈酷い境涯、またはそこでの苦痛〉すくうことは出来ない。そこで仏は、盆に百味をつらねてって三尊さんぞん〈三宝〉たてまつり、大衆だいしゅの恩光を仰いで倒懸とうけん窘急くんきゅうを救わせた。すなわち、この義に從って(『盂蘭盆経』という)経の名が立てられたのだ。

宗密『仏説盂蘭盆経疏』下(T39, pp.506c-507a)

以上のように、まず宗密しゅうみつは『盂蘭盆経』の同本異訳とされ、失訳とされていた筈の『灌臘経かんろうきょう』の訳者を何に基づいてのことか法炬ほうこであったとし、『報恩奉盆経』は失訳のままとしています。そして盂蘭盆という語については、「盂蘭+盆」とする玄応以前の理解に依っています。法雲はこれを主としつつ、また一応『玄応録』も参照し、それらを折衷して『翻訳名義集』の盂蘭盆の項目を記述したことがここから知られます。

では、宗密は何に基づいてそう理解したのか。それには、やはり典拠となるものがありました。それは、初唐の学僧慧浄えじょうにより著されていた、『盂蘭盆経讃述うらぼんきょうさんじゅつ』の説です。そしてその『盂蘭盆経讃述』とは、『盂蘭盆経』の注釈書としては初のものであったと思われる書です。

(『大正新脩大蔵経』所収のものは冒頭部に欠損箇所比較的大であるのが、近年、上海図書館からその原本と思しき敦煌写本のしかも完本が発見され、荒見泰史「盂蘭盆経の新資料,上海図書館蔵068『盂蘭盆経讃述』」, 『西北出土文献研究』, vol.4にて発表されている。)

なお、この『盂蘭盆経疏』にて義浄三蔵の説として紹介される一節は、その慧浄えじょうによる『盂蘭盆経讃述』にあるものです。すなわち、宗密は、義浄ぎじょう慧浄えじょうとを取り違えしているのです。ただ「義浄」とだけしているならば、あるいは写本の過程で慧浄が義浄と誤写された可能性も十分考えられますが、わざわざ「義浄三蔵」としていることからすると、単に宗密が慧浄を義浄と誤認していたと考えて然るべきこと。そもそも慧浄は三蔵でなく、義浄が「盂蘭盆」について言及する書典は全くありません。

したがって、そのような誤認を法雲もまたそのまま受け、さらに他の一節すら義浄の説であったと誤認し、『翻訳名義集』の盂蘭盆の項を記していることに注意が必要です。

畢竟ひっきょうするに、伝統的理解としては、盂蘭盆という語の由来は「盂蘭+盆」であるという説に依るのが妥当です。盂蘭なる語については、今なお正確なところは不明のままです。もし「倒懸」との玄応説を是とするならば、やはり「吊り下げる」・「吊るす」を意味するサンスクリット「ud(上に)+ √lamb(吊るす・縛る・付ける)→ullambウラン」に基づく何らかの語を充てる以外にはないでしょう。

ただし、玄応による「盂蘭盆=烏藍婆拏(=ullambana)」という、今なお広く世間で知られ、唱えられている理解は捨て去るべきです。もっとも、もし「盂蘭盆=烏藍婆拏」とする玄応説を否とするのであれば、併せて「烏藍婆拏=倒懸」とする説も非とするべき、というのが妥当かもしれません。

支那および日本では古来、『盂蘭盆経』を理解するのに先ず宗密『仏説盂蘭盆経疏』に依り、次いで元照『盂蘭盆経疏新記』が用いられてきました。今、伝統的にそれらを須いて『盂蘭盆経』を理解するにも、以上示した訳経史や理解の変遷を踏まえたならば、また違った知見を生むこともあるかもしれません。いずれにせよ、盂蘭の原語や原義が何であったかは、知ることは出来ないでしょうけれども。

さて、以上には現代における諸学者による盂蘭盆の語源に対する学説をほとんど紹介しませんでした。しかし近代以降、「盂蘭盆=烏藍婆拏=ullambana」としてきた理解に異が唱えられ、ullambanaではなく「引き上げること」・「救い」を意味するパーリ語のullumpanaではないのかと言う学者(干潟龍祥)も現れています。けれども、それも説得力に欠けたものでした。

そんな中、それは梵語などでなく胡語の一つ、ソグド語(東イラン語群サカ・スキタイ語系)で霊魂を意味する「urvanウルヴァン」であったとする者が現れています。それは岩本裕により1979年になされたことであって、当時その説は革新的なものとしてもてはやされ、ついにこの問題が決着したかとさえ受け止められています。

しかし、近年はこの説も根拠の乏しいことに変わりなく、急速に支持を失っています。そこでまた学者らが、では「盂蘭」とは何かと再びアレコレ色々言うようになっています。例えば今目新しいものとしては、辛嶋静志による盂蘭とは「飯」を意味するodanaオーダナの口語形olanaオーラナの音写ではないかとする説です。なるほど、olanaを盂蘭としたというのも、確かにスッキリ筋は通る面白い説ではあります。しかし、その説が正しいことを傍証する何かがあれば良いのですが、いかんせん無い。それも当然、盂蘭あるいは盂蘭盆という語は、五千巻を超える大蔵経の中、ただ『盂蘭盆経』に基づいてしか出てこないためです。

学者としては長年不明であるこの一語の秘密を解き明かしたいという知識欲に加え、「盂蘭=倒懸」という伝統説を我こそ挫きたいという商売上の欲が皆あるのでしょう。しかしながら、いずれも推測の域を出ないもので、結局確かなことは「盂蘭盆」とは「盂蘭+盆」の複合語というだけのこと。その点からすれば、伝統説に変わりありません。実は、このようにいうと元も子もありませんが、盂蘭の語源が何であるかなど、特に『盂蘭経』の内容を理解するのに必須のことでもありません。

そこで本稿はその語源の正確なところはわからずとも、伝統説である「盂蘭=倒懸」にひとまず従っています。